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『清医胡兆新問答録』−一八〇四年の中国医への問答報告書について

 郭秀梅1)・真柳誠2)


 宮内庁書陵部に『清医胡兆新問答録』写本一冊(二〇五函一五七号)、および『清国医事問答』写本一冊(二七六函三六五号)が所蔵されている。両写本は編成に前後の相違はあるものの同内容で、清医の胡兆新に対する質問と胡兆新の返答が、それぞれ漢文と和文で子年(一八〇四)五月に神代太十郎・頴川仁十郎の連名で報告されている。

 こうした史実と記録の存在は中国でまったく知られていない。日本でも浅田宗伯『杏林雑話』に「文化元年甲子(一八〇四)、徴蘇州胡振(字兆新)於崎  、使小川  庵、千賀道隆、吉田長禎三医士、就学」、また西琴石『長崎古今学芸書画博覧』に「胡兆新。享和三年(一八〇三)来る。儒医兼通。文墨の士と交わる」と記されているにすぎない。そこで両書(以下『問答』と略)の記述内容について検討してみた。

 『問答』によると胡兆新の名は振、別号を星池といい、当時は五十九歳。住居は蘇州呉県で、幼時より書を読み、二十歳で入学したが病弱のため儒を棄て、医を何鉄山に学んだという。

 『問答』には十六問が収められる。中国の医事制度・伝授方法・考試科目・必読書・民間病名・診療法・煎服法・字義・医事風俗など広範囲にわたり、臨床では内科・小児科・婦人科・外科さらに腹診法までおよぶ。また日本で俗に早打肩・早手・百日咳と呼ぶ症状をそれぞれ説明し、中国に「奇方霊剤」があるかと質問する。しかし高遠な理論に関する問いはない。こうした傾向からすると、質問者らは中国書に記載の医学理論や臨床治療にはさほど関心がなく、どちらかというと中国での医療現況や有効な民間療法に興味を示していたようにみえる。

 これらへの胡兆新の返答は十九条あり、それぞれ実地に則して客観的に記す。しかし早打肩・腹診法や妊婦の腹帯など、どうも理解困難だったらしい質問には十分に答えていない。あるいは「奇方霊剤」の問いに対し、内科方脈は古方・古法のみが重要で、奇方霊秘にとらわれてはならないとたしなめる。

 以上のように『問答』の質問は簡単かつ実際的で、返答も明瞭・簡潔だった。中国医書に記述のない病症・治療法にのみ質問の重点があることからすると、質問者は中国書の記載全般を理解していたに相違ない。また『問答』が記録された同年には幕命により医師三が長崎に派遣され、胡兆新に学んでいる。ならば『問答』は幕命に近い質問に対する報告書であろう。質問者は誰か。多紀元簡(一七五四〜一八一〇)とするならこうした幕命に関与できる可能性は高いと思われるが、もう少し調査が必要だろう。

 一方、江戸時代は長崎経由で多量の中国医書が相当迅速に渡来し、あるものは和刻となり広く利用されていた。しかし中国人はごく一部の例外を除き長崎から外に出ることを許されず、また来日した中国医人も多くはなかった。それゆえ中国における医療の実情を知るため、まれに来日した中国医人に対して質問がなされ、報告書が作成されることもあった。『問答』の存在はこうした史実を物語っている。

1)  長春中医学院医古文教研室/順天堂大学医学部医史学研究室/北里研究所東医学総合研究所医史学研究部)
2)  北里研究所東洋医学総合研究所医史学研究部)

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