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Makoto MAYANAGI “Bencao jizhu: The 3 juan Edition and Excavated Manuscripts”, Conference and Workshop on Dunhuang Medical Manuscripts, Centre for the History and Culture of Medicine, School of Oriental and African Studies, University of London in association with
the Needham Research Institute, Cambridge. September, 9-10th, 2000.


3巻本『本草集注』と出土史料

真柳 誠(茨城大学人文学部/北里研究所)

1 緒言

 中国主流本草の根幹を築いた『本草集注』は、陶弘景(456-536)により500年頃に編纂された[1]。本書がかなり流布したらしいことは、後述する敦煌やトルファンあるいは日本から、本書の実物や記録が発見されていることから容易に理解される。しかし、のち唐政府が本書の全内容を収録したうえで増補した『新修本草』を659年に勅撰したため[2]、その普及にともない本書は無用となり、地上から亡佚していった。

 この原資料の少なさゆえ、本書の巻数と成立経緯の関係については、かねてより多くの議論がかさねられてきたが、いまだ決定的証拠に欠けていた。そこで筆者は日本の出土文献等も史料に用い、これらの問題に決着をつけたいと思う。
 

2 敦煌巻子本の概況

 かつて当巻子本1軸はイギリスのスタインAurel Steinが敦煌で購入し、大英博物館の所蔵と伝えられたこともあった[3]。しかし、それは京都・龍谷大学での所蔵が知られていなかったための誤認にすぎず、現在は同大学の大宮図書館にて西域文化資料の写本番号530として登録されている[4]。

 さて明治41年(1908)、西本願寺門主の大谷光瑞の命で中国西域・中央アジアを探険した橘瑞超は、敦煌の莫高窟で発見された多くの文物を購入し、本書もその一つと考えられてきた[5]。しかし実際は明治45年(1912)に橘を迎えに行った吉川小一郎が王円{竹+録}より購入し、それを吉川より先に帰国した橘が持ち帰ったものだという[6]。

 当本の巻末にはFig.1,2のごとく「開元六年(718)九月十一日 尉遅盧麟/於都写本草一巻 辰時写了記」の識語があり、冒頭の「開元」2文字と第2行目全文の墨跡が薄いため、かつて真に開元六年の筆写かの疑念もあった。しかし詳細な筆跡検討の結果、当部分は本文と完全な同筆で、唐代718年の写本に間違いないことが明らかになっている[7]。あるいは文中で唐・高宗の諱「治」を避けていないのを理由に、唐初以前の筆写と馬は判断する[8]。しかし『唐会要』に載る武徳9年(626)の太宗令と顕慶5年(660)の高宗詔で避諱の例外規定が設けられており、当本の「治」などは避ける必要のなかったことが梁の報告[9]で明らかにされている。当本に「治」など字があるのは、唐の避諱がない底本をそのまま筆写した結果と理解しなければならない。

 この全体は51紙を貼り継ぎ、約28×1997cmの巻子仕立。用紙は唐の官庁文書に使われるのと同じ良質の楮紙(約28×40cm)で、ヘラで押目罫がひかれている。巻頭の3行・32文字を欠くと推定されるが、以下は巻末まで識語を除き720行を存する。

 一方、Fig.2の右側に見えるように、第46-50紙の5葉は紙質が違う。ここは「薬対」部分に該当し、あたかも写し終った後、訂正のため第45紙の大部分を切り取り、当5紙を補入したように見える。当部分も同筆であるが字詰が異なり、紙質も落ちる。写し忘れの単なる補入ではなく、この「薬対」部分の薬物数を増補した新しい『本草集注』の残巻を入手したため、急遽その交換が行われた結果、と櫻井[10]は判断する。

