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真柳誠「『東垣十書』解題」『和刻漢籍医書集成』第6輯所収、エンタプライズ、1989年9月(2014/3/14補訂)

『東垣十書』解題
真柳 誠


一、緒言

 いわゆる『東垣十書』(以下「十書」と略)とは、李東垣ほか計六名の著作一〇種を収める医学叢書のことである。まずその書目を、著者別・成立年順に掲げておこう。今回の影印復刻もこれに準じ、過去の「十書」の編次を改めた。また書名にも略称は使用しない。

崔嘉彦撰『脈訣』
李東垣撰『内外傷弁惑論』『脾胃論』『蘭室秘蔵』
王好古撰『湯液本草』『此事難知』
朱丹渓撰『格致余論』『局方発揮』
斉徳之撰『外科精義』
王履撰『医経溯集』
 中国医書の叢書として、これほど幾度も刊行され、広く利用され続けているものはないだろう。さらに「十書」に数書を付加したり、全体が別の大きな叢書中に組み入れられたり、「十書」から個別に単行されたりもしている。

 このような統合・分離がくり返された結果、現在に伝わる「十書」所収本には、複雑な問題が生じている。同一書でも巻数や校訂者、序跋の有無を違えたりする例。あるいは「十書」の一部のみが伝えられたため、刊年不詳となったり、「十書」本か単行本かの区別すら不明の例が少なくない。もちろん内容においても然り。版本間での字句の異同は、目を覆うものがある。

 これらの問題を解明するには、一〇書各々につき全版本の比較が必要なため、いまだ十分な検討がなされていない。それゆえ近頃の中国復刻本でも、最良とは認められない版本を底本とする例が多々ある。したがって今回、「十書」本を影印復刻するにあたり、「十書」としての書誌を別個に考察し、本稿とした。個々の書物については、各々の解題を参照されたい。
 

二、淵源

 「十書」の成立は明代初期である。しかしそれ以前にも、「十書」に類した叢書はあった。「十書」はそれらを核に、あるいは参考にして、今日の書目となったらしい。これを略述しておこう。
 

〔羅天益刊本〕

 李東垣晩年の直弟子、羅天益が、東垣の『内外傷弁惑論』『脾胃論』『蘭室秘蔵』の三書を刊行したもの。後二書には、一二七六年に天益が刊行する旨を述べた序がある。前一書に天益の序はないが、現存古版は三書とも同書式なので、およそ一二七六年に相前後して刊行された(一三九六成の『玉機微義』は当三書を引用)と思われる。これは東垣の書が、相互に内容の重複と相違があるため、一括して読むべきであるという硯堅の言(『東垣試効方』序)に、天益が従ったものであろう。

 三書ともに元刊と目録に記す版本はあるが、その『脾胃論』と『蘭室秘蔵』は天益の刊本と認められない。『内外傷弁』の元版(広東省中山図書館)は、未見につき天益刊本か否か不詳である。

〔『済生抜粋』〕

 杜思敬(宝善)が張元素に連なる医家の著作を摘録し、全一九巻に編纂して一三一五年に序刊したもの。これを白楡が一三四一年に翻刻したものが民国時代に影印されており、その台湾版・香港版の入手は容易。現存の元版も多い。

 杜思敬序は、張元素・張壁・李杲・王好古・羅天益の書がみな刊行されていると記すので、本叢書は刊本を底本にしたと思われる。しかしいずれも節略なので、散佚した書(『潔古珍珠嚢』など)以外は利用価値が低い。収録書は一九種に上るが、劉完素に連なる医家の書は含まれていない。

〔古本東垣十書〕

 岡西は、明・隆慶中(一五六七〜七二)の曹灼刊本があり、その初刊は嘉靖以前だろうと記すが[1]、いずれの現存記録も筆者は知らない(なお曹灼は、『医学綱目』の嘉靖四十四年(一五六五)序刊本に刊行の序を記している)。明・殷仲春の『医蔵書目』が記録する書目は全一一種で[2]、『医塁元戎』を十巻と記す以外は『済生抜粋』所収本と一致している。したがって『抜粋』をさらに摘録したものと思われ、およそ価値は認められないだろう。
 

三、遼藩刊「十書」

 現行の「十書」には、嘉靖八年(一五二九)に光沢王(朱寵{宀+環−王+サンズイ})の記した序文がある。当序は「十書」の成立と刊行経緯を知る手掛かりとなるので、以下に関連部分の要点を訳出しておく。なお年代等については、『明史』列伝諸王(巻一一七)の記載に基づき( )内に補足した。
 

