タイモン・スクリーチ著、高山宏訳『江戸の身体を開く』

 真柳 誠




   本書はタイトルからして一見、江戸時代の解剖学史のように思えるが、そうした従来の著述とはおよそ趣が異なる。一言で本書の性格を表現するのはとてもむつかしいが、いくつかのキーワードがあるように思えた。

   ヨーロッパと日本、美術史と絵解き、図像学(イコノグラフィー)と文献学、刀と鋏、解剖医と画家と彫り師、身体地理学、解体図と風景画などなど。

   こうした様々な視点から、目もくらむほどの多量の図版と文献を博引・比較し、江戸の身体観と解体図の関連をまさに解剖し、解明してゆく。医史学関連書としてはまったく斬新な書といっていい。以下の目次を見るだけでも視点のユニークさが分かるだろう。

   序章は「アクセスの図像学」。第一章「刀」は、「人斬りは、もはや時代遅れ」「人々は刀に異国を見た」「鋏、花、そして人体」「舶来の鋏」「ブルータルな魅力」「箱と折りたたみナイフと」からなる。第二章「身体を切る」は、「外科と外科道具」「オランダ医学」「切る医者」の各篇。第三章「さらされる身体」は、「人間は一個のプロセス」「西洋の絵のインパクト」「彼らは本当に切ったのだろうか」「解剖と権力」の各篇。第四章「つくられていく身体」は、「骨のある話」「内外真偽、それが条件次第也」「食物合戦のメタフォリス」「オランダ料理、切られる食材」「内に身体ができる」の各篇。第五章「身体と国家」は、「手」「身体地理学」「解剖と旅行」「循環」「身体は世界に開かれる」の各篇。そしてエピローグと結びからなる。

   さて単に評者の無知か読み違いかもしれないが、次のような指摘にはとても興味を覚えた。たとえば十八世紀オランダの絵画では、様々な物の内部を切り開いて見せることが多いこと。キリスト教では身体が神の化身なので、身体を知ることは神を知ることにつながる(らしい)こと。ヨーロッパのみならず十八世紀後半の蘭画派の一部の画家たちも、解剖学を絵の基本と考えたらしいこと。日本の解剖図は誰々の解屍であって死臭がただよい、多くが巻子本のため進行する紙上解剖となっているが、ヨーロッパの解剖図は様々な解剖知見の合成で、個別解剖の事象を描いていないので死臭がなく、冊子本のため必要部分を開いてみればよいこと。江戸期に大流行した中国医書『十四経発揮』の洒落本『十四傾城腹之内』や、春画シリーズの『枕文庫』などに『解体新書』の影響があること。『蔵志』が徳川家光の没後百年、『蘭学事始』が家康の没後二百年であること等々。

   読者によって印象は違うだろうが、こうした興味深い指摘が本書には多い。ただし疑問に感じたのが二点ほどあった。六四頁と八四頁で、著者は当時の漢方の外科を西洋の外科と同じものと理解しているらしく、これで議論している。しかし漢方でいう外科は今の皮膚科に近い分野なので、的はずれな分析となっているようだ。七六頁では、一八〇〇年頃に西苦楽が描いた西洋理髪店の風景に「蘭医頭部外科手術図」の名が付けられていることから、当時の日本人が絵から受けた感覚を論じている。しかし、これはもともと床屋外科医の図らしく、だとすれば、そう名づけられても不思議はないのではなかろうか。

   さて著者は結びでこういう。

   本書は解剖学と解剖図譜の歴史を単純に追うのではなく、まさしくこうして解剖学が自らの彼方へ逸出していった知らざれる歴史を扱おうとした。…こうして、解剖のレトリックが医学からはみでて、もっと広い地平に影響を及ぼしていった様子を描くのが本書の眼目だった、と。

   この目的と試みは成功していると感じた。著者によれば、視覚資料から得られる証拠を支えに意識の歴史を研究する方法を、最近はニュー・アート・ヒストリーと呼ぶらしい。すると本書は、ニュー・アート・ヒストリーで日本の医学史を研究した書なのである。そして江戸期の解剖にかかわる医事等を文化としてとらえ、多様な視点から比較し、解剖してみせた。その切り口は新鮮で、今後の医史学研究に大いに参考となるだろう。

   最後になったが、本書の訳文は大変すばらしく、およそ翻訳であることを感じさせない。それで苦なく最後まで読了することができた。                                         

[作品社:〒一〇二東京都千代田区飯田橋二−七−四〇三、電話〇三−三二六二−九七五三、一九九七年三月、A5判、三四六頁、本体三七〇〇円]

  →戻る