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真柳誠「書評:武田科学振興財団杏雨書屋 編 『曲直瀬道三と近世日本医療社会』 」『日本医史学雑誌』62巻1号70-71頁、2016年3月20日


武田科学振興財団杏雨書屋 編
『曲直瀬道三と近世日本医療社会』

 15名の執筆者による論文26篇と資料2篇からなる重厚な研究書が出版された.まさに書名どおりの内容で,近年の医史学研究が到達した視野の広さと論究の深さ双方を兼有している.曲直瀬道三とその一門のみならず,近世日本の医療・医学と周辺や,背景にある社会と文化を各視点から分析・議論しており,今後それらを研究するための必須文献となるであろう.時代が希求していた書である.

 顧みると,道三と一門の医史は富士川游『日本医学史』(1904初版)で取り上げられて以来,石原明『医史学概説』(1955),服部敏良『室町安土桃山時代医学史の研究』(1971),京都府医師会『京都の医学史』(1980),宗田一『図説日本の医療文化史』(1989)などで特筆されてきた.これを主題とした研究書は矢数道明『近世漢方医学史/曲直瀬道三とその学統』(1982)が最初だったが,30数年後の本書は第2の専著となる.

 本書の特徴はいくつもある.第一は杏雨書屋所蔵の曲直瀬家・今大路家文書を縦横に駆使したこと.それ自体は本書のU「杏雨書屋所蔵曲直瀬道三・玄朔関係文献―含,田代三喜・月湖・今大路家等」にて,清水信子「杏雨書屋乾々斎文庫蔵曲直瀬家関係資料目録」の詳細な書誌データに網羅されている.また小曽戸洋・平松賢二「曲直瀬道三の落款」,天野陽介・町泉寿郎・小曽戸「曲直瀬家肖像とその周辺」としても結実している.

 さらにT「総論 曲直瀬道三・玄朔とその時代」では,ゴーブル・エドムンド・アンドリュー「織豊期に於ける曲直瀬家の医療文化の展開」が,毛利大名家との関係を例に医家・武家と医療文化の展開を論じ,時代背景を明らかにしている.町「曲直瀬流医学の伝承」はその成立・展開・再評価を副題に,道三の伝授した医学が第一段階から第九段階の自著群に分かれていたことを指摘し,以後の玄朔さらに今大路各家を経て江戸後期まで影響を与えていた歴史を鮮やかに論じる.鈴木達彦「曲直瀬道三の医学の再検討」は,本書の第二の特徴を代表する論考だろう.すなわち道三医学のルーツとして伝説化されていた導道・三喜・月湖・『全九集』を丹念に検討し,虚構と実像をみごとに解明した.富士川から矢数・宗田まで叙述されてきた歴史を一変させたことになるが,これには鈴木との共著論文が多い遠藤次カ・中村輝子両氏の先行研究が寄与している.

 V「各論」は道三の医学を全4章に分けて分析し,いずれも従前の研究を凌駕した精緻な論考と評していい.本書第三の特徴である.その第1章は医学思想で,小曽戸「『啓迪集』の書誌研究」「『啓迪集』に引用される典籍」,町「『啓迪集』策彦周良「題辞」および曲直瀬道三「自序」とその「抄物」の翻印」,ドロット・エドワード「仏教医学と儒教医学の岐路で」,ヴィグル・マティアス「曲直瀬道三と一六世紀の日中鍼灸医学」,天野「曲直瀬門の経穴研究」,町「曲直瀬道三と『黄素妙論』」「曲直瀬養安院家と朝鮮本医書をめぐって」からなる.「各論」の第2章は道三の臨床医学で,福田安典「『医学天正記』について」,ゴーブル「山科言経日記(言経卿記)の診療録的記載」,天野「『医学天正記』の異本研究」,星野卓之「曲直瀬玄朔の口訣」,鈴木「『衆方規矩』と『家伝預薬集』にみえる曲直瀬流医学の形成」,町「曲直瀬道三の臨床と診断に関する覚書」からなる.

 「各論」第3章は曲直瀬道三と周辺文化で,かつて等閑視されてきた分野を闡明する.本書第四の特徴といえよう.すなわち福田「曲直瀬道三説話について」,下坂憲子「『竹斎』と曲直瀬流医学」,石上阿希「中国養生書と艶本−『黄素妙論』の受容を中心に」,福田「曲直瀬と能楽」,岩間眞知子「曲直瀬道三と茶」,池田峯公「香人としての曲直瀬道三」からなる.ここには広い文化的社会的視点が凝縮しており,現代の医史研究が到達したレベルを如実にみることができる.

 「各論」第4章は参考資料で,天野の詳細な「曲直瀬玄朔門人索引」「曲直瀬道三・玄朔略年譜」からなる.この資料性が本書第五の特徴である.今後の研究に多面的な利便性を提供しており,実にありがたい.本書は15名もの論文集ゆえ,統一した基準による人名・書名などの索引を作成できなかったのだろう.しかし,この欠を第4章および前掲の「資料目録」や「書誌研究」「引用典籍」「異本研究」が十分に補っている.

 跋文では本書の編纂と出版にいたる経緯を町氏が紹介しているが,これだけの論集をみごとに完成した手腕はすばらしい.今後は本書を座右に置かずして,曲直瀬流と江戸期の医史を論じることができなくなった.前述した医史学の先達も,さぞや天上で喜ばれていることだろう.

(真柳 誠)

〔武田科学振興財団杏雨書屋,〒541-0045 大阪市中央区道修町二丁目3番6号,電話06-6233-6101(代表),2015年10月20発行,A5判,898頁,非売品〕