真柳 誠
これら外国書の影響を考えるとき、最初に問題となるのは渡来と普及の年代である。また、それらの程度も考慮に入れなければならない。
渡来書については、幕府が鎖国政策の一環で輸入書を厳重に管理したこともあり、書名・舶載年などの公的・私的記録が江戸期全般にわたり長崎を中心に作成されていた。その少なからぬ史料が現存している。さらに、これら現存する一次史料の記録より早い年代に書名を記録したり文章を引用する文献で、伝聞や間接引用の可能性がほぼ否定される二次史料もある。よって真柳と友部は、こうした渡来年を直接ないし間接的に知ることができる約三〇種の伝存史料より医書を抽出し、各書の記録年を網羅した「中国医籍渡来年代総目録−江戸期(以下、『目録』と略す)」(1)を報告した。
一方、江戸期は出版業の隆盛にともない、中国書の和刻版が大量に刊行された。現在もそれらを容易に手にすることができる。普及にかんしては、江戸期も出版物となる意義は大きい。つまり中国医学知識の普及年代と程度は、中国医書の和刻年と和刻回数から確実な示唆が得られよう。和刻状況は、小曽戸氏らが「和刻本漢籍医書出版総合年表(以下、『年表』と略す)」(2)と、その書名索引(3) ・出版者名索引(4) を報告している。
そこで『目録』と『年表』を中心に集計し、比較してみたい。これを分析するなら、江戸期の著述を個々に検討するのとは違う視点より、中国医学の伝来と一般社会が受容した実態を史的・計量的に把握できるだろう、と考えたからである。
本検討では『目録』を集計のおもな資料とする。当『目録』には依拠した現存の一次史料と二次史料の記載にしたがい、渡来記録年等を約九八〇の見出し書名について収めた。ただし全時代にわたって一次史料が現存しているわけではなく、散佚した一次史料の期間は記録が不完全となる。これを補うために二次史料を用い、二次史料の成立年を便宜的に二次史料が記載する書の渡来年とし、その年を『目録』に区別して記入した。
さて『目録』の見出し書名には蘭書(5) や朝鮮書(6) がふくまれ、書名の表記(7)や文字(8) が異なっていても同一と判断できる中国書が多い。あるいは『目録』報告後に、見出し書名と年代に追加(9)や誤字(10)が発見されたものもある。よって前者を削除・調整し、後者を追加・訂正して集計した。この結果、江戸期に渡来記録のあった中国医書は、版本等の相違を除き計八〇四書目あった。
この八〇四書目を分野ごとに分けると次のようになる。薬物書の「本草」系統が八七、古典の仲景医書にかんする「傷寒」「金匱」系統が六四と一〇、古典の内経医書(『素問』『霊枢』『難経』)にかんする「内経」系統が二五、針灸・経穴書の「針灸」系統が一五、疾患別の専書としては目立って数の多かった「痘疹」系統が三七、それ以外の医方書を主とする「医方等」系統が五六六である。次に八〇四書目につき渡来年等の記録回数を集計すると、計一九一七回だった。分類別では「医方等」一二九五、「本草」二五二、「傷寒」一七三、「金匱」二五、「内経」八二、「針灸」三一、「痘疹」五九である。これを一〇年ごとに集計して表1に、推移をグラフ1にあらわした。
表1 中国医書 渡来記録回数年表
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(1)年代推移
表1に示した一六〇一〜一八七〇年はおよそ江戸期に相当する。この二七〇年間を計量的に概観する目的で、歴史区分とはややずれる年代もあるが、かりに九〇年ごとに三等分してみた。そして一六〇一〜九〇年を前期、一六九一〜一七八〇年を中期、一七八一〜一八七〇年を後期とし、再集計したのが表2である。
表2 中国医書 渡来時期別の記録回数と割合(%)
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表2によると、渡来中国医書の全体では中期の記録がもっとも多く、四三%を占める。ついで後期の三七%>前期の二〇%の順となる。ただし七分類の各々でみると、全体と順なのは「医方等」「本草」「内経」で、「針灸」「痘疹」は全体と反対に前期>後期>中期の順になる。また「傷寒」「金匱」は後期>中期>前期という順で、時代が下がるにつれ渡来記録が増加していた。以上はある程度、全体の年代推移を反映しているかもしれないが、もう少し細かく見てみる必要もあるだろう。
二七〇年間に計一九一七回の渡来記録があるので、平均すると各一〇年ごとに七一回の記録があった計算になる。表1とグラフ1で見ても、各一〇年ごとの記録回数は六〇〜一一〇程度におさまる期間が多い。しかし極端に記録が少ない期間や、一五〇前後を越える期間もみえる。
一六〇一〜三〇年に記録が少ないのは以下の理由による。すなわち長崎における渡来書の調査は、寛永七年(一六三〇)に「切支丹宗門目付并御制禁之書吟味」を目的に春徳寺が幕命によって開かれ、春徳寺住持が代々この職を継いだことに始まる(11)。したがって一六三〇年以前に渡来書の公的な調査記録はおそらくない。ただし一六〇一〜一〇年にのみ一一書の渡来記録があるのは、林羅山の「既見書目録」(12)で中国医書を記す一六〇四年部分を二次史料に用いたからである。
一方、寛永十五年(一六三八)の鎖国令により、唐船貿易は長崎に限られた。そして翌一六三九年から長崎奉行の命で、向井元升(一六〇九〜七七)が「唐船より持渡る御書物御文庫納め」を主目的に輸入書籍を調べ始めている(11)。この任命は、一六三九年七月に幕府図書館の御文庫が紅葉山に新築・移転されたことと連動していたらしい。一次史料にある「御文庫目録」は、紅葉山文庫に一六三九年より渡来書をおさめた向井家の記録と推定されており(13)、それで一六三一〜四〇年から渡来記録が急激に増加している。
一六六一〜八〇年に渡来記録が急減したのにも理由がある。清朝は抵抗する鄭氏を誅滅するため、順治十八年(一六六一)に遷界令を発し、康煕二十三年(一六八四)に展界令が発布されるまで、一切の船舶の出海を禁じた(14)。この影響が急減した理由のほぼすべてに相違ない。
一七七一〜九〇年と一八二一〜三〇年の計三〇年間が少ないのは、一次史料に不足があるためだろう。と同時に、この期間は二次史料の不足が重なっている。一八六一〜七〇年に記録が一つもないのも一次史料・二次史料双方の不足による。これには幕末ということも関連するだろう。
他方、一七一一〜三〇年と一八三一〜五〇年の各二〇年間は記録回数が増加している。前期間では、享保五年(一七二〇)に徳川吉宗が天文・暦法の研究のため、「切支丹の噂迄に不障文句書入候分者、御用物者勿論、世間江売買為致候而も不苦候」という弛緩の令を出し(15)、書籍の輸入制限を緩和した。吉宗自身も地方志ほかを注文し、これを受けた唐船が一七二三年より持参し始め、一七二五・二六年には大量に運んできていた(16)。それらが影響したと考えられる。後者の期間は一次史料・二次史料ともに豊富なため、記録回数が増加している。
以上のように、渡来の記録回数はたしかに年代ごとの増減があった。しかし清朝が船舶の出海を禁じた期間を含む一六六一〜八〇年を除くなら、実際の渡来医書数は江戸期全般を通して極端な変化はなかっただろう。つまり各一〇年ごとに六〇〜一一〇回程度の渡来記録が通常で、中期の一七一一〜三〇年と後期の一八三一〜五〇年の各二〇年間にそのピークがあった、と結論づけられる。
ちなみに表1で分野ごとの年代変化を各々のピークでみると、それらのピークは少なくとも一つが一七一一〜三〇年か一八三一〜五〇年に重なっている。上述の年代推移は、各分野ごとの渡来記録でもおよそ同様だったとみていい。
(2)渡来の頻度
渡来記録の年代推移は、全体でも分野別でもおよそ同様の傾向が認められた。しかし江戸期全体を一括し、渡来記録の回数と書目数を比較するなら、分野ごとの特徴が浮かびあがるだろう。
そこで版本などの相違を除外した同一書が全江戸期で記録された回数、すなわち記録頻度を求めてみた。記録頻度は渡来書の記録回数(b)を書目数(a)で割ると得られ、結果を表3にまとめた。その平均値は二・四で、一中国医書あたり全江戸期で二・四回の渡来記録があったことになる。この平均値から大きく離れているのが「内経」の三・三と、「痘疹」の一・六だった。ともに平均値二・四から三〇%以上の差があり、とうてい集計上の誤差範囲ではありえない。「内経」は少ない書種がくり返し渡来し、「痘疹」はその逆なのである。この有意な特徴に渡来の傾向を窺えるかもしれない。
