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真柳誠「三巻本『本草集注』と出土史料」『日本医史学雑誌』39巻1号26-28頁、1993年3月

三巻本『本草集注』と出土史料

The Three Volumes of “Bencao Jizhu” and Excavated Records

真柳 誠

 

 斉梁間の陶弘景(四五六〜五三六)が編纂した『本草集注』は、中国主流本草の根幹を築いた書である。のち七巻本の本書を核に増補した『新修本草』が唐政府により勅撰(六五九)されるまで、本書はかなり流布したらしい。しかし本書自体の現存は少なく、敦煌で総論部分の序録・巻一(龍谷大学所蔵)と、トルファンで各論の動物薬部分・断簡(ベルリン国家図書館所蔵)が発見されているにすぎない。

 この原資料の少なさゆえ、本書の成立と巻数との関係については、かねてより多くの議論がかさねられている。代表的論文には以下のものがある。

@高橋真太郎「神農本草経に就いて」(『日本医史学雑誌』一三二〇号、一九四三)
A岡西為人「『神農本草経に就いて』を読む」(『日本医史学雑誌』一三二三号、一九四四)
B渡辺幸三「陶弘景の本草に対する文献学的考察」(『東方学報』第二〇冊、一九五一)
C廖育群「陶弘景本草著作中諸問題的考察」(『中華医史雑誌』二二巻二号、一九九二)
 さて筆者がまず問題としたいのは七巻本『本草集注』以前に、三巻本『本草集注』があったか否かである。以上の論文で三巻本があったとするのは@BC、ないとするのはAである。いずれも敦煌本の記述を主な論拠するが、その解釈で見解の相違が生じている。

 ところで本書は日本にも伝えられ、七八七年頃までは典薬寮などで使用されていたらしい(『続日本紀』延暦六年五月十五日条)。これらの点から大宝律令(七〇一)で医生・薬園生の教材に指定された「本草」を、『本草集注』と推定することに、かつて異論は出されていない。一方、藤原宮(六九四〜七一〇)の跡からは「典薬」や「大宝三年(七〇三)」、さらに「本草集注」や「本草集注 上巻」と記された、削屑・木簡(『図録日本医事文化史料集成』第一巻収録)が出土している。

 なお当時でも、陶弘景の『本草集注』と同名の別書が存在した記録は知られていない。また陶弘景の記載や文字量から、上下二巻の『本草集注』はありえない。しかも当時の日本で、七巻本をわざわざ三巻本に改める理由も考え難い。とすれば木簡に記された「本草集注 上巻」は、まさしく三巻本『本草集注』が存在したことの確証である。上述の議論には終止符が打たれねばならない。

 そこで次に問題としたいのは、トルファン本『本草集注』が三巻本の系統であるか否かである。というのもトルファン本は陶弘景の注を細字双行で記すので、陶弘景の記述からすれば三巻本の系統と考えるのが自然だからである。しかし渡辺幸三氏は『本草集注』の文字量とトルファン本の寸法から、これは七巻本の系統で巻六の断片と推定されている(「中央亜細亜出土本草集注残簡に対する文献学的研究」、『日本東洋医学会誌』五巻四号、一九五四)。また馬継興氏らは根拠を示さずに、トルファン本を巻四の一部とする(『敦煌古医籍考釈』三八四頁、江西科学技術出版社、一九八八)。

 ところで両氏はトルファン本の寸法を、黒田源次氏の報告(「普魯西学士院所蔵中央亜細亜出土医方書四種」、『支那学』七巻四号、一九二五)に依拠している。しかし、いまベルリン国家図書館所蔵のトルファン本でみると、黒田氏が報告した寸法には明らかな誤認がある。そこで正確な寸法と文字量から計算しなおすと、トルファン本は三巻本の一部である可能性が高いと判断された。

 偶然が重なっているとはいえ、中国をはさんだ東西から三巻本『本草集注』の史料が出土していることは、まことに興味深い現象といえよう。

(北里研究所附属東洋医学総合研究所医史文献研究室)