眞柳 誠(茨城大學、北里研究所東洋醫學總合研究所)
MAYANAGI Makoto (Ibaraki University,
Oriental Medicine Research Centerof the Kitasato Institute)
1 緒言
現在使用されている『黄帝内經靈樞』(以下、『靈樞』と略す)の古名は『鍼經』と考えられ[1][2]、『鍼經』は中國1世紀頃にそれ以前の資料を基に編纂した書とされる[3]。しかし『靈樞』の名は『黄帝内經素問』(以下、『素問』と略す)の王冰注(762年)に引用されるのが最初で、それ以前の記録に見えない[4]。さらに歴代記録では220年頃に「九卷」[5]、280年頃に「鍼經九卷」[6]、656年に「黄帝鍼經九卷」[7]、875-91年頃に「黄帝鍼經九」[8]、945年と1060年に「黄帝鍼經十卷、黄帝九靈經十二卷靈寶注」[9][10]、1068年に「九墟」[11]という書名があり、それらと王冰注の引く『靈樞』は同系書と1068年の新校正注は判斷している[12]。
ただし王應麟(1223〜96)が「鍼經の第一篇は九鍼十二原、靈樞の第一篇は精氣」[13]と記録するので、13世紀後半の兩書は別種だったらしい。しかも現行の『靈樞』は「九鍼十二原」が第一篇で、王應麟の記す『靈樞』ではなく、『鍼經』に合致する。現『靈樞』24卷は南宋の史{山+松}が1155年に序を記して刊行[14]し、後世に流布した。しかし史{山+松}は「家藏の舊本『靈樞』9卷を24卷に改めて出版する」と記すのみで、家藏の舊本が王冰の引用する『靈樞』と如何なる關連にあるか等、その由來を推測させる記載は一切ない。
一方、11世紀には以下の『鍼經』に關する記録がある。北宋政府が高麗使節の李資義等に獻上を求めた書籍の目録が『高麗史』卷10の1091年6月18日に記され[15]、その中に「黄帝鍼經九卷、九墟經九卷」がある。この要請により、高麗使節の黄宗愨が1092年11月に「黄帝鍼經九卷」を北宋政府に獻じ[16][17]、本書9卷は1093年1月23日に宋の國士監より刊行された[18][19][20]。以上の記録より、現行の『靈樞』は高麗本『鍼經』に由來するだろうと推測する説は多い。しかし『鍼經』の高麗政府本も北宋刊本も現存しない。それゆえ『鍼經』は北宋で實際に刊行されたのか、さらに高麗本ないし北宋刊本『鍼經』と、現行本『靈樞』の關係も確證されず、諸説が入り亂れた状態にある[21][22][23][24][25]。
ところで1093年に『鍼經』が國士監で刊行されたならば、それは北宋の首都すなわち現在の開封でのことである。開封は、のち金朝さらに蒙古朝に占領された。これゆえ宋朝は南に遷都して南宋となり、この南宋時代の1155年に史{山+松}が『靈樞』を刊行している。すると南宋と隔絶されていた金および蒙古の時代ならば、北宋に刊行されたという『鍼經』が使用されていたかも知れない。そこで金・蒙古時代の文獻を調査した結果、『鍼經』の引用文が多數發見され、『鍼經』と『靈樞』に關する疑問を明らかにする新知見を得た。
2 調査文獻
本調査檢討には『鍼經』の引用文および對應文がある以下の善本を使用した。
○『靈樞』:明・無名氏倣宋版の影印本[14]。
○成無己『傷寒明理論』:元版のマイクロフィルム[26]。
○成無己『注解傷寒論』:江戸醫學館倣元版(1835)の影印本 [27]。
○劉河間『宣明論方』:江戸版(1740)の影印本 [28]。
○李東垣『内外傷辨惑論』:熊氏梅隱堂本(1508)『東垣十書』所收本のマイクロフィルム[29]。
○李東垣『脾胃論』:同上。