表3 渡来中国医書の書目数・記録回数・記録頻度
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たとえば「内経」系統で渡来記録が五回以上ある書は二五書のうち八書で、さらに集計すると『素問』は二〇回、『馬玄台注素問』は一一回になる(17)。「内経」の原典と少数の注釈書がくり返し渡来したのは、中国医学でもっとも重要であり、しかも難解な古典だからだろう。ただし『素問』も『馬玄台注素問(素問註証発微)』も、後述のように江戸前期すでに和刻本として出版されており、およそ日本側の需要で頻度が高まったとは考えにくい。中国側の事情で舶載されてきた結果、渡来記録の頻度が高くなったと推定すべきだろう。
一方、「痘疹」系統では三七書のうち渡来記録の最多は『痘疹全集』の五回が唯一で、大多数は一〜二回にすぎない(1)。この「痘疹」系統には古典がなく、また痘疹病には致死性で難治の天然痘が含まれる。それで各種の痘疹治療書が次々と中国で刊行され、日本に渡来したのである。
このように「内経」系統と「痘疹」系統の記録頻度は、きわだって正反対を示す。にもかかわらず、ともに輸入した日本側の事情ではなく、輸出した中国側の事情でそうなったらしい。むろん日本側の注文で渡来した書も少なくないが、渡来書全体にそう高い割合を占めるわけでもない。
ならば渡来記録の平均頻度と大差ない値を示した他分野でも、渡来書目数等の傾向はおよそ中国側の事情を反映した部分が大きいと推測できよう。
以上、渡来中国医書の傾向を資料の集計に基づき、年代推移と渡来の頻度から検討した結果、いくつかの傾向および特徴が得られた。これらについては再度、和刻本との比較でも検討することにしたい。
さて『年表』の見出し書名には朝鮮書が含まれ(18)、書名の表記が異なっていても同一書と判断できるものが少なくない(19)。また『年表』報告後に見出し書名と年代に追加(20)や誤認・誤字(21)が発見された書、さらに見出しが叢書名のため所収書でも集計すべき書がある(22)。よって前者を削除・調整し、後者を追加・訂正して集計した。その結果、江戸期に復刻された中国医書は、版本等の相違を除いた数で計三一四書目となった。
この三一四書目を大別すると次のようになる。すなわち「医方等」二〇七、「本草」二五、「傷寒」二七、「金匱」三、「内経」一四、「針灸」一四、「痘疹」二四だった。次に三一四書目の和刻回数を求めると、計六八〇回だった。細目は「医方等」四一一、「本草」五三、「傷寒」七〇、「金匱」一六、「内経」六〇、「針灸」三九、「痘疹」三一である。これを一〇年ごとに集計して表4にまとめた。その江戸期の推移をあらわしたのがグラフ2である。
表4 中国医書 和刻回数年表
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2 和刻書の傾向と特徴
(1)年代推移
まずグラフ2で全体の年代推移を概観してみよう。中国医書の和刻回数は一六〇一年から増加し、一六五一〜六〇年に一回目の大きなピークを形成する。そこから減少しはじめるが、一七六一〜七〇年以後は増加に転じ、一七九一〜一八〇〇年に二回目の小さなピークを迎える。のち減少し続けて幕末・明治にいたる。
これを表4でもう少し細かく分析してみよう。一六〇一〜一八七〇年の二七〇年間に中国医書が計六八〇回和刻されたのだから、平均では各一〇年ごとに約二五回和刻本が出たことになる。次にこの二七〇年間を九〇年ごとの前・中・後期に三等分し、各期ごとに平均値の二五回を上回る和刻があった一〇年間の数をみると、前期六回・中期二回・後期三回だった。これはグラフ2で見た大ピークと小ピークの存在に合致する。しかも前期は九〇年のうち計六〇年で平均値を越えており、和刻本が集中的に出たことを示している。
和刻時期 | 医方等 | 本草 | 傷寒 | 金匱 | 内経 | 針灸 | 痘疹 | 小計:割合 |
1601-1690 1691-1780 1781-1870 総計 | 210 106 95 411 | 24 14 15 53 | 13 29 28 70 | 3 4 9 16 | 7 8 5 60 | 4 8 5 39 |
3 17 11 31 | 324: 48% 186: 27% 170: 25% 680:100% |
さらに表4を九〇年ごとに再集計した表5で和刻回数をみると、前期が三二四回で全体の四八%、中期が一八六回で二七%、後期が一七〇回で二五%だった。すなわち中国医書の和刻は、全体として半数弱が一六九〇年以前の前期になされている。中期ではこれが急激に減少し、さらに後期はやや減少する。後期に和刻の小ピークがあったものの、それで後期全体が増加に転じるほどではなかったのである。
ところで前期のうち、初期にあたる一六〇一〜三〇年の和刻は計八一回になる。このうち、いわゆる古活字による印行と確証されるのは五五回にのぼっていた(2)(20)。一方、当時の印行と判断されている古活字版でも、印年の記載がないため本集計から除外したものは三〇版をゆうに越える(23)。
この古活字版は一回しか印刷できず、部数が少ないため整版本より現存率が低い。しかも時代の古い書物ほど現存率は低くなる。とするなら実際の和刻回数は古い年代ほど本集計より増加する割合が高く、とりわけ古活字版が主だった一六〇一〜三〇年間の和刻回数はさらに増加するだろう。ともあれ中国医書の和刻が全体として、前期に集中していたのは間違いない。
なお表5で分野ごとにみると、「医方等」「本草」「針灸」は全体の年代推移とおよそ合致するが、ほかの分野は必ずしも合致していない。つまり「内経」の和刻は前期に極端に集中し、「傷寒」「金匱」「痘疹」は逆に前期より中期・後期に和刻が多い。むろん和刻本は日本での需要を前提に刊行される。したがって以上の全体と分野別の年代推移は、江戸期における中国医書の需要、ひいては中国医学受容の反映といえよう。
(2)和刻の頻度
和刻本全体の年代推移と分野ごとの傾向がわかった。ならば江戸期全体を一括し、和刻回数と書目数を比較するなら、どのような特徴が浮かび上がるだろうか。
表6 和刻中国医書の書目数・和刻回数・和刻頻度
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そこで版本などの相違を除外した同一書が全江戸期で和刻された回数、すなわち和刻頻度を求めてみた。和刻頻度は和刻回数(b)を書目数(a)で割ると得られ、これを表6に示す。結果は平均値が二・二となり、一書あたり江戸期全体で二・二回の和刻がなされたことを意味する。平均値から大きく離れているのは「金匱」の五・三、「内経」の四・三、「痘疹」の一・三である。いずれも平均値二・二より三〇%以上の差があり、集計誤差ではなかろう。「金匱」と「内経」は少ない書種がくり返し和刻され、「痘疹」はその逆なのである。この特徴から和刻の傾向を分析してみよう。
「金匱」系統では『沈注金匱要略』が中期に一回、『金匱(要略)心典』が後期に二回和刻されている。他方、無注の単経本『金匱要略』は『仲景全書』所収本で五回(22)、単行本で八回(2)、計一三回も和刻されていた。ただしこれは集計上の数にすぎず、刊印年の記載がない版や、同一年に複数の版元で版木をたらい回しして刷られた先印・後印の別を加えると、単経本『金匱要略』の刊印は計四系統九版本二五種におよぶ(24)。「金匱」系統には一〇書目の渡来記録があったが、日本では単経本がとりわけ好まれていたのである。その背景は別に考察したい。
「内経」系統では江戸前期に集中して、少ない書目がくり返し和刻されていたことになる。その一四書目のうち和刻が五回以上されたのは四書で、『素問入式運気論奥』一三回、『難経本義』一二回、『素問玄機原病式』一〇回、『勿聴子俗解八十一難経』五回だった(3)(20)。この四書で計四〇回の和刻があり、「内経」系統全体の約六七%を占める。しかも当四書は「内経」系統の単経本ではない。読解が比較的容易な『難経』でも注釈本二種がくり返し和刻されている。もっとも難解な『素問』にいたっては、単経本でも注釈本でもなく、内容の一部を敷衍・解釈した書だけに和刻が集中している。「内経」系統は全般に難解なため、読解しやすい書が江戸前期にとりわけ好まれ、中・後期にはそれすら需要が減少したのである。これは、同様に和刻頻度の高い「金匱」系統で単経本のみ好まれ、江戸後期まで流行していたことと好対照をなす。
