1 日本への中国医籍伝来記録と伝来数
中国医籍が日本に伝来した記録は、562年に呉人・智(知)聡が 「内外典・薬書・明堂図等百六十四巻」 を持参したという『新撰姓氏録』の記事に始まる。以後も『日本書紀』・大宝律令医疾令(養老令より)・『令義解』・藤原宮跡出土木簡・旧仁和寺本『新修本草』巻15奥書・正倉院文書写章疏目録(『大日本古文書』巻3)・『続日本紀』・『日本後紀』・『日本紀略』・『秘府略』巻864・『続日本後紀』等の記録により、9世紀まで不断に中国医書が将来されていたことが分かる。
891-97頃に勅撰の藤原佐世『日本国見在書目録』は多数の中国医書を著録し、中には『隋書』経籍志に未見の書も少なくない。『隋書』を著録する本書の編纂自体が、『隋書』経籍志に未著録書の「日本国見(現)在」を意識した可能性も推測されよう。
ところで本稿は書籍数を集計する単位として、「種」「部」「冊」を用いる。種とは、書名・版本・刊写・字句等の相違があっても、同一と認められる書は1種として数えること。また個々の書物一つ一つを数えるのが部で、冊は説明するまでもない。
さて平安以降も渡来医書は多く、それらは概ね日本で著された医薬書の引用から推知可能で、真柳は16世紀以前について集計し、少なくとも647種の記録を採録できた[1]。さらに17世紀から幕末までの渡来書は、主にキリシタン書の伝入防止のために長崎で書物改役が作成した記録等から、渡来年や部数ほかまで相当詳細に実態を掌握することができる。これについて真柳と友部は、少なくとも804種の渡来があったことを明らかにした[2]。
以上を単純に集計するなら、少なくとも1451種の中国医書が渡来していたことになる。しかし記録に残らなかった書は当然あり、両集計には重複書もあるため、漠然と1400種ほどの中国医書が幕末までの日本に伝来していただろう、と推定しておきたい。むろん、その全てが現在に伝わる訳ではなく、いま日本にある中国医薬書がおよそ1000種[3]であることも勘案するなら、おおむね妥当な数字と思われる。
2 古医籍の中国への還流と伝入
上述経緯により、江戸時代までに日本で伝承された古医籍(中・日・朝で著された中・日・朝の刊本・写本)は、明治維新以降の伝統医学廃絶政策により価値を失い、多くは現在まで死蔵、また一部は国外に流出した。主な流出先は台湾を含む中国で、それが中国書ならば「還流」、非中国書ならば「伝入」と呼ぶことにする。
還流した中国医書は日本刊写本で296種、伝入の日本医書は日本刊写本で751種あった[4]。その部数は、還流中国書の日本刊写本が種数の4.5倍ほど、伝入日本書の日本刊写本が種数の2.5倍ほどと思われる[5]。これから単純に計算すると、総数は約3200部になる。一方、還流した中国刊写本も無視できないが、蔵書目録からは中国在来書と区別できない。しかし実際に中国の各図書館を調査すると、蔵書の多いところではしばしば日本人の書き込みや蔵印のある中国刊本が発見される。さらに以上の数字には、還流書や伝入書が多い台湾の蔵書を含まない。そうしたさまざまな要素からおおざっぱに見積もると、明治以降から中国に伝入した日本旧蔵医書はおそらく4000部以上になるだろう。日本で中国医薬書の蔵書数最大の内閣文庫に956種1632部11591冊が所蔵される[6]ことを考えるならば、その厖大さが理解されよう。
さらに明治時代には書物にとどまらず、和刻の医書版木も中国に輸出され、それで重印された[7]。1874年に広東で印刷の『外台秘要方』は1746年和刻の山脇東洋本。1878年に上海と蘇州で印刷の『千金翼方』と『千金方』は、各々1829年と1849年に和刻の江戸医学館本。1887年前後に岸田吟香の上海楽善堂が印刷した『玉機微義』と『針灸素難要旨』は、それぞれ1664年と1715年の和刻版木による。1899年に浙江書局が印刷した『張氏医書七種(張氏医通)』は、1802年の和刻版木による。