○李東垣『蘭室秘藏』:同上。
○王好古『此事難知』:同上。
○李東垣『東垣試效方』:明版の影印本[30]。
3 調査結果と考察
3-1 『傷寒明理論』と『注解傷寒論』の引用文
金代・成無己の『傷寒明理論』(明理)は1142年、『注解傷寒論』(注解)は1144年の成立で[31]、『鍼經』の引用は上圖のように前者に8箇所、後者に30箇所あった。それら『鍼經』引用文と現『靈樞』との對應關係を表1に示す。
なお本表では引用文の部位を卷次と葉次と表 (a)・裏(b)と行數で表示し、1-1a-1とあれば引用文の冒頭が第1卷・第1葉・表・第1行目にあることを示す。また『鍼經』引用文と現『靈樞』文の對應關係は*の數で區別し、完全な同文は***、ほぼ同文は**、同内容の文は*で示した。しかし『明理』の2-4b-4と4-18a-4、『注解』の1-10a-10と3-15a-9の『鍼經』文は、現『靈樞』に對應文を發見できなかった。
表1 『傷寒明理論』および『注解傷寒論』が引用する
『鍼經』と現『靈樞』との對應關係および各々の所在部位
表1のように『傷寒明理論』『注解傷寒論』における『鍼經』の引用文は、現『靈樞』81篇中の18篇の文章と對應している。各々は『靈樞』と完全な同文が13、文字のやや異なる文が18、語句は異なるが同意の文が3、對應を發見できない文が4だった。一方、『素問』の注が引く『鍼經』や『靈樞』と對應する文章は一切なかった。すなわち『傷寒明理論』『注解傷寒論』は『素問』からの間接引用ではなく、別個の『鍼經』を引用していること。その『鍼經』は現『靈樞』と相當に近かったことが分かる。
3-2 金・蒙古代醫書の引用文
『鍼經』の引用文がある金・蒙古代醫書についても現『靈樞』との對應關係を調査檢討した。各書の成立年は劉河間の『宣明論』(宣明)が1173年[32]、李東垣の『内外傷辨惑論』(辨惑)が1247年[33]、『脾胃論』(脾胃)が1249年[33]、『蘭室秘藏』(蘭室)が1251年[33]、王好古の『此事難知』(此事)が1248年[34]である。これら5書に計16箇所の『鍼經』引用文が發見された。それら引用文と現『靈樞』との對應關係を表2に示す。なお『宣明』の2-8a-4、『辨惑』の1-2a-4、『此事』の3-6a-2、『脾胃』の1-8a-10に引用される『鍼經』文は、現『靈樞』に對應文を發見できなかった。
表2 『宣明論方』『内外傷辨惑論』『脾胃論』『蘭室秘藏』
が引用する『鍼經』と現『靈樞』との對應關係および各々の所在部位
表2の12引用文は現『靈樞』と完全な同文が4、文字のやや異なる文が7、語句は異なるが同意文が1だった。しかし、いずれの文意も『靈樞』と大差はない。一方、『素問』注に引かれる『鍼經』『靈樞』と合致、ないし同意の文はなかった。すなわち當結果からも、金・蒙古代に使用された『鍼經』は現『靈樞』と相當に近かったことが理解される。
3-3 蒙古代『東垣試效方』の引用文
李東垣の晩年の弟子・羅天益は蒙古の軍醫に徴用され、のち元の太醫となってから師・東垣の書を刊行し、上述した東垣の各書が現代に傳えられた。さらに彼は師の遺論を1266年に編纂し、『東垣試效方』を出版している[33]。本書には『(黄帝)鍼經』が引用されるばかりでなく、左圖のように幾卷の幾篇から引用したかが明記される。そこで、それら引用文に記される『鍼經』の卷次・篇名・篇次と、現『靈樞』との對應状態を卷順に表3に整理した。
なお當表では、引用文の冒頭が影印本『東垣試效方』の133頁第8 行にあれば133-8と示し、引用文で省略された文字を( ) 内に補足した。
表3 『東垣試效方』に記載する『鍼經』の卷次・篇の名称・
