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真柳誠「書籍紹介 武田科学振興財団杏雨書屋編『宋版 備急総効方』」
『日本医史学雑誌』51巻4号673-675頁、2005年12月

書籍紹介 武田科学振興財団杏雨書屋編『宋版 備急総効方』

 標題の本書全四〇巻が本年三月、武田科学振興財団より一冊本として縮刷影印出版された。また小曽戸洋氏による詳細な書誌解説と本書の引用書名索引、および参考として『証類本草』引用書名索引も後付されている。むろん本書に影印された宋版『備急総効方』の原本は武田科学振興財団杏雨書屋の所蔵である。

 杏雨書屋を斯界で知らぬ人はなかろうが、所蔵の古医籍は質量とも日本のみならず世界で屈指といっていい。医薬関連以外の貴重書・善本も少なくない。その全体は『杏雨書屋蔵書目録』(一九八二)でよく分かる。これまで武田科学振興財団は杏雨書屋関連書として、『新修恭仁山荘善本書影』(一九八五)、渡辺幸三『本草書の研究』(一九八七)、『杏雨書屋図録』(一九九八)、森鹿三『本草学研究』(一九九九)、『零本新修本草巻十五(影印)』(二〇〇〇)、『宝要抄(影印)』(二〇〇二)、『{彳+肅}像食物本草(影印)』(二〇〇三)、『重要文化財 穀類抄(影印)』(二〇〇四)、内林政夫『生薬・薬用植物語源集成』(二〇〇四)を陸続と刊行してきた。本書はその最新出版物である。同書屋は紀要『杏雨』も一九九八年から毎年一回発行しており、二〇〇五年には第八号および増刊号が発行された。

 さて当書は『宋版 備急総効方』と名付けられるように、約八五〇年前の中国・宋代に刊行された医書である。むろん印刷術は中国の発明で、刊年が明らかな印刷書では大英図書館にある敦煌将来の『金剛経』(唐代八六八年)が現存最古で、世界の至宝とされる。書物の印刷が国家的に本格化するのは北宋の十世紀からだが、そう多く現存する訳でもなく、南宋版を含めた宋版は当然ながら国宝クラスとなる。そして中国以外で宋版が一番多いのは日本で、およそ大陸・台湾各々の蔵書と比肩される。医薬書についても宋版の現存状況は同じ。当書が詳細な研究の上で出版されたことにより、日本所蔵の宋版に新たな光があてられ、一頁が加えられたのである。

 以下は小曽戸氏の解説から紹介するが、この『備急総効方』は宋版という以外にも、貴重視ないし珍奇とされるべき点がいくつかある。その第一は天下無二の孤本ということ。たとえば『千金方』の宋版は何種・何点か現伝するし、その模写もあれば、明清版や和刻版の現存点数は無数といっていい。ところが本書は南宋の一一五四年に序刊されたのが唯一で、のち復刻も模写もされなかったらしい。そして一一五四年序刊本のうち、世界に杏雨書屋の一点だけが現存するのである。それゆえ本書の研究は従来皆無だった。

 第二は小曽戸氏の研究で明らかにされた本書の成立経緯と価値である。編者の李朝正は進士に登った官僚だが、宋の『証類本草』に簡便な著効処方が多いことに気づいた。しかし『証類』はそうした処方を薬味別に載せるため、臨床の使用に不便。そこで『証類』および他の医方書から抜粋した簡便方を出典も明記し、病門別に分類・編纂したのが本書である。小曽戸氏が所引書を検討したところ、『証類』からの間接引用以外に、すでに亡佚している唐代・宋代の医方書から多数の佚文が引用されていた。それらの史料価値も高いため、今回の出版では本書と『証類』の引用書名索引を各々後付している。周到な配慮というべきだろう。

 なお拙い知見を付記すると、『証類』や『本草綱目』から簡便方を抜粋した医方書は後世少なくないが、どうも本書はその嚆矢らしい。現存する二番目は台北・故宮博物院にある『本草集方』だろう。この書も『証類』に基づき、やはり天下無二の孤本。かつ序跋も刊記も識語もないため従来、宋版とも金版ともされてきた。しかし近年、台北・故宮の呉璧雍氏が蒙古・元間の蜀版と推定している。そこで『備急総効方』と簡単に比較してみたところ、両書は同工異曲であり、内容・版式ともに直接の関連は認められなかった。また『本草集方』は引用出典を記さず、存八巻の残欠本である点からも『備急総効方』には及ばない。

 第三は本書の摩訶不思議さで、小曽戸氏が縷々解説されている。すなわち本書の書名部分が八一箇所にわたり、極めて巧妙に「備急総効方」から「備全総効方」に改変されていた点。しかも巻一の第一〜一四葉だけは近代の精緻な補刻で、その巻頭でも「備全総効方」の書名で彫られている点である。

 仿宋版を本物の宋版に偽る各種捏造はすでに明代から横行しており、それら痕跡が遺る書は北京・故宮の旧蔵本中にすら少なくない。しかし本物の宋版医書に近代さらに改竄を加えた例は、管見の範囲で本書が最初だった。台湾国家図書館所蔵の宋版『新大成医方』は、『厳氏済生方』本文の宋刻版木と『厳氏済生続方』序文の宋刻版木を用い、書名・著者名のみ埋め木で捏造した元代の印本という例もあるにはあるが。なお『備全総効方』に捺された蔵書印記の一部も丹念に削り取られており、同類の作為は各地の蔵書でしばしば見かける。いずれにせよ伝承経緯の一部を隠蔽し、また高価に売却するためが要因とも思われ、想像力をかき立てられてしまう。

 ともあれ貴重な宋版の『備急総効方』全巻が美しく影印され、一冊の縮刷本として出版されたことにより、今後は容易に研究利用できるようになった。本日届いた『中華医史雑誌』最新号の巻頭論文には、小曽戸氏による本書の研究が掲載されていた。その価値が故国でも認知された慶事といえよう。斯界の一学徒として、当書の出版を英断された武田科学振興財団にも感謝申し上げたい。
(真柳 誠)
〔武田科学振興財団 大阪市淀川区十三本町二―一七―八五 A四判 総五七四頁 二〇〇五年三月九日発行〕