 わが遼藩の始祖である簡王は(明・太祖の第一五子、朱植。在位一三九二〜一四二四)、荊州に改封(一三九九)されてより、医を以て国家仁民の道を行った。しかし世の俗医は古典を学ばず、ただ安直な脈訣書や薬性賦などの歌括を見るだけで堕落している。幸いなことに金元の際、東垣らの医家は古典を研究し、計一〇書の著作がある。そこで簡王は、人命を救い、国家につくすためこの「東垣十書」を刊行した。

 しかし靖王のとき(簡王の孫、朱豪{城+皿}。在位一四七一〜七八)、すでに版木が摩滅していたので再版した。その際、たまたま『内外傷弁惑論』の版木を二つ彫ってしまい、各々を『内外傷弁』と『弁惑論』の二書としてしまった。つまり九書が一〇書となったので、わが父の恵王(靖王の子、朱恩{金+稽}。在位一四七八〜九五)は『此事難知』に別に序を付し、「十書」の外集として刊行した。後に私はこれに気付き、重複した『弁惑論』を除いて『此事難知』を入れ、「十書」の旧にもどした。わが遼藩の刊行は内外に名高く、求める者が多い。しかし版木はもう摩滅しているので、ここに再び復刻することにした。

 以上の記載により、遼藩は少なくとも三回版を改め、「十書」を刊行したことがわかる。また右の訳文には省略したが、第一版に挙げる「十書」の書目は、現行本と同一である。ただその書目を初代の簡王が定めたのか、その以前に雛形の叢書があったのか明瞭には記していない。しかしたとえあったとしても、この書目中の『医経溯集』の成立年からみて、元代に遡ることはない。とすれば「十書」の編纂も、およそ簡王の手になるとみて、まちがいないだろう。

 さて遼藩は宝訓堂[3]、さらには梅南書屋の名で藩府本を刊行している[4]。この梅南書屋の「十書」本は多く現存しており、一〇書が揃うものは一五二九年の光沢王序があり、第三版と認められる。ただ前二版は揃いで現伝する例がないため確証を欠くが、各地に分散する「十書」本より、以下の各書が遼藩の初版・第二版と認められた。遼藩は医書以外に正徳十四年(一五一九)には『元詩体要』を刊行している。
 

〔第一版〕

 簡王刊。刊年を決定する資料を発見しえないが、荊州に改封された一三九九年以後、没する一四二四年以前の刊行となる。現存する当時の諸書籍の版式・字様の特徴からみて、親見しえたものでは以下の七書が第一版所収本と思われる。いずれも毎半葉一〇行・行一七字の黒口本である。

図1       
○国家(旧台湾国立中央)図書館〔台北〕所蔵『蘭室秘蔵』三巻六冊。(図1)同館目録に明初葉刊巾箱本と記す。料紙は白棉紙、有界、四周双辺、版心黒口・双内向黒魚尾、魚尾間に「蘭室秘蔵巻幾 葉次」を刻す。毎半葉匡郭、縦一六・九×横一〇・九cm、一〇行・行一七字、小字双行。「甲子丙寅韓コ均錢潤文/夫婦兩度攜書避難記」「韓繩大一/名煕字价/藩讀書印」等の藏印記。

○『嘉業堂善本書影』所載『内外傷弁』(図2)同書目録には三巻、元刊本と記す。当本は現在、上海中医薬大学図書館に所蔵される。

○同右所載『局方発揮』(図3)同書目録には一巻、元刊本と記す。当本は現在、上海中医薬大学図書館に所蔵される。また中国国家(北京)図書館所一巻一冊あり。同館カードに明刻本(14886)と記し、有界、四周双辺。版心黒口、双内向黒魚尾、魚尾間に「局方發揮 葉次」を刻す。毎半葉匡郭、縦一六・八×横一〇・八cm、一〇行・行一七字、小字双行。「安樂堂/藏書記」「明善堂/覽書/畫印記」等の藏印記(二〇〇七年八月二四日にマイクロ閲覧)。

○武田科学振興財団杏雨書屋所蔵『医経溯集』一巻(貴26) 同書屋目録に明刊本と記す。

○同右所蔵『脾胃論』三巻(貴418) 同書屋目録に至元十三年羅天益序刊本と記す。また『明代版本図録初編』五一二頁に所蔵先未詳図版が載り、半葉匡郭は縦一六・九、横一一・二cmと記される。

○中国中医研究院図書館所蔵『湯液本草』(子29-1298、左図) 同館目録に明刻本と記す。明代装丁の二巻三冊(上巻一冊・下巻二冊)本で、料紙は白綿紙、毎半葉一〇行・行一七字、黒口の巾箱本(一九九五年四月二七日に実見)。

