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真柳誠「『傷寒尚論篇』『医門法律』解題」『和刻漢籍医書集成』第15輯所収、エンタプライズ、1991年12月
『傷寒尚論篇』『医門法律』解題
真柳 誠
一、喩嘉言について
両書の著者・喩嘉言の伝は記録が多い。『清史稿』[1]や『新建県志』『常熱県志』『靖安県志』[2]などに見えるほか、自序からは生没年等の見当がつく。また詳細な検討報告[3][4]もある。これらをまとめると、およそ次のようである。
〔出身と生没〕
喩嘉言は江西南昌府新県の西山朱坊村、今の江西省南昌市新建県の出身。嘉言はその字で、名を昌という。出身地の新県は古称が西昌であるのに因み、晩年は西昌老人と号した。生年は『医門法律』の自序(一六五八)に「時年七十有四」とあるので、明の万暦十三年(一五八五)である。没年は確実な記録がない。享年を諸地方志は八○ないし八○余歳とする一方、九七歳とする説[5][6][7]や、九八歳でも活躍していたという説[8]まである。しかし後者では矛盾が多く、八○歳の清・康煕三年(一六六四)前後に卒したとみる王氏の考証[3]が妥当と思われる。
〔事跡〕
嘉言は崇禎三年(一六三〇)に三五歳で副貢となり、北京の国子監に入学。在京中に国事について上書したが採られず、在京三年で帰郷した。政治に失望した上に家庭の不和も重なり、四〇歳頃に出家して禅僧となった。その後は独身を通したため、子はない。彼は仏教の済世救民思想から仏典と共に『内経』『傷寒論』『本草綱目』等の医書も学び、ついには還俗して医を業とするに到った。
その頃、姉が靖安県の舒氏に嫁いでいたので、南昌と靖安をしばしば往来し、靖安では患者が戸外まであふれたという。また各地を旅して医業を行ったが、友人らの慰留でついに常熟県城北門の山下、貧民街に居を定めた。
この前後より著述を始め、まず自己の治験六〇余例をまとめた『寓意草』六巻を自費出版(一六四三頃)。ついで『傷寒尚論篇』五巻(一六五一)、『医門法律』六巻(一六五八)を刊行している。医名は四方に馳せ、名士との交遊も多かった。『寓意草』には諌議大夫の胡卣臣、『尚論篇』『医門法律』には礼部右侍郎の官になった銭謙益より序を受けている。また大儒者の閻若璩は、その『潜丘箚記』で当時の一四聖人の一人に嘉言を挙げている。それゆえ彼を官医に求める公卿は多く、清朝も詔したがすべて固辞したという。
順治十五年(一六五八)には医塾を開き、門下に温疫を主に講義したが、八月に卒中発作を起した。生死をさまようこと二百余日、翌生三月にようやく回復した。この間には弟子がまとめた講義記録に序を草し、かつて『尚論篇』で王叔和らを批判しすぎたことを反省している。その後は著述もないが、あるとき囲碁の国手・李兆元と対局。これが三昼夜に及び、終局を迎えたとき急逝したという。
遺体は靖安から常熟にかけつけた甥の舒某の手で靖安の寺に葬られたが、雍正年間(十二年の一七三四か)に彼を慕う諸医により南昌城の南、百福寺に柩が移された。当寺には喩嘉言の塑像と肖像画が祠られているという。
〔著作〕
嘉言の著として現在に記録される書は多い。しかし自著と認められる現存書は本解題の二書および『寓意草』『尚論後篇』のみで、他は後人がそれらを抜粋や編纂、さらに嘉言の名に託したものである。以下に各書を簡単に説明しておこう。
『寓意草』:嘉言の第一作で、自編の個人医案書としては中国で早期のものに属する。本書には人痘法の治験もあり、中国で最も早い人痘の記録といわれている。なお本書は一七二九年に和刻本が出ている。
『尚論後篇』:『尚論篇』の後半四巻部分で、生前は出版されなかったが、没後の一七三九年頃に初刊された。この時さらに「小児付篇」、卒中発作前の講義を門人が筆録した「会講付篇」「問答付篇」(後述の程雲来『傷寒抉疑』)など、正確には自著と認め難いものも増補されている。本書に和刻本はない。
『瘟疫論』:『尚論篇』巻首、駁正序例の一節「詳論温疫以破大惑」を単行したもの。温疫の病因と感染経路で呉又可『温疫論』の説と異同があり、呉鞠通『温病条弁』の三焦弁証は嘉言の説から影響を受けているという。