篇次と現『靈樞』の卷次・篇の名称・篇次との對應關係
表3より『東垣試效方』に引用されたのは9卷本の『黄帝鍼經』で、各卷ごとに1から9の順で篇次を記し、計9×9の81篇で構成されていたことが容易に理解される。一方、南宋の史{山+松}刊本に基づく現『靈樞』は24卷本で、篇の順次を1から81まで通してつけている。しかし兩書の篇順、および篇名は完全に一致している。また文章もほとんどが合致していた。
すなわち『東垣試效方』に引用された『鍼經』は9卷本である点を除き、現『靈樞』と大差ない書だったことが明らかである。
4 全體考察
以上のように金・蒙古間の醫書に『鍼經』の引用文が多數發見された。それらは『素問』の注にある『鍼經』や『靈樞』の引用文とほとんど對應しないため、別個の『鍼經』から引用されたことが推定される。一方、金・蒙古間の醫書にある『鍼經』の引用文は、現『靈樞』と高い確率で合致する。すなわち金・蒙古間に流布していた『鍼經』は、現『靈樞』と相當に近かったことも分かった。さらに『東垣試效方』が引用する『鍼經』は9卷本である点を除き、24卷本の現『靈樞』と篇名・篇順まで一致している。これらの事實は何を物語っているのだろうか。
そこで以上の調査考察より知られた『鍼經』および『靈樞』に關する宋以降の歴史を、表4に整理してみた。
表4 『鍼經』および『靈樞』の關連年表
當表のように、南の南宋で現『靈樞』24卷が刊行された後も、北の金・蒙古では『鍼經』(9卷)が使用されていた。しかも金代から使用が突然始まり、のち蒙古時代まで流布している。また金代で最初に『鍼經』を利用した成無己は、他にも少なからぬ醫藥文獻を引用するが、すべて北宋時代に刊行された書ばかりを使用している[35]。この時期は高麗本に基づく『鍼經』を北宋政府が刊行したとされる1093年の約50年後、かつ史{山+松}が『靈樞』を初刊する1155年より前である。ならば高麗本の『鍼經』9卷が北宋で實際に刊行されたこと、それを成無己が利用していたことはほぼ間違いない。
他方、李東垣と門下の王好古・羅天益が『鍼經』を利用した時期は、1093年から既に150年以上を經過している。しかし李東垣の患者には元好問がおり、彼らの友好は厚かった。元好問は書物担當の官僚をしていたことがあり、金代一の藏書家だった[36]。とするならば、李東垣一門が北宋刊本系の『鍼經』を使用していて不思議はない。
さらに成無己や東垣一門の使用した『鍼經』が、現行『靈樞』と篇名・篇順まで一致していたことは、以下のことを推定させよう。つまり史{山+松}は北宋刊の『鍼經』9卷を底本に『靈樞』を刊行したこと。「鍼經」の書名を「靈樞」に改めたのは、王冰の引用する『靈樞』に倣ったこと。24卷に改めたのは北宋政府刊行の『素問』24巻に倣ったことである。
こう推定するなら、前述した『玉海』に「鍼經の第一篇は九鍼十二原、靈樞の第一篇は精氣」[13]と王應麟(1223〜96)が記録し、13世紀後半の兩書は別種だったらしい不可思議さも解決される。すなわち王應麟がいう「鍼經」とは高麗本に基づく北宋刊本系統、「靈樞」とは王冰が引用した系統の書だった。それゆえ北宋版『鍼經』に基づく現『靈樞』は「九鍼十二原」が第一篇で、王應麟の記す「靈樞」ではなく、「鍼經」に合致するのである。
5 結論
1092年に高麗政府が北宋政府に獻上した『鍼經』9卷は、1093年に北宋で實際に刊行され、金・蒙古間まで利用されていた。さらに史{山+松}は北宋版『鍼經』9卷を『靈樞』24卷に改め、1155年に刊行した。これゆえ蒙古が中國を統一した元代になると、史{山+松}本の『靈樞』が流布する一方で、北宋版『鍼經』の系統は散佚したらしい。以上を要するに、現行『靈樞』はすべて史{山+松}本に由來しており、その源流は高麗政府本に遡ることが確證された。