反対に和刻頻度が低い「痘疹」系統では、二四書目のうち和刻数の最多は『痘疹活幼心法』の五回が唯一、ほかは和刻二回が三書で、後はみな一回だった(3)(19)(20)。つまり様々な痘疹書が和刻されたが、うち一書がやや流行したのみである。同類傾向は「痘疹」系統の渡来記録の頻度でもみられ、各種の痘疹書が次々と舶載されていた。こうした和刻傾向の理由は渡来傾向のそれと同様で、痘疹病には致死性で難治疾患の天然痘が含まれ、また古典的書物がないことによるだろう。年代推移を除くなら、「痘疹」系統の書は中国の刊行事情と日本の和刻事情が同じだったと判断できる。
このように「金匱」系統で単経本、「内経」系統で注釈本がくり返し和刻されたのは、ともに日本における需要の反映だった。他方、「痘疹」系統で様々な書が和刻されたのは日本特有の事情からではなく、中国刊本にも同じ背景があったと考えられた。
ちなみに、和刻頻度の平均値二・二と渡来記録頻度の平均値二・四は近い。これから類推し、表6で和刻頻度が平均値と近い他分野でも、その和刻は渡来と類似の傾向にあると判断できるだろうか。あるいは「金匱」「内経」系統の和刻に垣間見られた日本特有の事情が、他分野の和刻にも通底してはいないだろうか。これらについて、渡来と和刻の中国医書をさらに比較検討してみたい。
これまでの検討より、中国医書の渡来記録回数は前期の一六六一〜八〇年に激減し、また中期と後期に各一回のピークがあったのを除き、全般的に極端な変化はなかっただろうと考えられた。一方、和刻回数は前期に約半数が集中し、後期に小さなピークがあったものの、中期以降は徐々に減少していた。およそ一定範囲の数量で渡来し続けていた中医書が、その和刻については中期から明らかに減少し始めている。これは日本側の事情、つまり中国医書の需要が減少したからに相違ない。なぜ減少したのか。
即座に思いつくことは伝統医学の日本化との関連である。これは、清初の『傷寒論』ブームに触発されて勃興した日本の古方派、そして『本草綱目』研究から名物学・物産学・博物学へと発展した日本の本草学で例証できるだろう。
いわゆる江戸中期の古方派とは視点をいささか異にするが、その最初の人物とされるのが名古屋玄医(一六二八〜九六)である。刊行された彼の書をみると、初版の年順で一六七二年の『纂言方考』、一六八四年の『難経注疏』、一六八八年の『医学愚得』と『丹水子』、一六九七年の『金匱要略注解』などがある。各書の刊行年をグラフ2にあてると、中国医書の和刻が大ピークから減少に転じた時期とよく合致する。彼が活躍した時代風潮と(追注)、和刻の減少が密接に関連しているのは明らかである。
江戸中期の古方派は、後藤艮山(一六五九〜一七三三)・香川修庵(一六八三〜一七五五)・山脇東洋(一七〇五〜六二)と続く。そして中国医学体系の大部分を否定し、仲景処方の応用を中心とする復古的日本化を推進した吉益東洞(一七〇二〜七三)にいたり、強烈な影響を日本全土に及ぼした。そうした古方派の影響で中期は中国医書の需要が減少し、その和刻も減少した可能性は高い。
では日本人が著述した医書の刊行にも、和刻中国医書の減少にともなう変化がみられるのだろうか。これを刊本となった本草・名物・物産・博物の書数で考えてみたい。そこで遺漏もややあろうが、該当する書の成立年ないし初版年で集計してみた。各書の復刻年まで計上することも可能だが、それよりは時代変化が明瞭に浮かび上がるからである。
前期には一六〇八年初版の曲直瀬玄朔『薬性能毒』から、一六九〇年成立の鷹取養巴『薬品炮炙論』まで三八書があった。中期では一六九二年成立の人見必大『本朝食鑑』から、一七七九年初版の杉山維敬『本草正正譌刊誤』まで七九書が刊行されていた。後では一七八五年初版の岡元鳳『毛詩品物図考』から、一八六九年初版の小幡篤次郎『博物新編補遺』まで一四三書があった。全期で計二六〇書である。
表5でこれに該当する和刻中国医書の「本草」をみると、前期二四回・中期一四回・後期一五回で、和刻の中心は前期にある。しかし日本の本草系統書は、上述のように時代が進むにつれ刊行書数が急激に増大していた。両者が反比例するのは明瞭だろう。日本化が進行した結果、日本書の刊行が増える一方、中国書の需要は減少したのである。
ところで後期の和刻中国医書には、小ピークが一七九一〜一八〇〇年にあった。後期全体では減少傾向にありながら、なぜこの時期に和刻数がやや上昇に転じたのだろうか。さまざまな背景が関与していそうであるが、和刻された中国医書の成立年代の面から、前期一六五一〜六〇年の大ピークと比較してみた。その結果を表7に示す。
表7 成立年代別中国医書のピーク期和刻回数
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これを見ると大ピークでは金元代の書が和刻の三八%を占めるが、小ピークでは一五%に減少したのが目立つ。また漢〜宋代と金元〜明清代に二分してみると、大ピークでは二一%対七九%だが、小ピークでは二八%対七二%に変化している。つまり後期の小ピークでは宋以前の書の割合がやや高まる一方、金元代の書の割合が大きく低下しており、どうも宋以前への復古傾向が窺える。
そこで医学の日本化と仲景医学への復古との関連から、明清代の「傷寒」分野に注目してみた。すると大ピークでは一書も和刻されていない。他方、小ピークに明代の「傷寒」系統書はないが、清代の『傷寒古方通』『傷寒論類方』各一回と『医宗金鑑』より単行の『訂正仲景全書傷寒論註』三回があり、計五回も関連和刻本が出ていた。小ピークは主にこうした復古傾向が関与し、宋以前の書や清代の『傷寒論』研究書が求められて形成されたと理解される。
以上をまとめておこう。
特定時期を除き、一定範囲の数量で渡来していた中国医書が、和刻については江戸中期から減少し始めていた。この相違は、渡来の傾向とほぼ無関係に和刻が行われたことを意味する。すなわち江戸前期は中国医学を集中的に受容していたが、中期以降は医学の日本化が進行して日本書の出版が増加する一方、和刻中国書の需要が減少した。後期には宋以前の書や清代の『傷寒論』研究書の需要で和刻がやや増加したが、全体の減少傾向に影響するほどではなかったのである。
では江戸期全体で、中国医書の需要と普及にどのような傾向が存在していたのか。これまでの検討を踏まえ、別の視点から分析してみたい。
2 普及程度と時期−和刻率・普及指数
中国医書の渡来と和刻の書目数・回数の概要が分野別に明らかになった。時期ごとの和刻回数と割合も表5に示すことができた。これを集計・比較するなら、分野ごとの需要傾向・普及程度・時期がわかるだろう。
需要傾向は渡来書が和刻された率から示唆が得られ、この和刻率は和刻書目数(b)を渡来書目数(a)で割ると求められる。一方、普及程度は和刻率に和刻頻度を乗じた値から示唆が得られるだろう。結局それは和刻回数(c)を渡来書目数(a)で割った値のことで、渡来した一書目あたりの和刻回数を意味する。これを普及指数と呼び、和刻率とともに表8に示した。
表8 中国医書の和刻率と普及指数
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さて和刻率の全体値は三九%なので、渡来した中国医書の三九%に和刻本となる需要があった。しかし前述のように、渡来数も和刻数も集計可能な記録による概数にすぎないよって誤差を最大三割とすると、全体値は二七・三〜五〇・七%の範囲になる。当範囲外だった九三%の「針灸」、六五%の「痘疹」、五六%の「内経」の各分野に、顕著な需要傾向があったらしい。
一方、普及指数の全体値は〇・八五で、やはり誤差を最大三割とするなら、全体値は〇・六〜一・一の範囲になる。範囲外は一・六の「金匱」、二・四の「内経」、二・六の「針灸」で、ともに全体値より大きい。それら各分野では、和刻中国医書の普及程度が高かったのである。