 ところで当本の紙背にはFig.3のように、太一山沙門釈道宣述の『比丘含注戒本』が写されている。唐政府が『本草集注』に増補した『新修本草』を659年に完成させたので、のち無用となった当本の紙背が利用されたのだろう。この『戒本』は『本草集注』巻末の紙背を逆に巻頭として写し始めたが書ききれず、さらに『大智度論』巻50の紙背を継いで完成している。このとき『本草集注』の第1紙、つまり本来の巻子の外側部分は傷みがあったためか、1葉の大部分を切り落して『大智度論』を継いだ。それで当本は巻頭の3行ほどを欠いたらしい。

 かつて羅振玉は当敦煌本の写真を小川琢治より借用し、自家版の『吉石庵叢書』に石印(1916)した。しかし第66行を脱落したり、加筆や改められた文字が多々あるなど、問題は少なくない。この『吉石庵』本は范行準により上海・群聯出版社から再影印(1955)され、これまで研究に使用されてきた。しかし近年ようやく龍谷大学の実物が解説と釈文を加えて影印出版され[6]、長年の渇が癒された。
 

3 巻数の問題

 3-1 問題の所在
 かつて高橋[11]は当敦煌本の記載より、「陶弘景の集注本中、三巻本と七巻本の二種があって、一般には大書した七巻本が通行し、三巻本は殆んど通行しなかった」と論じた。岡西[12]は翌年これに対し、「三巻本はおそらくは隋志に「神農本草経三巻」とあるもので、之は集注ではなく、…陶弘景は最初に神農本草経に名医別録の文を副へて三巻本を作り、後に自注を加へた七巻本を作ったが、注のない三巻本より注のある七巻本の方が便利であるから、一般には多く七巻本が用いられたと見るのが自然である」と反論し、これで高橋は岡西説に納得したらしい。

 ただし、その後も渡辺[13]は「陶弘景は『本草集注』三巻をまず作ったが、各巻が長くて不便なので、七巻に改めた」と結論づけ、最近では廖[14]も同様の見解を出している。しかしながら、岡西説は同氏の『本草概説』[5]でも展開され、その影響は現在まで広い範囲に及んでいる。後述のように、筆者は岡西説を否定しうる出土史料に気づいたが、まずは当問題に関する歴代の記述から順に検証しておくべきだろう。

 3-2 陶弘景自身の記述
 永元二年(500)に記された陶弘景『肘後百一方』の自序には、「凡如上(薬物加工)諸法、皆已具載在余所撰『本草』上巻中」[15]とある。つまり薬物の加工方法はみな自分が著した本草書の「上」巻に記載したというなら、それは上下の2巻本か上中下の3巻本しかない。

 この上巻の内容に該当するのが敦煌本『本草集注』である。その第221-222行に「今撰此三巻、并『効験方』五巻、又『補闕葛氏肘後(肘後百一方)』三巻」[16]というので、本書は『肘後百一方』自序の500年か少し前の成立で、結局それは3巻本だった。

 この3巻本については、第24-29行に「今輒苞綜諸経、研括煩省。以『神農本経』三品(合)三百六十五為主、又進名医副品亦三百六十五、合七百卅種。精麁(粗)皆取、無復遺落、分別科条、区畛物類、兼注{言+名}世用土地、及仙経道術所須、并此序録、合為三巻」[17]とある。また第34-35行にも「右三巻、其中下二巻、薬合七百卅種、各別有目録、並朱墨雑書、並子注、大書分為七巻(以上6文字は小字の割り注)」[18]という。

 すると本書は本来、『神農本経』365種の経文を朱筆、名医副品365種の経文を墨筆で書き、それら730種に対する「注{言+名}世用土地、及仙経道術所須」という陶弘景の注文を「子注(小字の割り注)」[19]で書き分けて中下巻とし、それに当記述部分の序録(凡例)を上巻とした全3巻だった。ただし「子注」の下に小字で「大書分為七巻」と追記されるので、のち中下巻の子注が経文と同じく大書され、全体は7巻本に改装された。当敦煌本に「大書分為七巻」の追記があること、巻末の第720行に「『本草集注』第一序録」[20]とあり、上巻ではなく「第一」と表記するのは、まさに敦煌本が7巻本の巻1であることを示している。