なお和刻倣宋版の版木を使用という『経効産宝』を1881年に張金城が印刷しているが、日本で当倣宋版を刊行した記録はない。一方、小島宝素による本書の倣宋復原本があり、それを楊守敬が入手していま台北故宮にある。この倣宋復原本と倣宋版は酷似するので、どうも倣宋版『経効産宝』の刊行は楊守敬の作為が疑われる。
他方、日本医書では1857年に多紀雲従が再版した多紀元簡『観聚方要補』の版木により、中国で5回ほど印行されている。1884年には楊守敬が多紀氏らの著作13書を和刻版木で印刷した。朝鮮医書では、吉宗の命で1724年に和刻された『訂正東医宝鑑』の版木で、上海の朱曜之が1890年に訓点等を削り去って印刷。また来日した清人が入手した書を日本で版木に彫って印刷した例もあった。1889年に傅雲竜が和刻した仁和寺本ほかの『新修本草』、1890年に羅嘉杰が和刻した倣宋版『備急灸方』と朝鮮書の『針灸択日編集』である。このように当時の中国人が和刻版木で印刷した日・中・朝の医書は25種にのぼるが、調査が進めばより増えるだろう。
3 日本所伝の中国散佚古医籍と佚存医書の還流
佚存書とは、自国で亡佚したが他国に現存する古籍をいうが、本稿では中国で散佚し、日本で現存する範疇を扱う。「佚存」の用例は、江戸の儒者で大学頭の林述斎(1768-1841)が編纂した『佚存叢書』60冊(1799-1810刊)が最初らしい。当叢書は中国に歓迎され、のち魯迅も佚存の語を書信に用いるなど、学術用語として定着した[8]。こうして見出された佚存書は明治以降、様々な形式で中国に還流しており、むろん中には古医籍も少なくない。さらに版本・写本レベルまで佚存概念を拡大適用すると、中国で失われた古版本・古写本が日本に伝存した場合もきわめて多い。それらも含め、真柳は鄭金生氏らと後述の共同研究およびマイクロフィルムでの還流作業を実施してきた。
写本・版本も含む佚存中国古医籍で、われわれの作業以前に何らかの形式で還流した書は少なくない。それらの内、室町時代までに渡来し、のち還流した代表的な例を成立年代順に以下に列挙してみよう。
3-1 平安以前の渡来書(古写本として伝存)
隋以前『蝦蟇経』:現所在不詳。多紀元胤編の『衛生彙編』に古写本を模刻(1823)。
5世紀中葉『小品方』:尊経閣文庫蔵。小曽戸・真柳が古写本をカラー影印(1992)。
【500年頃『本草集注』:龍谷大学大宮図書館蔵。橘瑞超の探検隊が1912年に敦煌で盛唐8世紀写本を購入。その模写を羅振玉が『吉石庵叢書』初集に影印(1914)、『吉石庵』本を范行準が群聯出版社より再影印(一九五五)】
7世紀初『黄帝内経太素』:原古写本は仁和寺蔵国宝。これに基づく転写本が多数還流したが、小曽戸ら編の『東洋医学善本叢書』に原写本を影印(1981)。
7世紀初『明堂経』:原古写本は仁和寺蔵国宝と尊経閣文庫蔵重要文化財。仁和寺本に基づく転写本が多数還流したが、小曽戸ら編の『東洋医学善本叢書』に原仁和寺本を影印(1981)。また小曽戸・真柳が尊経閣文庫本をカラー影印(1992)。
659年『新修本草』:原古写本は仁和寺と杏雨書屋(巻15)の所蔵で国宝。これに基づく転写本が多数還流し、1889年に傅雲竜が日本で影刻。また武田長兵衛が仁和寺本を影印(1936)、杏雨書屋が杏雨本をカラー影印(2001)。
7世紀中葉『(真本)千金方』:宮内庁書陵部蔵。松本幸彦の出資、多紀元堅の序により1832年に『真本千金方』の名で、ヲコト点までも影刻。
3-2 鎌倉・室町時代の渡来書(多くは宋元版として伝存)
280頃『脈経』:楊守敬が日本で入手の諸版により校勘した『景宋本脈経』を刻刊(1893)。
610年『諸病源候論』:宮内庁書陵部蔵南宋版。小曽戸ら編の『東洋医学善本叢書』に原本を影印(1981)。
7世紀中葉『千金方』『千金翼方』:前書は米沢上杉家旧蔵の南宋版で、いま国立歴史民俗博物館蔵の重要文化財。後書は江戸医学館多紀氏旧蔵の元版で、いま宮内庁書陵部所蔵。その江戸医学館模刻版木の中国伝入は前述した。なお陸心源旧蔵の南宋版『新彫孫真人千金方』は宋代の校訂を経ず、当書の旧姿を保存しており、1907年に静嘉堂文庫に購入された。これら3版本はオリエント出版社から影印(1989)された。