○中国国家(北京)図書館所蔵『格致余論』一巻一冊 同館カードに明刻本(14885)と記し、大黒口、双黒魚尾、毎半葉一〇行・行一七字、半葉匡郭縦一七・〇、横一〇・九cm。同館には同一版式で匡郭が縦一六・七、横一一・一cmの明刻本(D897、序文つき)もある(一九九九年五月一日に実見)。

 なお簡王と仲がよいすぐ下の弟の寧王(朱権、太祖第一六子)も医に通じ、劉完素の『保命集』に序して一四三二年に『河間全書(劉河間傷寒三書)』、また医書の『乾坤生意』四巻・『寿域神方』四巻や、農書の『{月+瞿}仙神隠書』四巻なども出版しており、興味深い。さらに兄の趙簡王(朱高燧、第三子)は趙府居敬堂の名で『素問』『霊枢』、定王(朱{木+肅}、第五子)は『普済方』『救荒本草』を刊行している。
 

〔第二版〕

 

靖王刊、恵王序。光沢王の序が述べるように、『此事難知』には「成化甲辰(一四八四)歳仲夏。既望荊南一人書於宝訓堂拙庵」と末尾に記す序がある。当序の文脈も光沢王の言とほぼ一致する。したがって刊年は、この恵王序の一四八四年と考えてよかろう。実見しえたものでは以下の四書、および模刻の二書が第二版所収本と思われる。いずれも毎半葉一〇行・行一八字の黒口本である。

 図4:国立公文書館内閣文庫所蔵『局方発揮』一巻 本書は後述の同館所蔵、第三版梅南書屋本の中に入れ込まれている。毎半葉匡郭は縦約二〇、横約一二・六cmで、料紙は白綿紙。

  図5:『留真譜』[5]所載『蘭室秘蔵』三巻。半葉匡郭は縦二〇、横一二・五cm。本書は『宝素堂蔵書目録』に「相板式。疑成化弘治間刻本」[6]と記す版の模刻だろう。小島の宝素堂旧蔵本はいま台湾故宮にある三巻三冊本で、「明刊黒口本」と著録される。料紙は白棉紙で四周双辺、小黒口、双黒魚尾。毎半葉匡郭、縦一九・三(外郭は二〇・四)×横一二・二(外郭は一二・八)cm、一〇行・行一八字。「小島氏/圖書記」「尚質/之印」「字/學古」および楊守敬の蔵印記等あり(二〇〇〇年八月二九日に実見)。
  また北平図書館と中央図書館の旧蔵同版三巻三冊もいま台湾故宮に所蔵され、「元刊本」と著録される。料紙は竹紙で四周双辺、小黒口、双黒魚尾。毎半葉匡郭、縦一九・五(外郭二〇・七)×横一二・一(外郭一二・八)cm、一〇行・行一八字。「京師圖書/館收藏之印」「明善堂/覽書/畫印記」「安樂堂/藏書記」等の藏印記あり。
 旧小島本の文字は肉太、旧北平本は肉細だが、小島本が柔らかめの白棉紙、北平本が硬め竹紙のため、印刷の具合と墨の吸收度が違い、文字の太さの相違を生んでいる。また北平本の匡郭は小島本よりやや大きいが、裏打ちにより伸張した結果。両本は匡郭・界の破損部等も一致する(二〇〇〇年八月三〇日に実見)。
  さらに本書の同一版は中国中医研究院図書館に三巻本が所蔵(午1-1251)され、巻一の破損大、毎半葉一〇行・行一八字の黒口本で、料紙は白綿紙(一九九五年四月二七日に実見、左図)。また南京図書館古籍部にも馬笏斎旧蔵の同一版が所蔵(118073)され、半葉匡郭は縦二〇・三、横一二・七cmで、料紙は白綿紙(一九九六年八月二六日に実見)。

  図6:『留真譜』所載『医経溯集』一巻、半葉匡郭は縦一九・五、横一三cm。当図版も小島旧蔵本の模刻だろう。小島本はいま台湾故宮にある一巻一冊で、「明刊黒口本」と著録される。料紙は白棉紙、四周双辺、版心小黒口・双黒魚尾。毎半葉匡郭、縦一九・一(外郭二〇・一)×横一二・一(一二・七)p、一〇行・行一八字。「小島氏/圖書記」「尚質/之印」「字/學古」および楊守敬ほかの蔵印記あり(二〇〇〇年九月四日に実見)。

