魯迅のエッセイ『皇漢医学』について
真柳 誠
湯本求真『皇漢医学』初版の二年後、一九二九年に中華民国政府は中医廃止案を批准。その一対抗手段として同年末、本書の中国訳が上海で出版されたことはすでに報告した。
この中国版の出版予告広告に魯迅がいち早く反応し、エッセイ「皇漢医学」を同八月五日の『語絲』に発表していたのを最近知った。当エッセイは、かつて日・中の魯迅研究や医史学研究で検討されていないらしい。そこでいくつかの問題と疑問を考察してみた。
まず魯迅は、伝統医の「国医」など守旧派の動きに懐疑の目を向ける。ついで新聞に載った『皇漢医学』の広告から、湯本求真と当書の紹介、および「博引傍証はまことに立派」という部分までを引用する。さらに当書を賛美する中国人の心理を、次のように皮肉る。
「我々『皇漢』人は、実におかしな癖がある。外国人が我々の欠点に言及すると、聞こうとしないが、ほめられればすぐに信じこむ」
この「皇漢」は和製漢語である。幕末から国学と漢学を尊皇的に皇漢学といい、明治十四年ころから和漢学になった。むろん求真は「和漢医学」の意味で「皇漢医学」を用いている。他方、中国では漢武帝を秦始皇と同列にし、「秦皇漢武」と呼ぶ。そのためか、日本人がいう皇漢を中国への尊称と誤解し、皇漢医学を「偉大な中国」医学と受け取っていた。魯迅は皮肉を込めたつもりで「我々『皇漢』人」と記すが、本来の意味を知っていたら、こんな表現はしなかっただろう。
魯迅は次に、岡千仭の中国旅行記『観光紀游』から明治十七年(一八八四、七月)二十三日の記述を引用する。ここれは千仭を訪ねてきた中国人・夢香との筆談部分で、次のように言いあう。
「夢香はさかんに多紀氏の医書をほめる。余曰く、『敝邦は西洋医学が全盛で、もはや多紀氏の書を手にとる者はいない。そこで原版を上海の書肆に売ったのである。役にたたぬ使いふるしの芻狗だ』と。彼曰く、『多紀氏の書は仲景氏の奥義をあきらかにしている。将来、日本人はかならず後悔するでしょう』と」。さらに千仭が反論すると夢香は黙り、それへの千仭の感想までが引用される。
魯迅は次に、いま中国の文人・武人は外国の「役にたたぬ使いふるし」を買うが、「改革への英気」がある千仭の「好意的な苦言」は参考になる、と記す。つまり千仭の言葉を借り、守旧的中国人を批判したのである。
さて当エッセイの全登場人物中、『魯迅全集』の中国版・日本版は、夢香および一緒に千仭を訪ねた竹孫だけに注しない。近年までの魯迅研究も二人に言及しない。一方、『観光紀游』によれば、以下の背景等が分かる。
千仭の日本からの同船者は王仁乾と楊守敬で、彼らは東京に来ていて千仭と懇意だった。上海では同年一月末から来ていた昌平黌同窓の岸田吟香と再会、ついで仁乾・守敬と杭州・蘇州へ旅行する。エッセイの引用は当旅行部分で、慈渓の仁乾宅に滞在時のこと。議論の相手は馮夢香(一梅)で、蘇州の儒者・兪曲園の高足だった。曲園は吟香の上海楽善堂を通して日本の書を買い集め、日本漢詩に評注した『東瀛詩選』を編纂した。当書に千仭の詩も収められていたので、夢香が訪ねてきたのである。
他方、守敬は清国公使の招きで明治十三年(一八八〇)に来日、日本で蒐集の古典籍三万余巻を携え帰国するところ。彼は多紀父子等の著作版木一三種も購入、『聿修堂医学叢書』と名づけ、この年、中国で重印した。
仁乾は清国公使館づき商人で、『聿修堂医学叢書』に感服。浅田宗伯らの診療を受けて日本の腹診を知り、温知社の松井操が漢訳した多紀元堅の腹診書『診病奇{イ+亥}』を明治二十一年(一八八八)に日本で印刷、中国に頒布した。
すると夢香のいう多紀氏の書は、時間的に守敬の重印本でありえない。吟香経由で日本の印本を見たのだろう。多紀氏の原版が上海の書肆に売られた、と千仭がいうのは、吟香と守敬の活動を混同しているに違いない。