992年『太平聖恵方』:蓬左文庫蔵南宋版。これに基づく江戸写本が還流し、中国で活字出版(1958・82)。当宋版はオリエント出版社から影印(1991)された。
1107-10年初版『和剤局方』:中国現存は元版以降の10巻本系。宮内庁書陵部に旧姿を保つ5巻本系南宋版の残欠本があるが、まだ日中ともに影印等なされていない。
1117年頃『聖済総録』:宮内庁書陵部蔵元大徳重印本。当版に基づき江戸医学館が木活字で印行(1816)し、それに基づき中国で活字出版(1962と80年代)。当版の残欠本はオリエント出版社から影印された(1994)。
1159年『紹興本草』:鎌倉時代の渡来は『万安方』(1315)の引用より明かだが、現存は幾系統かの江戸後期写本のみ。それらに基づき鄭金生氏が自費出版(1991)。
1253年『厳氏済生方』:宋版が宮内庁書陵部と台北故宮(日本旧蔵)にある。この古写本に基づく和刻本があるが、中国通行本は下掲本も含めた『永楽大典』引用文を混合輯佚した『四庫全書』本に基づく。
1287年『厳氏済生続方』:宋版に基づく室町写本が内閣文庫にある。これに基づき多紀元胤が『衛生彙編』に模刻(1823)。中国通行本は上掲本も含めた『永楽大典』引用文を混合輯佚した『四庫全書』本に基づく。
なお時期はまったく異なるが、趙開美の『仲景全書』は明の1599年に刊行されただけで、のち中国では復刻されていない。一方、江戸時代にはその内容を改変した和刻『仲景全書』が幾度も刊行されていた。それが珍しかったため、上海に在住していた日本医家持参和刻本を1892年に胡乾元が成都で翻刻した[9]、という例もある。
以上の例以外に、佚存を意識していない江戸の和刻本だけが残る佚存書が11種[7]、また和刻や影印されなかったが宋版・元版などに基づく江戸写本で還流している書が20種はあり、すでに全体で50種ほどの佚存中国古医籍が日本から中国に還流したものと考えられる。
4 中国古医籍の佚存情況
幕末の『佚存叢書』以降、長沢規矩也・神田喜一郎の『佚存書目』(服部宇野吉編刊、1933)などの報告もあるが、これまで佚存中国医書については十分に網羅されていなかった。これに着目した王鉄策氏の提案により、真柳は王氏・鄭氏らと共同研究を実施し、それらの複写還流作業をほぼ完了させることができた[3][10][11]。その概略は次のようである。
4-1 佚存書情況の集計基準
各書の佚存情況は多様であり、それらを集計するため以下の基準で調査した[3]。また日本や台湾にあるが中国大陸にない書については、さらに「大陸亡佚書」として集計した。
(1)佚存書(狭義)
日本にある当該書が残欠本(残本・欠本)であっても、中国に同一と判断される書の所蔵が認められないもの。この条件に該当するなら、叢書収録本の一部ないし全体が当該叢書以外の単行本・叢書本として中国に現存していても、叢書はそれ自体も独立した書なので佚存書として集計する。
(2)半佚存書
中国に残欠本のみ現存する場合、それを補える残欠本ないし全本(完本・足本)を半佚存書とする。中国内に同一書の所蔵は認められないが、当該書の一部が中国内外を問わず影印ないし活字等で公刊されている場合も半佚存書とする。
(3)その他の佚存書
日本では江戸後期に『外台秘要方』『医心方』『証類本草』『医方類聚』所引の佚文を材料に、すでに亡佚した中国古医籍が数多く輯佚された。これら輯佚書の多くは明治以降に中国へ伝入している。しかし、まだ日本にのみ所蔵される書もある一方、輯佚材料の『外台秘要方』等はすべて非佚存書である。さらに輯佚者は日本人であるが、輯佚書の原作者は中国人なので、基本的には中国書といえよう。したがって中国に所蔵が確認されない書はその他の佚存書に分類したが、集計では輯佚書として計上した。
