真柳誠「『太素』の日本伝来と阿倍仲麻呂・吉備真備の関与」『日本医史学雑誌』60巻2号149頁、2014年6月20日
『唐代墓誌彙編続集』(2001)に垂拱007として掲載された楊上(字を善)の墓誌文を、張らは『太素』30巻と楊『明堂』13巻の撰注者「太子文学楊上善」のものと報告した(「楊上善生平考拠新証」『中医文献雑誌』2008年5期)。当報告には疑問の余地がなく、楊上は589-681年の生没、高宗第6子(則天武后第2子)の李賢が沛親王(661-74)と太子(675-80)の期間に侍し、両書を約675年に奏上したことが知られた。『日本国見在書目録』も『太素』を「楊上」撰と著録する。道家の楊上が官銜下に諱と字を「上善」と連記したのは『老子』の「上善如水」によるらしい。かれが沛親王に侍した期間は『千金方』編者の孫思邈が高宗の尚薬局に侍した期間(659-74)とかさなるため、思邈と禁中で面識があり、『太素』と楊『明堂』の撰注を着想した可能性もあろう。
立太子後の李賢は范曄『後漢書』に加注し、676年に「皇太子臣賢奉勅注」の銜名で高宗に奏上した。本書は現在まで後漢の正史とされている。この李注も一因で武后は李賢の太子を680年に廃し、高宗崩御翌年の684年に自殺させた。武后卒後に重祚した睿宗は、実兄の李賢へ711年に章懷太子を追贈して名誉を回復させた。すると、巻頭銜名に「皇太子」や「太子文学」のある『後漢書』李注本と『太素』・楊『明堂』が官府外に存在しうるのは、711年からとなる。だが武后へのタブーからか、719年と737年に改訂の医疾令は医生や針生の学習に『太素』を規定しない。高官の王燾が弘文館蔵書に基づき編纂した『外台秘要方』(752)も『太素』を1回だけ引用し、楊『明堂』を一切引用しない。そうした『太素』と楊『明堂』が日本に伝来しえたのは、特殊な経緯があったからだろう。
日本における『太素』の初出は『続日本紀』757年の孝謙天皇勅で、諸国医生に講義すべき筆頭に本書をかかげる。李賢が名誉回復された711年から孝謙天皇勅の757年の間、遣唐使は718・735・754年に帰朝している。もし『太素』の将来が754年なら、30巻本を757年から諸国で講義できるはずもない。候補は718年か735年となるが、阿倍仲麻呂らと716年に出発して20年ちかく留学し、大量の典籍をたずさえ735年に帰朝した吉備真備と関連するのではなかろうか。というのも、757年の勅は真備が735年に献上した大衍暦を暦算生への講義に規定している。同勅で紀伝生に規定された「三史」の第3書も、真備が初将来した范曄『後漢書』(李注本)だったことを池田が論証した(「范曄『後漢書』の伝来と『日本書紀』」『日本漢文学研究』3号、2008)。
一方、玄宗期に仕官した阿倍仲麻呂は、太子・李瑛(玄宗第2子)の東宮で721-27年に司経局校書を任じていた。司経局は太子専用図書館で、かつて太子・李賢が高宗に奏上した『後漢書』李注本と『太素』・楊『明堂』の稿本ないし副本をまちがいなく収蔵している。校書の職掌は「掌典校四庫書籍」につき、収蔵の鈔写本を校異するのが主だっただろう。李賢は玄宗の叔父であり、玄宗は武則天の娘・太平公主ら一派を713年に誅殺して実権を掌握した。このため仲麻呂は司経局で李賢関連書の鈔写を認可されたか、鈔写本を下賜された可能性すらある。
仲麻呂は733年に帰国を上請したが、不許とされた。当時、玄宗第12子の儀王に侍す「友」を任じていたためかもしれない。よって仲麻呂は『後漢書』『太素』ほかの書を真備に託し、735年の真備帰朝で将来された。こう想定するなら、757年の勅で大衍暦と『後漢書』『太素』が同時に規定されたことを容易に理解できる。なお『延喜式』で「凡読医経者、……明堂二百日」と規定された書が楊『明堂』13巻なのは、13巻×15日+予備5日=200日からうたがいない。757年の勅で針生に規定された『明堂』も楊『明堂』だった可能性がある。以上からすると、仲麻呂の関与で真備が735年に『太素』を将来した蓋然性はたかい、と推断するのがもっとも穏当だろう。