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真柳誠「『素問』の早期版本について」『日本医史学雑誌』57巻2号148頁、2011年6月

『素問』の早期版本について
About Some Early Editions of the “Suwen”

真柳 誠
MAYANAGI Makoto

茨城大学大学院人文科学研究科

 『素問』は中国医学古典の最重要典籍とされ、その価値は成立から二千年ほどを経た現在も失われていない。おそらく将来もそうであろう。これゆえ歴代の研究が重ねられてきたが、第1の問題となるのが研究の底本である。

 本書は全元起や王冰、さらに五代~北宋初期の改変を受け、北宋政府が1027年に第1次の校刊を行ったらしいが、それらは均しく現存しない。北宋政府は1035年にも校定を行ったらしいが、刊行記録がない。第3次の校定は新校正とよばれ、1069年に刊行されたと考えられる。その北宋版も現存しないが、新校正本系統の明仿宋版の刻工名を検討した小曽戸氏は、南宋紹興年間の新校正復刻本が明仿宋版の底本と推定し、もはや疑問の余地もない。

 明代仿宋版を網羅・検討したのは、森立之らの『経籍訪古志』と小島尚真の『医籍著録』だった。彼らの結論は①明初の仿宋本を最善とし、1550年の②顧従徳本は明初仿宋本の酷似した重彫とする。また別の③明無名氏坊刻仿宋本と1599年の④『医統正脈』本は顧従徳本の重彫、1584年の⑤周曰校本は無名氏坊刻本に基づくとする。これまで筆者も上記版本を数多く実地調査してきたが、彼らがいう最善の①本だけは見いだしていない。

 ところで②本の顧従徳識語は、父の顧定芳から授けられた宋版『素問』を翻刻するのに寝食を忘れて校讐したと記す。その校讐とは彫板誤字の修正であろう。ならば①本を単純に重彫したのが②とする『訪古志』らの判断は、顧従徳の識語を信用していないことになる。一方、明らかな②本には巻末にA)顧定芳の刊記がない先印本、B)顧定芳刊記を埋木で修刻した後印本、C)顧定芳刊記を切り落とした後印本の3種がある。C)は顧従徳本を宋版と偽るための操作で、各所にある顧従徳識語2葉を欠く書も多くは同目的からと思われる。とするならば、A)本から顧従徳の識語が欠けた書を『訪古志』らは①本と判断した可能性が高い。森立之らが1856年に仿宋『素問』を出版するのに①を底本とせず、②の顧従徳B)本を使用したのも当推測を裏付ける。

 さらに『訪古志』は躋寿館蔵の⑥古鈔本を著録し、明仿宋版には及ばないが、その誤字を訂正できる場合もあり、南宋版に基づくかと推定する。いま当本は宮内庁宮内庁書陵部に室町写本として所藏され、その巻18末には「假承務郎権医学録臣趙叔度校正、軍器庫副使兼翰林医官臣盧徳誠校正」2名の列銜が記される。

 前者に該当する趙叔度は史書等に伝や年代を見いだせない。後者については、北宋の慕容彦逢(1067~1117)が徽宗に侍した時の勅等をまとめた『摛文堂集』に、翰林医官副使の盧徳誠らを医功により「進官一等」とすると記録がある。すると、この盧徳誠の進官は徽宗が在位した1101年以降で、慕容彦逢が没する1117年以前のことだった。1118年の詔による北宋最後の『素問』校刊は、この盧徳誠の進官から少し後のことである。したがって宮内庁の古鈔本に記された盧徳誠は、「軍器庫副使兼翰林医官」の官位からして『摛文堂集』の記録と同一人物であり、⑥古鈔本の底本は北宋1118年刊本の系統だったと推定できよう。ただし古鈔本が北宋版に直接基づいたとは速断できない。北宋版に基づく南宋版は数多いので、1118年版『素問』も南宋で復刻され、それが『訪古志』の推測するように古鈔本の底本だった可能性も高い。

 さらに⑦金版『素問』も巻3~5・11~18・20・亡篇のみの不全本だが、近ごろ影印出版された。これを②本や⑥本と比較すると、やはり⑥⑦本に明らかな誤字が多い。ただし②本の明らかな誤字を⑥⑦本が共通して正しく作る場合もいささかあり、その割合は⑦本が高い。とするならば⑦金版も北宋1118年刊本の系統と推測していいだろう。あるいは『素問』にも、『金匱要略』の大字本・小字本と同様の問題があるかもしれない。