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真柳誠「朝倉氏遺跡出土の『湯液本草』」『第18回企画展/一乗谷の医師』4頁、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館編刊、2010年7月

朝倉氏遺跡出土の『湯液本草』

真柳 誠(茨城大学人文学部)

 木の板に文字を反転して彫り、書物を印刷する技術は、中国で8世紀ころに開発されました。12世紀には中国南方の福建で出版業が盛んになります。福建では16世紀まで多くの書物が販売用に印刷され、とくに15世紀の熊宗立は一般向け書物を多く出版しました。当時の中国貿易船は多くが福建から出帆し、室町時代の堺港に荷揚げしています。このため当時の日本に渡来した中国書は福建の印刷物が多く、熊宗立とその一族が出版した医書だけで30種類以上が日本に現存しています。また当時の堺は貿易で栄え、最新の中国知識を学ぶため京都からも名僧や名医が来ていました。

 堺では室町後期の1528年、日本で最初に医書が印刷されます。それは熊宗立が出版した『医書大全』の復刻でした。8年後の1536年、日本で二番目に印刷された医書も、熊宗立が出版した『俗解八十一難経』の復刻でした。これを朝倉家の一乗谷で印刷した名僧の谷野一栢は、1509年ごろに堺で『俗解八十一難経』など熊宗立の医書を学び、多数筆写しています。

 ところで一乗谷は1573年に信長軍の焼き打ちにあい、その遺跡から医書の焼け残りが出土したのです。これに毛筆で書かれていた字句の特徴から、その医書が『湯液本草』であることに私は気づきました。さらに現存する熊宗立版の『湯液本草』と比較したところ、一乗谷で焼けた書は熊宗立版と完全に同じ行数と字詰め筆写されていました。それゆえ、本のとじ目に近い部分が焼け残ったことまでわかりました。

 今から500年ほど昔のこと、中国の福建で熊宗立の出版した医書が堺に輸入され、おそらく京都を経由して一乗谷まで伝えられていたのです。この長い道のりと歴史を、出土した『湯液本草』が私たちに教えてくれたのです。