  なお未見のため確認しえないが、各図書館が元刊黒口本ないしは明刊黒口本と記す書の多くは、以上の遼藩第一版か第二版と疑われる。大阪天満宮所蔵『格致余論』一冊(唐本、河六六五)も当版の可能性がある。

〔第三版〕

 嘉靖八年(一五二九)光沢王序、梅南書屋刊。現存本は多いが、光沢王序の部分などを欠く場合もあり、各図書館目録の刊年記載は必ずしも嘉靖八年刊としていない。嘉靖間刊とする例が多いが、前述の『此事難知』の序を根拠に、一四八四年刊と誤認している場合もある。いま国立公文書館内閣文庫所蔵本を、図7〜16に掲げる。なお各図の書名は注記しないが、図7は光沢王序末尾。また内閣文庫本の『局方発揮』のみは、第三版ではなく第二版が入れられており、それは図4に掲げた。



 

四、明刊「十書」

 明代には遼藩本以外にも「十書」の刊行が多い。それらは左記のようであるが、清版以降はそのまた復刻なので省略する。
 

〔熊氏梅隠堂本〕

 正徳三年(一五〇八)の刊行で、完本は国立公文書館内閣文庫に唯一架蔵される。零本では武田科学振興財団杏雨書屋に近世渡来の『脾胃論』(杏6087)がある。北京・中医研究院図書館には『内外傷弁』(同館目録一七八頁)・『蘭室秘蔵』(同館目録一四一頁)・『格致余論』(同館目録二七八頁)が所蔵されており、それらは上海の丁甘仁(〜一九二六?)の旧蔵書である。また王重民『中国善本書籍』二五六頁に著録の明刊『湯液本草』(米・国会図書館所蔵)は、熊氏本と思われる。当版の現存は少なく、刊年(木記)が刻されていない書については、元刊本と誤認されているらしき記録[7]もまま見うけられる[8]

 よって以下に、内閣文庫所蔵本の図と所見を挙げておこう。なお各書は巾箱本(小型本)で、毎半葉匡郭は縦約一六・八、横約一〇・八cm。料紙は黄色の竹紙である。
 

第一冊:『脾胃論』三巻(図17)巻中と下の巻頭は「新刊東垣十書脾胃論」に作る。

第二冊:『新刊東垣十書内外傷弁』三巻(図18)巻中末葉に「正徳戊辰仲冬之吉熊氏種徳堂新刊」の木記がある。

第三冊:『新刊東垣先生蘭室秘蔵』三巻(図19)書頭になぜか戊申年の王好古序を付すが、これは『湯液本草』のもの。

第四冊:『東垣先生此事難知集』二巻(図20

第五冊:『新刊東垣十書湯液本草』二巻(図21)巻上の目録末葉に「・氏進賢書堂記正徳戊辰新刊行」の木記。

第六冊:『格致余論』一巻(図22)目録冒頭は「新刊東垣十書格致余論」に作る。

第七冊:『新刊東垣十書局方発揮』一巻(図23)書末に「正徳戊辰鼇峰熊氏梅隠堂刊」の木記がある。

第八冊:『新刊東垣十書外科精義』二巻(図24

第九冊:『新刊東垣十書医経溯集』一巻(図25)目録末尾に「正徳戊辰熊氏梅隠堂刊行」の木記がある。

第十冊:『新刊東垣十書脈訣』一巻(図26)罫線上の所々に小字注を刻す。

 この「十書」を刊行した熊氏梅隠堂とは、明初に多数の医書を刊行した書賈の熊宗立[9]、ないしはその子あたりであろう。版式には遼藩第一版の旧を窺えるが、誤字も多い。

 (以下、2007,8,26追記)なお熊氏版に酷似した『外科精義』二巻二冊(左図)が台北故宮博物院図書館に所蔵され、「明刊黒口本」と著録される。料紙は竹紙で、四周双辺、版心黒口、双下向黒魚尾。毎半葉匡郭、縦一七・〇×横一一・〇cm、一〇行・行一七字、小字双行。「小島氏/圖書記」と楊守敬ほかの蔵印記あり。当本の版式・匡郭大小は遼藩第一版および熊氏本と同。ただ字体・紙質は遼藩本と異なり、熊氏本に似るが、熊氏本は書名に「新刊東垣十書」を冠するところが異なる(二〇〇一年九月二一日に実見)。

 同じく熊氏本に酷似する『蘭室秘蔵』 三巻六冊(右図)が台湾の国家図書館〔台北〕にあり、「明刊黒口本」と著録される。やはり四周双辺、版心黒口、双黒魚尾で、毎半葉匡郭、縦一六・〇×横一〇・八cm、一〇行・行一七字。「南陵徐乃昌/校勘經籍記」「積學齋徐乃昌臧書」ほかの蔵印記がある。しかし書名に「新刊東垣先生」を冠するところが熊氏本と異なる(二〇〇一年八月九日に実見)。