『仲景脈法解』:張璐『張氏医通』の引用書目に挙げられるが、伝存本はない。嘉言は『尚論篇』の跋文で、後半四巻部分に「脈法諸方」があると記す。しかし現行の『尚論後篇』に当該内容はない。講義の門人筆録が『尚論後篇』の刊行前に、『会講温証語録』として刊行されているので、本書も当時あるいは刊本があったかも知れない。張璐は嘉言よりやや後の人なので、これを見て引用した可能性がある、と王氏は推定[3]している。
『瘟疫明弁』:戴天章の『広瘟疫論』を嘉言の著に偽作したもの。嘉言の末裔が家蔵書として偽り、道光二十五年(一八四五)に出版以後、嘉言の出身である広西地方で流行した。
『喩選古方試験』:喩嘉言が加点や注釈を書き込んだという『本草綱目』が道光十八年(一八三八)に発見され、これを抜粋して刊行されたもの。その年代・内容から、偽作の可能性がきわめて高い。
〔門人〕
喩嘉言の『寓意草』『尚論篇』『医門法律』が出るや、その交友も相挨って地元の江西のみならず、江蘇・浙江などから入門者が参集した。嘉言に師事し、受講した門人では以下の三人が著名である。
徐彬:明清間、浙江秀水県の出身。字を忠可という。後述の『傷寒尚論全書』の編纂者。そこに付録した自著三種の他に、『金匱要略論注』二四巻の大著がある。もとは挙子の道に進み、諸生となった。兼ねて医も学び、まず『医宗必読』等の著で知られる李中梓に師事。次いで喩嘉言に入門した。『集注傷寒論』の張卿子(遂辰)とも交遊があった。
舒詔:清代、江西進賢県の出身。字を馳遠という。『傷寒集注』の著があり、一〇年毎に訂正を加えて重訂・再重訂と出版した。また『弁脈篇』『傷寒六経定法』『痘疹真詮』『女科要訣』なども著している。もとは進士で、官は監生から州判にいたった。医を好み、嘉言の弟子の羅子尚に就いて学んだ。
程林:清代、安徽休寧県の出身。字を雲来という。彼の質問と嘉言の回答をまとめた『傷寒抉疑』は、後述の『尚論全書』に収められた他、『尚論後篇』にも「問答付篇」として収められている。代表著作に『金匱要略直解』『即得方』『続即得方』などがある。
二、『傷寒尚論篇』
〔構成と成立〕
本書は巻首一巻・本文四巻よりなる。正式書名は『尚論張仲景傷寒論重編三百九十七法』であるが、ふつう略して『傷寒尚論篇』さらに『尚論篇』ともいう。本書の初刊年を中国の解説書はみな一六四八年とするが、これは自序年なので正式には成立の年である。嘉言は巻末に本書を刊行する旨の跋文を一六五〇年に記し、翌年に大官僚の銭謙益の序を受けているので、初刊は一六五一年と考えられる。
一方、当敗文に本書は元々八巻あり、前四巻の六経証治部を刊行すると記されている。また後四巻は温病・暑湿熱病・脈法の部分で、これを二、三の門人に与えるが必ず秘蔵し、百年後に嘉言の名が失せてから出版してほしいという。当後半の四巻は、後に『尚論後篇』の名で刊行され、その巻末には嘉言の姉の子孫と推定される舒斯蔚の跋がある。これによると、雍正十二年(一七三四)に諸賢が集って喩嘉言の記念式典を開催。それが契機で家蔵の原稿を出版する費用が得られた、と乾隆四年(一七三四)に記されている[9]。すると没後約七五年で後半が初刊されたことになり、必ずしも嘉言の遺言どおりにはならなかったらしい。
〔内容〕
前半の四巻すなわち本書は、主に方有執の『傷寒論条弁』を基に著されている。これに気付いた林起竜は、康煕十三年(一六七四)に『条弁』を復刻した際、喩嘉言が剽窃した証拠に『尚論篇』も後付し、序文でこれを口汚く罵倒した。しかし『四庫全書総目』も指摘[10]するように、『条弁』とて王履の『医経溯集』に着想があるので、当時としては大きな問題ではない。また『尚論篇』は『傷寒論』の構成編次を『条弁』とは少し違えており、内容的にも補正が見える。問題は内容ではなく、方有執の名を挙げなかった点なのである。
さて嘉言はまず巻首にて、「尚論張仲景傷寒論大意」など医論六篇を述べている。次に巻一が太陽経、巻二が陽明経、巻三が少陽経に合病・併病・壊病・痰病を付録、巻四が太陰経・少陰経・厥陰経に過経不解・差後労復・陰陽易病を付録、の順になっている。
