人生最大の恩師、矢数道明先生のご逝去からもうひと月以上になる。今もことあるごとに先生の面影が心にうかび、お言葉がきこえてくる。
先日、次号の『日本医史学雑誌』に載る牧野文庫紹介文のゲラを見ていたところ、私は「(植物学者)牧野富太郎氏が九六歳の天寿を全うした」と書いていた。相当以前に書いた「うめ草」なので忘れていたが、道明先生の享年と奇しくも同じだった。そういえば先生から牧野氏の想い出をうかがったことがある。一九四〇年に水戸で開催した漢方の講演会に牧野氏をお招きし、水戸まで一緒に同行された列車ではとても緊張されたのだという。また先生が医学生のとき手伝った講演会の想い出もうかがった。医史学者・富士川游先生の話は感動的だったが、見送りの車の中で意を決して漢方の将来をたずねると、「もう役目は終わった」と話され、とても落胆した。・・などが次々とよみがえる。
私は大学四年から漢方を勉強し始め、購入した『臨床応用漢方処方解説』で先生のことを識った。のち日本東洋医学会の会場で圭堂先生とご一緒のところをお見かけしたが、初めてお話をしたのは一九八〇年の八月、成田空港でのこと。先生は附子を中心とした二回目の訪中から帰国、私は北京留学のため出発するところだった。あまりに偶然のことで、今から北京中医学院留学に行きますとしか言えなかったが、「よく勉強してきてください」との一言をいただいたように記憶している。
留学中は沢山お手紙をいただいた。数えたところ八一年七月五日から帰国直前の八三年六月三十日まで三一通あり、多くは中国との学術交流をご指示いただいている。また大塚敬節先生が捜されていた山田業広の自筆本を北京の中医研究院図書館に発見したことを報告すると、中国所蔵の日本関係古医籍を調査するようご指示もいただいた。それが本誌への初投稿(八二年)となり、現在も私の研究テーマの一つになっている。八二年十月の仲景学術討論会に先生が四回目の訪中をされたときは北京でお会いし、同行していた小曽戸洋氏と意気投合した。
八三年七月の帰国後は小曽戸氏に誘われ、道明先生・大塚恭男先生のご配慮で北里東医研医史学研究室の客員研究員にしていただいた。しかし当時は小曽戸氏すら非常勤で、むろん私は無給。こうなることをご承知だった先生は、ご自分の蔵書整理と個人秘書として、矢数医院での週三回の仕事を私に与えて下さった。いわゆる書生であり、過去の話に聞くそんな待遇にあずかるとは夢のようだった。のち東医研から日給が出るようになり、矢数文庫の整理と目録・図録の作製が完了した八八年末までお仕えさせていただいた。この六年間、矢数医院と北里で日々先生に侍し、学んだ無数のことが私の血肉となった。ついには私の人生観、さらに人生そのものまで一変したのだから。
先生からいただいたお手紙は九九年六月二日付けが最後だった。その後はお会いいただくことも避けられ、この十月二十一日夕刻ついに永眠の報に接することになった。想えば、公私にわたり二〇年も師事させていただいたことになる。いただいたご慈愛と学恩にどう謝したらいいのか。以前、恭男先生からお教えいただいた一節が胸にうかんだ。
人生別離なくんば、たれぞ恩愛の重きを知らん(人生無別離 誰知恩愛重)
以前、先生のことを次のように書かせていただいたこともあった。「兄・格先生の志を請け、弟・有道先生とともに漢方復興の道に進まれた。今はなきご兄弟の志も継ぎ、お二人の霊を感じているからこそ、敬節先生なき後も漢方の向上にかくもお元気で日々努力を重ねられているのだろう」、と。きっと今は先生のことだから、こと細かく悲願の達成情況をご兄弟や敬節先生ほか偕行学苑の同志に報告され、再会の美酒を酌み交わされていることだろう。あるいは中国の同志、葉橘泉・張継有・仁応秋の各先生とも、通訳なしで歓談されているかも知れない。
しかし国立研究所や中国の統一教材を凌ぐ教科書の編纂など、道明先生が漢方復興の目標とされたいくつかは、まだ十分に達成されていない。それらは今後の漢方界に課せられた先生の遺言であり、その重みを私達は十分に受けとめている。また徐々に達成されるものと信じている。
道明先生、どうぞ肩の荷をおろして下さい。そして安らかな日々を奥様とお過ごし下さい。先生からいただいた恩愛に、衷心より感謝申し上げます。