←戻る
真柳誠「日本は島国につき『傷寒論』や『素問』を研究するらしい
2003年10月18日、温知会第445回例会、東京・湯島聖堂

温知放談―日本は島国につき『傷寒論』や『素問』を研究するらしい
真柳 誠


 ここ数年、ベトナム・韓国・内モンゴルで古医籍の蔵書調査を行い、なんとも不可思議な史実に気づいた。いうまでもなく、中国の周縁国・地域は過去から現在まで中国医学の影響を受容し続け、消化し、さらに触発される形式で自国固有の伝統医学を形成してきている。むろん日本も例外ではない。

 ただ日本だけは並行して例外的な動きがおよそ江戸時代17世紀から始まり、現代まで続いている。それは第一に『素問』『霊枢』『難経』『傷寒論』『金匱要略』など中国医学古典の研究であり、第二に『傷寒論』『金匱要略』という中国固有医書に基づくものの、古方派という中国に本来なかった(はずの)治療思想が生まれた点である。

 すなわち江戸時代の研究書だけで『傷寒論』について503種、『金匱要略』について110種が現存する。『素問』『霊枢』『難経』など内経医書の研究も江戸時代の書が150種ほど現存する。私は他の中国周縁国でも同様の中国医学古典研究があっただろう、と以前は思っていた。

 ところがそうした古典研究古医籍の存在を、韓国でもベトナムでも内モンゴルでも発見できなかった。韓国では斯界に知られていなかった『素問句読俗解』という成立年未詳の李朝活字残欠本を唯一発見したが、この「俗解」とはハングル以前からあるIdu(吏読、あるいはGugyeol口訣)とよばれる文字を使った漢字交じりの訓読だけで、研究書とするのは難しい。

 第二の点もしかり。以前はベトナム・朝鮮・モンゴルなどの医書を沢山見ることなどなかったので、これらの国でも日本のように中国医書に基づく独自の治療思想が生まれ、医学の自国化があっただろう、と漠然と考えていた。しかし違うらしい。

 李氏朝鮮後期の「四象医学」は中国古典『周易』の太極説に基づき、中国にはなかった特異な思想と治療法を創出した。一方、日本の古方派は中国医学古典の『傷寒論』を換骨奪胎し、特異な思想と治療法を創出した。同じ特異でも、日本は「中国医学」古典に執着している。ベトナムでは国薬・南薬という固有薬の本草書や治療書があるが、こうした特異な治療思想を持つ書を見なかった。どうも日本だけ特異な背景には、江戸時代から興る中国医学古典の研究があるらしい。

 他方、そうした医学古典を除くなら、各国とも歴代の中国医書を大差なく受容し、復刻本を出し、自国に適した部分を抜粋した固有の医書を編纂している。

 たとえばベトナム・朝鮮ともに明代・清代の臨床医書を復刻しており、明代の『医学正伝』『医学入門』など医学全書に版本が多くあり、流行したのは日本と同じ。とくに{龍+共}廷賢の書(『万病回春』『寿世保元』)が日本同様にベトナム・朝鮮でも好まれていたのは、周縁国特有の現象かも知れない。ただモンゴルだけは自国での製紙・製版がほぼ不可能なため、清末の北京で出版された清代医書のモンゴル語訳本数点を見ただけである。しかし漢字交じりの19世紀モンゴル語写本は少なくなかった。こうした漢字交じり自国語訳本は各国・各地域にある。

 固有医学全書の編纂でもやや年代に差があるが、日本の『医心方』(984)には朝鮮の『医方類聚』(1445)が、日本の『啓迪集』(1574)には朝鮮の『東医宝鑑』(1613)がおよそ相当するだろう。17世紀のベトナムでも数十巻の医学全書が編纂され、現在も繁用されているとベトナム社会人文科学国家センター漢喃研究院の阮玉潤副院長にうかがったが、うかつにも著者・書名・成立年をメモしなかった。

 以上の類似した中国医学受容史があり、儒書・仏典でも程度・傾向の相違はあれ、各国ともに固有の古典研究書がある。にもかかわらず、なぜ日本だけが中国医学古典研究をかくも好きなのだろう。あるいは、なぜ朝鮮・ベトナムでは中国古典のうち医書だけを研究しなかったのだろうか。むろん本国の中国は例外だが。

 この疑問がわき出て以来、日本でも外国でも識者に会うたびに尋ねてきた。しかし誰も首をひねるばかり。私も色々と要因を思索したが、決定打はない。ただし日本だけは「島国」である。この厳然たる相違がどうもキーワードらしいとにらんでいる。

 つまり中国歴代の最新臨床医書を読んで学ぶのは、中国でも周縁国でも勉強する医者なら同様だろう。それら臨床医書にちりばめられた謎解きのような医学古典の引用文に接したとき、勉強家はとりあえず識者に質問するだろう。中国と地続きの周縁国・地域では古典に通じた中国の医者が来たり、中国に行って名医に尋ねる機会もないわけではない。

 しかし島国日本で、そうはいかない。そうした機会の確率は、朝鮮・ベトナムの万分の一だったかも知れない。「中国名医」の臨床を直接見ることがまずなかった日本人は、「中国医書」に名医を捜すしかない。いきおい日本人は書物依存症になる。そこで医学が中国古典への疑問レベルに達した17世紀の江戸時代、日本人は自ら中国医学古典自体を研究するしかなかった。

 そして次第に古典の謎解きにハマってしまったのが、いわゆる後世方別派。さらに『傷寒論』の謎をシンプルにし(解い)てしまった吉益東洞流が一世を風靡し、古方派の方向が固まる。その「目くらまし」に気づいたのが多紀氏ら考証学医家で、さらに医古典の「本格的正式」研究をきわめ、輝かしい業績を築いた。

 以上は「風が吹けば桶屋がもうかる」式の推論、と我ながら思う。しかし日本の特異性を説明できる妥当な要因が他に思い浮かばない。ともあれ中国と日本だけでなく、他の周縁国・地域の伝統医学史と総合的に比較すると???が浮かび、謎解きにハマってしまう。やはり私も島国日本人らしい。