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真柳誠「『本草彙言』と烟草」『たばこ史研究』36号1480-1488頁、1991年5月

『本草彙言』と烟草
 

北里研究所附属東洋医学総合研究所
医史文献研究室 真柳 誠


一 はじめに

 佐賀市材木一丁目の野中家は、江戸から続く名薬「野中烏犀圓」の老舗。その代々の厖大な医薬関係コレクションの一つに、数多くの秀麗な清朝鼻烟壷 がある。これは何物かと鑑定依頼を受け、嗅ぎタバコ入れとの見当はついたが、断定できない。そこでたばこと塩の博物館に初めて行ったのが、本誌およびたば こ史研究会を知るきっかけだった。

 突然の訪問にもかかわらず、持参の写真は奥田雅瑞氏により鼻烟壷に相違ないと鑑定された。さらに幸運にも、本誌のバックナンバーまで入手すること ができた。そして驚いた。まったく迂闇だったと言うしかない。伝統医学と医薬書の歴史が専攻なのに、日々の友の歴史がかくも研究されているのを知らなかっ たのだから。とりわけ奥田氏の論考「『鹿苑日録』の「烟草」について」(本誌二二号)に魅了された。

 礼状に感銘と気付いた点など書き連ね、奥田氏にご教示ねがったところ、逆にそれを文章にしてほしいとのこと。もとよりタバコ史研究の常識はまるで ない。いささかためらわれたが、筆者の専攻から奥田氏の論考を補強できるなら。大胆にもそう思い、時間をいただくことで引き受けてしまった。とまれ時は勝 手に過ぎてゆく。弁解もここまでにしよう。

 本稿はしたがって奥田氏の論文(以下、失礼ながら奥田論文と略す)の考察対象の一つ『本草彙言』を中心に、烟草との関連から知見を記すことにした い。
 

二 成立と刊行の年代

 本書(図1参照)は全二〇巻。著者の倪朱謨は字を純宇といい、銭塘(今の浙江省杭州)の人である。本書の名 は、タバコを「烟草」として収載した最も早い中国本草書として知られている。が、当時の他の書物がすべて伝存するわけではなく、その当否の確証は難しい。 とりあえず問題とすべきは、本書の成立と刊行の年代だろう。

 この点について奥田論文は宇賀田為吉『「煙草・烟草」小考』(『せんばい』三五号、一九七四)を引き、本書が清の順治二年(一六四五)に刊行され たことを記している。そこでまず刊行年から考察しよう。各蔵書目録には以下の中国版が記録されているが、和刻版は見あたらない。

  @明・万暦間、湯国華の絵図刊本 北京・中国科学院図書館[1]
  A明・泰昌元年(一六二〇)刊本 北京医科大学図書館[1]
  B明・天啓間刊本 中華医学会上海分会図書館[1]
  C清・順治二年(一六四五)、有文堂刊本 国立国会図書館(三部ある)[2]、アメリカ国会図書館(山田業広旧蔵書、『美国国会図書館中文善本続録』181頁)。
  D清・順治二年(一六四五)、大成斎刊本 北京・中国中医研究院図書館[3]、上海中医学院図書館[4]、 国立公文書館内閣文庫[5]、牧野文庫[6]
  E清・順治間刊本 北京図書館[7]
  F清・康煕三士三年(一六九四)刊本 浙江図書館、四川州図書館、福建省図書館[1]
  G清刊本 上海図書館、安徽省図書館[1]。石崎文庫[8]
  H不詳中国刊本 武田科学振興財団杏雨書屋[9]

 尚らの調査[10]によると、以上の@〜Bは明版の確証がなく、明末清初の一六二四〜四五年頃の所刊らしいと推定。またE はCDと同じ順治二年の刊本としている。

 本書の各巻頭には薬物図があり、巻一八の末葉にはそれを描いた湯国華らの万暦庚申年(泰昌元年、一六二〇)の識語(図2参照)があ る。これを根拠に文献[1]は@Aの刊年とするのだろう。本書には天啓四年(一六二四)の元{王+路}による序文(図3参照)もあるので、 Bはこれを刊年としたらしい。

