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日病薬誌,Vol.33, No.1, p.97-98(1997)  病院薬剤師のための漢方製剤の知識

黄連湯@ 古典的解説

茨城大学人文学部教授 真柳  誠

1.出典の記載

 黄連湯の出典は、後漢時代の張仲景が3世紀初めに編纂した書に由来する『傷寒論』、およびその別系伝本『金匱玉函経』である。いずれの書でも太陽病の下篇に主治条文が一つあるだけで、同じ仲景の書に由来する『金匱要略』には一条も記載がない。一方、『金匱要略』には黄連粉という処方の主治条文があるが、構成薬は記載されていない。

 さて黄連湯の条文を趙開美の『宋板傷寒論』で見ると、次のように記されている。「傷寒、胸中に熱有り、胃中に邪気有り、腹中痛み、嘔吐を欲する者、黄連湯之を主る」。以上の主治条文は『金匱玉函経』でも大差なく、わずかに「嘔吐を欲する者」の「者」の字がないだけである。ちなみに『千金翼方』の巻9もこの条文を引用するが、やはり「者」の字がない。さらに主治条文以下の方後を『宋板傷寒論』は次のように記す。

黄連三両。甘草三両、炙る。乾薑三両。桂枝三両、皮を去る。人参二両。半夏半升、洗う。大棗十二枚。右七味、水一斗を以て六升に煮て取り、滓を去る。昼に三、夜に二、温服す。疑うらくは仲景方に非ず。
 この方後条文のうち、薬の分量は『千金翼方』も同じである。しかし『金匱玉函経』はいささか違い、オウレン(黄連) 2両、カンゾウ(甘草)1両、カンキョウ(乾薑) 1両、ケイシ(桂枝)2両、ニンジン(人参) 2両、ハンゲ(半夏) 5合、タイソウ(大棗)12枚と記す。するとオウレン、カンゾウ、カンキョウ、ケイシの量が1両ないし2両少ない。ただし漢数字の「一」「二」「三」は各々ひと筆の違いのため、伝承過程でよく混乱する。つまりどちらが本来の分量とも言えない。

2.仲景方か否か

 方後の煎じ方での水の量、煮つめる量、また昼間3回、夜2回の服用とも3書の記載は同じである。しかし「疑うらくは仲景方に非ず」の記述は『宋板傷寒論』のみしかない。これは誰が加えた注だろうか。

 第一には3世紀後半に仲景の書を最初に整理した王叔和の可能性が考えられる。しかし『金匱玉函経』も彼の手を経たあと『傷寒論』と分かれたのに、この注記がない。とすれば王叔和の可能性はやや小さい。

 第二には北宋校正医書局の林億たちが、それまで伝わっていた写本を校正し、初めて『傷寒論』として印刷出版した1065年の時、校正の注として書き加えた可能性が考えられる。しかし林億達の注は小さな字で書き加えるのが普通なのに、この「疑うらくは仲景方に非ず」は本文と同じ大きな文字で記されている。さらに『金匱玉函経』も彼らが校訂し、『傷寒論』の翌年、1066年に初めて印刷出版したので、同じ注を加えてもよさそうなものである。結局、林億達が加えた可能性も小さいだろう。

 すると最後に残るのは3世紀後半の王叔和以降、11世紀中頃に林億達が枝訂する以前までの伝承過程で、『傷寒論』の底本となった系統にのみ、この注が書き込まれた可能性だろう。それがいつなのか、誰なのかを知る資料は今のところ発見されていない。

 あえて憶測するなら一つの手がかりがある。唐政府は737年の発令で、医学官僚を登用する試験のテキストとして、初めて『張仲景傷寒論』を指定した。もちろん今、それは伝わっていない。しかし発令の15年後、752年に唐政府図書館の資料から抜粋して編纂された『外台秘要方』にかなりの量の引用文がある。これを調査したところ、黄連湯はなかった。単に引用されなかっただけかも知れないが、他の医書からは別な主治と構成薬の黄連湯という処方がいくつも引用されている。以上からすると8世紀以降の誰かが唐政府指定の『張仲景傷寒論』ないし『外台秘要方』と比較し、それらにこの黄連湯がないので「疑うらくは仲景方に非ず」と注記したのかも知れない。

