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真柳誠「書評『馬王堆漢墓帛書〔肆〕』」『日本医史学雑誌』33巻2号272-274頁、1987

書評:馬王堆漢墓帛書整理小組編『馬王堆漢墓帛書〔肆〕』
(北京・文物出版社、B四判、総二九三頁、一九八五年三月第一版、四四元)

 一九七二年四月、中国湖南省長沙市の東郊外約四kmの地点・馬王堆の台地より発掘された二一〇〇年以上昔の未腐乱女性屍体は、当時その奇跡が世界に与えた衝撃とともに今も我々の記憶に新しい。そして翌一九七三年十二月、第一号・二号に続き発掘された第三号漢墓より出土した二四種に上る多量の帛書・木竹簡等の古文献は、その後の古代中国史研究に計り知れぬほどの貴重な資料を斯界に提供することとなった。かつそれらの少なからぬ部分が医学関係文献であったことは、伝承文献では漢代はおろか六朝時代すら正確に遡ることが極めて困難であった中国医学の史的研究にとって、まさしく驚異的出来事であった。

 一九七五年以降、中国ではいくつかの雑誌や書物にそれらの部分的写真や釈文・論考等が発表され、わが国でも中国発表資料に基づく研究がなされてきたが、公開された写真は一部に限られていたため隔靴掻痒の感はどうしても否めなかった。しかし本書の出版により全出土医学文献が影印され、今その全貌が我々にもようやく明らかにされたのである。また本書には各々の釈文と注釈も収録されている。本書の「出版説明」(一九八一年七月記)によると、それらの整理・釈文・注釈に参加した主要メンバーは唐蘭・李学勤・馬継興・周世栄の四氏である。各氏はいずれも馬王堆医書等の研究活動で我々にも馴染み深いが、唐氏は故宮博物院前院長で七〇年代に逝去されている。李氏は中国社会科学院歴史研究所長・教授、馬氏は中国中医研究院医史文献研究所前副所長(現教授)、周氏は湖南省博物館研究員である。釈文および抄写年代の判定は古文字学者の李氏が主に担当、馬氏らは主に医学文献による注釈に参加したとのことである。

 さて本書の構成は前半が出土した医学文献全一五種の影印図版頁、後半が各々の釈文・注釈頁となっている。これら一五文献本来の書名はいずれも不詳であるが、各々にはその内容や冒頭の語句等より仮称が与えられている。そこでまず各文献の出土状態と仮称、および整理・影印の概容を本書での収載順に述べておこう。

 第一帛書:高約二四cm・寛約四五〇cm。出土時に畳み目より断裂し、三〇余の裂片に分かれている。字体は篆書に近く、およそ秦漢間頃の抄写と判断されている。当帛書の記載は内容より次の五文献に分けられている。@『足臂十一脈灸経』(二裂片で、本書図版は各々を原寸に影印。第一片は原寸大でカラーグラビアにも収載)。A『陰陽十一脈灸経』甲本、B『脈法』、C『陰陽脈死候』(以上三文献は大きく三裂片に分かれ、図版では各々を原寸で影印)。D『五十二病方』(複雑に断裂しており、全体は二九の図版に原寸で影印)。

 第二帛書:高約四九cm・寛約一一〇cm。出土時に多くの大小不等の砕片になってしまったが、シミや畳み目・帛の織目等より各片の位置が復元された。字体より漢初の抄写と考察されており、記載は次の三文献に分けられている。E『却穀食気』、F『陰陽十一脈灸経』乙本(以上二文献は当帛書片面の約一一分の一に相当する部分に記載され、本書では該当部分を約二分の一に縮小し一図版に影印)。G『導引図』(前掲EF文献の裏面に、彩色で当帛書の約一一分の一〇に相当の面積に記されている。本書では該当部を約二分の一に縮小し四図版に影印するが、その原寸大カラー図版および復元図は一九七九年に文物出版社より公刊されている)。

 第三帛書:高約二四cm・寛不詳。出土後に大部分が裂け砕け、多数の小片となっている。記載文献はH『養生方』と命名され、本書ではそれらを一六の図版に分け原寸大に影印している。

