葛根湯加川{艸+弓}辛夷(カッコントウカセンキュウシンイ)
真柳 誠(北里研究所東洋医学総合研究所)
葛根湯加川{艸+弓}辛夷は,方名のように川{艸+弓}と辛夷を葛根湯に加味した処方で,計9味からなる。ただし葛根湯の出典である『傷寒論』や『金匱要略』に載る加味方ではない。後の中国の考案でもない。日本独自の処方である。
本方の出典はふつう「本朝経験方」と記される。本朝とは中国に対する日本の雅称。それで誰それの家方ではなく,日本でいつの間にかできて広まった処方を本朝経験方という。それらを集めた『本朝経験方』という書も実際にあるが,この書を出典とする意味でもない。また同書に本方は収載されていない。
実はこの加味方が現代になって開発されたことを,富山医科薬科大学の寺澤捷年教授が報告している(『日本東洋医学雑誌』40巻2号,1989)。
結論から先に紹介すると,最初に本加味方の使用例を報告したのは山田光胤先生で,1964年の『漢方の臨床』誌。ひとつの独立した処方として初めて収載したのは,1975年刊の準公定書『一般用漢方処方の手引き』であった。しかし本方が突然生まれたわけではなく,なかなか興昧ぶかい経緯がある。
辛夷は3〜5世紀頃の『名医別録』から,鼻づまり等への効果が認められていた。5世紀の『雷公薬対』では辛夷に川{艸+弓}を合わせると効果が高まるが,麻黄と辛夷の配合は良くないと記す。以上は後代まで書き伝えられたので,鼻づまり等に川{艸+弓}・辛夷を配剤する処方は多いのに,麻黄剤の葛根湯に辛夷を加味する発想のみは生まれなかったのだろう。
一方,1178年の『楊氏家蔵方』には,川{艸+弓}・大黄の2味からなる{艸+弓}黄丸があり,頭部の熱症状に効くとある。これは応鐘散の名で吉益東洞(1702-73)の家塾方とされ,のち尾台溶堂(1799-1870)は葛根湯を蓄膿症に応用。さらに浅田宗伯(1814-94)から葛根湯加川{艸+弓}大黄を蓄膿症などに使用し,この加味方は昭和の前半まで多用されていた。そして昭和の後半に至り,やっと1500年も昔の配合禁忌の呪縛から自由となり,本方が生まれたのである。