 とはいっても仲景の3書で黄連湯のように条文が一つしかなかったり、いささか異質な処方は他にもたくさんある。そもそも黄連湯の構成薬を見ると、半夏瀉心湯からオウゴン(黄{艸+今})を除き、代わりにケイシが加わった兄弟関係にある。一方、出土した漢代の医書を見ると固有の処方名は与えられておらず、何々の病を治す方と記すのが普通である。さらに敦煌で発見された医書によると、道教式の処方名を、主薬等の薬名をつけた処方名に改めたのは張仲景だと言う。とするなら黄連湯はやはり仲景の処方と考えて問題ないだろう。

3.黄連配剤方

 そこで黄連湯の主治条文に戻ると、「胸中に熱有り、胃中に邪気有り」と記されている。しかし兄弟処方の半夏瀉心湯証の「心下痞」はない。この相違について黄連湯証は胸に熱、胃中に邪、すなわち寒邪が別々にある。他方、半夏瀉心湯は心下に寒と熱の邪が混在し、痞を起こしている。それで半夏瀉心湯から心下の熱を除くオウゴンを去り、代わりに胃中の寒邪を除くケイシを加えたのが黄連湯と一般に説明される。もっともな解釈と言えよう。

 これを黄連湯と呼ぶのはオウレンが処方の主薬だからに相運ない。このようにオウレンの名がついた仲景の処方は、他に『金匱要略』の黄連粉、『傷寒論』『金匱玉函経』の黄連阿膠湯、葛根黄連黄{艸+今}湯、大黄黄連瀉心湯、乾薑黄{艸+今}黄連人参湯、『金匱玉函経』の乾薑黄{艸+今}黄連湯がある。またオウレンの配剤された処方は小陥胸湯、瀉心湯、半夏瀉心湯、附子瀉心湯、生薑瀉心湯、甘草瀉心湯、烏梅丸、白頭翁湯、白頭翁加甘草阿膠湯がある。オウレンはこうした多数の仲景処方に配剤されており、かなり重要な薬物であることが分かる。

4.黄連の歴史

 ところで、前漢時代の紀元前2世紀に埋葬された墓から出土した「馬王堆医書」計16書には、多数の薬物と薬方が記載されていた。しかしオウレンの記載はどこにもなく、オウレンの別名らしき薬名もなかった。同様に前漢時代の墓から出土し、紀元前数世紀の成立とされる一種の薬物書『万物』にもオウレンやその別名らしき薬名が見つからない。出土医書でオウレンを記すのは、西域の武威というところに派遣された後漢の軍隊に随行した医者の墓から出土した処方集が今のところ最も古く、これは紀元1世紀のものだった。また同じ1世紀に原型ができた『神農本草経』もオウレンを収載している。するとオウレンは紀元前後ごろから漢民族に薬用が知られ、『神農本草経』を経て、張仲景の時代、紀元200年前後には相当に応用が広まったと考えられよう。

 ちなみに、なぜオウレンの漢字2字で呼ばれたのだろうか。前述した西域の武威で出土した医書でも、黄色の「黄」に連なるの「連」で記している。これはオウレンを折ると断面が鮮やかな黄色で、外観はボコボコとジュズ玉を連ねたようだからに相違ない。

 一方、『神農本草経』はオウレンの別名として、黄色の「黄」ではなく、王様の「王」で「王連」と記す。これではどうも意味が通じない。しかし紀元前後には、二つの文字が同じ発音のために通用していたらしい。同じ例を薬名であげると{木+舌}楼根の{木+舌}楼、つまリキカラスウリがある。このキカラスウリを紀元前139年に著された『准南子』では、黄色い瓜の「黄瓜」と書き、また王様の瓜の「王瓜」とも記している。すると「王」と「黄」は同じ音のために通用していた。もし仲景の黄連湯が王様の王連湯だったら、あるいは別な応用が開発されていただろうか。

(日本短波放送 1996年9月4日)