書評  潘桂娟・樊正倫編著『日本漢方医学』−中国で作成された「日本漢方白書」の出現

真柳  誠

   日本漢方にとっても画期的な書が中国で出版された。潘桂娟・樊正倫両氏の編著になる『日本漢方医学』である。全六七六頁にも及び、日本語ならゆうに一千頁は越すだろう。漢方医学の歴史背景・現状・特徴・問題などすべてが網羅されており、まさに「日本漢方白書」と呼ぶのがふさわしい。それも中国から見た。

   中国では今も日本漢方に対する認識が一般にまったく不充分といってよく、雑誌や書籍に紹介されることがあっても、部分的情報でしかなかった。つまり、よくて枝葉や花しか理解されていない。それが本書により、根も幹もある日本漢方の体系全体として中国に紹介されることになったのである。本書が広く読まれるなら、今後の日中伝統医学交流に多大な益をもたらすに相違ない。また中国人留学生のほとんどが事前に日本漢方の特長を知らず、学問的興味を持たずに来日している現況も、今後は少なからず改善されてゆくであろう。

   ところで、中国では日本の漢方医書がこれまでも数多く出版されている。それは明治維新後に来日した清国の学者や官僚・商人らが初めて日本の漢方医書に接した十九世紀後半に始まり、中華民国の一九三〇年代と新中国成立後の一九五〇年代に出版のピークが各々あった。そして一九七六年に文革が終焉し、一九八〇年代後半頃から三度目のピークが始まっている。これがいつ頂点を迎えるのか、もしくは迎えていたのかまだ予想もつかないが、出版の勢いは現在も衰えを見せていない。これを文化現象として考えるなら、中国における日本伝統医学の受容といって差し支えないだろう。

   かつて中国医学は周縁の各民族に受容され、タイの泰医学、ベトナムの越医学、チベットの蔵医学、モンゴルの蒙医学、韓国・朝鮮の東医学(韓医学、朝医学)、日本の漢方医学などが形成されてきた。しかしそれらの逆受容となると、漢方医学ほど中国で注目され、書物が出版されている例もない。およそ当現象は医学に限らず、儒学や史学などの中国学でも同様に見られるので、日本の伝統的学問研究が中華思想の中国でも例外的に評価されているという、いささかこそばゆい結論も導かれないではない。

    さらに中国(大陸)で出版された日本漢方医書の内容を概観すると、時代ごとに一定の傾向が窺える。清末から中華民国時代は考証学派を中心とした江戸期の著作が主で、これに近代の生薬学書と漢方書が一部加わる。新中国成立後は近代著作の割合が高まり、とくに針灸関係書が増加する。そして一九八〇年代以降は江戸期の著作もあるが、昭和漢方の翻訳書が増えるとともに、かつてなかったタイプの書が出現してきた。中国人による中国人のための日本漢方解説書、ないしは研究書である。書数としてはごく一部を占めるにすぎないが、そこには漢方医学を中国医学の一流派としてばかりでなく、独立した体系として理解しようとする相対的視点の芽生えも見ることができる。

   ただし私がそれらのすべてに目を通した自信はないが、いずれも日本人にはとりたてて有益な記述がなかったといっていい。我々が熟知している内容のいわゆるガイダンス的な書ばかりで、目新しい視点や資料もなかったからである。あるいは誤読・誤認や資料のかたより、あまりにも古い説の踏襲などもあり、これが日本漢方と思われてはいささか困る、と言わざるをえない記述が少なくなかった。

   しかし今回出版の『日本漢方医学』は違う。些細な問題もあるが、本書は中国人が日本漢方を理解するのに十分すぎるほど体系的かつ詳細で、日本の漢方家にとっても有意義な内容は多い。そもそも日本にすらこれほどの書はかつてなかったし、今後もできないように思う。それは一つに外国人の視点で客観的ときに主観的に分析されているからで、日本人なら判断を保留するような面への言及もある。いま一つに日本でもふつうは不可能と考えられるほど、驚くばかりの多量で多分野にわたる文献資料を利用しているからである。ともあれ内容の概略を紹介しておこう。全体は時代別に上中下の三篇からなる。

   上篇「日本漢方医学の起源と発展」は五六二〜一八六八年、つまり江戸時代までで、ボリュームは全書の約三分の一。「日本漢方医学の起源」「近世漢方医学の勃興と学術流派」「「近世漢方医学各学科の主要な発展」「薬物学の発展」「近世漢方医学の考証学派と医書校刻事業」「近世の漢方医学教育」の六章で構成される。富士川游『日本医学史』や矢数道明『近世漢方医学史』などの医史学書、『近世漢方医学書集成』所収の原典と解説などを十分に参照のうえ、『漢方の臨床』や『日本医史学雑誌』等の研究論文まで目を通している。また単なる歴史の羅列ではなく、当時の臨床治験や学説の記載もあり、多面的な理解が可能となっている。しかしすでに否定された奈良時代の『薬経太素』を実在の書とするなど、私共からすれば異論もあるにはある。

   中篇「日本近代漢方医学の衰亡と復興」は明治から終戦までの一八六八〜一九四五年が記される。ボリュームは全書の約五分の一で、「明治初期の医事制度変革」「明治時代の漢医存続闘争」「日本漢医発展史上の最暗黒時期」「昭和初期に再燃の漢医復興運動」の四章からなる。つまり前半が温知社運動、後半が『医界の鉄椎』から偕行学苑の漢方医学講座まで。言うまでもなく当時代は矢数医史学の独壇場。本書も多くを道明先生のご研究によっており、浅井国幹の「告墓文」まで全文を掲載する。当時代の衰亡と復興がかくも克明に中国に紹介されたことはかつてなく、また当世の日本でも忘れられつつあるだけに、現代日本漢方の背景理解にきわめて有意義と思う。