 

 国家図書館〔台北〕には熊氏本に似る『脾胃論』三巻三冊(左図)もあり、「明建刊本」と著録される。料紙は竹紙で、四周双辺、版心白口・双下向黒魚尾(一部は単黒魚尾)。毎半葉匡郭、縦一六・七×横一〇・九cm、一〇行・行一七字。白口の点が熊氏本と違う(二〇〇六年八月二二日)。

 上掲三書は熊氏本と相違点があるものの、版式は熊氏本の三書と概ね合致し、字様も近似している。とするならば熊氏本に基づく正徳(一五〇六〜二一)頃の版本、ないし逆に熊氏が底本とした遼版初版に基づく版本だろう。ただし上掲三書の現存が確認されただけなので、『東垣十書』全体の版本なのか、一部のみ翻刻された版本なのかはよく分からない。
 
  なお上海図書館には『東垣先生此事難知集』二巻(右図)があり、「元王好古撰。明成化二十二年(1486年)荊南一人刻本。匡高17cm、 寛11cm。半葉10行・行17字。黒口、双魚尾、四周双辺、清嘉興唐翰題「鉄如意斎」の印記あり、孤本」と著録される。その版式は熊氏本より遼藩初版と近いが、刊年と字様が合わない。すると刊年からして前記の遼版光沢王序に、「わが父の恵王(在位一四七八〜九五)は『此事難知』に別に序を付し、十書の外集として刊行した」という版本に該当するかもしれない(2010年11月8日)。

〔周氏仁寿堂本〕

 万暦十一年(一五八三)の刊行で、「済生抜粋」本の節略『医塁元戎』『{ヤマイダレ+斑}論萃英』各一巻を転録付加し、計一二種の書目よりなる。完本は遼寧省図書館・浙江医科大学図書館、付加の二種を欠くものは京都大学図書館(同館目録一七頁)と北京・中医研究院にある。台湾国立中央図書館所蔵本は、さらに『局方発揮』を欠くが、これを図27〜35に掲げておく。

 刊行者の周曰校は字を応賢、対峰と号し(上原究一「金陵書坊周曰校万巻楼仁寿堂と周氏大業堂の関係について」『斯道文庫論集』四八輯二一三〜八九頁、二〇一三)、他に『素問』(一五八四刊)や『霊枢』などの刊行でも知られる万暦頃の書賈。この「十書」には妄改が多い。例えば『湯液本草』の王好古自序年が、元々「戊戌」と干支のみで記されているのを不審に思ったらしく、「嘉靖戊戌(一五三八)」と改めている。時代錯誤も甚だしい。

 いくつかの特徴からみて、周曰校が底本としたのは前掲の熊氏梅隠堂本と思われる。

〔医統正脈全書本〕

 万暦二十九年(一六○一)序刊の『古今医統正脈全書』に収められたもの。これは王肯堂の編、呉勉学の校になる叢書の叢書で、各叢書ごとや単本ごとにも歩月楼などから刊行されたらしく、いずれも現存品は多い。当叢書本の初めに王肯堂の序はあるが、その年は記されない。書目は前掲周氏本と全く同じ。また各書の巻数も一致するので、周氏本を底本としたのであろう。

 各書巻頭には、「新安 呉勉学 校」あるいは「新安 呉中{王+行} 校」と記されている。同一書中でも上巻は呉勉学、中巻は呉中{王+行}と記されるものもあり、両者は同一人物か親子かも知れない。

〔王肯堂校訂本〕

 当版に刊年を記す部分はないが、前掲の医統正脈全書本と同文の王肯堂序を転載している。また当の各書を校訂している王肯堂の没年[10]からみて、およそ一六〇一〜一三年間の刊行と思われる。また刊行者は、見返しに書林楊懋卿と記されている。現存品は多く、中国各地の図書館に明刊本と記録されものの多くは、当版であろう。日本では武田科学振興財団杏雨書屋に完本がある。同書屋には全く同版、同書目であるが、序文後の書目末尾にある「已上共十種三十二巻」を削り取り、代わりに「嬰童百問十巻昔魯伯嗣学著 王肯堂宇泰訂」「産宝百問五巻 朱丹渓先生輯」の二行を刻入した修刻後印本もある。しかしこの二書が合刊されたかは不詳。