 さて筆者が実見したのは、Cの国会図書館所蔵本とDの内閣文庫所蔵本である。両者は版元を記す見返し(図4参 照)が異なるだけで、他は図3末行の刊記「大清順治乙酉(一六四五)冬仲重{莫+手}」も、本文も同一であった。ただDは版木の摩滅や断裂 による印刷の不鮮明な部分が多く、Cにそのような部分はない。

 つまり順治二年の出版はCのみで、Dは後にその版木を購入した書賈の大成斎が見返しのみ新彫して印刷した後刷本となる。EはCかDのいずれかであ ろうが、三者は本質的には同一版本である。またこの順治二年の刊記に「重{莫+手}」というので、それ以前に少なくとも一種の版本があることは疑いない。

 一方、刊本の通例からすれば、翰林院編集の官位にある元{王+路}が序を草した天啓四年(一六二四)以降に、本書の初版が出たと考えるべきだろ う。尚らは@〜Bの刊年に一六二四〜四五年の幅をとり、三者とも同版の口調で記すので[10]、それらが一六二四年以降の初版本で ある可能性は高い。もちろんその中にも先刷・後刷の差はあろうが。

 なお、本書全体に見える年号では、湯国華らの薬図の識語が最も早い。薬図は当然、本文と同じ頃に描かれるはずなので、本書の成立は薬図を含め万暦 四十八年(一六二〇)とすべきだろう。

 ちなみに各巻頭には書名の次行に、「倪朱謨純宇甫選集 男倪沫龍冲之氏蔵稿」と記す。また康煕二十三年(一六八四)の『浙 江通志』巻四二に、「倪朱謨の本草彙言、子の洙龍がこれを刻し世に行う」とある[11]。したがって本書は一六二〇年に成立し、一 六二四年に元{王+路}の序を得た後に原稿が倪洙龍に授けられて初版。一六四五年には有文堂が翻刻し、この版木を得た大成斎も印行。その後も一、二度は復 刻された、と結論づけられよう。
 

三 『本草綱目と『多識編』

 奥田論文は、日本でいつ「烟草」なるタバコの漢名が知られたかを問題の一つとしている。この延長として、「烟草」が記載された『本草彙言』の渡来 年を、林羅山が没する明暦三年(一六五七)以降と推定した。それは羅山の『多識編』が、同じナス科にしても別種の莨{艸+宕}をタバコにあてるからで、本 書を見ていたら誤認するはずがないだろう、という論である。これを考える前に、まず羅山と『多識編』に関する年代を整理しておきたい。

 羅山が『多識編』の底本とした『本草綱目』は明の万暦二十四年(一五九六)に初版が出たが、本書の伝来はいつか。一般には『徳川実記』慶長十二年 (一六〇七)四月の条に、「(羅山が)……長崎にて本草綱目を購求し駿府(家康)に献じ奉る」とあることから、一六〇七年の渡来説が多い[12-17]。 しかし羅山の第三子・春斎作の『羅山先生年譜』(一六六二刊『羅山林先生集』[18]所収)の慶長九年(一六〇四)の項に、それま で羅山が見た四四〇余種の書が列記され、その一つに『本草綱目』がある。つまり一六〇四年には渡来していた[19]

 次に『多識編』の成立年であるが、二段階に分けられる。第一段階は月瀬文庫所蔵の羅山自筆草稿『羅浮渉猟抄多識編』に、慶 長十七年(一六一二)の跋があるのでこの年となる。それを整理・増注し寛永七年(一六三〇)に古活字で刊行した『多識編』が第二段階。翌年にはほぼ同内容 だが整版(木版本)に改め、『新刊多識編』が出版された。この整版本はその後も数度復刻された他、寛文十年(一六七〇)には滝野元桂(敬)が増補した『改 正増補多識編』も出版されている。