彼は六経を弁じ、太陽経がその大綱であること。その太陽経では風が衛を、寒が栄を、そして風寒が栄衛をやぶることが大綱であるという。まさしく方有執の踏襲であるが、彼が巻首で篇を立てて非難する王叔和こそ、本説の首唱者であることを知らなかったのであろうか。他方、『傷寒論』の三九七条文は三九七法であるとし、これを前述の大綱下に置くことで仲景の書は首尾一貫するという。その当否はさておき、同じく篇を立てて非難される林億が、雑多な伝写本を整理校訂し、これを三九七法と定義したことを知らなかったのであろうか。この偏狭ゆえ後世に多くの批判もあるが、逆に論旨は明快なので一方で大いに流行し、いわゆる学派も形成された。唯我独尊的な論法もさることながら、その流行の仕方や波紋まで江戸の古方派に類似していることは実に興味深い。古方派の口火を切ったとされる名古屋玄医が、『尚論篇』を読んで大いに発憤したことはつとに知られた話である。
〔版本〕
本書は前述のごとく自序年の一六四八年に完成。その前半の刊行を決意したのが自跋の一六五〇年で、高官だった銭謙益が序を記した重光(辛)単閼(卯)年、つまり一六五一年に初版が出たと考えられる。しかしその初刊本の現存は知られていない。現存する初期の版本は、和刻を含め以下のものがある。
@康煕七年(一六六八)刊本 中国中医研究院図書館所蔵。
A元禄九年(一六九六)博古堂・武村新兵衛刊本 国立国会図書館、京大富士川文庫、研医会図書館、小曽戸洋氏ほか所蔵。
B康煕間(一六六二〜一七二二)刊本 中国中医研究院図書館所蔵。
C乾隆四年(一七三九)刊本 北京首都図書館、上海中医文献館ほか所蔵。
以上のうちA本が和刻で、日本ではこの一回しか出版されていない。@本は刊行年から見て、A本の底本となった李秀芝・朱誠甫刊『傷寒尚論篇全書』の一部と思われる。B本は不詳。C本は前述した『尚論後篇』初版との合刊本で、以後の中国版はほとんど両書の合刊本である。
ここで『(喩嘉言先生)傷寒尚論篇全書』について、簡単に触れておこう。本全書は嘉言の弟子の徐彬の編纂で、徐およびその友人の錫升庵の各種序文がある。それらは一六六七〜六八年に記されているので、本全書の刊行は一六六八年と考えられる。先に@本がA本の底本と推定した所以である。本全書は以下の五書、計九巻からなる。
A『傷寒尚論篇』四巻(付巻首一巻)
B『傷寒尚論篇編次仲景原文』一巻
C『傷寒一百十三方発明』一巻
D『傷寒抉疑』一巻
E『傷寒図論』一巻
一六六八年の徐彬「尚論全書序」によれば、喩嘉言の説に従い『傷寒論』の仲景原文を復原したのがB。『傷寒論』所収一一三方の方意を解説したのがC。かつて程林が嘉言と交した一五問答録がD。傷寒の伝経等について錫升庵と論議し、また華陀の運気図を参考にまとめたのがEである。そしてB〜Eにより『尚論篇』ばかりでなく、仲景の心も理解可能となるので一括して全書とする、という。
一方、Cのみは前年すでに単行本として出版していたらしく、錫升庵「重訂尚論序」(一六六八)にその旨が見える。張卿子「傷寒方論序」や仲誠固「傷寒方論序」は、いずれも内容的に元はCの単行本に付けた序と考えられる。南京図書館に現存の一六六七年刊本が、恐らくこれであろう。
かつ「自序」とのみ記される一六六七年の徐彬序がCの単行本自序に相違なく、本書を著した興味深い動機が述べられている。すなわち、今の医者は『尚論篇』を読んでもよく理解できず、処方の運用を誤っている。しかし『尚論篇』の後半四巻は、喩先生の命で百年後にならなければ出版できない。そこで錫升庵にすすめられ、かつて嘉言に学んだ秘旨を本書にまとめた、という。
本全書はこのように『尚論後篇』の欠を補う目的が一面にあったためか『後篇』の出現後、中国では再版されていないようだ。他方、日本では『後篇』がなぜか復刻されず、和刻は本全書のみなので、徐彬の影響は却って日本に認められる。例えば吉益東洞(一七〇二〜七三)は年代的にも本全書の和刻本を見ていたと思われ、『類聚方』や『方機』『方極』の撰述動機の一つにCを考えてよいだろう。また以後の古方家達が作成した復原『傷寒論』、例えば中西深斎の『刪訂傷寒論』などは、いずれもBの影響下にあると考えられる。
今回、『尚論篇』を影印復刻するにあたり、本全書がわが国に与えた影響を考慮し、全体を出版することにした。復刻の主底本には研医会図書館所蔵本を使用した。
