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真柳誠「日本と中国・朝鮮間の医学と文献の交流−13世紀以降−」 (第6回国際東洋医学会、1990年11月19-21日、東京)、
“Progress of Oriental Medicine” (第6回国際東洋医学学会事務局刊、東京、1992)

日本と中国・朝 鮮間の医学と文献の交流−13世紀以降−

真柳 誠
*北里研究所附属東洋医学総合研究所医史学研究部


  13世紀以降も日本は中国・朝鮮から恩恵を受けてきた。伝統医学も例外ではない。これが日本化するのは18世紀以降。日本の研究書が国外に紹介されるのは 19世紀末以降。内外の研究者がじかに交流するのは1930 年代以降。それが本格化するのはここ10 年である。つまり19世紀末以前は国外からほぼ一方的に導入し、消化するのみであった。しかしこの蓄積が現在の国際交流に与えた意義は大きい。以下に各時 代の概略を報告しよう。


1.  鎌倉時代 (1192-1333)
  当時、中国では印刷が普及し、書物の入手も容易となった。そして主に留学僧が新しい医学書を日本にもたらした。1240年に帰国した弁円が持ち帰った書籍 のリストには『素問』など32の医書が記されている。その一つ『魏氏家蔵方』は1227年の初版なので、わずか13年で日本に伝来したことになる。この初 版自体まだ残存するが、中国では消滅した。

  このころ医療に従事した僧は多い。梶原性全はその一人である。彼は『頓医抄』(1304) ですでに失われた中国の死刑囚解剖書などを転載、また『万安方』(1315)でも『紹興本草』など新渡来の医薬書を数多く引用する。他方、宮廷医も新しい 医書を研究していた。惟宗具俊の『本草色葉抄』(1284)は、新渡来の医薬書を20種ほど引用する。その中には『傷寒論』もあり、日本に伝来した記録の 最初として注目される。


2.  南北朝・室町時代 (1334-1573)
  1368年、僧の有林が『福田方』を著した。本書は約150の中国医書を引用するが、金元時代の書はほとんどない。1368年に明政府になると通商も盛ん となり、留学する医師が増加した。例えば竹田昌慶(1369-1378)、田代三喜(1487-1498)、坂浄雲(1492-1500頃)、和気明親 (1504-1520頃)、吉田宗桂(1539-1547)らである。なお1473年、畠山氏の使節で朝鮮に渡った僧の良心は、中国と日本の医書を献上。 朝鮮政府は両書を翌年に出版し、その朝鮮版が日本で1645年に復刻されている。

  15世紀後半より、熊宗立の医書が中国から伝米した。30種を越える彼の出版物が日本に与えた影響は大きい。16世紀初には日本でも医書の印刷が始まる。 日本初と第2の印刷医書は熊宗立の書の復刻。彼の書の抜粋は江戸時代に37回も刊行された。ほぼ同時期、中国13世紀の『察病指南』が復刻された。本書は 鎌倉時代より利用され、江戸前期にかけて流行している。しかし中国では失われ、1924年に日本版から復刻された。


3. 安土・桃山時代〜江戸前期(1574〜1709)
  1592年と1597年、豊臣秀古は朝鮮を侵略したが失敗、彼の政権は崩壊する。このとき活字技術が伝米し、1640年頃まで印刷の主流を占めた。現存す るだけで当時の活字版医書は100以上ある。捕虜には医師もおり、金徳邦は永田徳本に針灸の秘術を授けたという。加藤清正らは朝鮮の貴重な医書も戦利品と し、その一つ『医方類聚』は朝鮮で失われてしまった。それで喜多村直寛は1861年に本書を復刻し、1876年に朝鮮政府へ贈呈している。

  当時の代表医師は曲直瀬道三である。彼は主に明代の医者を体系的に整理。『啓迪集』(1574)ほか分野ごとの教科書を著し、多数の弟子を養成した。彼の 一門は17世紀になると、『傷寒論』『金匱要略』など古典の研究も始めている。なお1630年代の鎖国以降も、中国刊行医書の多くがすみやかに輸入され た。これは長崎の入荷記録や幕府図書館への納入記録でわかる。また復刻された書も多い。例えば1596年に初版が出た『本草綱目』は1604年以前に渡来 し、江戸時代に17回も復刻された。

  このころ帰化した中国人では、竹節人参を発見した何鉄吉、『万病回春』の著者・龔廷賢の弟子である戴曼公、『内経』研究家・馬玄台の子孫である馬栄宇らが 知られている。戴曼公に師事した北山友松子は、馬栄宇の子である。


4. 江戸中・後期(1710〜1867)
  朝鮮は1607年から1811年まで12回、新将軍の即位を祝して大使節団を日本に派遣した。これに随行の医官と日本の医師が交流した記鉢は多い。 1724年には日本初の政府刊行医書として、吉宗将軍が朝鮮の『東医宝鑑』を復刻させた。彼は人参の国産化も奨励し、朝鮮から導入した種子で1733年に 栽培に成功、1780年代には輸出するまでに至っている。

  この頃より中国医学の日本化が進んだ。18世紀の古方派はその一つである。彼らは実証主義から伝統理論を批判し簡略化、一方では西洋医学との折衷を生ん だ。1790年以降は、政府の直属となった多紀一門が伝統医学の主流を占める。彼らは儒学の新しい研究方法を導入し、伝統医学の全分野にわたり厳密な研究 を進めた。また日本に伝存する中国・朝鮮の古医書やその善本を発見、あるいは復元し、復刻した。その業続は後世に誇りうる。


5. 明治・大正時代(1868-1925)

  明治政府は西洋医学を採用し、伝統医学を表舞台から葬り去った。歴史上、最悪の時期である。当然、伝統医学文献は無用の長物となったが、来日中国人は高く 評価した。当時の中国で、日本の版木を購入し印刷した医書は23種。日本で入手した中国医書を復刻したのが10種。日本の文献から復元した中国医書は4 種。日本の医書は46種も出版された。それらの半数は多紀一門の刊行物や所蔵書を利用しており、現在も再版され続けている。

  当時来日し、文献を蒐集した中国の学者は、来た年順に楊守敬(1890)、李盛鐸(1898)、羅振王(1901)らがいる。彼らのおかげで消滅を免れた 貴重文献は多い。このうち楊守敬のコレクションが最大で、現在は台北の故宮博物院に保存される。李盛鐸コレクションはこれに次ぎ、いま北京大学図書館にあ る。羅振玉が入手した多くは森立之の蔵書で、すでに一部が復刻されている。一方、1909年に来日した丁福保は『医界の鉄椎』の翻訳(1911)など、日 本の新しい研究を紹介し、それらを通じ中国と西洋の医学の結合を提唱した。

  このように日本の伝統医学は皮肉にも、暗黒の時代に至りようやく、近隣国のかつての恩忠に報い始めたのだった。