 本題にもどろう。まず図5に莨{艸+宕}条の草稿(A)、古活字本(B)、整版本(C)、滝野本(D)を示した(各図は文献 [20]の影印篇による)。このように羅山は一六一二年の段階で、莨{艸+宕}に「オニヒルクサ」と「オホミルクサ」の和名しかあてていない。後者の和名 は、九一八年頃に深根輔二が著した『本草和名』[21]の莨{艸+宕}条の和名に、「於保美留久佐」とあるのに由来するだろう。

 (B)の一六三〇年以降、和名になぜか「留(ル)」がぬけてしまうが、今按ずるにとしてタバコの名が加えられる。これは『本草綱目』莨{艸+宕} 条の付方に久年の岬嗽を治す処方として、莨{艸+宕}子などの粉末を紙巻タバコのように吸う方法があるのに起因した誤認たるのは言うまでもない。

 後で紹介するが、『本草彙言』の烟草の記述と植物図を見れば、それがタバコで莨{艸+宕}と別物なのはすぐわかる。とすれば(C)の一六三一年ま でに羅山は『本草彙言』を見ていない、と推定してさしつかえないだろう。では羅山は没する一六五七隼までに、『本草彙言』を見る機会があったのだろうか。
 

四 渡来の年代

 『本草彙言』が日本に渡来するのは、当然ながら序文の一六二四年以降のこと。また日本の現存本から見ると、初版本よりは一六四五年以後の版本が多 く舶載されたらしい。当時どのような外国書が長崎経由で輸入されていたかを知る資料は、不完全ながら少なからず現存している。それらは長崎の記録と江戸な どの記録に大別でき、両者を合わせるとおぼろげながら全体の情況が窺える。

 さて寛永十六年(一六三九)に設置された将軍の図書館・紅葉山文庫(楓山文庫)では、それ以前の所蔵書を一括して記録し、以後の収蔵書は年代順に 記 録していた。いまこの記録は寛永十六年から享保七年(一七二二)までの分を、書名のイロハ順に整理したもののみ『御文庫目録』として伝存している。それを 見ると『本草綱目』は寛永十六年以前の収蔵であるが、本書は享保五年(一七二〇)に至り、初めての収蔵記録がある[22]。ちなみ に紅葉山文庫旧蔵書の大部分は、今の内閣文庫に引き継がれた。しかし図版にも掲げた内閣文庫蔵の大成斎本は、紅葉山文庫旧蔵書ではない[5]。 したがって一七二〇年に紅葉山文庫に収蔵された本書が、どの版本であるかまではわからない。

 もう一種の資料は長崎への入荷記録、書物改役が御制禁書か否かを長崎奉行へ報告した記録、および商人の落札記録などである。それらに見える本書の 記述は、年順に以下のものがある。

イ『舶載書目』の元禄十二年(一六九九)に「一部十二本巻」[23]
口『商舶載来書目』の同右年に「一部二套(帙)」[24]
ハ『齎来書目』の享保四年(一七一九)に「五部」[25]
二『舶載書目』の元文二年(一七三七)に「四套(四部?)」[26]
ホ同右・寛保元年(一七四一)の酉四番船[27]と酉六番船[28]にそれぞれ「一部二套十六本」。
へ同右の寛延四年(一七五一)四月に「十五部各一套十二本」[29]
ト『大意書』(報告書)の同右年同月に「十五部各一套十二本」[30]
チ『落札帳』の天保十五年(一八四四)五月二十三日に「壱部」[31]
 以上のうちイと口、およびへとトは前後の記述からも同一書の記録に相違ない。するとこれらの記録の範囲内で、本書は一八四四年までに少なくとも二十八部 が輸入されていた。前述の調査結果で本書は日本に七部の現存まで判明したので、その伝存率はおよそ四分の一となろうか。そして年代からすると一七一九年に 入荷したハの一部が、前述の一七二〇年に江戸の紅葉山文庫に収められたものに相当するだろう。