 以上のように陶弘景の記述を普通に読むなら、岡西の「三巻本はおそらくは隋志に「神農本草経三巻」とあるもので、之は集注ではなく」という解釈は到底成り立たない。なぜ彼は当説を主張したのだろう。それは歴代史書の記録に由来している。

 3-3 史書等の記録
 まず中国・日本の史書から、陶弘景(隠居)の名がある本草書の記録を抜粋してみよう。

 656年成立の『隋書』経籍志には、「梁有…陶隠居『本草』十巻、…陶弘景『本草経集注』七巻」[21]がある。

 797年成立の『続日本紀』桓武天皇・延暦6年(787)5月15日条には、「典薬寮言。蘇敬注『新修本草』与陶隠居『集注本草』相{テヘン+僉}、増一百余条。…請行用之、許焉」[22]とある。

 891-97年頃成立の『日本国見在書目録』には、「『神農本草』七(巻)陶隠居撰、…『本草夾注音』一(巻)陶隠居撰、…『注本草表序』一(巻)陶隠居撰」[23]がある。

 940-945年成立の『旧唐書』経籍志には、「『本草集経』七巻 陶弘景撰」[24]がある。

 1060年成立の『新唐書』芸文志には「陶弘景『集注神農本草』七巻」[25]がある。

 陶弘景の本草書に関する記録は以上までで、これら以降の『宋史』芸文志等には記録されないか、転載に類するものだった。

 さて以上のうち『本草集注』と判断できるのは、『隋書』の『本草経集注』七巻、『続日本紀』の『集注本草』、『日本国見在書目録』の『神農本草』七巻、『旧唐書』の『本草集経』七巻、『新唐書』の『集注神農本草』七巻しかない。『続日本紀』以外はみな7巻と記しており、書名も共通するのは「本草」のみで、「神農」「集注」「経」はあったりなかったりしている。岡西が3巻本『本草集注』の存在を認めなかったのも無理はない。

 3-4 藤原宮の木簡
 上掲の『続日本紀』に記されたごとく、日本では787年5月15日に典薬寮が「陶隠居の『集注本草』より百余条が多い蘇敬注の『新修本草』を採用したい」、との許可願いを上奏している。つまり787年頃まで本書が典薬寮で使用されていた。これらの点から、大宝元年(701) 制定の大宝令で医生・薬園生の教材に指定された「本草」を『本草集注』と推定することに、かつて異論は出されていない[26]。彼らは典薬寮で『本草集注』を学んでいたのだった。そして藤原宮(694-710)の遺跡からは「大宝三年(703)」、さらに「典薬」や「(本)草集 本草集注…本本草」(No.72)と記された木簡の削屑、「本草集注上巻」(No.74)と記された木簡などが出土している[27]。

 以上は703年以降に廃絶された溝SD105から、まとまって出土した典薬寮関係のものである。また奈良国立文化財研究所作成の全日本木簡データベース[28]で検索しても、全25755点中で「本草」の文字があるのはNo.72と74を含め4点のみで、みな藤原宮遺跡SD溝の出土だった。Fig.4右にはNo.74の表面[29]、その左には筆者の模写を示した。当木簡は長164×幅21×厚2mmで、上端は原形を保ち、下部は破損するが、現状からすると「本草集注上巻」以下に文字はないらしい。

 なお当時およびそれ以前に、陶弘景の『本草集注』と同名の別書が存在した記録は知られていない。また陶弘景の記載や後述する本書の文字数から、上下二巻の『本草集注』はありえない。しかも先進の中国文化を積極的に導入していた当時の日本で、7巻本をわざわざ3巻本に改める理由も考え難い。とすれば木簡に記された「本草集注上巻」は、まさしく3巻本『本草集注』が存在したことの確証である。岡西説には終止符が打たれねばならない。
 