 各書の校訂は王肯堂が『弁惑論』『湯液本草』『格致余論』『局方発揮』を担当、『此事難知』『溯集』は陶華(節庵)、『脾胃論』『蘭室秘蔵』は薛己(立斎)となっている。『外科精義』は馬雲卿の校訂であるが、この名はすでに遼藩第三版に見える。

 これら校訂者はいずれも王肯堂以前の人で、とりわけ陶華の『傷寒六書』は肯堂の非難で声価を落としたと伝えられ[11]、実際に彼らの校訂を経たかは疑わしい。しかし当版は誤字が少ないと評され[12]、校訂自体は相当に加えられている。その底本は光沢王序もあるので遼藩三版と知れるが、他の「十書」本も利用されただろう。このため遼藩本の旧はほぼ失われている。各書にある序文の写刻体も、もとより遼藩本やその後の版本にはなく、当版の刊行に際し能筆家が版下を書いたに相違ない。
 

五、朝鮮刊「十書」
 

〔乙亥活字本〕

 三木氏の報告[13]によれば、以下のようである。

 『成宗実録』十九年(一四八八)の条に、中国より帰った成健が「十書」を献上したので、その刊行を内医院に命じた、とある。そして藤田亮策氏が乙亥活字(一四五五年に新鋳)で印刷された『湯液本草』下巻を所蔵しているので、これは一四八八年の内医院刊「十書」本でなかろうか、という。

 一方、朝鮮医書『医方類聚』(一四七七初版)は『此事難知』を除く「十書」を引くので、それは遼藩初版の後印本の可能性が高い。これらからすると、成健が献上したのは遼藩本の二版かと思われる。乙亥活字本の図版は別稿の『湯液本草』解題に掲載したが、版式は遼藩本とかなり違う。

〔内医院整版本〕

 完本(図36〜46)の個人蔵があるほか、日本では東洋文庫に『脾胃論』零本がある。中国には四組が現存している。当版には光沢王の序があり、版心にも梅南書屋を刻すので、遼藩第三版の翻刻と認められる。個人蔵本には内医院の落款があるので、内医院の所刊と思われる。刊年はおよそ中宗(一五〇六〜四四)の後半であろう。



 
 
 

〔恵民署鉄活字本〕

 三木氏旧蔵書が武田科学振興財団杏雨書屋に架蔵されている。三木氏は伝本はそう多くないといい[13]、筆者の知見でも日本・中国・台湾ではこれ以外に見えない。

 全一〇冊に綴じてあり、その書頭には「元史李杲本伝」を付し、書末には英祖四十一年(一七六四)の恵民署・洪啓禧の識語がある。これによると、局坊所蔵の「十書」には誤字が多いので諸本によって校訂し、活字印行したという。実際、当版は他の版本と各書の編順や巻数が相当に違い、校訂された様子が窺えるが、何を主要底本としたかはわからない。

 各書の毎半葉匡郭は縦約二二、横約一四・五cm、一〇行・行二〇字。書目の順次と巻数は左記のようである。図版は『脾胃論』解題中に揚げた。

脈訣一巻・局方発揮一巻・格致余論二巻・内外傷弁惑論一巻・脾胃論二巻・蘭室秘蔵二巻・此事難知二巻・溯集一巻・湯液本草二巻・外科精義二巻、以上計一六巻。


六、日本刊「十書」

 わが国に「十書」が伝えられたのは、その成立年からみて、一五世紀に入ってからと思われる。むろん『万安方』(一三一五)や『福田方』(一三六二)には、「十書」所収本の引用も見えない。確実なものでは、曲直瀬道三(一五〇七〜九四)の筆写した「十書」の巻首(図47)と『脈訣』がある(個人蔵)。図のごとく「重刊東垣十書序」と記す光沢王序は、遼藩第三版かその朝鮮翻刻本の特徴であり、書式からみて前者を写したものと思われる。

 これよりもう半世紀以上遡る記録もある。高橋英因(英全)『太一続稿』(一四九一成、龍谷大学大宮図書館所蔵)巻下の桂条に『湯液本草』から引用がある。また国宝の宋版『史記』(米沢本、文化庁所轄)の「扁鵲倉公列伝第四十五」には、月舟寿桂(幻雲、一四六〇〜一五三三)が三〇種の医書を引用した書き入れがある。水澤氏が報告した引用書目には[14]、『湯液本草』『東垣先生此事難知集』『医経溯集』『格致余論』の四書があるので、「十書」は当時ですでに渡来していたと思われる。寿桂の年代からすると、遼藩第一版・二版か熊氏本、ないしはそれらに基づく写本であったろう。

