真柳 誠
一、著者と成立
現行の『素問入式運気論奥』には、「朝散郎太医学司業 劉温舒撰」と署名する序文があり、その末尾には「元符己卯歳丁丑月望日序」と記されている。このことと当序文の内容より、本書の撰者は劉温舒で、北宋の元符二年(一〇九九)に当序を草したことが知れる。また劉温舒は当時、朝散郎太医学司業という正六品の官職にあったこともわかるが、これ以外に彼の経歴を伝える史料は何もない。したがって官職名から医学に通じていたことが推測されるのみで、出身・生活・活動などは不詳である。
二、構成と内容
本書は三巻に分かれ、上巻に十論、中巻に十論、下巻に十一論の計三十一篇からなる。ただし下巻末の「五行勝復論第三十一」については、元刊本(宮内庁書陵部蔵)や明初刊本(台北・国立中央図書館蔵)などではいずれも「第三十一」の四文字を篇頭名に記さず、かつ巻頭の目録では五行勝復論に「附」と注記している。したがって各巻十篇の計三十篇に付録が一篇と数える場合もある。
本書の特徴は豊富な図解にある。およそ各篇に一図が前付され、元や明・清の刊本は計二十九図だが、和刻本は慶長古活字版(宮内庁書陵部蔵)以降みな計三十図となっている。この相違は第二十五篇に前付の「勝復之図」の有無に由来する。すると当図は、あるいは日本で翻刻の際に付加された可能性もありうる。
内容は主に五運(土運、金運、水運、木運、火運)と六気(厥陰風木、少陰君火、少陽相火、太陰湿土、陽明燥金、太陽寒水)、およびその疾病との関係を解説した論である。すなわち書名を「素問による運気論の奥義の入門法」と名付くごとく、主に『素問』の「運気七篇」の内容に関する解説となっている。
いわゆる運気七篇とは、現行の『素問』巻十九〜二十二に収められる天元紀大論・五運行大論・六微旨大論・気交変大論・五常政大論・六元正紀大論・至真要大論の計七篇を指す。いずれも七世紀に王冰が旧『素問』を再編・補注した際、他書から増補したもので、運気の議論に富むことからこのように通称される。王冰の著作とされる『元和紀用経』や『(素問六気)玄珠密語』も運気論を説くが、いずれも王冰に仮託した後代の書と考えられている[1]。したがって劉温舒の『素問入式運気論奥』は、現伝する最も早期の『素問』系運気論の専書といえる。
ただし劉温舒の説は必ずしも運気七篇の所論のみを根拠とするのではなく、「(内)経曰」として引く文には、六節蔵象論・八正神明論など『素問』の他篇からの文が多見される。また王冰や新校正の注文、『霊枢』『難経』のほか、仮託書とはいえ劉温舒の時代に伝わっていた『天元玉冊』『(玄珠)密語』などからの援引も随所にあり、その立論の背景をなしている。
三、後世への影響
本書の成立直後の崇寧二年(一一〇三)、運気論は医官の試験科目の一つとされ、模範答案の様子も伝えられている[2]。また同年間の徽宗帝の勅命にかかる『聖済総録』(一一一七頃成)の巻頭に運気論が配されるなど、当時かなり重視されたことが窺われよう。金元四大家の一人で、本書より約半世紀後の劉完素も、運気論を極めて重視した一人である。
明の熊宗立が纂集した『素問運気図括定局立成』(図1)以降、運気を論じた専書は清末までに現存するもののみで三十書を越える[3]。しかしこれを強く排撃する論者も少なくない。例えば明の繆希雍(一五四六〜一六二七頃)は『本草経疏』で、「(運気の書は)医家の治病の書にあらず」[4]と酷評する。わが国でも江戸中期の古方派勃興以降、運気論は臨床に無益の妄説と手きびしく批判された。多紀元胤の『医籍考』に運気論の矛盾が理路整然と指摘されるように[5]、その論が臨床の観察からではなく、五行などから思弁的に演繹されていることは言うまでもない。
他方、本書が室町末から江戸初にかけての日本に与えた影響は、本国のそれを遥かに上回るようである。それは後述するように、本書の和刻版が中国版の約二倍に上るほど、幾度も出版された事実が物語っている。さらに本書そのものに対する注釈もわが国のみに見られる特徴で、当時その理解につとめた様子が知られる。因みに日本での注釈書で、刊行されたものを挙げると左記のようである。
回生庵玄璞著『素問入式運気論奥(口義)』四巻・『運気論奥得助図』一巻(一六三五刊)