三、『医門法律』
〔成立〕
本書には順治十一年(一六五四)の銭謙益序、および同十五年(一六五八)の喩嘉言自序がある。したがって最終的な成立年は一六五八年である。しかし本書を完成させるまで、喩嘉言は相当の年月を費やしたらしい。本書についての最も早い言及は一六四八年の『尚論篇』自序に見え、「雑証法律十巻」と記している。すると完成の一〇年前に、一〇巻本の草稿があったらしい。これをほぼ完成させ、出版しようと銭氏に序を求めたのが一六五四年のこと。銭序は「君年七十。始出其尚論後篇及医門法律」と記すので、『尚論後篇』もこの頃までにほぼ完成しており、同時出版を志したものと思われる。
一方、康煕年間頃の所刊とみられる内閣文庫所蔵の本書には、門人の陳瑚による「西江喩先生医書全集序」(図1)も前付されている。陳序は年代を記さないが、「今先生七十矣」というので、銭序と同じく一六五四年の記述である。この陳序は「医書全集」といい、文中でも『尚論篇』『寓意草』『医門法律』に言及する。すると当時あるいは、後半四巻を加えた『尚論篇』の再版と同時に、計三書を合刊する計画があったのかも知れない。しかしいずれも実現しなかったようである。
この四年後になる一六五八年の自序に、「発刻之稿。凡十易。已刻之板。凡四更」というので、本書だけでも満足がゆくまで四回も版木を彫りなおしている。とすれば一応は出版ずみの他二書まで、再版が及ばなかったと思われる。ともあれ本書には一〇年以上をかけ、自序末尾にも細心の注意をはらって完成させたことを強い語気で記すので、彼畢生の作といえよう。
〔構成と内容〕
前述のごとく、本書の旧稿は一〇巻だったらしい。刊本は六巻なので、相当の推敲が加えられたのであろう。本書は『尚論篇』が傷寒を代表とする流行病の書であるのに対応させ、雑証つまり一般疾患の治療書となっている。旧稿名が「雑証法律」と記される所以である。書名の法と律はいずれも仏教の常套用語に由来し、法には治療の正しい法則、律には犯しやすい誤ちを禁止すみ意味がこめられている。
巻一には四診の法と律、『内経』『傷寒論』の治療原則、および「先哲格言」六七条が記されている。巻二〜六は中寒から肺癰肺痿の各病門別に、論・法・律の順で記されている。この論では病因・病理とその変化が分析されており、特に「大気論」「秋燥論」には独創が多く、後世に高く評価されている。
わが国では『古今方彙』(一七四五初刊)が本書を引用文献の一つに挙げるので、ある程度の影響を与えたものと思われる。
〔版本〕
本書は初版本を含めた現存の中国版が二五種ほど、和刻版が一種知られている。康煕年間頃の早期版本、および和刻本は左記のようである。
@順治十五年(一六五八)初刊本 南京図書館、重慶市図書館所蔵。
A葵錦堂刊本 中国中医研究院図書館、北京大学図書館、国立公文書館内閣文庫所蔵(図2)。
B錫環堂刊本 中国中医研究院図書館、重慶市図書館所蔵。
C両儀堂刊本 福建省図書館所蔵。
D寛文五年(一六六五)村上勘兵衛尉刊本 国立国会図書館、北里東医研書庫ほか所蔵。
内閣文庫所蔵のA本は小島宝素の旧蔵書。和刻のD本はその扉に「葵錦堂」が記されるごとく、A本を底本としている。今回の影印復刻では、北里東医研書庫の蔵本を底本とした。
参考文献
[1]楊士孝『二十六史医家伝記新注』二八四〜二八六頁、藩陽・遼寧大学出版社(一九八六)。
[2]郭靄春ら『中国分省医籍考』上冊一二八三〜一二八四頁、天津科学技術出版社(一九八四)。
[3]王立「名医喩嘉言伝略及其生平著作考」、『中華医史雑誌』一二巻二期八○〜八五頁(一九八二)。
[4]張崇ら『重訂傷寒的臨床家喩嘉言』一〜六一頁、北京・中国科学技術出版社(一九八九)。
[5]楊銘鼎「中国歴代名医及其著述簡表」、『中華医学雑誌』二九巻六期三二六頁(一九四三)。
[6]郭靄春『中国医史年表』二一二頁、黒竜江人民出版社(一九七八)。
[7]陳夢賚『中国歴代名医伝』三三四頁、北京・科学普及出版社(一九八七)。
[8]范行準「銭牧斎与喩嘉言」、『医文』一巻五期三一頁(一九四三)。
[9]喩嘉言『尚論後篇』巻末、台北・新文豊出版公司影印(一九七六)。
[10]永kら『四庫全書総目』八七八頁、北京・中華書局影印(一九八五)。