謝辭:本稿の基礎資料作成にあたり、北里研究所東洋醫學總合研究所醫史學研究部の友部和弘氏に多くのご助力をいただいた。ここに記し、友部氏に深甚の謝意を申し上げる。
文獻
[1]多紀元胤『醫籍考』143頁、東京・國本出版社、1933
[2]岡西為人『中國醫書本草考』10頁、大阪・南大阪印刷センター、1974
[3]龍伯堅(丸山敏秋訳)『黄帝内經概論』31頁、市川・東洋學術出版社、1985
[4]上掲文獻[1]、141頁
[5]張仲景「傷寒雜病論序」、『宋板傷寒論』28頁、東京・燎原書店、1988
[6]皇甫謐「黄帝三部鍼灸甲乙經序」、『鍼灸甲乙經』2頁、北京・人民衛生出版社、1982
[7]魏徴等『隋書』1042頁、北京・中華書局、1973
[8]藤原佐世『日本國見在書目録』81頁、東京・名著刊行會、1996
[9]劉{日+句}等『舊唐書』2047頁、北京・中華書局、1975
[10]歐陽脩等『新唐書』1565頁、北京・中華書局、1975
[11]林億等「素問新校正注」、『黄帝内經素問』22頁、臺北・國立中國醫藥研究所、1979
[12]林億等「素問王冰序新校正注」、上掲文獻[11]、5頁
[13]王應麟等『玉海』1239頁、臺北・臺灣華文書局、1954
[14]史{山+松}「黄帝内經靈樞序」『素問・靈樞』211頁、東京・日本經絡學會、1992
[15]鄭麟趾等『高麗史』150頁、東京・國書刊行會、1908
[16]李{壽+火}『續資治通鑑長編』4824頁、臺北・世界書局、1983
[17]脱脱等『宋史』14048頁、北京・中華書局、1977
[18]上掲文獻[17]、335頁
[19]江少虞『宋朝事實類苑』397頁、上海・上海古籍出版社、1981
[20]上掲文獻[13]、1246頁
[21]余嘉錫『四庫提要辨證』625-632頁、香港・中華書局分局、1974
[22]松木きか「北宋の醫書校訂について」『日本中國學會報』48集164-181頁、1996
[23]銭超塵「≪靈樞≫名義解詁」『黄帝内經研究大成』9-14頁、北京・北京出版社、1997
[24]成建軍「宋金以來≪靈樞≫的版本流傳」『山東中醫藥大學學報』23卷4期210-216頁、1999
[25]銭超塵・馬志才「≪靈樞≫命名簡考」『中醫文獻雜誌』2000年増刊26-29頁、2000
[26]臺灣國家圖書館所藏本による。
[27]小曾戸洋・眞柳誠『和刻漢籍醫書集成』第16輯所收、東京・エンンタプライズ、1992
[28]小曾戸洋・眞柳誠『和刻漢籍醫書集成』第2輯所收、東京、エンンタプライズ、1988
[29]國立公文書館内閣文庫所藏本による。
[30]李東垣『東垣試效方』、上海・上海科學技術出版社、1984
[31]眞柳誠「傷寒明理論・傷寒名理藥方論解題」『和刻漢籍醫書集成』第1輯2頁、東京・エンタプライズ、1988
[32]眞柳誠「素問玄機原病式・黄帝素問宣明論解題」『和刻漢籍醫書集成』第2輯8頁、東京・エンンタプライズ、1988
[33]眞柳誠「内外傷辨惑論・脾胃論・蘭室秘藏解題」『和刻漢籍醫書集成』第6輯22-36頁、東京・エンタプライズ、1989
[34]眞柳誠「湯液本草・此事難知解題」『和刻漢籍醫書集成』第6輯37-44頁、東京・エンタプライズ、1989
[35]眞柳誠・小曾戸洋「金代の醫藥書(その1)」『現代東洋醫學』10卷3号101-107頁、1989
[36]李萬健『中國著名藏書家傳略』23頁、北京・書目文獻出版社、1986