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真柳誠「紹興本『素問』と王継先」『日本医史学雑誌』58巻2号223頁、2012年6月

紹興本『素問』と王継先
“Suwen” Shaoxing Edition and WANG-Jixian

真柳 誠
MAYANAGI Makoto

茨城大学大学院人文科学研究科

 明・顧従徳の仿宋版『素問』は、北宋煕寧2年(1069)新校正本の南宋紹興再版本に基づくことを小曽戸氏が論証し、その南宋咸淳間の修印本が顧本の底本と楠本氏は推論した。私も両論に賛同する。一方、現在の『霊枢』は北宋元祐8年(1093)刊『針経』9巻に基づき、紹興25年(1155)の史崧序を付して24巻に改編され、南宋国子監より刊行された書に由来する。『針経』を『霊枢』に改称したのは、『素問』王冰序が「霊枢九巻」といい、王注が多数引用する「霊枢経」と書名を一致させるためだろう。『針経』9巻を『霊枢』24巻に改編したのは、『素問』24巻と巻数を一致させるために相違ない。さらに清朝蔵書解題書の『天禄琳琅書目後編』宋版子部は、南宋の『素問』『霊枢』合刻本を著録する。ならば『素問』は『霊枢』とともに、紹興25年に合刻された可能性を考えねばならない。

 ところで北宋校正医書局の最初の作業は、林億も参加した『開宝本草』の増注と新薬増添だった。これは嘉祐6年(1061)に「嘉祐補注神農本草」の正式書名を賜っている。さらに当『嘉祐本草』に医官の陳承が『図経本草』を合併し、それを元祐7年(1092)の林希序は「重広補注神農本草并図経」と名づけ、刊行された。こうした当時の例からして、新校正等の注を補足した煕寧新校正本『素問』の書名に「補注」を冠するのは問題なく、南宋の『通志』芸文略も「補注素問二十四巻、林億補注」と著録する。すると紹興25年の国子監本『霊枢』に『素問』も合刻されたなら、合刻の意味で「重広」を冠し、書名を「重広補注黄帝内経素問」と題するのは当然だろう。

 他方、史崧序の末尾には「その(秘書省・国子監の)命で名医を訪ね請い、更に参詳を乞い」将来を誤らないようにした、とある。南宋の秘書省は主に蔵書と校書、国子監は主に出版を担当したが、両機関が史崧に命じて参詳を懇願させた「名医」とは当然、身分が相当に高い人物だろう。当時の最高医ならば、南宋初代皇帝の高宗を籠絡したとして『宋史』で断罪される王継先しかいない。継先は紹興27年に『大観本草』に「釈音」1巻を付加した校定本を高宗に上進し、秘書省で文字を修潤させ、国子監で刊行する聖旨が下りている。秘書省では定員18名の儒官中10名が当作業を約3月間行い、完成した稿本は国子監に進呈された。なお継先の義兄弟で当時の専制実権者だった秦檜は紹興25年に没し、秦檜に左遷されていた楊椿が同年から政権に復帰している。楊椿は紹興29年に国子監最高責任者となり、彫板途中だった紹興校訂『大観本草』の出版を中止させ、宿怨をはらす。そこで継先は『大観本草』稿本から彼らの紹興校定文・紹興新添文を急ぎ抜粋し、高宗の詔を新たに得、継先と盟を結ぶ張去為ら宦官が管理する修内司から当節録本を刊行し、『紹興本草』として日本にのみ伝承された。継先一派は紹興31年に数多の悪事で断罪されたため、南宋の諸史籍は継先らの作業に秘書省・国子監が協力した汚点を採録していない。よって史書に記録されなかったが、継先が絶大な権勢を誇っていた紹興25年、『霊枢』に『素問』を合編させ、国子監から合刻させたことはほぼ疑いなかろう。

 なお北宋版『針経』には釈音がなかったため、史崧と秘書省により『霊枢』各巻末に音釈が加えられた。当『霊枢』と同形式にするため釈音のない煕寧本『素問』を底本とし、王継先門下の医官が各巻末余白に釈音を付加したらしい。彼らは北宋の元豊本と宣和本から注下釈音を援引する一方、新作釈音も付加した。当作業に未熟な医官が行ったため、顧従徳本の巻末釈音には各種多量の問題が存在する。顧本の経注文にある訛字の多くも、あるいは紹興本で生じた可能性があろう。紹興本『素問』にも王継先の序があったに違いないが、のち国子監が重印や修印した際、当然ながら削除された。これゆえ『霊枢』との合刻や書名・釈音付加ほかの諸事情が、今日まで気づかれなかったのである。