4 トルファン出土の断簡

 4-1 概況[30]
 百年ほど昔、中央アジアと中国西域は考古探検のメッカだった。英・仏・独・露・米・日・中の各隊は、そこで大量の遺物を発見している。この一つ、ドイツのグリュンヴェーデル(A. Gr{u+‥}nwedel)とル・コック(A. von Le Coq)らが、1902-12年の4回の探検でトルファン(Turfan)にて得た品々は、ベルリンのプロイセン学士院(Preussischer Akademie der Wissenschaften)に収蔵された。

 同院でこの内の漢文医書4種を1933年に撮影した黒田源次は、その1残紙T II Tが朱墨雑著で、「六朝書写の陶隠居『集注神農本草経』の原形を示すもの」と報告している[3]。当報文には原文の誤読を疑われる記述等も多かったが、掲載写真がきわめて不鮮明な白黒のため、これまで記述の確認ができなかった。

 同院は戦後に東西ベルリンに分割され、かつて西ベルリンのプロイセン文化財国立博物館(Staatliche Museen Preussischer Kulturbesitz)に問い合わせたところ、医書類はないという。しかし1990年に東西ドイツが統合されたので再度調査したところ、1992年まで東ベルリンの科学アカデミー(Akademie der Wissenschaften)にあったが、同年にベルリン国立図書館プロイセン文化財東方学部門(Sttatsbibliothek zu Berlin Preussischer Kulturbesitz Orientabteilung)に移管されたことが判明した。さっそく同部門 DirectorのDr. Hartmut-Ortwin Feistel氏と手紙を交わし、黒田報告のT II Tは現在の整理番号がCh1036rであることをご教示いただき、その原寸カラー写真(Fig.5)と研究掲載の許可を受け取ったのは1993年6月である。1998年3月にはベルリンにて親見する機会にも恵まれた。

 さて当写真のように、『神農本草経』と『名医別録』の文を朱と墨で区別、「薬対」文と注文を細字双行としている。現存の『本草集注』は他に龍谷大学の敦煌本1点だけだが、それには朱墨の書き分けがない。のち『新修本草』も朱墨雑書を踏襲したので、敦煌本のPelliot3714はこれを保存するがが、Stein4534や仁和寺本ではこれを失っている。

 では朱墨雑書の原姿を保つトルファン本は、いつ頃の写本だろうか。見ると「主治」「世呼」「世不復識」「世中」などの語がある。治は唐の高宗帝・李治、世は大宗帝・李世民の諱なので、唐政府の『新修本草』は当該字を避諱で「主」「俗呼」「俗不識」「俗中」に改めていた。また書体には六朝風が窺える。この唐諱を避けない点と書風より、黒田は六朝[3]、それを踏襲した馬は唐以前[31]の古写本と断定する。

 一方、渡辺は黒田の判断が早急に過ぎるとし、「唐代またはそれ以前に陶弘景の旧体を保持する六朝抄本を入念に臨写したもの」[32]という。上述の敦煌本『本草集注』も同様だったが、『新修本草』のような公文書でもない限り、筆写年代を避諱から安易に判断することはできない。筆者は渡辺の見解に賛同したうえで、専門家の意見により初唐およそ7世紀頃の筆写と考える[33]。とはいっても、トルファン本が現存する中国本草の最古本であることには間違いない。

 4-2 3巻本系か7巻本系か
 次に、当トルファン本が3巻本の系統であるか否かを問題としたい。というのもトルファン本は、Fig.5のように陶弘景の注を細字双行で記している。ならば「3巻本における小字の割り注を大字に改め、7巻本とした」という敦煌本『本草集注』の記述からして、トルファン本は3巻本の系統と考えるのが自然だろう。しかし渡辺は『本草集注』の字数とトルファン本の寸法から巻子の紙長を計算し、トルファン本は7巻本の系統で、巻6の断片と推定した[31]。また馬は根拠を示さず、トルファン本を7巻本系統で、巻4の一部という[34]。