そこで和刻率と普及指数で全体値の誤差範囲外と考えられた「金匱」「痘疹」「内経」「針灸」につき、表5も参照して和刻本の需要傾向・普及程度・時期を考えてみた。「金匱」系統の和刻率は誤差範囲内だが、単経本の『金匱要略』が集計上だけで一三回も刊行されたため、和刻頻度は五・三と高く、それで普及指数も一・六と大きい。「金匱」系統は単経本に需要があり、後期に刊行の中心があって普及したのである。なぜなら中期の古方派勃興で『傷寒論』が流行し、後期には同じ仲景医書の「金匱」系統の需要が以前より増した。しかも当時すでに日本化が進行しており、日本人による注解研究書の刊行が時代を追うごとに増加していた(25)。このため需要の大部分は単経本の『金匱要略』にあったと理解される。
「痘疹」系統は和刻率が高いが、和刻頻度が一・三と低いため、普及指数は全体値と大差ない。かつ和刻は中後期が中心だった。つまり本系統の中国書は多くが中後期に需要があって和刻されたが、大多数は一回のみの復刻だったため、顕著には普及しなかったことになる。痘疹病の治療は難しいので最新書の知識が求められたが、すぐに飽きられたのであろう。中国でも同様だったらしいことは、すでに渡来頻度から考察した。
「内経」「針灸」系統は和刻率も普及指数も高い。「内経」では一書あたりの和刻回数、つまり和刻頻度が高いためである。「針灸」では和刻率が高いためで、渡来した一五書のうち一四書もが和刻本となっていた。しかも両分野の和刻は前期に集中していた。「内経」「針灸」書は前期に需要が高く、広く普及していたのである。江戸前期の日本人にとって針灸は技術的に、『内経』は内容が難しいため、多くの中国書を必要としたのだろう。中後期になるとこれら難点が克服されたため、需要も普及も激減したと考えられる。以上の結果を、さらに別の面からも検討してみよう。
3 普及速度−渡来年と和刻年の差
まず江戸前期に集中的な需要と普及のあった「内経」「針灸」系統につき、和刻年と渡来年の差を検討した。一六〇一年以降に和刻の初版が出た中国医書につき、和刻底本の中国版刊年と日本への渡来初記録年、そして初和刻年を調査し、相互の差から普及速度を考えてみるのである。
ただし和刻本の初版となると江戸初期が大部分で、ほとんどが古活字版のため印行年や底本の記載がなかったりする。さらに当時の渡来を記録した史料の現存は少なく、底本とされた中国版の渡来年が確証できるのはまれにしかない。よって初和刻年が知られた書で、底本中国版の刊行年か渡来年かのいずれかが推定でもわかる九書につき、初版の年順に表9にまとめた。
表9「内経」「針灸」書 和刻年・渡来記録年・中国刊年の差
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この表で明らかなように、「内経」書では注釈本の『難経本義』『素問注証発微』『素問入式運気論奥』がまず先に刊印されている。そのあと、原典たる『素問』『霊枢』『難経』が単経本で刊印される。「針灸」書も同様だった。たとえば『十四経発揮』は初和刻が一六〇一年以前につき表には省いたが、和刻が五回あったあとに古典の『針灸甲乙経が刊行されている。当時も今も、最初から原典を読む人などまずいない。注釈本が普及したあとで単経本の需要が生じた史実を、これは如実に示している。
渡来記録年ないし底本の中国刊年から、和刻にいたる差ではどうだろうか。渡来初記録の一六〇四年はみな林羅山によるもので(12)、うち注本の『素問注証発微』については渡来年が確定できる最初の記録である。それ以前に渡来していたかもしれないが、ともあれ渡来初記録の一六〇四年から、わずか四年後に和刻本となっている。その底本刊年は一五八六年に間違いなく(26)、それからしても二二年で和刻されていた。
一方、和刻最初の新校正本『素問』は元和年間(一六一五〜二四)刊印の古活字版で、底本は周曰校の一五八四年刊本である(27)。その渡来年は不詳だが、周曰校本から和刻本には三一〜四〇年の差がある。一六四八年に和刻初版が出た『甲乙経』も渡来年は不詳だが、その底本は一六〇一年に刊行された『古今医統正脈全書』本系統である(28)。したがって医統本から和刻本の差は四七年となる。
以上のように中国刊本から和刻本にいたる差は、注釈本で二二年、単経本で三一〜四七年だった。どうも注釈本は単経本より、和刻にいたる年数がやや短いらしい。そうした目で表9をみると、羅山が一六〇四年に実見した書でも、『難経本義』と『素問入式運気論奥』は三年後と七年後の和刻なのに、『霊枢』は五六年後である。
そもそも注釈本と単経本で、中国の刊行から日本への渡来に大きな時間差があるとは考えにくい。単経本の和刻が注釈本より遅い傾向にあるのは、やはり日本側の事情だろう。先の考察結果からすると、古典単経本と注釈本がほぼ同時期に渡来していても、難解な古典に和刻本の需要はなく、まず注釈本から先に和刻されたのである。のち人々がこれを卒業するようになり、はじめて単経本に需要が生じて和刻本が出たのに違いない。
表9でみると、「内経」「針灸」古典の『素問』『甲乙経』『霊枢』『難経』が単経本で出揃ったのは一六六〇年頃で、これ以前は注釈本の時代だった。そうすると江戸前期の一般傾向として、人々はおよそ四〇〜五〇年かけて注釈本を卒業し、単経本を必要とするようになった。ここに当時の中国医学の受容傾向と普及程度を窺うことができる。
表10 渡来初記録年と初和刻年の差が10年以内の中国医書
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さらに中国医書全体について渡来初記録年から初和刻年までの差を調べてみた。表10がそれで、一〇年差までをあげた。これを通覧するなら、圧倒的に江戸前期に集中していることがわかるだろう。前期は和刻本の半数が刊行され、中国医書の需要が高かったが、渡来から和刻までの年差も短い。つまり普及速度も早かったのである。ただし高い需要があったからといって、やみくもに渡来書が和刻されていたのではない。
たとえば、『仲景全書』は渡来記録の七年後に和刻本が出るが、中国版の所収四書には単経本の『宋板傷寒論』と注釈本の『注解傷寒論』がある。ところが両書の経文には相違があって混乱するうえ、『注解傷寒論』以降にも名家の注本は多い。一方、和刻の『仲景全書』は諸注を集成した『集注傷寒論』を加え、かわりに『宋板傷寒論』と『注解傷寒論』を削除した結果、計三書から構成される。さらにこの『集注傷寒論』の経文には、『宋板傷寒論』との校異の頭注が和刻版独自に施されている(29)。和刻の『仲景全書』は日本化しているのである。「内経」「針灸」書でも注釈本が単経本より先に和刻されていた。
このように集中的に和刻がなされた江戸前期から、すでに日本独自の視点で中国医書が選択的に受容、あるいは加工されているのは注目に値しよう。
では全体で、渡来から和刻にどれくらいの年数がかかっていたのだろうか。渡来記録書名と和刻の書名をつき合わせ、同一書と判断された一九九書につき、初和刻年から渡来初記録年を引いてみる。渡来初記録年より前に和刻本が出ているとマイナス年となるが、これを含め年差五〇年ごとに集計し、さらに初和刻年を前・中・後期に分けて表11に示した。この前・中・後期ごとの総数は五〇%・三〇%・二〇%の割合であり、表5のそれとさほど違わないので、およその全体傾向を反映しているとみていい。
表11中国医書初和刻と渡来初記録の年差・時期別書目数(%)
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さて、渡来記録後〇〜五〇年で和刻された書は平均で四六%になるが、前期では五六%と高い。そして中期が四一%、後期が二七%と低下している。表10の一〇年以内でも同様だったが、中国医書の普及速度といえる渡来から和刻までの年数は、江戸の早期ほど短かったことがこれで確証された。
一方、後期には一五一〜二〇〇年も前に渡来記録のあった六書が和刻されている。かくも久しく和刻需要のなかった書が、なぜ後期になって出るのだろうか。この六書をあげると、宋代の『聖済総録』『幼々新書』『外科精要』、金代の『注解傷寒論』、元代の『医塁元戎』、明代の『活幼便覧』である。元明代の二書は落ち穂ひろい的な印象もあるが、宋金代の書は各分野の準古典といえる。先に検討した和刻の年代推移では、後期の小ピークに復古的な傾向がみられた。すると宋金代の書が渡来記録から一五〇年以上もたって和刻されているのも、やはり後期の復古傾向と関連するに相違ない。