他方、1種2部の和刻本が日本にのみ現存するにすぎないが、偽作の可能性も疑える中国医書がある。ただし偽作とも非偽作とも断定する資料がなく、偽作としても中国作か日本作かも判然としない。したがって当書もその他の佚存書に分類するが、集計では「偽作?」として計上した。
(4)未詳書
未詳書は本来、以上のいずれかに該当するが、判断を保留すべき要因がある書で、現段階で1種の江戸写本が日本と台湾に各1部ある。本書は非医学の個人全書から医学部分を抄出しているが、その全書自体の亡佚・現存がいまだ確認できていないため、未詳書として集計した。
4-2 日本各機関所蔵の佚存書数
以上の基準に従い調査集計した結果、以下の各機関に佚存書が確認された[3]。
(1)国立公文書館内閣文庫
当文庫所蔵の佚存書は137種198部におよぶ。さらに別の14種・24部が台湾所蔵の大陸亡佚書と重複しており、これを加算すると151種222部の大陸亡佚書が内閣文庫にある。
(2)宮内庁書陵部
当部には16種16部の佚存書があり、これに台湾との重複本5種(5部)を加えて計21種21部の大陸亡佚書が所蔵されている。当21種21部のうち半佚存書は2種2部、輯佚書は1種1部あった。
(3)武田科学振興財団杏雨書屋
当書屋には15種25部の佚存書が所蔵され、これに台湾との重複本2種(2部)を加えて計17種27部の大陸亡佚書がある。当17種27部のうち、半佚存書は3種3部、輯佚書は2種2部だった。
(4)京都大学附属図書館
当館には9種9部の佚存書があり、これに台湾との重複本3種(5部)を加えて計12種14部の大陸亡佚書が所蔵されている。当12種14部のうち半佚存書は1種1部、輯佚書は3種5部、偽作?は1種1部あった。
(5)龍谷大学大宮図書館
当館には7種9部の佚存書が所蔵されが、台湾との重複種はない。このうち半佚存書は2種3部だった。
(6)京都府立総合資料館
当館には4種4部の佚存書が所蔵されるが、台湾との重複種はなかった。このうち、半佚存書が1種1部だった。
(7)九州大学医学図書館
当館には3種4部の佚存書が所蔵され、台湾との重複種等はなかった。
(8)大阪府立中之島図書館・(9)尊経閣文庫・(10)早稲田大学図書館
上記3機関にはそれぞれ3種3部の佚存書があり、ともに台湾との重複種等はない。
(11)東北大学附属図書館・(12)鶴見大学図書館
上記2館には各々2種2部の佚存書が所蔵され、いずれも台湾との重複種等はなかった。
(13)国立国会図書館・(14)名古屋市立大学図書館・(15)静嘉堂文庫・(16)成簣堂文庫・(17)西尾市岩瀬文庫・(18)伊丹市博物館
上記6機関にはそれぞれ1種1部の佚存書が所蔵があり、ともに台湾との重複種等はない。
(19)名古屋市立蓬左文庫
当文庫に佚存書はないが、台湾と重複する1種(1部)の大陸亡佚書がある。
(20)慶應義塾大学北里記念医学図書館[26]
当館にも佚存書はないが、台湾と重複する1種(1部)の大陸亡佚書があり、これは輯佚書でもある。
以上の(2)〜(20)の19機関に所蔵される佚存書は計86部、大陸亡佚書は計100部となるが、それでも内閣文庫一所の半分にもおよばない。そして19機関所蔵本に内閣文庫本も加えると、全日本に所蔵される佚存書は計294部、大陸亡佚書は計322部だった。
4-3 台湾地区の大陸亡佚書数[3]
台湾では以下の3機関に大陸亡佚書の所蔵を見いだした。
種数が多いのは台北の国家図書館で、ここは最近まで国立中央図書館の名称だった。当館は民国時代の中央図書館旧蔵書を中核とするため、善本古籍に富む。大陸亡佚書は18種18部が所蔵され、その中には2種2部の半佚存書が含まれる。また14種(14部)は台湾だけにある大陸亡佚書で、4種(4部)は日本にもある大陸亡佚書だった。
これにほぼ匹敵するのが台北の故宮博物院図書文献館で、以前は故宮博物院図書館の名称だった。当館は明治初期に来日し、厖大な量の善本古籍を購入した楊守敬の観海堂蔵書をほぼすべて収蔵しており、それゆえ日本関連の大陸亡佚書が多い。その数は16種22部で、この中には2種4部の輯佚書と1種1部の未詳書が含まれる。また3種(4部)は台湾だけにある大陸亡佚書で、13種(18部)は日本にもある大陸亡佚書だった。