   下篇「日本現代漢方医学の蘇生と振興」は戦後の一九四五年から九〇年まであり、ここだけで全書の約二分の一を占める。本書の核心と呼ぶべき部分で、「現代日本に振興した漢方医学の事業」「現代漢方医学の学術研究」「現代漢方医学の臨床診療」「現代漢方医学の常用薬物と方剤」「現代漢方医学の発展趨勢と現在の主な問題」の五章からなる。当篇は矢数道明先生の『漢方略史年表』を縦糸に、書籍・雑誌・新聞等の論文・記事・広告などまさにありとあらゆる情報を横糸に紡ぎ、日本の研究や漢方界の現状を浮かび上がらせている。まさしく「日本漢方白書」である。その探索と緻密さには、よくぞここまでと言わざるを得ない。いわゆる二一〇処方、『一般用漢方処方の手引き』までほぼ全文を掲載している。当篇だけは文部省・厚生省の役人にも読んでいただきたい、と思うのはおそらく私だけではなかろう。

   にもかかわらず残念な点もある。引用文献を記さず、また各文献記載の質の精粗に注意がはらわれていない。誤植ないし日本人名に不慣れのためか奇妙な人名や混乱等が目立ち、ときに某氏やある人などと故意に人名を伏す。あるいは篇末の「現代漢方医学の発展に影響する主要問題」で、漢方医が合法的地位を回復していないことと、基本理論の軽視傾向の二点のみ挙げるが、私は必ずしもこれらが主要な問題とは思わない。しかし、かくも日本漢方の現況に通暁した筆者が問題とするなら、中国からみた代表的意見として留意しておくべきだろう。

   本書は主要参考文献として六〇書を書末に掲げるが、雑誌や全集・叢書も一書として数えている。したがって実際は雑誌を除いても数百書、ここに未掲載の雑誌等も含めた論文・記事まで数えるなら、千は遥かに越える文献を猟渉しているに違いない。しかも日本でも一部にしか流通していない、発行数百部以下の各種雑誌まで目を通している。まったく日本でもふつうは不可能な参考文献数だが、著者の驚異的な努力もさることながら、これが外国で可能となったのには多々理由がある。

   著者の一人、潘桂娟博士は北京の中国中医研究院中国医史文献研究所の博士課程で日本でも著名な馬継興教授に師事し、「近百年来の日本漢方医学の変遷」のテーマで一九九〇年に学位論文を完成。本書は当論文を骨子とし、樊正倫氏の協力で全面的増補を加えて出版されたという。

   いうまでもなく中医研究院は衛生部(厚生省)が唯一直轄する中国伝統医学の最高研究機関。一九五五年に創設され、図書館には当時から世界中の伝統医学書・雑誌が収集され続けている。満洲医科大学にあった東亜医学研究所の旧蔵書も所蔵するため、伝統医学文献の収蔵量は中国一。むろん日本漢方文献も中国一で、日本を含めても五指に入るだろう。かつて私も同図書館をたびたび利用させていただき、古医書ばかりか漢方関係誌も戦前から現代まで各種そろっているのに舌を巻いたことがあった。中医研究院は日本漢方界との学術交流も密で、矢数道明先生からは『近世漢方医学書集成』ほか多くの漢方医書の寄贈をうけている。著者はそれゆえ、かくも広範な日本文献を利用できたに相違ない。

   さらに指導教官の馬教授は中国きっての医史文献学の泰斗で、漢方医学史にも詳しい。また本書全体を校閲した同研究院図書情報研究所の侯召棠教授は、ジャパンウォッチャーといえるほど中国随一の日本漢方通。両教授は来日経験豊富かつ道明先生とも親交が長いので、適切な助言や個人蔵の資料を本書の著者に提供したことだろう。

    ところで一九九一年の夏、研究室のメンバーと北京で文献調査したとき私共は馬教授の御宅へ食事に招かれ、著者のお二人が明治以後の日本漢方史を研究しているむね紹介されたことがあった。のち中医研究院でもお二人に少し話をうかがう機会があって、随分と詳しく知っている印象をうけた。しかし実際のところ、これほどに詳細な研究書になるとは想像だにしなかった。

   元禄時代、オランダ商館の医師として来日したドイツ人のケンペルは、江戸参府などで垣間見た当時の医療ほか詳細な記録と印象を『日本誌』にまとめている。その視点は当時の日本人と違っていただけに、日本では記録に残らなかった内容に富み、三〇〇年後の現在その史料価値はますます高まっている。

   いささかタイプを異にするが、潘桂娟・樊正倫両氏の『日本漢方医学』も、とりわけ下篇は我々日本人が見落としがちな情報を満載している。本書は現代の中国人向けではあるが、もし数百年後の日本史研究者が見たら、昭和漢方の格好な研究史料となること疑いない。ともあれ、中国の日本漢方観は本書により大きく進展するであろう。そして、今後より実りある学術交流に連なることを心から願いたい。

<A五判、一冊、六七六頁、定価二六元。一九九四年三月発行:  〒一〇〇〇二七中国北京市東城区新中街11号、中国中医薬出版社 >

(評者:北里研究所東医研医史学研究部主任研究員、医博)

  →戻る