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真柳誠「東洋医学の情報技術革命を待つ」
『東洋医学』28巻7号12-13頁、巻頭言「源流」、2000年7月

東洋医学の情報技術革命を待つ

茨城大学人文学部中国科学史教授 真柳 誠

 先日ある授業で、リソグラフというプリントゴッコの大規模な機械で資料を印刷して配った。ただ文字以外にも写真の多い文献だったので、画像モードで印刷すると文字がほとんど読めず、文字モードだと写真は中間色のない真っ黒となり、うまく行かない。そんなことを授業の冒頭で言い訳し、「まー結局はガリ版刷りだから、写真は難しいんだ」と話したところ、学生達がなにやら不可解な顔をしている。もしやと思い「ガリ版て知らないの」と質問すると、誰も知らないという。そこで横道にそれ、日本人が明治時代に発明した歴史や印刷原理などひとしきり説明したのだが、ともかく時代の変化に驚いた。

 筆者が小学校から大学まで見てきた試験問題やプリント・ビラ等はみな謄写版だったし、印刷の様子から原理は自然に分かっていた。しかし昨今の学校では外見がコピー機と大差ないリソグラフ機をどこも使っているので、学生達は印刷原理など考えたこともないらしい。一方、今や大学ではコンピュータや情報関連の科目が必修なので、Eメールやインターネット・データベース検索などはできるが、その原理はもはや見て分かるレベルではない。ともあれ個人レベルで印刷物が作れたガリ版は、コピー機さらにパソコンとインターネットの普及で絶滅し、とっくに科学技術史の世界に入っていたのだ。

 最近もう一つ驚いたことがある。筆者の学生が実学と縁遠い中国文化専攻のせいもあるが、ここ四、五年の卒業生は約半数が正式就職できない状態だった。そこそこバイトで暮らせるためもあろう。ところがいわゆるIT革命のおかげで変化のきざしが出てきたらしい。それは就職できないまま今春卒業した学生達が五月になって相次ぎ、そろいもそろってインターネットやソフトの関連会社に中途採用されたからである。この分野の成長ぶりと波及効果のすごさは日々の利用で実感していたが、筆者の学生まで採用するような産業界の変化をまさか起こすとは思わなかった。

 それはさておき、遅々として進まなかった伝統医学分野における情報技術の利用が、今まさにブレイクスルーを迎えようとしている。かつて筆者の医史文献学の世界ではまず可能な限りの古医籍を網羅し、その記載から起源や史的変遷・背景を考察するために索引の作成が必須だった。普通の日本史や中国史で使用される文献には種々の索引が作成されてきたのに、文献史学による東洋医学の研究が近代以降およそなされていなかったからである。ただし正確な索引の作成は並大抵のことではなく、多大な労力と精力が必要だった。ところが多量の古医籍がコンピュータやインターネットで扱えるようになりつつあり、電子文字文献は一字単位で即座に全文検索できるので、索引どころか従来不可能だった方法による研究が可能になりつつある。実例を挙げよう。

 もっとも凄まじいのは、なんと約六百書を電子文字として十六枚のCD-ROMに収めた湖南電子音像出版社の『中華医典』である。清代までの書ばかりか、『医心方』や『薬徴』『素問識』『霊枢識』など日本書まで全文が入っている。『外台秘要方』や『証類本草』『本草綱目』など厖大な書を一字一字検索するなど、一生かかってもできないのが即座にできたのにはわが目を疑った。かつて本誌に連載させていただいた桂類薬の名と物の研究など、これを使えば如何に楽でより完璧になったことだろう。ただ難点は大陸版ウィンドウズでしか使用できないこと、検索結果は印字できるのみでワープロなどに転用できないこと、使用底本とその電子文字化が怪しく、検索結果を再度原本で確認しないと安心できないなど。大陸でCD-ROM四枚一組ごとに一万円ほどの六八〇元だが、日本に輸入されているかは分からない。湖南電子音像出版社のHongyu@public.cs.hn.cnに中文で(英文では不明)メールを出せば購入可能かと思う。

 インターネット上で中国古典籍を利用できるサイトは昨年の東洋医学会でも報告したが、筆者のホームページhttp://www.hum.ibaraki.ac.jp/hum/chubun/mayanagi.htmlのリンク集に大体網羅してある。最近の朗報は京大富士川文庫の古医籍百点以上が、全頁をカラー画像でhttp://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/fujikawa/fjcont.htmlで公開されたこと。東大でもまだ数は少ないが、http://rarebook.lib.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/gazo/col_cgi.cgiで古医籍の全頁画像を公開している。最近できた東亜医学協会のホームページhttp://aeam.umin.ac.jp/では、『素問』『霊枢』『難経』『傷寒論』『金匱要略』『神農本草経』『扁鵲倉公伝』の最善本の電子文字化テキスト、また東洋医学用外字と辞書を無料でダウンロードできる。

 中国では約8億字の巨大叢書『四庫全書』全文がCD-ROM約180枚の電子文字になるが、日本では『群書類従』が1997年に電子化されてCD-ROMで利用できるようになった。そうした企画は他の日本史・日本文学の古典籍でも進行しつつあるのに、日本の古医籍については寡聞にして話をきいたことがない。『近世漢方医学書集成』など日本の伝統医学文献を網羅した電子化が進められるまで、あと何年待てばいいのだろう。