←戻る
真柳誠「《旧温知社遺品》《浅井家遺品》解説−東医研受託の近世漢方医学貴重資料」
『矢数道明先生退任記念 東洋医学論集』303-322頁、北里研究所附属東洋医学総合研究所、
1986年7月(『浅井国幹先生告墓文百周年記念文集』58-69頁、浅井国幹顕彰会、2000年3月に転載)

《旧温知社遺品》《浅井家遺品》解説−東医研受託の近世漢方医学貴重資料
医史文献研究室(文責 真柳 誠)


 昭和六十一年三月八日、北里研究所附属東洋医学総合研究所にWHO伝統医学研究協力センターが設置された[1]。その開所式における特別講演にて、矢数道明所長が浅井家より委託を受け、偕行学苑・東亜医学協会と保管してきた旧温知社遺品および浅井家歴代遺品を、この機に北里東医研に移管したいと述べられ、会場に深い感銘を与えたことは記憶に新しい[2]。これは尾張医学館を主宰した浅井家第七代の浅井正典(号国幹)が、温知社を中心とする明治期漢方存続運動に二十数年に亘り挺身、その雄図ことごとく破れた長恨の晩年、家人に「この四品は温知社遺品にして私すべきものにあらず。わが没後、斯道興隆の時機到来せば、乞う後より興るものに伝えよ」、と遺言したことを承けてのことであった。

 浅井国幹ら先哲の熾烈な運動にもかかわらず、わが国の伝統医学は時流に抗せず、断絶の苦海を一度漂った。しかし現在、故大塚敬節初代所長・矢数道明第二代所長を始めとする先達のたゆまぬ努力により、東洋医学は世界の認める科学として確実な歩みを始めている。そして今、北里東医研が「後より興る」新たな後継団体として認定され、この歴史を象徴する"漢方界の神器"を伝えられたことは無上の栄誉であり、課せられた使命は大きく重い。

 よってこれら寄託文物の今後の保管にあたり、まず全品の現状解説を作成することにした。内容・由来等の報告がある文物については各々に主要なものを〔文献〕として挙げたので、詳細は各報告を参照されたい。
 

一、旧温知社遺品現存三点
 

 (1)浅田惟常(宗伯)筆「賀温知社員会集文」 一幅

 明治十五(一八八二)年五月、温知社第三回全国大会席上揮毫。紙本墨書、一一行・二四三字、巾九六糎・竪一七七糎。紙装。総丈、巾一一二糎・竪二一八糎。

 本幅は五月十五日より三日間に亘り開催された温知社全国大会の後、十八日に両国柳橋の亀清楼での親睦会にて披露された。温知社運動の目標と理想を述べて社友・後進を激励しており、浅田宗伯(一八一五〜一八九四)の現存遺墨中、恐らく最も大幅のもの。

〔文献〕a深川晨堂『(復刻版)漢洋医学闘争史』、二〇二頁、医聖社、東京(一九八一)。b矢数道明「温知社遺品の解説と供覧」『日本医史学雑誌』六巻三号、二四〜二六頁(一九五六)。c矢数道明「明治初期漢方医家の牙城・旧温知社遺品について−漢方存続運動の終焉」『日本医事新報』一七一二・一七一三号(一九五七)。

 (2)枳園森立之筆「七絶祝詞」 一幅

 明治十五(一八八二)年三月、温知社第三回全国大会祝賀揮毫。紙本墨書、七行・五八字、巾一一三糎・竪一四三糎。紙装。総丈、巾一二五糎・竪一八二糎。

 本幅は本草・考証学者として名高い森立之[3](一八〇七〜一八八五)が、温知社全国大会前の三月二十九日、七言絶句に大会の盛大を祝った賀詩。

〔文献〕(1)所掲文献。b・c。
 

 (3)栗園浅田惟常(宗伯)筆「温知医黌記」 一幅

 明治十六(一八八三)年一二月揮毫。紙本墨書、三〇行・三八八字、巾一三五糎・竪五〇糎。絹装。総丈、巾二一一糎・竪五五糎。

 本幅は明治十六年一二月十五日に新築落成、四月十一日に開校した和漢医学講習所(後に温知医学校と改称)である温知医黌のために撰したもので、講堂の正面に揚げられていた。医術の淵源より説いてその変遷・帰趨を述べ、洋医学を批判、古医道の捨つべからざるを唱え、学生の奮起を促している。

