このたび山田業広先師の本書が翻字出版されることになった。先師の業績は不遇にも明治の漢方断絶とともに忘れ去られていたが、これを現代の世に知らしめることに参与した一学徒として、いま中国の読者が加わることを心より悦ぶものである。茲に贅言を述べ、後学の責を些か全うしたい。
私が北京中医学院に留学していた一九八二年の春、中国に所蔵される日本の伝統医書を調べてほしいとの依頼を矢数道明先生(一九〇五〜二〇〇二)からいただいた。さっそく図書館に日々通い、『中医図書聯合目録』で調査した結果を『漢方の臨床』誌に報告した。この時、業広(一八〇八〜八一)の『金匱要略集注』と『難経本義疏』の自筆本が北京の中医研究院にあるのを発見した。前書は『金匱要略』研究の白眉と森立之(一八〇七〜八五)撰の業広墓碣文に賞賛され、かつて大塚敬節先生(一九〇〇〜八〇)が捜索したが発見できなかった書である。そこで畏友・小曽戸洋氏にお願いして台湾故宮所蔵の森立之『神農本草経攷注』の複写を中医研究院に寄贈し、かわりに『金匱要略集注』の複写を一九八三年夏の帰国時に持ち帰ることができた。業広が本書を擱筆してから一二〇余年後の里帰りだった。これを機に私は彼の業績を探索し、研究結果を「幕末考証学派の巨峰・椿庭山田業広」としてまとめ、『傷寒論札記』『金匱要略札記』『金匱要略集注』を影印収録した『山田業広選集』(東京・名著出版、一九八四)の解説とした。
業広は立之とともに伊沢蘭軒(一七七七〜一八二九)門下、五哲の一人である。のち江戸医学館で『金匱要略』を講義、明治以降は漢方存続運動にも温知社の初代社主として挺身した。門人は約三〇〇名、著書は三八部一八一巻におよび、医経と経方の全てに研究書がある。しかし入門書や概説書の類はなく、また著述を世に問い、名声を得ることも好まなかった。それゆえ生前は、弟子の催促で『経方弁』の一書を刊行したにすぎない。
彼の著述は一八三四年から四六年の前期、四七年から五九年の中期、六六年から七五年の後期に分けることができる。前期は修学記録の整理加筆、中期は『傷寒論』『金匱要略』に対する多方面からの研究だった。後期は古医籍研究の完成期で、第一に『素問』『霊枢』『難経』等、第二に『千金方』『外台秘要方』を研究している。また全研究過程で得られたさまざまな考証論文も当時期に集大成された。
この後期の一八六六年、彼はまず『医経声類』を完成させた。当書は『素問』『霊枢』中の重要語句を網羅し、その所在ばかりでなく語句前後の文を引用し、現在も我々を大いに裨益している。一八六九年には『医経訓詁』を著し、『素問』『霊枢』『難経』各篇の重要な条句につき、日中の代表的注釈および多くの古典籍から訓詁の言を集成した。これら内経研究の全成果を傾けたのが『素問次注集疏』二四巻で、正しく巨著の名に恥じない。特徴は王冰注および林億注の全部を収録し、それらにも注を加えている点である。また馬玄台・呉昆・張景岳の三家注、および多紀元簡(一七五四〜一八一〇)・元堅(一七九五〜一八五七)以来の考証学医家の注釈を随所に引く。さらに『医経声類』『医経訓詁』の成果に基づく業広独自の卓見が記される。
一方、業広の著述で当時の考証学医家と際立って違うのは、古注本に基づいて研究注釈した点である。業広は元簡以降の考証学医家の業績を継承はするが、その学問にも欠点がないわけではないとして、『素問次注集疏』の例言に次のように述べる。考証折衷の学は一条一句の解釈で論理的な説を提出できるが、一章一篇の全体では必ずしも一貫した立場と視点を築き得るとは限らない、と。これゆえ、彼は古注の全文も自著に採用して一貫性を与え、その不足を諸家と自己の説で補った。当姿勢は『素問次注集疏』のみならず、成無己『注解傷寒論』を底本とした『傷寒論義疏』、滑伯仁『難経本義』を底本とした『難経本義疏』、さらに『千金要方札記』『外台秘要剳記』『証類本草序例箋注』という一連の著述に通底している。古注自体も準古典として尊重すべきであり、古注を自己の見解で引用したり削除すべきではない、という彼の主張をここに読み取ることができよう。
ところで多紀元簡以降の考証学医家達は、内経医書・仲景医書・本草の研究のみならず、『太素』『医心方』『新修本草』等の相次ぐ発見や古医籍善本の復刻に大きな功績を残した。業広も師弟・交遊関係からして、そうした作業に関与して不思議はないが、なぜか加わっていない。この背景には、当時の『太素』ブームに対して王冰の次注を、『医心方』ブームに対して『千金方』『外台秘要方』を、『新修本草』から『神農本草経』に至る一連の古本草輯佚に対して『証類本草』の「序例」を、業広があえて選択したのだろうと私は憶測する。ともあれ、いま我々が医学古典籍を繙く時、彼の研究が心強い道標となることだけは間違いない。
私が山田業広の業績に触れ、全貌を世に紹介した当時、影印等で出版されていた彼の著書は必ずしも代表作といえない四、五点にすぎなかった。それから二十年後の現在、ほとんどの代表作が出版され、いま本書が中国でも翻字出版されることになった。漢方医学の断絶を目前にして世を去った業広先師も、さぞや天上にて納得されていることだろう。
我が恩師矢数道明先生は断絶した漢方の復興に邁進され、江戸期の先学を篤く崇敬されていた。奇しくも本日は昨年天上に旅立たれた先生の命日である。私は先生に伴い、業広先師の墓にて北京から里帰りした『金匱要略集注』を捧げた二〇年前の日をいま追憶し、我々後学を育成された道明先生と業広先師の学恩にあらためて深謝している。
また私と志をともにし、非常なる情熱で本書の翻字と刊行に尽力された郭秀梅・岡田研吉・加藤久幸の三碩学に、衷心からの敬意と賛辞を贈るものである。
二〇〇三年十月二十一日