 一方、イの記録は最も詳細で、本書の提要(同じ冊だが別の葉に記載)の他に、序文の撰者名と年代も記されている。年順に挙げると、一六二四年の倪 朱謨の自序、同年の元{王+路}序、一六三三年の黎元寛序、一六四五年の沈維晋書、一六九四年の閔振序である。つまりイと口は前述のF版本で、刊行の五年 後に渡来したこと。一六二四年に著者の倪朱謨が自序も草しているので、その子の倪洙龍が授けられた本書を初刊したのは、恐らく黎元寛序の一六三三年であろ うこと、などがわかる。

 ずいぶんと遠回りしたが、ともあれ『多識編』で莨{艸+宕}にタバコがあてられた一六三〇年段階、本書は渡来どころか未刊行だったと推定できる。 他方、現存記録にすべてが網羅されている訳ではないが、羅山が没する一六五七年以前に本書が渡来した記録はない点。羅山も利用したに相違ない紅葉山文庫 に、本書が初めて収蔵されたのは没後の一七二〇年である点。この二点からも、奥田論文が本書の渡来を羅山の没後と推定したことを、ほぼ傍証しえよう。

 しかし烟草なる漢名が日本に知られた年代を考察するには、いま一つの書の歴史を解明せねばならない。それは奥田論文も言及するが、烟草を記述した 第二番目の中国本草とされる沈穆の『本草洞詮』全二〇巻である[32]。本書の成立は沈穆の自序年の清・順治十八年(一六六一)。 初刊もこの年で、初版は内閣文庫に佐伯藩主・毛利高標の献上(一八二八年)[33]本の他、中国の各図書館に現存する。本書の渡来 記録は、残念ながら前述の資料中に発見しえない。また和刻本も出ていない。しかし日本のいくつかの本草書に引用されている[34]。 その最も早いものは延宝八年(一六八○)に成立し、貞享二年(一六八五)に初刊された下津元知の『図解本草』である[35]。した がって本書の渡来の下限は一六八○年で、現存史料からは『本草彙言』の渡来より二十年ほど早い。

 ならば奥田論文が引く伊藤東涯の『秉燭譚』にある、『本草洞詮』が渡来し初めて烟草の漢名を知った、という説は信憑性がより高まるであろう。
 

五 烟草の記載

 烟草は『本草彙言』巻五第二五葉ウラに、草部毒草類の一つとし収載されている。また巻五の図第一葉ウラには、簡略ではある がタバコの植物図(図6参照)もある。恐らく本図は、中国のタバコ図として現存最古であろう。

 本書の烟草の記載は江戸時代から各書に引用されているが、全文の紹介はなされていないように思う。よってこれを図7に掲げ、蛇足な がら全体を現代語訳しておく。なお伝統医学用語その他は、拙訳の末に注することにした。

 烟草 その味は苦く辛く、体を熱する。有毒である。手足の陰陽十三@の経絡Aを通Bり めぐる。
沈氏Cは烟草が江南や浙江・福建で生産されるというが、今は西方や北方でも栽培されている。初春に種をまき、発芽したら肥料をしば しば施すと、葉の色が濃くて手掌のように大きくなる。初夏には花が咲き、形はかんざしのようで、四枚Dの花弁が合一している。わず かに辛烈な香りがあり、青紫色である。その姿はまことにきゃしゃでかわいらしい。茎は五、六尺の高さになる。秋に葉を採取し、日なたで乾燥させる。絹の糸 クズか穂のように細く切り、これをキセルに入れ火をつけて吸う。すると煙のエッセンスが全身くまなく達する。福建の石馬鎮の産品が最も良質である。

 ○烟草は人体の九つの穴Eの通りをよくする薬である。門吉士Fは次のようにいっている。この薬の性 質ははなはだ辛烈で、火をつけて煙を喉より吸い入れると、霜露風雨などの寒さはまるで気にならなくなる。また毒虫による疫病にもかからなくなる。小児に用 いると疳積がなおり、婦人に用いると腹のしこりがとれる。北方の人はいつも日用し、客が来るとタバコをすすめることを敬意としている。さらに精気・食物・ 水分などの鬱滞、冷えが体に凝り固まって元気が行らなくなった一切の病気は、これを吸えばそれらが通ってよくなる。ただし結核で喀血するような体に水分の ない人には。でたらめに用いてはならない。というのは、これを吸って死んだように人事不省となることがたまにあるので、体によくないことがわかる。だから 体に水分がない人は、これで熱せられてしまうので用いてはならない。