ちなみに上野は(30)、内閣文庫が所蔵する幕府紅葉山文庫旧蔵の中国刊医書三二三部と渡来記録を対照調査し、約四割の一二三部が中国刊行の五〇年以内に渡来していたことを報告している。そして表11のように、渡来した四割以上が五〇年以内に和刻されていた。両集計から、江戸期における中国医学の伝来速度、また普及の速度と程度が理解できるであろう。こうした中国医書の和刻傾向に別な要因はないのだろうか。さらに検討してみよう。
4 普及書の特徴−渡来と和刻の上位書
中国医書全体でいかなる書がどの程度、江戸期に普及したかは和刻回数でわかるに違いない。その回数が多ければ普及程度も大きいはずなので、表12に和刻回数が多い上位一〇書をあげた。また比較として渡来記録の上位一〇書とその中国版数、各々について成立時代・巻数・記録数(前期・中期・後期)も記した。これで和刻書と渡来書をみると、一書として共通していないことにまず気づく。その理由を考えてみよう。
表12 中国医書 和刻と渡来の記録上位10書
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渡来記録が三四〜一七回の上位一〇書は、すべて清代までに一〇版以上刊行され(31)、中国で流行した書だった。それゆえ同時代の書が多く、明代五書・清代四書・唐代一書となっている。中国でくり返し出版されていた書は中国商船に積み込まれる機会が多く、むろん日本への渡来も多くなる。ただし中国書の出版地と中国船の出帆地の関連もあり、これだけで説明はできない。
そこで各書の巻数に注目すると、みな一〇巻以上で、多くは五〇巻前後、『薛氏医案』二十四種にいたっては計一〇七巻にもなる。これらはボリュームがあるため、一括して高値で売れる可能性が高い。中国船主はこうした本を選択し、数多く舶載してくる傾向があったのである。これまで検討してきた渡来書のさまざまな傾向には、中国側の事情の反映だろうと推測されたものがあった。その事情の多くは、当該書の中国での流行と巻数の二点から理解できるであろう。
では全江戸期に二六〜一〇回も和刻され、ベストセラーだった上位一〇書はどのような書なのか。これらの巻数をみると、一〇巻の『傷寒論』と八巻の『万病回春』以外、みな三〜一巻本である。ただし『傷寒論』は一〇巻だが、経文部分の葉数は『万病回春』の約三分の一しかない。『金匱要略』も三巻本ではあるが、葉数は『万病回春』の約八分の一である。つまり『万病回春』を除くと、全江戸期のベストセラーは薄い書だった。それゆえ中国文の読解が困難な日本人にも通読しやすく(32)、よく売れて一〇回以上も和刻されたのに相違ない。
なお和刻上位一〇書の成立時代をみると漢代二書・宋代一書・金代一書・元代三書・明代三書で、渡来書より広い時代にわたっている。しかも清代の書は一点もない。明清代の最新書ということは、日本で流行する第一条件ではなかった。和刻書は中国での流行や最新性とは無関係に、江戸前期から日本独自の視点で流行していたのである。
和刻上位書のうち、古典の単経本は仲景医書の『傷寒論』と『金匱要略』のみで、ともに中期から和刻が急増している。同時期の中国で刊行された単経本『傷寒論』は一五九九年の『仲景全書』本が最後、単経本『金匱要略』は一六二四年の『医種子』本が最後で、のち両書の和刻版単経本が清末期に還流して復刻されるまでひとつもない。江戸中期以降の両単経本の流行は、日本に特有の現象なのである。逆にほかの和刻上位八書は前期に集中し、中期から激減する。中期からの仲景医学への復古と日本化が明瞭によみとれよう。一方、前期に集中的に和刻された八書でも渡来書とは傾向がまったく違う。もちろんベストセラーは薄くて通読可能な書、という条件が全江戸期に通底していたせいに違いない。
ただし例外は、巻数が多いにもかかわらず流行した『万病回春』だろう。その和刻は集計で一八回となるが、実際は三〇回に達する可能性がある(33)。ところが中国版は二二種で(31)、渡来記録は一六三八〜一七六三年までに五回あったにすぎない(1)。本書は江戸前期にかけて中国以上に流行し、当時とりわけ好まれ利用されたのである。つまり前期は『万病回春』、中後期からは単経の仲景医書が流行の中心だった。
以上のように和刻と渡来の上位書がひとつとして共通していないことは、全江戸期を通し、おもに通読しやすい中国医書を選択的に受容していたことの反映だった。これまで検討してきた和刻書の傾向で、日本側の事情によるだろうと推定された多くには、これも関与しているのである。たとえば和刻率・普及指数ともに高い「内経」「針灸」分野の書を表12でみよう。やはり『十四経発揮』と『運気論奥』は各三巻、『難経本義』は二巻、『玄機原病式』は一巻と、みな三巻以内の薄い書なのである。こうした江戸期の受容傾向の延長ともいえるが、もうひとつ和刻本に無視できない日本化現象がある。
(5)中国書の日本化−抜粋・再編による和刻本
江戸前期に和刻初版の出た『仲景全書』は中国版の再編であり、日本化していたことをすでに指摘した。同様の例がかなり多いことは注目していい。
早い例では『医方大成論』一巻がある(34)。その序は元・孫允賢の作と記すが、実際は日本人の手で明・熊宗立の『医書大全』二四巻から医論のみを抜粋・編集したもので、正確には中国書といいがたい。本集計では表12のように江戸期に二六回の和刻があって最多だが、文禄五年(一五九六)の初版以来の刊印年不詳版を加えると計三七版にものぼる。同じ一五九六年に初版が出た『(証類)本草序例』一巻も、『政和証類本草』三〇巻の巻一「序例上」全文と巻二「序例下」の一部を抜粋し、さらに『大観証類本草』三一巻の艾晟序文を付加する。これも日本人による編集で、のち江戸期にも八回刊行された。
同類例では、表12で和刻一〇回の『医学正伝或問』一巻がある。この書は『医学正伝』八巻の巻一「医学或問」だけの抜粋・単行で、一六二一年に初版が出ている。一六六〇年と九〇年に和刻の『通用古方詩括』一巻も、『医学入門』巻七下の抜粋・単行である。また『景岳全書』六四巻からの抜粋では、一七二二・三二年刊の『張景岳新方彙』一巻、一七二八年刊の『精選幼科良方』一巻、一七二九年刊の『精選治痢神書』三巻・『張氏治瘧必喩』二巻、一七三七年刊の『張景岳傷寒録』三巻(05,2,21補足:同年初版(一八二九補刻)の『古方類聚 増益新方』一巻もある)、一七五九年刊の『腫脹全書』『腫脹要訣』各一冊がある。あるいは一八三九年に尾張医学館の浅井正封が一括刊行した三書は、『千金方』三〇巻から抜粋した『五蔵六府変化傍通訣』一巻、『十四経発揮』三巻からの『十四経穴分寸歌』一巻、『万病回春』八巻からの『諸病主薬』一巻よりなる。以上の抜粋本や再編本は、みな三巻以内であることに注目したい。
また注釈本から経文のみ抜粋するという、妙な単経本の再編方法も日本独特と思われる(35)(36)。表9にあげた一六六〇年に活字刊印の単経本『難経』がその嚆矢らしく、『難経本義』を底本に経文を抜粋する。ほぼ同時に活字印行された『霊枢』『素問』『傷寒論』も単経本で、『傷寒論』は『注解傷寒論』が底本である。おなじ手法で香川修庵が一七一五年に抜粋・刊行し、のち大流行したいわゆる小刻本『傷寒論』より半世紀も前のことだった。いずれも底本より縮小しているのはいうまでもない。
こうした単経本でもっとも奇抜なのは、鵜飼石斎(一六一五〜六四)が『類経』三二巻から経文を抜粋し、それを再編した『素問』『霊枢』各九巻である(35)。このいわゆる類経本『素問』『霊枢』は刊年不詳だが、『類経』の原篇名を欄上にきざむので、和刻『類経』との相互対照が目的だったらしい。しかし、そこに日本のいわゆる縮み指向がみえかくれするではないか。
叢書からの単行本もある。たとえば和刻『仲景全書』から削除された単経本『宋板傷寒論』のみは(29)、一六八八・一七九七・一八四四・五六年と四回も版をあらためて単行された。このような現象も当時の中国にない。小刻本『傷寒論』や単経本『金匱要略』の流行もそうだが、江戸中後期に仲景医書が好まれた現象の一環ともいえよう。前述したように後期の一七九二・九五・一八〇〇年に三度、『医宗金鑑』九二巻から『訂正仲景全書傷寒論註』一五巻が単行されたのも同類である。『医宗金鑑』からは、一七九七年に『幼科種痘心法』一六巻も単行されていた。