 ちなみに、一五七三年に織田信長軍が焼き討ちした福井市の一乗谷遺跡から、炭化した紙片の小塊が一九八五年に出土した。これは三四枚の紙片に分かれ、各々には一〜四の筆写文字が読みとれる。医書の一部と判定した発掘担当者の委嘱により、筆者らが鑑定したところ、『湯液本草』の焼け残りであった[15]。前述の寿桂は一五一八年に一乗谷で経を講じ、一五三六年には本邦二番目の医書出版がここでなされている[16]。すると出土の『湯液本草』断簡も、あるいは「十書」本によるものかも知れない。
(この点は後の研究により、熊氏本「十書」による蓋然性が高い、と判断された。真柳誠「朝倉氏遺跡出土の『湯液本草』」『日本医史学雑誌』39巻4号501-522頁、1993年12月。真柳誠「幻雲が引用した『東垣十書』」『「扁鵲倉公伝」幻雲注の翻字と研究』173-177頁、1996年3月、北里研究所東洋医学総合研究所医史学研究部編集・発行 ※全文中国語訳「関于幻雲引用的『東垣十書』」『中医薬文献研究論叢』47-49頁、北京・中医古籍出版社、 1996年、8月)

 そしてこれらを承け、江戸少し前より和刻「十書」の刊行が始められた。
 

〔小瀬甫庵古活字本〕

 慶長二年(一五九七)刊。『古活字版之研究』[17]は、京都府立図書館に完本、安田文庫に『医経溯集』『格致余論』『局方発揮』『此事難知』(図48)『外科精義』(図49)の所蔵を記録する。安田文庫本の現存は不詳。また京大富士川文庫に『此事難知』(シ・020)、武田科学振興財団杏雨書屋に『内外傷弁惑論』(貴380)、中国国家(北京)図書館に『外科精義』が所蔵されている。当版の全体は、後に整版に覆刻(かぶせ彫り)された。これには光沢王の序があり、版心の所々に「梅南書屋」が刻されているので、小瀬甫庵本の底本は遼藩第三版である。

 小瀬甫庵(一五六四〜一六四〇)は江戸前期の儒医。名は道善、甫庵はその号である。医を業とし、豊臣秀次に仕えた。『信長記』『太閣記』の著述で知られるほか、「十書」以外にも『補註蒙求』『十四経発揮』(一五九六)、『新編医学正伝』(一五九七)などの古活字刊行している[18]
 

〔江戸初期活字本〕

 刊者不詳。およそ元和(一六一五〜二三)前後の刊行。かつて当古活字「十書」の報告はないが、個々の記録を照合した結果、先の五書が同版と認められた。いずれも一二行・行二〇字本。使用底本は明の周氏本など雑多なようである。

 
 

 図50『脾胃論』は井上書店『医籍本草特輯目録』(一九八〇)の掲載。図51『湯液本草』は長沢規矩也『大東急記念文庫貴重書解題』第一巻(一九五六)の掲載。図52『此事難知』は研医会図書館の所蔵書。図53『格致余論』は和田萬吉『古活字本研究資料』(一九四四)の掲載する雪村文庫蔵本。図54『医経溯集』は個人蔵書である。図52本は武田科学振興財団杏雨書屋にも所蔵されている。また成簣堂文庫には無刊記の古活字「十書」が所蔵される。
 

〔寛永頃刊本〕

 刊者不詳。およそ寛永(一六二四〜四三)頃の刊行。前述の小瀬甫庵古活字本に訓点・送り仮名を加え、かぶせ彫りで整版に改めたもの。研医会図書館(図55〜65)と京大人文研図書館(子Y613)・京大富士川文庫(目録三〇六頁、ト八二)に完本が所蔵されるほか、零本では武田科学振興財団杏雨書屋が『格致余論』、知人が『脾胃論』、東京大学総合図書館が『内外傷弁惑論』を所蔵している。




 
 
 
 
 

〔武村市兵衛刊本〕

 当版の『溯集』巻末には、明暦三年(一六五七)八月の復性庵滝元敬の識語がある。これによると、和刻旧版の「十書」(前掲本のこと)は刊行されて久しいが、脱簡・誤字が多く、句読訓点も正しくないので、新たに校訂して訓点を施した、という。また『外科精義』の巻末(図66)には、万治元年(一六五八)三月の武村市兵衛の刊記があるので、約半年ほどで版が成り、刊行されている。

