真柳 誠(茨城大学/北里研究所東洋医学総合研究所)
黄連湯は3世紀の仲景医書に由来する『傷寒論』と『金匱玉函経』が出典で、両書にほぼ同内容の1条が記載されるのみ。『傷寒論』には以下のようにある。
傷寒、胸中に熱あり、胃中に邪気あり、腹中痛み、嘔吐を欲すは黄連湯がこれを主る。本方は上記のように7味からなり、この構成は半夏瀉心湯去黄{艸+今}加桂枝といえる。黄連と黄{艸+今}の組み合わせが瀉心湯の基本なので、もはや瀉心湯ではない。そこで黄連が主薬の湯剤につき、黄連湯と名付けられたのだろう。黄連三両。甘草三両、炙る。乾薑三両。桂枝三両、皮を去る。人参二両。半夏半升、洗う。大棗十二枚。
右七味、水一斗を以て六升に煮取り、滓を去り温服すること昼に三、夜に二。疑うに仲景方に非ず。
ところで文末にある「疑うに仲景方に非ず」というコメントは、『金匱玉函経』の同一条文にはない。また本文と同じ大字で記されているが、林億らが『傷寒論』を1065年に初刊行したときの注ならば小字双行のはずである。同じコメントは『傷寒論』の芍薬甘草附子湯条文末にもあるが、『金匱玉函経』や『金匱要略』には一切ない。すると林億らが『傷寒論』を校刊した底本に元々記されていたらしい。
本方以外に黄連が方名にある処方は『傷寒論』に葛根黄連湯・大黄黄連瀉心湯・黄連阿膠湯・乾薑黄{艸+今}黄連人参湯・葛根黄{艸+今}黄連湯と比較的多いが、『金匱要略』には黄連粉の1方しかないのも、何かの背景を想像させる。
ちなみに黄連は『神農本草経』の中品に収載され、王連の別名が記される。古くは黄と王が音通したので王連の別名ができたのだろう。陶弘景は『本草集注』の注で、黄連は根が連珠のようだという。すなわち黄連は断面が鮮やかな黄色で、外見がボコボコとジュズを連ねたようだから、そう命名されたに相違なかろう。