以上はみな本来の大部な書から抜粋し、小部な書に再編して和刻している。しかも、これは江戸の全期にわたって行われていた。それは日本人が好み、かつ通読可能な部分を復刻・販売するのが第一目的だったろう。しかし、こうした江戸前期からみられた操作に、大部な書がベストセラーとなっていた中国とはおよそ異なる、日本独特の縮み指向が投影されているのは見逃せない。
一方、当時の中国で大部な書がベストセラーだったといって、『景岳全書』六四巻や『医宗金鑑』九二巻などの購入者が皆、通読目的だったはずもない。それらの大多数が百科全書的な医書・薬書であることに注目するなら、必要部分を繙く書として売れたと見るべきだろう。中国では通読するためでなく、事典的利用のために大部な書が好まれたのである。
そこで中国と日本の各種蔵書目録を対照して佚存中国医書を抽出し、集計することにした(37)。ただし江戸期とおよそ対応させるため、元以前刻本と室町以前写本を除く明清刻写本・日本近世写本・江戸期和刻本・朝鮮版を集計対象とし、それらの書目数を内容の成立年代ごとに集計して表13にまとめた。なお同一の佚存医書に、刻・写本などの別があるときは刻・写それぞれに計上したが、各々の現存書数は集計していない。したがって実際は書目数がやや少なく、書数がかなり多くなる。
表13 佚存中国医書 刻写別の書目数と内容の成立年代
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集計対象の佚存中国医書は計一六七書目にものぼったが、むろん中には室町以来の渡来書も含まれている。『目録』(1)と対照すると、一次史料に渡来年が記録されていた佚存書は五四書目だった。ただし、一六七書目のうち一四六書目は内閣文庫の蔵書にあり、その大多数は幕府江戸医学館と幕府紅葉山文庫の旧蔵書である。すると江戸期をはるかにさかのぼる時代の渡来書は、そう多くないと考えていいだろう。以上をふまえ、佚存書を成立年代別に通覧してみたい。
宋代と金元代の成立書が計一〇%と少ないのは、書物自体の刻写年代を限定して集計したので、いわば当然の数字といえよう。にしても時代的に伝存率の低い貴重書が、日本だけに計一七書目もある。うち日本近世写本と和刻本のみで一三書目を占めていた。これらは日本で筆写し、また和刻本とする貴重視があってこそ伝承された書なのである。
一方、明代の書は一一八書目・七一%もあるが、江戸期とほぼ重なる清代の書は二四書目・一四%しかない。といっても日本に清代の書が、明代の書ほど伝承されなかったわけではない。これは明らかに中国側の要因で、時代が近い清代の書はよく伝承しているが、明代の書は伝承率が日本より極端に低いことを物語っている。それにしても、明代の医書が一一八書目も中国になくて日本にあるのは、やはり特異な現象といわねばならない。前述のように、佚存医書のほとんどが紅葉山文庫と江戸医学館の旧蔵書であった。幕府両機関の蒐集と保存なくして、かくも多量の佚存明医書さらに佚存中国医書はありえなかったのである。
ところで中国医書の普及やその受容面からみると、和刻の佚存書はきわめて興味深い。中国で散佚するような書に、日本では復刻する価値を認めていたからである。その価値とはどのようなものだろうか。この一一書を和刻年順に列挙してみよう。
一六一四・四八年刊『儒医精要』一巻
一六四六年刊『保嬰録』一巻
一六七五年刊『小青嚢』一〇巻
一六九三年刊『類証陳氏小児痘疹方論』二巻
一七一六年刊『病機賦』一冊
一七一九年刊『痘疹慈幼津{木+伐}』二巻
一七二八年刊『痘疹経験要方』二巻
一七四二年刊『小易賦』一巻
一七五七年刊『五蔵方』一冊
一七九〇年刊『潔古明備論』一巻
江戸未詳年刊『新刊参補針医馬経大全』四巻
以上は表13のように金元三書・明八書と、やはり明代の書が多い。巻数も『小青嚢』『新刊参補針医馬経大全』以外みな一〜二巻ないし一冊で、日本で好まれた薄い書の条件にあう。しかし和刻の初版年では、前期三書・中期六書・後期一書・未詳年一書と中期に多く、和刻中国医書の全体傾向と合致しない。和刻回数も二回が一書、あとはすべて一回だけの和刻で、流行した書ではない。一六八八年以前に渡来し、明版が現存する『新刊参補針医馬経大全』を除く一〇書のすべては渡来記録が一次史料にも二次史料にもなく、『保嬰録』に明版と『痘疹慈幼津{木+伐}』に江戸写本もある以外、みな和刻本でのみ現存する。こうした傾向からすると、すでに当時からいわゆる珍本・孤本としての価値が認められ、和刻された可能性が考えられる。ともあれ、それで現在に伝承されたのであるから、和刻の意義は大きかった。
2 中国への還流
幕末までに渡来し伝承されてきた中国医書は、中国刊本・写本と日本刊本・写本の四種に大別できる。それらの多くは明治政府による伝統医学の廃止政策で価値を失い、一部は伝統医学を存続した中国に伝入した。これを還流という。のみならず日本の著述も数多く中国に伝入した。その少なからぬ還流書と伝入書が、現在にいたるも中国で復刻され続けている。いったいどれほどの書が還流や伝入したのか推計してみよう。
還流と伝入の状況はこれまで報告をかさねてきたが(38-45)、還流の中国医書は日本刊写本で二九六書目、伝入の日本医書は日本刊写本で七五一書目あった(41)。その点数は、還流中国書の日本刊写本が書目数の四・五倍ほど、伝入日本書の日本刊写本が書目数の二・五倍ほどと思われる(46)。これから単純に計算すると、総数は約三二〇〇点になる(47)。
一方、還流した中国刊写本も無視できないが、蔵書目録からは中国在来書と区別できない。しかし実際に中国の各図書館を調査すると、蔵書の多いところではしばしば日本人の書き込みや蔵印のある中国刊本が発見される。さらに以上の数字には、還流書や伝入書が多い台湾の蔵書を含まない。そうしたさまざまな要素からおおざっぱに見積もると、明治以降から中国に伝入した日本旧蔵医書はおそらく四千点以上になるだろう。2007,3,12補記:ちなみに大蔵省関税局編『大日本外国貿易年表』(東洋書林、1990年復刻)によると、明治15〜29年の15年間に中国へ輸出した本は75万冊ほどになる(49)。
さらに中国に伝入したのは書物にとどまらなかった。無用となった版木が輸出され、それで印刷された書もある。これまでの調査結果(38)(45)などによると、以下の中国医書が和刻版木で印刷されていた。
一八七四年に広東で印刷された『外台秘要方』は、一七四六年に和刻(一八三九年後印)された山脇本の版木による。これは三木佐助(一八五二〜一九二六)が広東人華僑の麦梅生との合弁で、一八七一〜七九年まで広東にて日本からの輸入書を販売し、また『外台秘要方』『東医宝鑑』『医宗金鑑』の和刻版木を売った、という報告(48)と符合する。一八七八年に上海と蘇州で印刷された『千金翼方』『千金方』は、おのおの江戸医学館が一八二九年と一八四九年に和刻した版木を用いている。一八八七年前後に岸田吟香(一八三三〜一九〇五)の上海楽善堂が印刷した『玉機微義』『針灸素難要旨(針灸節要)』は、それぞれ一六六四年(一七八四年後印)と一七一五年(一七五三年後印)の和刻版木を使用する。一八九九年に浙江書局が印刷した『張氏医書七種(張氏医通)』は、一八〇二年(一八〇四年後印)に和刻された版木による。
なお日本医書では、一八五七年に多紀雲従が再版した『観聚方要補』の版木により、中国で五回ほど印行されている。一八八四年には、楊守敬が多紀氏の著作一三書を和刻版木で印刷した。朝鮮医書では、徳川吉宗の命により一七二四年に和刻(一七三〇・九九年後印)された『訂正東医宝鑑』の版木で、上海の朱曜之が一八九〇年に訓点等を削り去って印刷しており、前述の三木佐助が売ったという版木を用いたに間違いない。また来日した清人が、入手した書を日本で版木に彫って印刷した例もあった。一八八九年に傅雲竜が和刻した仁和寺本ほかの『新修本草』、一八九〇年に羅嘉杰が和刻した倣宋版『備急灸方』と朝鮮書の『針灸択日編集』である。
このように当時の中国人が日本の版木で印刷した日・中・朝の医書は二五種にのぼったが、調査が進めばより増えるであろう。日本から中国への医書や版木の還流・伝入が、医学文化の保存にはたした役割はきわめて大といわねばならない。
1 中国医書の渡来記録は八〇四書目について一九一七回あった。年代推移では各一〇年ごとに六〇〜一一〇回程度の記録が通常で、中期の一七一一〜三〇年と後期の一八三一〜五〇年の各二〇年間にそのピークがあった。とくに「内経」系統は原典と少数の注釈書がくり返し渡来し、逆に「痘疹」系統では様々な書が次々と渡来していた。こうした傾向の背景に、中国で流行し、かつボリュームがあって高値で売れる書を、中国船主が数多く舶載した現象を認めた。
