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真柳誠「漢方一話  処方名のいわれ110 茯苓飲合半夏厚朴湯」『漢方医学』26巻6号280頁、2002年12月


茯苓飲合半夏厚朴湯(ブクリョウイン ゴウ ハンゲコウボクトウ)

真柳  誠(茨城大学/北里研究所東洋医学総合研究所)


 茯苓飲については本連載の64回(1998年)で、半夏厚朴湯については14回(1994年)で述べた。本方のいわれはこの二方の合方ということ、ではあまりにミもフタもない。以前といささか重複することになるが、まず両処方のいわれを簡単に述べてみよう。

 茯苓飲は3世紀初に張仲景が編纂した書に由来する『金匱要略』が出典で、これを茯苓飲というのは茯苓が主薬だから。飲とは湯剤と同じく煎じる剤型のこと。しかし仲景の処方は○○湯が普通なのに、なぜ例外的に本方を飲というのだろうか。

 結論だけを述べると、本方は『金匱要略』が11世紀に初めて校訂・出版された際、仲景の処方と判断されて付録されたものだった。そのため仲景の原書→(?→)→唐代の『延年秘録』→唐代の『外台秘要方』→宋代初版の『金匱要略』と引用が重ねられてきた。すると本方に仲景以降らしい呼称の「飲」が与えられたのは、(?→)→『延年秘録』の期間らしい。

 一方、半夏厚朴湯も『金匱要略』が出典である。その構成は半夏・生薑・茯苓・厚朴・紫蘇葉の5味で、小半夏加茯苓湯に気の鬱滞を治す厚朴・紫蘇葉が加わった処方とみていい。小半夏湯は半夏湯と呼ばれることもある。そこで基本の半夏湯に、加えられた薬味を代表する厚朴を続け、半夏厚朴湯の方名が生まれたのだろう。

 ところで茯苓飲と半夏厚朴湯の合方は『金匱要略』にも他の仲景医書にも記載がない。また近代までの中国医薬書にもなく、漠然と日本で使用が始まったと考えられるため、出典は「本朝(日本)経験方」とされている。小山誠次氏はその早い用例を捜索された結果、大塚敬節先生の戦前の創意である可能性が強く、日本の近年における工夫は間違いないだろう(『エキス漢方方剤学』)、という。筆者も少々調べてみたが、やはり小山氏と同見解にいたった。