〔訳注〕

@十三はおかしい。十二の誤刻ではないだろうか。

A人体には六臓と六腑に対応した気の流通するルートが計十二本あり、経絡と呼ばれる。針灸のツボはその上にある。また各経絡の初めか終わりは必ず手 ないし足にあり、それぞれはさらに三種づつの陰と陽に分類されている。したがって十二の経絡は手足・三陰三陽・六臓六腑の組み合わせで呼ばれる。

B薬の作用は経絡を通行して臓腑に至る、という伝統薬理思想がある。ここではタバコが全身に作用することを表現している。

C沈氏は未詳人物。本書の巻首には「師資姓氏」一二名、「同社姓氏」一三六名の出身等があるらしいが[36]、筆者の親見し た内閣文庫本・国会図書館本の計四部いずれにもそれらは欠落していた。別版を見れば沈氏がわかるかも知れない。

Dナス科植物の合弁花は、先が五裂するはず。伝聞の誤りの可能性がある。

E両耳・両目・両鼻孔・口・前陰・後陰のこと。この九孔は、外界との気の出入口と考えられている。

F前注Cと同様に未詳。
 

六 おわりに

 かなり無駄な紙幅を費やしてしまったが、拙稿では以下の諸点を明らかにし得た。

 第一に中国における「烟草」の記録は、『本草彙言』の成立年から一六二○年が下限であること。ただし本書を含め、中国本草書は薬用を中心とした有 用・実用の書で、『本草綱目』の博物主義は例外に属する。したがって一般に利用されるようになってから、ようやく新物産を収載するのが本草書の通例であ る。つまり一六二〇年は現存の中国本草書における「烟草」の初出にすぎず、その漢名自体は万暦年間の南方で、すでに民間的に使用されていたと考えられる。

 第二に林羅山が『多識編』を再版した一六三一年の時点で、『本草彙言』『本草洞詮』は共に未刊行であったこと。したがってタバコの漢名が烟草であ ることを羅山は知らず、『本草綱目』の記述から莨{艸+宕}をタバコと誤認したものと考えられる。

 第三に現存の記録によれば、『本草洞詮』の日本への渡来は一六八○年が下限。『本草彙言』は一六九九年が下限であること。そして前書の初刊(一六 六一年)は羅山の没後なので、もちろん彼は見ていない。後書は初刊(一六三三年)と再版(一六四五年)が羅山の没前なので、彼が『多識編』再版以降に見た 可能性を否定できない。しかしそれを傍証し得る記録は見あたらず、可能性はきわめて低いと考えられる。

 第四に『本草洞詮』が渡来して「烟草」の漢名を知った、という『秉燭譚』の説は信懸性が高いこと。ただし『本草洞詮』は「煙草』の字で収載してい る。また奥田論文は一六八二年刊の『好色一代男』に「煙草」の表現があることを指摘する。したがって日本に先に知られたのは「煙草」の漢名で、それは『本 草洞詮』が渡来した下限の一六八○年に近い頃と考えられる。

 以上、奥田氏の論考に触発され、著者の専攻方面から考察を進めたが、奥田論文をほぼ完全に支持する結論に至った。しかし斯界の研究については素人 ゆえ、誤認もあるやと思う。識者のご叱正を切に願う次第である。
 