2 中国医書の和刻は三一四書目について六八〇回あった。年代推移では和刻回数の約半数が一六九〇年以前の前期にあり、中期に急激に減少し、さらに後期に減少していた。当現象は中期からの医学の日本化と日本医書の出版増加で、中国書の需要が減少したことの反映である。それは一面で仲景医学への復古でもあったため、前期で『万病回春』が流行したのにかわり、中後期から仲景医書が流行した。後期には宋以前や清代「傷寒」系統の書の和刻がやや増加したが、減少傾向には影響していない。
3 分野別の和刻では、「内経」「針灸」系統が前期に集中して普及していた。当時の日本人にとって「針灸」は技術的に、「内経」は内容が難しかったためである。注釈本が普及した四〇〜五〇年あと、単経本が和刻されていたのも同理由による。中後期にはこれら難点が克服され、両分野の書は需要も普及も激減した。一方、「金匱」系統は単経本に需要があり、後期に普及している。「痘疹」系統は中後期に需要があったが、普及程度は小さかった。。
4 全体では渡来書の約四〇%が和刻され、積極的に中国医学を受容していた。それも渡来から和刻まで五〇年以内が四六%と高率を占め、この和刻にいたる速度は江戸の早期ほど早い。和刻のベストセラーは江戸前期から三巻以内の薄い書で、中国の流行書や最新書とは無関係だった。本来の大部な書から抜粋し、小部な書に再編した和刻本も全江戸期にある。これら前期からあった傾向に、大部な書が流行した中国とは異なる、日本的な縮み指向が窺えた。中後期からの仲景医書の流行にも当要因が通底している。
5 明以降と江戸期に刊行・筆写された中国医書で、いま日本にあって中国にない佚存書は一六七書目にのぼっていた。そのかなりは江戸期の渡来と思われる。うち明代の成立は一一八書目、清代の成立は二四書目で、ほとんどが江戸医学館と紅葉山文庫の旧蔵書である。特異な例は佚存書の和刻版一一書で、これらは江戸前期からいわゆる珍本・孤本としての価値が認められ、和刻された可能性が考えられた。
6 明治以降に中国へ還流した中国医書は日本刊写本で二九六書目、伝入した日本医書は日本刊写本で七五一書目で、いま中国にある日本旧蔵の医書はおそらく四千点以上になろう。興味深い現象では、和刻版木まで中国に輸出されていた。それで印刷された中国医書は九書、日本医書は一四書、朝鮮医書は二種をかぞえた。
7 以上のように日本は全江戸期をとおして、独自の視点で中国医書そして医学を受容し、同時に日本化していた。この過程で蓄積された文献や研究は厖大な数にのぼる。そして一部が明治以降に日本を離れ、かつての恩にようやく報いたといえる。
*本稿は第七回国際東洋医学会学術大会(7thICOM、一九九二年十一月二十日、台中市)での招待講演「日本における中国医学の受容−江戸時代の輸入書と復刻書」をもとに、大幅に修正・加筆した本稿との同名論文(山田慶兒・栗山茂久編『歴史の中の病と医学』301-340頁、1997年3月、京都・思文閣出版)をさらに補訂したものである。
謝辞:本調査・研究に、貴重な資料を提供いただいた北里研究所東医研医史学研究部の小曽戸洋部長、黒竜江中医薬大学医史学教研室の王鉄策副教授に深謝する。
なお本調査・研究費用の一部は、日中医学協会の一九九六年度日中医学学術交流促進事業(日本財団補助金による)助成による。
(2) 小曽戸洋・関信之・栗原萬理子「和刻本漢籍医書出版総合年表」『日本医史学雑誌』三六巻四号、一九九〇年一〇月、四五九〜四九四頁。
(3) 小曽戸洋「和刻本漢籍医書出版総合年表−書名索引」『日本医史学雑誌』三七巻三号、一九九一年七月、四〇七〜四一五頁。
(4) 小曽戸洋「和刻本漢籍医書出版総合年表−出版者名索引」『日本医史学雑誌』三九巻四号、一九九三年一二月、五七三〜五九四頁。
(5) 蘭書と判断されたものには解体書・解体図書類画・草花書・草木書・治療書・本草書・本草図がある。
(6) 朝鮮書には郷薬集成方・東医宝鑑がある。
(7)版本や略称などによる書名の相違で、たとえば医学源流と増補医学源流、医学入門と編注医学入門、医貫と趙氏医貫、易簡方と易簡方論など枚挙に暇がない。それらは各々同一書とみなした。
(8)依拠した史料自体の誤記による書名文字の相違で、たとえば医涯は医匯の、医学統書は医学統旨の、医続は医読の誤記と判断される。これらも枚挙に暇がなく、みな各々同一書とみなした。
(9) 書名では「活人心 一六三八(御文)」「奇郊(効)良方 一六三八(御文)」「甦生酌(的)鏡一六五三(御文)」「五福全書一六四六(御文)」「済世丹砂 一六四六(御文)」「児科全生集一八二九(587A)」「詩経名物疏一七一〇(281B)、一七五四(724A)」「疹痘(痘疹)全書 一六三八(御文)」「図注脈訣一六三八(御文)」「大丹直指 一六四四(御文)」「洞天奥旨(外科秘録)一八〇三(669D)」「毛詩草木疏一八〇一(698D)」の追加がある。年代では元亨療馬集に一六五五(御文)、種痘新書に一八二九(584C)、食物本草会纂に一七一九(243A)、徐氏針灸に一六三八(御文)、肘後方に一六三八(御文)、丹台玉案に一七二六(684C)、本草求真に一八〇四(上野益三・日本博物学年表)、本草備要に一八四九(529C)、名医類案に一八四五(622D)、薬性要略大全に一六三八(御文)、六醴斎医書に一八四五(622D)、劉河間医学六書に一八〇四(582C)、類経に一六三八(御文)の追加がある。
(10)書名では二項目ある摂生衆妙方のうち、後者が摂生総妙方の誤植だった。年代では心印紺珠の一六〇四は一六四〇の、医学指要・銅人図・銅人形図・洗冤録・幼々集成の一四八は一八四九の、韓氏医通の一八六五は一八五六の誤植だった。また[図注]脈訣の一六二六、本草綱目の一六四四、広嗣紀要の一六五二、済世良方・三因方の一六五九、万病回春・和済方の一六六二、雷公炮製の一六六三、明医指掌・明堂灸経・明目直指・明論医方の一六七一、百代医宗の一六七九、大素脈訣・丹渓纂要・丹渓心法・丹渓心法付余の一六八三、脈訣・脈訣精要の一六八四、東垣十書・痘経会成・得効方の一六八五、恵民正方・外科集験方・外科精要の一六八六、嬰童百問・子午流注針経・集験方・袖珍方・十便方・傷寒百証・傷寒門・傷寒六書・傷寒論・尚論編・針経指南・仁斎直指の一六八八(唐目)、素問霊枢の一六九一、聖済総録・薛氏医案・千金翼方・全幼心鑑の一六九三、葉氏録験方の一六九四、薬性大全・薬種異名・楊氏家蔵方・養生月覧の一六九九、婦人良方の一七〇〇、救急易方・玉機微義・局方指南の一七〇四、衛生易簡方・衡(衛)生方・古今医鑑・古今医統の一七〇六、治薬方の一七一二は、みな寛永十六年(一六三九)以前に紅葉山文庫に納められたが、すべて入庫年不詳につき一六三八(御文)に改めた。
(11)大庭脩『江戸時代における中国文化受容の研究』、同朋舎出版、一九八四年、五七〜五九・一八七・一九三頁。
(12)林春斎「羅山先生年譜」(国立公文書館内閣文庫蔵『羅山先生集』付録巻一所収)、一六六一年、二七〜二八葉。
(13)大庭脩「東北大学狩野文庫架蔵の御文庫目録」『関西大学東西学術研究所紀要』三号、一九七〇年、九〜九〇頁。なお当目録は一六三九年以前に御文庫へ納めた書の納入年を記さないので、それらについては注(10)で改めたように一六三八年の渡来とした。
(14)文献(11)、二三頁。
(15)文献(11)、一九〇頁。
(16)文献(11)、二八二〜二八四頁。
(17)書名を適宜統一し、記録の多い順に書名(記録数)を挙げると次のようである。素問・霊枢(一三)、類経(一〇)、素問(七)、[図注]難経脈訣(七)、[馬玄台注]素問・霊枢(六)、霊枢(五)、[馬玄台注]素問(五)、素問直解(五)。以上には二書の合刊本もあるので整理すると、素問(二〇)、霊枢(一八)、[馬玄台注]素問(一一)、類経(一〇)、[馬玄台注]霊枢(霊枢馬玄台注の記録が別に一回あるので計七)、[図注]難経脈訣(七)、素問直解(五)となる。
(18)一七二四・七九・一八二八の東医宝鑑、一七二五(および一七七八)の針灸経験方、一八〇七の針灸明鑑、一八六一の医方類聚が朝鮮書である。