松下見林著『運気論奥疏鈔』十巻・『奥弁証』三巻(一六六五刊)
三屋元仲著『運気論奥纂要全解』三巻・『運気纂要図説』三巻付録二巻(一六八四刊)
岡本一抱著『運気論奥諺解』七巻(一七〇四刊)
香月牛山著『運気論奥算法俗解』三巻(一七二七刊)
この他にも運気論に関する江戸初期の著作はいくつか見られるが、岡本一抱の『運気論奥諺解』(図2)は広く流布したらしい。この書は清末以降に中国へも伝わり、一九五八年に承為奮の訳で江蘇人民出版社より鉛印出版されているのが注目される[6]。
さて『素問入式運気論奥』は以上のように江戸初期に最も広く読まれたが、これは医学界に限らなかった。例えば上杉氏旧蔵にかかる南宋慶元黄善夫刊『史記』の扁鵲倉公列伝部分には、五山の学僧月舟寿桂(幻雲)(一四六〇から一五三三年)による三○もの医書を援引した書き入れがあり、その一つが本書である[7]。本書のわが国への渡来時期は定かでないが、すでに室町時代に本書が学僧にまで読まれていたことを示し、実に興味深い。
四、版本
本書の初刊年は不詳であるが、諸目録書より宋代に刊行されていたことがわかる[8]。しかしそれらは現代に伝わらず、現存するのはいずれも元以降の版本に限られる。そこで現存の判本を中国・朝鮮・日本の出版地別に、刊行年順で挙げると左記のようになる。
〔中国刊本〕
@元・至元五年(一三三九)古林書堂刊本、宮内庁書陵部(図3)および北京図書館所蔵。
A明初刊黒口十四刊本、台北・国立中央図書館所蔵。
B明・成化十年(一四七四)熊宗立重刊、国立公文書館内閣文庫および台北・国立中央図書館、南京図書館所蔵。
C明・嘉靖七年(一五二八)刊本、上海第二医学院図書館所蔵。
D清・光緒六年(一八八〇)尚徳堂刊本、湖北省図書館所蔵。
E民国間上海涵芬楼影印『正統道蔵』太玄部第六六四冊新収本、所蔵多数。
(なお本書は『四庫全書』にも収録されている。)
〔朝鮮刊本〕
@乙亥(嘉靖頃)刊木活字本、宮内庁書陵部所蔵。
A万暦四十三年(一六一五)訓錬都監刊木活字本、三木栄氏所蔵。
B万暦四十三年(一六一五)刊整版本、東京大学総合図書館所蔵。
〔日本刊本〕
@慶長十六年(一六一一)梅寿刊古活字本、宮内庁書陵部(図4)ほか所蔵。
A慶長十九年(一六一四)梅寿刊古活字本、東北大学附属図書館所蔵。
B元和二年(一六一六)梅寿刊古活字本、布施巻太郎氏所蔵。
C寛永二年(一六二五)梅寿刊古活字本、武田科学振興財団杏雨書屋ほか所蔵。
D寛永二年(一六二五)重刊本、矢数道明氏ほか所蔵。以下全て整版本である。
E寛永二十一年(一六四四)風月宗智刊本、研医会図書館ほか所蔵。
F正保三年(一六四六)刊本、国立国会図書館ほか所蔵。
G慶安二年(一六四九)吉野屋権兵衛刊本、東北大学附属図書館ほか所蔵。
H慶安三年(一六五〇)刊本、京都大学附属図書館所蔵。
I寛文十一年(一六七一)武村市兵衛ら刊本、大阪府立図書館ほか所蔵。
J延宝二年(一六七四)刊本、小曽戸洋氏所蔵。
K貞享二年(一六八五)武村新兵衛刊本、東北大学附属図書館所蔵。
L元禄七年(一六九四)刊「医家七部書」所収本、北里東医研書庫ほか所蔵。
M正徳五年(一七一五)刊本、京都大学附属図書館ほか所蔵。
以上、現存の版本は中国版が六種、朝鮮版三種、日本版十四種を数えることができた。今回の影印復刻に際しては、古活字本の訓点・送り仮名が刻入されない点を考慮し、和刻最古の整版本である寛永二年刊のD本より矢数道明氏所蔵本を底本に選択した。
参考文献
[1]岡西為人ら『宋以前医籍考』四九〜五六頁、六九五〜六九七頁、台北・古亭書屋、一九六九。
[2]劉伯驥『中国医学史』二六七〜二八一頁、台湾・華岡出版部、一九七四。
[3]北京図書館ら『中医図書連合目録』一六〜一八頁、北京図書館、一九六一。
[4]繆希雍『本草経疏』巻一「論五運六気之謬」(四一葉オモテ)、池陽周氏本、一八九一。
[5]多紀元胤『(中国)医籍考』一四〇〇〜一四〇四頁、台北・大新書局、一九七五。
[6]真柳誠「中国に於て出版された日本の漢方関係書籍の年代別目録」『漢方の臨床』三一巻二号、一九八四。
[7]水澤利忠「史記之文献学的研究」『史記会注考証校補』巻八・八六〜一〇〇頁、史記会注考証校補刊行会、一九六一。
[8]上掲文献[2]、六一頁。