さらに台湾最大の総合研究機関である中央研究院では、その歴史語言研究所の傅斯年図書館に1種1部の大陸亡佚書があった。当書は日本にも同一種がある半佚存書である。
以上を単純に集計すると、全台湾で35種41部の大陸亡佚書があることになる。ただし台湾だけにある1種は、台北故宮と台北国家図書館の双方に所蔵されるので、実際の数は34種41部となる。また日本と重複する18種(23部)を除くと、台湾のみにある大陸亡佚書は16種(18部)あることになる。
4-4 欧米所蔵の佚存書数[3]
日本・中国大陸・台湾以外の地域で我々が調査におよんだのは、所蔵中国書を目録等で検証可能な日本・韓国・アメリカ・イギリス・オランダ・フランス・ドイツ・イタリアの、計8国の各所蔵機関にすぎない。しかし日本は例外としても、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツの4国5機関から佚存書が見いだされたのは、いささか驚きを禁じ得ない。以下、これを各所蔵機関ごとに紹介しよう。
(1)米国Harvard大学Harvard-Yenching(哈仏燕京)図書館
当館には4種4部の佚存書があり、うち1種が日本所蔵種と重複していたが、台湾との重複種等はなかった。
(2)米国Princeton大学The Gest Oriental(普林斯敦葛思徳東方)図書館
当館には2種2部の佚存書があり、2種とも日本所蔵種と重複していた。台湾との重複種はなかったが1種は半佚存書である。
(3)英国Oxford-Bodleian図書館・(4)仏国Paris国家図書館・(5)独国Wolfenbuttel市August der Jungere, Herzog公爵(1579-1666)記念図書館
上記3館には同一の佚存書が各々1種1部所蔵されており、日本・台湾・その他欧米所蔵種とも重複していなかった。つまり、この3館のみに計1種3部が現存する。本書は3巻本だが、現存本はともに残欠しており、3部を合わせても巻1前半のみは欠けている。
以上の欧米5機関所蔵佚存書は計7種9部で、日本所蔵種との重複を除いた欧米のみ所蔵の佚存書は4種6部となる。
4-5 佚存書と大陸亡佚書[3]
以上、日本・台湾地区・欧米の3地域ごとに集計結果を報告したが、この全体ではどうだろう。ただし台湾地区も含めて集計するなら、当然それは佚存書ではなく、大陸亡佚書であることを予めことわっておきたい。
この大陸亡佚書は日本に322部、台湾に41部、欧米に9部あり、計372部となった。さらに種数で集計すると、台湾のみ所蔵が16種、日本・台湾に共有が19種、日本のみ所蔵が153種、日本・欧米共有が3種、欧米のみ所蔵が4種で、総計195種が大陸亡佚書だった。また台湾を含めた中国全体で失われた佚存書は、153+3+4で計160種であることも知られた。
さらに集計対象としたのは狭義の佚存書だけでなく、半佚存書・輯佚書・偽作?・未詳書も含まれている。したがって集計の厳密さを考えてそれらを除去するなら、台湾のみ所蔵が16種、日本・台湾に共有が11種、日本のみ所蔵が137種、日本・欧米共有が2種、欧米のみ所蔵が4種で、総計170種が狭義の大陸亡佚書となる。また台湾を含めた中国全体で失われた狭義の佚存書は、137+2+4で計143種だった。
一方、大陸現存の書種であるが、『全国中医図書聯合目録』は現存書のみを著録し、見出し書名は12124件ある[12]。この見出し書名は我々の規定した「種」ほど厳密ではなく、また当目録には多数の日本書と少なからぬ朝鮮書も著録する。以上から推すと、大陸現存書はおよそ10000種程度だろう。前述のように日本では中国医薬書の蔵書数最大の内閣文庫に、956種1632部11591冊が所蔵されるので、全日本で1000種を少し越す程度かと思われる。台湾は故宮と国家図書館の所蔵善本医書数から300種ほど、韓国および欧米は根拠の少ない推測で計200種ほどのように思う。
