真柳誠「老官山漢墓出土『六十病方』の知見」『日本医史学雑誌』63巻2号178頁、2017年6月20日(一部修正)
2012年7月,中国四川省成都市老官山の前漢3号墓(前188~前87埋葬)から出土した医書群の一つに,『六十病方』がある.近年ようやく本書の研究報告が中国で相つぎ,ほぼ全文の初歩的釈文も2016年夏に公開された.ついては現在までの知見を整理しておきたい.
本書は1本1行の竹簡で,数片に破断した簡もあって計182片からなる.目録として1本に4病を記入した題名簡15本があり,他の病方簡を治風痹汗出方1~治泄而煩心60までほぼ正当に配列することができた.全体は約9000字で,薬名約200・病症100弱・医方70以上が記述されていた.筆写年代は文中にある廃丘(陝西)と済北・都昌(山東)の地名が使用された時期からして,前221~前194の間と推測されているが,疑念がある.実際は前100ころではなかろうか.同墓出土の耳杯に朱書された墓主の弓氏は,祖先が魯国(山東南部と江蘇北部)からの移民だったらしい.
本書の3方では出典に公孫方・都昌跳青方・息生生方を条末に記し,類例は甘粛省出土の『武威漢代医簡』(西暦50前後)に公孫君方が出典とある.『史記』の伝によると,斉(山東)の倉公は前180から同郷の陽慶に黄帝・扁鵲の医書を学び,その以前は同郷の公孫光にも医方を学んでいた.すると山東の公孫方・都昌跳青方は前200前後に四川まで,公孫君方は西暦50前後に甘粛まで伝播していた.山東では西暦130頃の扁鵲らしき針医画像石が8点ほど出土し,老官山からは『敝昔(扁鵲)診法』も出土している.
題名簡の病症配列1~60に規則性はみえないが,全体では臨床の各科にわたっていた.病症には風痹・風聾・風汗・風熱中・風偏清・風癉・内風などがあり,明らかに風を病因として認知している.気の異常を意識した上気・下気,傷字による傷飲・傷寒・傷肺・傷中の表現,瘕・山・内崩・癃・鮮・間・蹶・温病・消渇・瘀などの病名も注目された.
病方簡は多くが1病症に1医方だが,一部には複数の医方がある.剤型は冶・舂・屑・合(散)35方,汁(湯)19方,完(丸)14方などがあり,当順次と剤型名・処方名がなくて「禹歩」治法がある点は,前221~前207頃筆写の馬王堆出土『五十二病方』と同傾向だった.ただし本書の大多数は内服で,剤型が多様で外用の多い『五十二』と異なる.
処方薬数を「凡幾物」,方寸匕・刀圭で散剤を計量して酒服,「父且(㕮咀)」した薬物を煮・炊・沸・煎して「適寒温」で使用,服薬後の飲食に禁忌を指示するのは『武威』と同様だった.これらの大多数は西暦230頃の張仲景医方にも踏襲されている.少なからぬ条末に「衰益,以知毒為斉」や「已試」などがあるのは,経験の蓄積を意味しよう.
治温病39の服薬後に「厚衣臥汗出」,治風痹初発56に「飲汁臥汗出」とあり,どうも発汗が治癒機転であるのに気づいている.しかし発汗薬を配剤する他の処方に汗の記述はなく,治法としての発汗はまだ強調されていない.瀉下法も開発段階だったらしい.飲消石27で溶液服用後の排泄回数などを記すが,瀉下薬の大戟・芫華を配剤する治傷飲33に泄下などの記述はない.大黄がある治心腹43も同様だった.
風を病因とする医方には発汗作用のある圭・薑・細辛・烏喙などが多く配剤され,『武威』や仲景に先行していた.主に湯剤に酒・粥・飴・棗が配剤されるのは仲景医方に通じ,全体の用薬傾向も類似する.しかし甘草配剤は1方だけで,麻黄・黄耆・人参・牡丹皮はみえない.病症と配剤薬の関係では,西暦5頃の『神農本草経』の薬物主治と合致する例が相当にある.治大伏…42では心腹病の所在を臓腑などでいい,「丹蓡主匈,莎蓡主腹,苦蓡主脅,玄蓡主腸,茈蓡主心,勺薬主少腹」とあるのも本草記述方式の先駆だった.
本書の出現により,『五十二病方』→『史記』倉公伝→『六十病方』→『漢書』芸文志「経方」→『神農本草経』→『武威漢代医簡』→張仲景医方の変遷がかなり明瞭になった.