(19)一七三二・四三・八八・一八〇二・〇六・五三の金匱要略と一七四二・一八〇一・五三の金匱要略方論、一七四三・九〇・九九の神農本経と一六六三・一八五四の神農本草経、一八二三の金匱心典と一八四一の金匱要略心典、および文献(3)で相互に→印で示す医方考と名医方考、痘疹活幼心法と活幼心法、証類本草序例と本草序例、千金方と備急千金要方、内外傷弁惑論と弁惑論がある。
(20)小曽戸氏と筆者の知見による。年代と書名双方の追加では、一六五七の{臣+頁}生微論、一六五九の{金+契}王氏秘伝図注八十一難経評林捷経統宗、一六六〇・九〇の通用古方詩括、一七二八の(精選)幼科良方、一七二九の張氏活瘧必喩、一七五三の仲景全書正誤并存疑篇、一七八〇の痘疹秘録、一七八九の丹方彙編、一八二六の北斉医方、一八二七の洞天奥旨、一八三一の保産論の和刻本が新たに発見された。年代のみの追加では、一六〇四に(新編)医学正伝、一六〇七に万病回春、一六二一に医方考、一六二六に素問入式運気論奥、一六三二に医学入門、一六三三に(新刊)勿聴子俗解八十一難経、一六四三に黄帝明堂灸経、一六四四に本草序例、一六五一に針灸聚英発揮、一六五三に局方発揮、一六五六に察病指南、一六五七に本草原始、一六五九に医学綱目、一六七三に雑病証治類方、一六九二に(王宇泰)医弁、一七四六に医方大成論、一七六八に千金翼方、一七八九に(新刊)外科正宗、一七九五に(御纂)医宗金鑑の訂正仲景全書傷寒論註、一八〇二に張氏医通、一八一四に(重刊孫真人)備急千金要方、一八一八に(翻刻)救偏瑣言、一八五三に痘疹活幼心法の和刻本が新たに発見された。
(21)一六七三の(新刊)万病回春と一七一二の丹渓心法類集を削除し、一六二五の黄帝問経霊枢…を黄帝内経霊枢…に、一七一四の本葉綱目を本草綱目に、一七八〇の宝氏秘方を竇氏秘方に、一七九〇の温疫方論を温疫論に訂正する。
(22)一六五九・六八・一七五六・七八・七九の仲景全書に収められる三書につき、さらに個々に集計した。
(23)小曽戸洋『中国医学古典と日本』(塙書房、一九九六)と小曽戸洋・真柳誠『和刻漢籍医書集成』所収書解題(エンタプライズ、一九八八〜九二)によると、江戸期には以下の印年不詳の古活字版中国医書がある。素問(元和間版・万治三年?版)、素問註証発微(元和末版)、霊枢(万治三年?版)、難経(万治三年?版)、傷寒論(万治三年?版)、脈経(慶長版)、注解傷寒論(元和寛永間版)、傷寒明理論(慶長十五年前版・元和版)、察病指南(不詳版三種)、脈訣刊誤集解(慶長元和間版二種)、東垣十書(元和頃版)、此事難知(慶長頃版)、格致余論(慶長版)、局方発揮(不詳版五種)、医方大成論(不詳版三種)、医書大全論(不詳版一種)、医経小学(慶長頃版)、明医雑著(慶長版・慶長元和間版・不詳版一種)、医学入門(不詳版一種)、万病回春(慶長前期頃版)、古今医鑑(慶長版・元和頃版・元禄宝永頃版)。
(24)真柳誠「日本漢方を培った中国医書6」『燎原書店 漢方と中医学』第一一号、一九八九年九月、三頁。
(追注)1644年の明の崩壊を契機にした明人の渡来時期は復刻の前期ピーク形成と一致し、これは元禄時代をピークとする上方文化の時期である。そして1765年あたりに文化の中心が上方から江戸に移り、化政期をピークとする18世紀末〜19世紀の文化が形成され、その背景には清文化とヨーロッパ文化の大衆化があり、これは復刻の後期ピーク形成と一致する。以上は法政大学・田中優子教授の書評(「二つの江戸文化と明清楽」『東方』2010年10月356号19-21頁)による。
(25)『増補版国書総目録』(岩波書店、一九八九)の「金匱」部分を見ると、刊本となった日本の『金匱要略』研究・注釈書は、一六〇一〜九〇年に二書、一六九一〜一七八〇年に五書、一七八一〜一八七〇年に八書があり、明らかに時代ごとに増加している。
(26)小曽戸洋「明代の中国医書(その一〇)」『現代東洋医学』一五巻二号、一九九四年四月、二四五〜二五二頁。
(27)上掲注(23)所引文献、小曽戸洋『中国医学古典と日本』七九頁。
(28)篠原孝市「『甲乙経』総説」『東洋医学善本叢書8』(小曽戸洋監修)、東洋医学研究会、一九八一年、四四三頁。
(29)真柳誠「『仲景全書』解題」『和刻漢籍医書集成』(小曽戸洋・真柳誠編)第一六輯、エンタプライズ、一九九二年、解説篇八〜一八頁。
(30)上野正芳「江戸幕府紅葉山文庫旧蔵唐本医書の輸入時期について」『史泉』五一号、一九七七年、四二〜七四頁。
(31)この版種の数は、薛清録ら『全国中医図書聯合目録』(中医古籍出版社、一九九一)の記載に基づき、写本と和刻版とその中国再版を除く清代までの版本から集計した。
(32)ちなみに『本草綱目』は五二巻という大部なわりに、和刻本が集計上で八回、印年不詳本も加えると実際には一三回も刊印されていた(渡邊幸三『本草書の研究』、武田科学振興財団、一九八七、一三六〜一四四頁)。それで現存本も多い。しかし大部な書ゆえ、管見の範囲では、よくて前半一〇巻程度まで読まれた形跡があるが、大多数は拾い読みしかされていない。
(33)小曽戸洋「『万病回春』解題」『和刻漢籍医書集成』(小曽戸洋・真柳誠編)第一一輯、エンタプライズ、一九九一年、解説篇一〜八頁。
(34)小曽戸洋「『医方大成論』解題」『和刻漢籍医書集成』(小曽戸洋・真柳誠編)第七輯、エンタプライズ、一九八九年、解説篇一七〜二五頁。
(35)上掲注(23)所引文献、小曽戸洋『中国医学古典と日本』八一〜八八頁。
(36)真柳誠「『注解傷寒論』解題」『和刻漢籍医書集成』(小曽戸洋・真柳誠編)第一六輯、エンタプライズ、一九九二年、解説篇一〜七頁。
(37)本集計は佚存の明代医書を共同研究している王鉄策氏の調査結果に基づく。その全体は別個に報文を準備している。
(38)真柳誠「清国末期における日本漢方医学書籍の伝入と変遷について」『矢数道明先生喜寿記念文集』、温知会、一九八三年、六四三〜六六一頁。
(39)真柳誠「中国において出版された日本漢方関係書籍の年代別目録(1)」『漢方の臨床』三〇巻九号、一九八三年九月、四七〜五一頁。
(40)真柳誠「中国において出版された日本漢方関係書籍の年代別目録(2)」『漢方の臨床』三〇巻一〇号、一九八三年一〇月、三二〜四一頁。
(41)真柳誠「中国所存漢方関係図書著作者・出版の国別分類目録」『漢方の臨床』三一巻二号、一九八四年二月、六四〜七五頁。
(42)真柳誠・関信之・肖衍初・森田傳一郎「中国に保存される日本伝統医学文献の孤本」『日本医史学雑誌』三八巻二号、一九九二年四月、二一五〜二一七頁。
(43)高毓秋・真柳誠「丁福保与中日伝統医学交流」『中華医史雑誌』二二巻三号、一九九二年七月、一七五〜一八〇頁。
(44)肖衍初・真柳誠「中国新刊の日本関連古医籍−最近十年の復刻書より」『漢方の臨床』三九巻一一号、一九九二年一一月、一四三一〜四四頁。
(45)真柳誠・陳捷「岸田吟香が中国で販売した日本関連の古医書」『日本医史学雑誌』四二巻二号、一九九六年五月、一六四〜一六四頁。
(46)こころみに上掲注(31)所引の『全国中医図書聯合目録』で「医経」部分をみると、見出し書目は二九八ある。うち日本の刊写本がある中国書は一九書目・計八八点で、点数は書目数の約四・五倍だった。また日本書の日本刊写本は二三書目・計五八点あり、点数は書目数の約二・五倍だった。
(47)王宝平「和刻本漢籍初探」(王宝平主編『中国館蔵和刻本漢籍書目』、杭州大学出版社、一九九五、代序一〜二九頁)は、中国大陸の六八図書館にある和刻本漢籍の分類一覧表で医家類の総数を四五九種とする。しかし、その和刻本には定義外の日本写本や準漢籍・日本書(国書)まで含まれており、さらに書種には同一書が版本毎に計上されている。したがって筆者が集計した書目数よりかなり多い。また、その分布一覧表で医家類の総数を六七二種とし、筆者が推計した日本刊写本の還流中国医書総点数の約半数しかない。これは王氏が六八図書館で集計したのに対し、筆者が使用した前掲注(31)所引文献は一一三図書館を網羅するからと思われる。
(48)三木佐助著・田中晴美編『注釈付/玉淵叢話』91頁、大阪開成館、2018。陳捷『明治前期日中学術交流の研究』〔東京・汲古書院、2003〕220-225頁。王宝平『清代中日学術交流の研究』〔東京・汲古書院、2005〕410頁。
(49)王宝平『清代中日学術交流の研究』四一一頁、東京・汲古書院、二〇〇五年。