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真柳誠「大黄牡丹皮湯@処方解説」(ラジオ短波「漢方製剤の知識」2000年8月16日20:25-20:40放送)
『日本病院薬剤師会雑誌』35巻12号1748-1750頁、2000年12月

大黄牡丹皮湯@処方解説

茨城大学人文学部
教授   真柳  誠
1. 出典と条文

 大黄牡丹皮湯は中国の後漢時代、3世紀初期に張仲景という人が著した医書に由来する『金匱要略』という書に初めて記載された処方である。このようにまわりくどい表現をしなければならないのは、いま私達が見ている『金匱要略』という書は、11世紀に北宋政府が初めて出版して世に広まったもので、それ以前の『金匱要略』や二千年近く前に張仲景が著したという原本は、もはや存在しないからである。

 しかし様々な資料から検討すると、張仲景に該当する人が3世紀初めに医書を編纂したのはほぼ間違いない。それに現在の『金匱要略』が由来するのも確実である。とはいっても由来するにすぎないので、同じく仲景の原本に由来する『傷寒論』や本書の記載には、解釈の難しい部分が少なくないのも事実である。

 さて大黄牡丹皮湯は『傷寒論』になく、『金匱要略』の瘡廱腸廱浸淫篇に腸癰の処方として大黄牡丹湯の名で一ヶ所の記載があるだけである。腸癰とは大腸の膿瘍の意味で、一般にはおよそ虫垂炎に相当すると考えられている。まず、この主治条文を現代語に訳してみよう。

 大腸に膿瘍があると下腹部が腫れ、つまった感覚がして、そこを押すと痛む。また尿路感染症のような頻尿感もあるが、排尿困難や排尿痛はない。時には発熱して汗が自ずと出て、のち悪寒する。この患者の脈が遅く、緊張している場合は化膿しきっていないので、それを下すべきである。オ血もあって脈がドクドクと速い場合は化膿しきっており、下してはならない。大黄牡丹湯は、前者の場合を治す。
 以上の主治条文でいう下すとは、直接的には下痢させることだが、間接的には膿やオ血を便などとともに出させることも含んだ意味である。また化膿しきっている場合に下してはいけない、と記しているが、この場合の処方は書かれていない。

 ただし当条文のひとつ前には、{艸+意}苡附子敗醤散の条文がある。その内容、また{艸+意}苡附子敗醤散が瀉下する処方でないことからすると、化膿しきっている場合には、{艸+意}苡附子敗醤散を投与すべき、という意味が大黄牡丹湯の条文には含まれている、と解釈すべきだろう。

 この主治条文以下には大黄牡丹湯の構成生薬5味と分量が記され、さらに次の方後の条文がある。

 右5味のうち、芒消以外を水6升で1升まで煮詰め、滓を取り除いてから芒消を入れ、ふたたび沸騰するまで煮て、これを頓服する。膿があれば下り、もし膿がなければ血が下る。


2. 『千金方』との比較

 さて以上と類似した条文と薬味の大黄牡丹湯が、唐代7世紀中葉に編纂された『千金方』巻23の腸癰第二に記載されている。これを見ると、『金匱要略』の主治条文の前半部分で、大腸の膿瘍と診断する症状は大差ない。しかし脈診で化膿程度を判断する後半部分がいささか異なり、『千金方』では「脈が早い場合は少し化膿している。脈が遅く緊張している場合はまだ化膿していない」、と記されている。

 このように『金匱要略』と『千金方』の条文に類似した部分があることは、両条文が同じルーツに由来することを示している。しかし同じルーツから異なる過程で伝承したため、条文に少々違う部分が派生したことも示している。脈診は主観が入るため、こうした相違が派生したと考えるのが妥当なところだろう。

 ちなみに『金匱要略』の方後の条文で、煎じたあと頓服し、「膿があれば下り、もし膿がなければ血が下る」という部分があった。ところが『千金方』では、単に「膿と血が下る」となっている。これも単なる表現上の相違といえなくもないが、化膿の有無を脈診で判断することを重視するかしないかによる、表現の相違と思われる。
 

3. 方名について

 次に大黄牡丹皮湯の処方自体についても考えてみよう。本処方は大黄・芒硝・牡丹・桃仁・(冬)瓜子の5味から構成されている。この大黄と芒硝の2味があるので、張仲景処方における大承気湯・調胃承気湯や桃核承気湯の系統になる。しかし当方に「承気」の名は付かず、大黄と牡丹を主薬と考えたためだろうが、大黄牡丹湯と命名されている。

 このように構成薬名で処方に命名するのは張仲景が最初に始めたようで、とりわけ『金匱要略』には多い。これは北宋政府が11世紀に本書を初出版する際、省略の多い不完全な書しかなかったためである。それで名のない処方については、構成薬名で新たに命名したらしいことが関与していると思われる。
 

4. 大黄について

  本方と同様、方名に大黄がある仲景の処方は少なくない。大黄を最初に収載した中国本草書は1世紀ころの『神農本草経』で、西洋でも1世紀のディオスコリデス本草が最初だった。出土書では紀元前の馬王堆医書等に見えず、紀元前後ころの敦煌木簡と1世紀の武威出土医書から記載が始まる。これらのことから大塚恭男先生は、大黄の薬用が中国で知られたのは紀元前後のことだろう、と考証されている。大黄は仲景処方で重要な役割を担っているが、当時としては案外と最新薬だったようだ。

   ところで黄のつく薬名でも、黄連・黄柏などにくらべ大黄の名は意味がやや漠然としている。一方、漢代までに薬用が開発された黄色の生薬で、形状を大といえるのは大黄しかない。すると、大きく、あるいは大いに作用が顕著な、「黄」色の薬物という意味で大黄と呼ばれたのかも知れない。

 ちなみに大黄には将軍の別名があり、3世紀の『李当之本草』や『呉普本草』から記載がみえる。いささか風変わりな別名だが、そのいわれを500年頃の『本草集注』は、「(瀉下作用の)駿快さによる」と記す。たしかに大黄の瀉下は即効的かつはっきりとしているので、この説は頷ける。
 

5. 牡丹について

  次に牡丹についてだが、これが方名にある仲景処方は本処方のみである。しかも牡丹が配剤されるのは『金匱要略』の処方のみで、それも鼈甲煎丸・八味丸・桂枝茯苓丸・温経湯と、本処方の計5方に限られる。同類生薬の芍薬が仲景処方の多数に配剤されているのに、である。

  この牡丹も大黄と同様、紀元前の出土医書にはなく、1世紀の武威出土医書からはじめて医薬書に記載がみえる。さらに芍薬に似た花の美しい植物として賞賛され、非医学書に牡丹が出てくるのはやっと隋唐時代になってからである。

  こうしたことから、後漢頃に薬用が開発され、六朝時代まで使用された牡丹と、隋唐以降使用されている現在の牡丹とは植物が違う、という説すらある。本処方ほか牡丹配剤方が『金匱要略』にしかないのは、こうした歴史背景によるのかも知れない。