現存書種を以上のように推計した上で、今回集計した大陸亡佚書を模式図としたのが左の図1である。本図により、我々が調査した範囲と結果が理解されるであろう。
5 佚存古医籍の還流と普及
我々は当研究の一環として、日本にある各種佚存書と版本・写本の佚存書等の複写を完了し、ほぼ全てを還流させることができた。その数は237種におよぶが、現在さらに範囲を広げた還流作業も実施している。それらは『日本現存中國稀覯古醫籍叢書』(影印版、北京・人民衛生出版社、1999)および『海外回帰中医善本古籍叢書』全12冊(活字版、北京・人民衛生出版社、2002〜)として出版中であり、故国への還流・普及と、文化財保存の目的を達成しつつある。
文献と注
[1]真柳誠「中国医籍記録年代総目録(十六世紀以前)」、吉田忠・深瀬泰旦『東と西の医療文化』17-51頁、京都・思文閣出版、2001年。以下のウェブページで公開している。http://www.hum.ibaraki.ac.jp/mayanagi/materials/Pre16ChiMed.htm
[2]真柳誠・友部和弘「中国医籍渡来年代総目録(江戸期)」『日本研究』7号151-183頁、1992年。http://www.hum.ibaraki.ac.jp/mayanagi/materials/edoChimed.htmlにて公開。
[3]真柳誠・王鉄策・鄭金生「中国古医籍佚存状況の集計と考察」、馬継興・真柳誠・鄭金生・王鉄策・肖永芝・梁永宣編『日本現存中国散逸古医籍的伝承史研究利用和発表(3)』28-44頁、北京・中国中医研究院中国医史文献研究所、2000年。当報告は以下のウェブページで公開。http://www.hum.ibaraki.ac.jp/mayanagi/paper01/yicunshu.html
[4]真柳誠「中国所存漢方関係図書著作者・出版の国別分類目録」『漢方の臨床』31巻2号64〜75頁、1984年。
[5]『全国中医図書聯合目録』(薛清録ら、中医古籍出版社、1991)で「医経」部分をみると、見出し書目は298ある。うち日本の刊写本がある中国書は19書目・計88点で、点数は書目数の約4.5倍だった。また日本書の日本刊写本は23書目・計58点あり、点数は書目数の約2.5倍だった。
[6]真柳誠・王鉄策「日本内閣文庫収蔵的中国散佚逸古医籍」『中華医史雑誌』98年2期65-71頁。以下のウェブページで公開している。http://www.hum.ibaraki.ac.jp/mayanagi/paper01/CabinetLaibGB.htm
[7]真柳誠「江戸期渡来の中国医書とその和刻』、山田慶兒・栗山茂久『歴史の中の病と医学』301-340頁、1997年3月、 京都・思文閣出版。ウチダ和漢薬『和漢薬』528号(1997、5)-531号(1997、8)に同題(1)-(4)で一部修正連載が完全で、以下のウェブページで公開。http://www.hum.ibaraki.ac.jp/mayanagi/paper01/uchida.htm
[8]漢語大詞典編輯委員会『漢語大詞典』縮印本527頁、上海・漢語大詞典出版社(1997)。
[9]真柳誠「別本『仲景全書』の書誌と構成書目」『日本医史学雑誌』34巻1号28-30頁、1988年。
[10]馬継興・真柳誠・鄭金生・王鉄策『日本現存中国散逸古医籍(1)』、国際交流基金アジアセンター助成事業「日本現存中国散逸古医籍の伝承史研究利用と公表」研究報告書、全122頁、中国中医研究院中国医史文献研究所・北里研究所東洋医学総合研究所医史学研究部編集・発行、1997年3月31日。
[11]馬継興・真柳誠・鄭金生・王鉄策『日本現存中国散逸古医籍(2)』、国際交流基金アジアセンター助成事業「日本現存中国散逸古医籍の伝承史研究利用と公表」研究報告書、全122頁、中国中医研究院中国医史文献研究所・北里研究所東洋医学総合研究所医史学研究部編集、北京・中国中医研究院中国医史文献研究所発行、1998年3月31日。