 当版の底本には王肯堂校訂本が用いられており、これら識語と刊記の刻入、および罫線を除去している点を除けば、ほぼ忠実に翻刻されている。

 『倭版書籍考』によれば、当版に訓点を加えたのは京都の滝野元敬とある。彼は明暦三年(一六五七)刊『医学正伝』(杏雨書屋所蔵)に訓点を施し、万治元年(一六五八)刊の『暦学正蒙』に序を寄せ、寛文二年(一六六二)には『考訂増補修治纂要』六巻を編纂。また同一〇年(一六七〇)の書籍目録(『江戸時代書林出版目録集成』による)は、彼が『改正増補多識編』の増補をしたとする。これ以上はわからないが、医家ないし儒者だろう。武村市兵衛(名昌常、寿文堂)は京都の書店。かなり多くの書を出版しており、本書以外でも少なくとも九種の医書を刊行している[19]。当版の完本は、国会図書館・東北大学附属図書館・大阪府立図書館ほかに所蔵されている。
 

〔山本長兵衛重印本〕

 前版を重印したもの。『外科精義』末の武村市兵衛の刊記を削り、同部と『局方発揮』『格致余論』末の三か所に「山本長兵衛新版」と刻入している(図67)。しかしそれ以外に修刻した部分は見えず、本質的には同一の版である。両書店は同じ京都の二条通りにあったので、版木を武村市兵衛から購入したのであろう。

 当版にはこの版木の購入年が記されないので、印年もはっきりしない。ただ後に『医家七部書』という色々な医書の版木を寄せ集めて印刷した、いささか奇妙な叢書が幾度か出版されている。筆者の知る限りではこれに二種あり、一つは山本長兵衛の刊記を付けたままの『格致余論』『局方発揮』『溯集』を入れるもの。一つはそれらの刊記が、さらに元禄二年(一六八九)芳(吉)野屋徳兵衛に彫り直されているものである。とすると山本版は、およそ武村本以降、『七部書』以前の一六五九〜八八年間の印刷となろう。

 当版は、東京医科大学図書館・金沢市立図書館ほかに所蔵されている。

 以上、明・朝鮮・日本にわたる「十書」の版本調査結果を述べたが、各々の関係を左の略図に示しておく。
 

謝辞:今回の調査にあたり、文献の閲覧と図版掲載を許可された国立公文書館・研医会図書館・台湾国立中央図書館・所蔵者各位に深謝申し上げる。
 

〈注と文献〉

[1]岡西為人『中国医書本草考』一七二頁、南大阪印刷センター、一九七四。

[2]岡西為人『宋以前医籍考』九九二頁、台北・古亭書屋、一九六九。
 
[3]倭隠儒『中国古籍印刷史』九九頁、北京・印刷工業出版社、一九八八。

[4]洪北江『古書版本学』五一頁、台北・洪氏出版社、一九七四。

[5]楊守敬『留真譜初編・二編』、台北・広文書局、一九六七。

[6]前掲文献(二)、一〇〇二頁。

[7]例えば『平津館鑑蔵書籍記』著録の元刊『蘭室秘蔵』(前掲文献[2]、一〇〇〇頁)など。

[8]『嘉業堂善本書影』に、「新刊東垣十書。脾胃論三巻。元至元丙子(一二七六)刊本」とある。これは羅天益の序年を刊年と誤認したものであり、もちろん当時に「新刊東垣十書」などあろうはずもない。かつて筆者はこれを真に受け、至元丙子を一三三六年と解釈し、「十書」の編纂は元代に遡るという失考を犯したことがある(『和漢薬』三八巻一〇号、一九八八)。この『脾胃論』も熊氏梅隠堂本である。

[9]前掲文献[1]、二三〇頁。

[10]李雲ら『中医人名辞典』五〇頁、北京・国際文化出版公司、一九八八。

[11]劉元「明代医学家王肯堂的生平和著作」、『中医雑誌』一九六〇年一号。

[12]崔掃塵ら「点校説明」、『湯液本草』前付、北京・人民衛生出版社、一九八七。

[13]三木栄『朝鮮医書誌』二二七頁、大阪・三木栄油印、一九五六。

[14]水澤利忠『史記会注考証校補』巻八・九七頁、東京・同書刊行会、一九六六。

[15]清田善樹「朝倉氏遺跡出土の『湯液本草』断簡」、『朝倉氏遺跡資料館紀要』、一九八七。

[16]小曽戸洋「目でみる漢方史料館(18)」、『漢方の臨床』三六巻三号、一九八九。

[17]川瀬一馬『古活字版之研究』一五九頁、東京・安田文庫、一九三八。

[18]吉川弘文館『国史大辞典』による。

[19]矢島玄亮『徳川時代出版考出版物集覧』一三七頁、仙台・葛葉堂書店、一九七六。