いま日本で一般に用いられる本方は小柴胡湯と五苓散の合方で、むろん小柴胡湯の「柴」と五苓散の「苓」を重ね、柴苓湯と命名されたに相違ない。小柴胡湯も五苓散も仲景医書の『傷寒論』や『金匱要略』などを出典とするが、仲景医書に両者の合方例はなく、また柴苓湯の方名もない。小柴胡湯と五苓散の合方が出現するのは宋代以降なので、それは北宋の11世紀に仲景医書が初めて刊行されて仲景処方が普及した影響によると思われる。
さて柴苓湯の名は南宋1264年の『仁斎直指方論』巻2に、「柴苓湯は傷寒の泄瀉・身熱を治す」とあるのが早い記載だろう。ただし同書巻13に記される柴苓湯は、両方の合方から桂枝・大棗を除いた構成になっている。なお小柴胡湯に五苓散を兼用する記載は宋元間の『太平恵民和剤局方指南総論』に見えるが、むろん柴苓湯の名は記されない。
両方を合方して柴苓湯と呼ぶ最初の記載は、元代1337年の『世医得効方』に見える。その巻2大方脈雑医科・{ヤマイダレ+亥}瘧・通治に「小柴胡湯と五苓散を合和し柴苓湯と名づく。傷風・傷暑・瘧を治するに大効」とあるが、ここでは麦門冬・地骨皮を加えて服用する指示がある。一方、明代1554年の『医方集宜』巻3瘧門・治法には「柴苓湯は即ち小柴胡湯に五苓散を合し、寒熱の交わりなすを治し、一に瘧の発熱なすを治す」とあるが、巻2温熱門・治法に記される柴苓湯は両方の合方から大棗を除いた構成になっている。これと同じ薬味の柴苓湯は清代1773年の『沈氏尊生書』所収『雑病源流犀燭』巻15に記され、中国や台湾では本書を柴苓湯の出典とする成書が多い。
さらに明末の『景岳全書』巻54に載る柴苓湯は五苓散去桂枝加柴胡・黄{艸+今}で、かなり違う。このように各種柴苓湯があるので、方名の初出なら1264年の『仁斎直指方論』、小柴胡湯と五苓散を合方して柴苓湯と呼ぶ初出なら1337年の『世医得効方』、とすべきであろう。