文献および注

[1]中医研究院ほか『中医図書連合目録』八一頁、北京図書館(一九六一)。

[2]国立国会図書館図書部『国立国会図書館漢籍目録』三六六頁、東京・紀伊國屋書店(一九八七)。

[3]中国中医研究院図書館『館蔵中医線装書目』八○頁、北京・中医古籍出版社(一九八六)。

[4]上海中医学院図書館『上海中医学院中医図書目録』一二七頁、上海中医学院(一九八〇)。

[5]内閣文庫『内閣文庫漢籍分類目録』二二九頁、東京・内閣文庫(一九五六)。

[6]高知県立牧野植物園『牧野文庫蔵書目録(和書・漢籍の部)』一二五頁、同植物園(一九八六)。

[7]北京図書館『北京図書館蔵中国医薬書目』七五頁、同図書館(一九五四)。

[8]大阪府立図書館『大阪府立図書館石崎文庫目録』七七頁、同図書館(一九六六)。

[9]武田科学振興財団『杏雨書屋蔵書目録』八○〇頁、京都・臨川書店(一九八二)。

[10]尚志鈞ら『歴代中薬文献精華』三〇六頁、北京・科学技術文献出版社(一九八九)。

[11]郭靄春ら『中国分省医籍考』九五九頁、天津科学技術出版社(一九八四)。

[12]白井光太郎「本草綱目の翻刻本に就きて」『医道』二巻四号(一九三〇)。

[13]南方熊楠「物産学・本草会・江戸と本草綱目及び本草学」『本草』十六号(一九三三)。

[14]渡辺幸三「李時珍の本草綱目とその版本」『東洋史研究』一二巻四号(一九五三)。

[15]岡西為人『本草概説』二二九頁、大阪・創元社(一九七七)。

[16]上野益三『日本動物学史』一〇五頁・一一〇頁、東京・八坂書房(一九八七)。

[17]木村陽二郎『生物学史論集』一三一頁、東京・八坂書房(一九八七)。

[18]国立公文書館内閣文庫所蔵本による。

[19]第六回国際東洋医学会(一九九〇年十月十九日〜二十一日)サテライトシンポジウムUにおける宗田一氏の発表(口頭とスライド)によれば、武 田科学振興財団杏雨書屋所蔵の曲直瀬家文書中に、慶長八年(一六〇三)の時点で曲直瀬玄朔が『本草綱目』を見ていたと考えられる記述がある。玄朔は本書を 利用して父・道三の『能毒』を増補し、一六○八年に『薬性能毒』を著している。

[20]中田祝夫ら『多識編研究並びに総合索引』九〜一三頁、東京・勉誠社(一九七七)。

[21]いま『日本古典全集』所収本、上冊四二丁オモテによる。

[22]大庭脩「東北大学狩野文庫架蔵の御文庫目録」『関西大学東西学術研究所紀要三』三〇頁(一九七〇)。

[23]『関西大学東西学術研究所資料集刊七 宮内庁書陵部蔵 舶載書目 附解題』第一冊第七七葉ウラ(上冊の内)、吹田市・同研究所(一九七二)。

[24]大庭脩『江戸時代における唐船持渡書の研究』六六五頁、吹田市・関西大学東西学術研究所(一九六七)。

[25]前掲文献[24]、二四三頁。

[26]前掲文献[23]、第三〇冊第一二葉ウラ(下冊の内)。

[27]前掲文献[23]、第三三冊第四葉オモテ(下冊の内)。

[28]前掲文献[23]、第三三冊第五葉ウラ(下冊の内)。

[29]前掲文献[23]、第三九冊第二六葉オモテ(下冊の内)。

[30]前掲文献[24]、二七七頁。

[31]前掲文献[24]、六〇九頁。

[32]成立年代からすれば、第二番目は張景岳(一五六三〜一六四〇)が著した『景岳全書』巻四八・四九の「本草正」に「烟」として記述されるタバ コが『本草洞詮』より早い。しかし本書の成立年は一六二四〜四〇の間としかわからず、初刊は一七一〇年と考えられるので、刊年は『本草洞詮』より後にな る。また日本への渡来は一七一一年(『商舶載来書目』)で、烟草の漢名が普及した後である。本書の記載については、本誌二九号に鄭氏の論文で言及されてい るので割愛する。

[33]前掲文献[5]、二二八頁。

[34]例えば貝原益軒の『大和事始』(一六九七)や人見必大の『本朝食鑑』(同上)など。

[35]前掲文献[15]、二四七頁。

[36]前掲文献[10]、三〇五頁。