 第四帛書:高約二四cm・寛不詳。出土後に裂け砕けて多くの断片となっている。記載文献はI『雑療方』と命名され、本書ではその断片を六図版、および位置未詳残片四四枚を一図版に原寸で影印している。

 第五帛書:高約四九cm・寛約四九cm。字体が雲夢県睡虎地で出土の秦簡に近似することより、抄写年は漢よりも秦代に近いと推測されている。当帛書に記載の図および文字はJ『胎産書』と命名されている。全体は大きく四裂片に分かれ、本書では各々が原寸大の図版に影印されている他、全体はカラーグラビアにも縮印されているが、印刷が不鮮明なのは誠に残念である。

 竹簡一巻:当巻は二三二枚の竹簡より成り、前一〇一枚はK『十問』、後三二枚はL『合陰陽』と命名されている。いずれも原寸大に影印され、Kは九図版、Lは三図版となっている。

 木竹簡一巻:当巻は計六七枚の木竹簡より成り、前一一枚は木簡でM『雑禁方』、後五六枚は竹簡でN『天下至道談』と命名されている。本書ではいずれも原寸大に影印され、Mは各木簡毎に模写図も附し二図版、Nは五図版となっている。

 以上一五文献中、@〜Fは全文の釈文・注と部分的写真が既に『文物』誌(一九七五年、第六・九期)および『馬王堆漢墓帛書・五十二病方』(馬王堆漢墓帛書整理小組編、文物出版社、北京、一九七九)にて公開出版。またGも前述のごとく全形のカラー図版・復元図版が公刊されている。H〜Jは写真・釈文注ともに本書が初公開、K〜Nは周世栄氏個人による釈文が内部刊行誌(『馬王堆医書研究専刊』第二輯、長沙馬王堆医書研究組編、湖南中医学院刊、一九八一)に掲載されたことがあったが、当誌は湖南省博物館(長沙市)でのみ販売され、中国内でも一般に入手不能であった。しかし今回その全写真が公開されただけでなく、本書の釈文・注により周氏の釈文には相当の問題のあったことが知られた。H〜Nの文献が発掘後十数年も経てからようやく公開されたのは、恐らくその内容の多くが房中や巫術に関するためと思われるが、ともあれ本書にこれらも収録された意義は大きい。

 次に各々の内容であるが、これについては馬継興氏(「馬王堆出土的古医書」、『中華医史雑誌』第一〇巻第一期、一九八○)の紹介にほぼ尽くされており、またこれまで日中双国で数多くの論考がなされているので、あえて贅言を呈すまでもなかろう。なお@〜FとK〜Nについては、山田慶兒・赤堀昭・坂出祥伸・中嶋隆蔵・麦谷邦夫氏らの共同研究による注釈と和訳が『新発現中国科学史資料の研究・訳注篇』(山田慶兒編、京都大学人文科学研究所発行、一九八五)中に収録・発表されている。それら訳注は本書の公刊以前になされたため、多くは実物写真ではなく既発表の釈文等を基に考釈されている。それゆえ今後の校訂に俟つべき部分もあるとは思われるが、中国の釈文・注釈を踏まえた上での詳細な注と訳には是とすべき見解が多い。今後の研究において、それら労作は本書とともに必須の資料といえよう。

 ところで『文物』誌一九八五年第一期の報告によると、一九八三年末に湖北省江陵県張家山で発見された三基の前漢代墓群より、千を越える竹簡が出土。その中には馬王堆帛書のA〜CFに相当する『脈書』(仮称)とGに関連する『引書』(仮称)が含まれ、馬王堆帛書の欠損文字がほぼ補足できるなど、かなりの不詳が明らかにされ得るとのことである。全体の釈文や写真の公開にはまだ数年を要すると思われるが、これにより従来の馬王堆医書の研究報告はいささかの修正を余儀なくされるであろう。

 以上、本書の性格上、概要紹介に兼ねて関連文献・報告に言及したが、馬王堆医書の真価は現存最古の体系立った中国医学文献という点にあることは言うまでもない。そしてこの点において、本書は東洋医学とその史的研究にとって他の基本古医籍と同等、あるいはそれら以上の価値を有する古典と評しても過言ではなかろう。 
(真柳 誠)