 ところで両氏はトルファン本の寸法を、黒田が報告[3]した縦27×横28.5cmに依拠している。しかし、いまトルファン本の最長部で実測すると縦27.8×横27cmで、どうも黒田は縦横の寸法を逆に記録したらしい。しかも当断簡の裏に記される失名医方書(Ch1036v)[35]の寸法も同一のはずなのに、彼は縦23.7×横22.7cmという実寸とかけ離れた寸法を報告に記し、明らかに別の断簡のごとく誤認している。他方、黒田報告の写真が不鮮明なうえに白黒を反転していたせいもあり、渡辺は文字記入部分の寸法ではなく、上述の断簡の寸法で巻子の紙長を算出している。よって再度、実測に基づき計算してみた。

 敦煌本の記述によると『本草集注』は3巻本なら上巻が序録で中下巻が本文部分、7巻本なら巻1が序録で巻2-7が本文部分だった。つまり序録部分は共通なので、本文部分の字数が中下巻に納まりきれるかが、3巻本か7巻本かの分岐点になる。

 さてトルファン本断簡は、横26.4cmと文字が記入された天地の界線間隔つまり縦22.4cmに、大字で1行に20字、小字で1行に約28字が記されている。そして、ここに大字なら12行で計240字、小字なら24行で計672字が記入できる。一方、森立之らの復元した『本草集注』によると、本文部分に経文が大字で約33000字、注文の小字が約37000字ある、と渡辺は算出している[13]。以上から計算すると、トルファン断簡の本文部分は本来、大字部分が36.3m、小字部分が14.5mで、計51mほどだったことになる。

 ところで51mの紙にトルファン本の書式で大字だけを記入するなら、2320行ほどが収められる。これを中下巻に均等に分けると、各巻は1160行・25.5mとなる。というのも3巻本ならば上巻に該当するはずの敦煌本『本草集注』は大部分が大字で記されており、計720行・約20mだった。さらに現存する巻子本医書で最長らしいのは半井本『医心方』巻25で、これも大部分が大字で記され、計1417行・24.1mである。とするなら1巻25.5mという長さも、そこに大字で1160行を書き込むのも、それほど非現実的とはいえない。

 トルファン本は以上の諸点と経文直下から小字で注文が記される点より、3巻本の断簡と判断できよう。もちろん3巻本はこの中下巻の長さゆえ、小字の注を大字に改めて7巻本に改装されたのである。なおトルファン本には虫獣に属する4種が記される。他方、敦煌本の第31-34行には3巻本の内訳が記され[36]、虫獣は下巻に配されている。したがってトルファン本は3巻本・巻下の断簡に間違いない。

 偶然が重なっているとはいえ、中国をはさむ東の日本と西のトルファンで3巻本『本草集注』の証拠が出土していたのは、実に興味深い現象といわねばならない。これらのことは、また中・日の医学交流史にも一条の光を投げかけているのである。

5 結論

 かつて議論が分かれていた『本草集注』出土本の筆写年代、その巻数と成立経緯の関係について、筆者は中国出土文献以外に日本の出土文献等も史料とし、以下の結論を得た。

(1)龍谷大学に所蔵される敦煌本は開元六年(718)の筆写である。

(2)敦煌本と藤原京出土木簡の記述より、3巻本『本草集注』が存在したこと、7巻本はそれより作成されたことが確証できる。通説は改められねばならない。

(3)Sttatsbibliothek zu Berlin Preussischer Kulturbesitz Orientabteilungに所蔵されるトルファン本は、およそ初唐7世紀の筆写で、3巻本系『本草集注』下巻の断簡である。

(4)中国をはさむ東西地域に3巻本の史料があったことは、中・日の医学交流史にも新たな視座を提起している。
 

*本稿は日本医史学会第94回学術大会(1993年5月15日、金沢)で発表した抄録(『日本医史学雑誌』39巻1号26-28頁、1993)を増訂したものである。
 

引用文献と注

[1]尚志鈞・林乾良・鄭金生『歴代中薬文献精華』162頁、北京・科学技術文献出版社(1989)。

[2]上掲文献[1]、178頁。

[3]黒田源次「普魯西学士院所蔵 中央亜細亜出土医方書四種」『支那学』7巻4号633-665頁(1935)。

[4]真柳誠「敦煌本『本草集注』」『漢方の臨床』41巻12号1522-1524頁(1994)。本報は以下のURLで閲覧できる。
http://www.hum.ibaraki.ac.jp/hum/mayanagi/paper04/shiryoukan/me079.html

