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新発見の『啓迪集』古鈔本

真柳誠1)・矢数道明2)

  台北故宮博物院図書館の『国立故宮博物院善本旧籍総目』に、「啓迪集不分巻  日本道三撰  日本天正五年著者手稿本  一冊」と著録される書がある。今回これを調査した結果、『啓迪集』の不明部分、および日本初の女科専門医とされる安芸守定一族の大膳亮家と曲直瀬家の関係等が明らかになった。本書一冊は計三五葉あり、以下の内容からなる。

1.啓迪集題辞(楊守敬「飛青閣蔵書印」の印)、
2.啓迪集自序(「翠竹」「盍静」「道三」の印)、
3.天正七年に曲直瀬道三が安芸道受に与えた文(「翠竹」「盍静」「道三」の印)、
4.延宝五年に延寿院玄淵が安芸道彜に与えた文(「玄淵」「彰然之印」の印)、
5.啓迪集題辞、
6.啓迪集自序、
7.道三が狩野氏による道三肖像につき玄朔へ天正五年に与えた文、
8.八省・二十一寮・十二司・四職・九職の列記、
9.啓迪集題辞の解説、
10啓迪集自序の解説、
11啓迪集題辞、
12啓迪集自序、
13永禄五年に道三が久秀に与えた文。
 3.の全文には
「嘗蒙受領於安芸守而任大膳亮於于/濃州相伝婦人之医也矣其来即以安芸/為名字故今使号安芸好庵道受訖/近年遂在洛当流医学日夜無懈/怠矣所以然今也以啓迪集授与之/畢弥請益之入室所希也拙老并/正純聖意啓発毛頭不可有疎略也為/其自序並此一紙不省憚而染禿/筆者也/洛下亨徳院一谿叟道三/天正十有七己丑年正月二十八日」、
 4.の全文には
「婦女之病治比諸男子難故有専科旧矣前有長于/其科者大膳亮好庵道受師事予元祖一渓翁而〓/知諸科筮仕織田信長公賜采地五百石於近江国/其子号安芸大膳亮者多病而退隠者矣其子道峻継/好庵之号壇名於京師/厳有院殿/大猷殿下召見之年支月支若干米其子道彜/亦称好庵続父祖之業且遊予門学大方脈古人有/言升東嶽而知衆山之〓〓也况介丘乎浮滄海而/知江河之悪沱也况枯沢乎此謂大者已得則小者/在其中也夫学医者不知大科則烏得雑科而弁明/之乎哉子之用心可謂大矣此書一渓翁平生試効/之方法皆載之無隠本朝方書之最着名者也子勉/読之能得其意則大士小児婦人瘡瘍以至口歯眼/目正骨金鏃之類所至莫不適意矣一渓翁手写自/序与之道受且記其事今道彜又求予筆於其後/因書其家世為予門生之故/延宝丁巳仲冬日/太医令延寿院橘玄淵」
と記されている。

 1.の印記より、本書は明治十三〜十七年に来日した楊守敬の旧蔵書と分かる。1.と5.〜10は書体と3.の内容より、安芸道受の所筆と推定される。2.3.は印記と書体より、明らかに初代曲直瀬道三の自筆である。4.も印記と書体より、五代目道三・今大路玄淵の自筆と認められる。11〜13の筆写者は書体と4.の内容等より安芸道彜の所筆と推定される。

 すると初代好庵の道受は、初代道三に『啓迪集』を学んで5.〜10を筆録し、天正十七年(一五八九)の卒業時に1.を清書した上で道三に請い、2.3.を与えられた。のち道受は織田信長に医で仕え、近江に五百石の地を与えられた。道受の子は大膳亮を号したが病弱で、孫の道峻が二代目好庵を号して京で名を馳せ、厳有院と大猷殿下に仕えた。ひ孫の道彜は三代目好庵を称し、五代目道三の今大路玄淵に『啓迪集』を学んで11〜13を筆録し、延宝五年(一六七七)の終了時に1.〜3.・5.〜10を玄淵に示して4.を書き与えられた。以上を1.〜13に綴じ直したのが本書である。

 本書は難解な『啓迪集』の題辞と自序について初代道三が講義した現存唯一の記録で、きわめて貴重といえる。しかも題辞に「道三は丁林曰も修めた」とあるが、これまで人名らしい丁林曰は不明だった。ところが9.により、暦の字を上から下に分解したのが丁林曰であり、「道三は暦学を修めた」の意味と判明した。また、かつて簡単にしか知られていなかった安芸(大膳亮)家の伝、および曲直瀬家の関係も本書で明らかとなった。

 1)茨城大学人文学部)  2)北里研究所東医研・医史学研究部)

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