医者のランク(中国編)






 中国には物事を天人地の上中下にわけ、そのよしあしを論じる「三才」という思想が古代からある。医者のランクもこれで語られていた。

 こんな問答が2世紀ころの針灸古典、『難経』の七十七難にある。

経典に、上医は発病前に、中医は発病後に治すというが、その心は? それは、上医は肝に病があれば発症する脾を察知して強めるので、発病しない。しかし中医はこれが分からず、ただ肝だけを治すからだ。  
 なにかトンチ問答のようだが、3世紀初の漢方古典、『金匱要略』も冒頭にこれを引用する。ただし『金匱要略』は薬物治療書なので答えをややアレンジし、肝や脾への治療を薬の味で示唆したところに苦心のほどがうかがえる。

 このルーツは前2世紀の道家経典、『淮南子』説山訓の「良医は常に無病の病を治す」だろう。さらには道家の最古典、『老子』の第七十一章までさかのぼれるが、そのセリフはもう謎かけにちかい。しかし、より類似しているのは1世紀ころの医学最古典、『素問』の四気調神大論篇にある格言である。そこには「聖人は発病後ではなく、発病前に治す」といい、おまけに「発病してから投薬するのは、のどが乾いてから井戸を掘るようなものだ」という辛口の比喩までついている。

 この格言はかなり流行ったらしく、1〜2世紀の針灸古典『霊枢』の逆順篇では、「上医は発病前に治し、発病後は治さない」とアレンジする。すると最初にあげた『難経』の問いがいう「経典」とは、この『霊枢』の文章を指すらしい。以上のように、この格言は『老子』→『淮南子』→『素問』→『霊枢』→『難経』→『金匱要略』と五百年以上も伝承され、理想の医者が聖人→良医→上医へと変化する。一方、2〜3世紀になると上医ではないダメ医者として中医が出現していた。

 こうなると下医も追加せずにはいられない。『霊枢』邪気蔵府病形篇では、3種の診察法ができる上医は9割の治癒率、2種できる中医は7割、1種しかできない下医は6割という。しかし下医でも6割も治せば立派だし、上医と3割しか違わないのはまだいい。

 『霊枢』根結篇には、上医は針で気を調和させるが、中医は脈を乱し、下医は気を絶えさえ命を危うくしてしまう、とある。これでは中医や下医にはかからないほうがいい。『史記』に次ぐ史書『漢書』の芸文志が引用する古い格言、「病気を治療しないのは中医にかかるのと同じ」も似たようなもの。医学校などない時代、下医ともなれば空恐ろしいのは当然だったろう。  

 ところで四書五経のひとつ『国語』の晋語には、「上医は国を治し、人を治すはそれに次ぐ」という言葉がある。その発展だろうが、『小品方』という5世紀の医方書に「上医は国を治し、中医は民を治し、下医は病を治す」、というスケールの大きな格言がある。さしずめ現代ならガンやエイズの特効薬を開発しても、たかだか中医でしかない。もっとも、かつての中国では知識人イコール政治家で、儒学では親孝行のために医療の心得が当然だった。すると、こうした格言は政治家むけらしく、そう考えると含蓄も深い。

 『小品方』の格言は、7世紀の『千金方』という医方書の冒頭に転録され、それが元来よく知られてきた。ただし中医が治す「民」の字は当時の皇帝・李世民の名にある字で使えず、中医は「人」を治すに改めている。なお『千金方』を著した孫氏は、隋や唐の皇帝にたびたび誘われたが仕官を嫌い、山奥に隠居したという。そうした心情をこめ、この格言を転録したのだろうか。さらに『千金方』の同じ部分には、「上医は患者の声、中医は顔色、下医は脈で診断する」「上医は発病前に、中医は発病直前に、下医は発病後に治す」など、同類の格言が多数ある。

 さて、あなたは上中下のいずれだろう。

(水戸の舞柳)

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