[5]岡西為人『本草概説』53頁、大阪・創元社(1977)。

[6]赤堀昭「敦煌本『本草集注』解説」、上山大峻『龍谷大学善本叢書16 敦煌写本本草集注序録・比丘含注戒本』220-231頁、京都・法蔵館(1997)。

[7]藤枝晃「写本解題」、上掲[6]所引文献207-219頁。

[8]馬継興ら『敦煌古医籍考釈』337頁、南昌・江西科学技術出版社(1988)。

[9]梁茂新「『本草経集注』写本年代考異」『中華医史雑誌』13巻3期181-182頁(1983)。

[10]櫻井謙介・小林清市「『本草集注』関連資料攷考異」、上掲[6]所引文献232-239頁。

[11]高橋真太郎「神農本草経に就いて」『日本医史学雑誌』1320号325-342頁(1943)。

[12]岡西為人「『神農本草経に就いて』を読む」『日本医史学雑誌』1323号1-13頁(1944)。

[13]渡辺幸三「陶弘景の本草に対する文献学的考察」『東方学報』第20冊195-222頁(1951)。

[14]廖育群「陶弘景本草著作中諸問題的考察」『中華医史雑誌』22巻2期74-78頁(1992)。

[15]葛洪『肘後備急方』7頁、北京・人民衛生出版社(1982)。

[16]上掲[6]所引文献、255頁。

[17]上掲[6]所引文献、242頁。

[18]上掲[6]所引文献、243頁。

[19]諸橋轍次『大漢和辞典』3066頁、東京・大修館書店(1986)。

[20]上掲[6]所引文献、289頁。

[21]魏徴ら『隋書』1040-41頁、北京・中華書局(1973)。

[22]藤原継縄ら『続日本紀』524頁、東京・吉川弘文館(1935)。

[23]藤原佐世『日本国見在書目録』80-81頁、東京・名著刊行会(1996)。

[24]劉{日+句}ら『旧唐書』2048頁、北京・中華書局(1975)。

[25]欧陽脩ら『新唐書』1567頁、北京・中華書局(1975)。

[26]新村拓『古代医療官人制の研究』74-81頁、東京・法政大学出版局(1983)。

[27]奈良県教育委員会『藤原宮(奈良県史跡名勝天然物調査報告第25冊)』6頁、奈良・奈良県教育委員会(1969)。

[28]現在、以下のURLで検索できる。http://www.nabunken.go.jp/open/mokkan/mokkan2.html

[29]日本医史学会『図録日本医事文化史料集成』第1巻28頁、東京・三一書房(1977)。

[30]真柳誠「現存最古の中国本草−トルファン出土の『本草集注』」『漢方の臨床』40巻8号1082-84頁(1993)。本報は以下のURLで閲覧できる。
http://www.hum.ibaraki.ac.jp/hum/mayanagi/paper04/shiryoukan/me064.html

[31]上掲文献[8]、384頁。

[32]渡辺幸三「中央亜細亜出土本草集注残簡に対する文献学的研究」『日本東洋医学会誌』5巻4号35-43頁(1954)。

[33]奈良大学の東野治之教授に鑑定いただいたところ、六朝風の古い書風は残っているが、早くて隋末、やはり初唐ぐらいが穏当だろう、というご意見の私信をいただいた。

[34]上掲文献[8]、384頁。

[35]小曽戸洋・真柳誠「トルファン出土の医方書−張文仲の遺方」『漢方の臨床』40巻 9号1218-20頁(1993)。

[36]上掲[6]所引文献、242-243頁。