〔文献〕(1)所掲文献a三二三〜三三四頁、およびb・c。d安西安周『明治先哲医話』、一九〇〜二〇四頁、龍吟社、東京(一九四二)。
 
 

二、浅井家歴代遺品

 (4)浅井正典(国幹)筆「告墓文」 一巻

 明治三十三(一九〇〇)年十一月五日揮毫。紙本墨書、七六行・一五五一字、巾一二〇糎・竪三四糎。絹装。総丈、巾一六六糎・竪三八糎。

 漢医存続運動の万策尺きた浅井国幹(一八四八〜一九〇三)が郷里名古屋に帰り、浅井家累代の墓前にひれ伏して読み上げた血涙の一文。魂魄こもり、人をして慟哭せしむる国幹一代の名文。

〔文献〕e矢数道明「国幹浅井篤太郎先生を懐ふ」『漢方と漢薬』六巻二号、二四〜三〇頁(一九三九)。f矢数道明「尾州藩医浅井家の伝統とその事績=v『漢方の臨床』九巻六号、三〜一三頁(一九六二)。
 

 (5)浅井正典(国幹)筆「浅井系統一覧」 一幅

 明治三十四(一九〇一)年三月二十五日作。紙本墨書。本紙、巾七一糎・竪一三四糎。総丈、巾一〇〇糎・竪一八○糎。

 浅井国幹(一八四八〜一九〇三)が名古屋に帰り「告墓文」を撰した翌年、岩井坊の寓居で史料八書を参考に三〇代敏達天皇(五七二〜ワ八五年在位)より現当主浅井誠一氏まで、四五代に亘り克明に記したもの。

〔文献〕(4)所掲文献f。g『(影印)浅井国幹遺稿浅井氏家譜大成・古医方小史』後付、医聖社、東京(一九八○)。
 

 (6)徳川慶勝筆「皇・漢医祖神」 二幅

 尾張藩第一四・一七代当主徳川慶勝揮毫。絹本墨書、各幅二行・八字、巾三〇糎・竪一二九糎。絹装。総丈、各巾四一糎・竪一九九糎。浅井正贇箱書。

 各々に日本の医祖神「大已貴命少名彦命」、中国の医祖「神農炎帝軒轅黄帝」を記す。尾張徳川家は六一万石で、徳川御三家中随一の高禄。一四代慶勝公は第一七代も世襲して二度藩主となり、明治維新の功績により従一位勲二等に叙せられている。

 (7)浅井図南(寅)賛「東甫伏羲像」 一幅

 絹本墨画、賛四行・二五字、巾三五糎・竪一〇九糎。紙装。総丈、巾三九糎・竪一六六糎。

 浅井図南(一七〇六〜一七八二)は尾張浅井家の二代目。名を政直、後に惟寅、図南と号した。本幅は図南七四歳時の作で、「庖犠卦を画き一陰一陽、天地位を定め品物咸章」と賛す。


 (8)浅井惟寅(図南)筆「軒轅黄帝尊号」 一幅

 安永五(一七七六)年揮毫。紙本墨書。本紙、巾二九糎・竪一一七糎。紙装。総丈、巾三九糎・竪一七〇糎。

 浅井図南(一七〇六〜一七八二)七十一歳時の所筆。軒轅黄帝は中国伝説上の五帝の一人、医祖ともされる。
 

 (9)狩野重信画「伏羲神農黄帝之図」 一幅

 紙本墨画、淡彩色。本紙、巾四五糎・竪八七糎。紙装。総丈、巾五七糎・竪一五四糎。

 巻絹上に狩野重信の作と記す。作年不詳。伏羲・神農・黄帝は中国伝統上の三皇・五帝中の皇帝。
 

 (10)活斎賛・安親筆「雄慎神農像」 一幅

 絹本墨画、淡彩色。本紙、巾三三糎・竪七九糎。絹装。総丈、巾四一竪・糎一五八糎。賛、安永三(一七七四)年揮毫、四行・三二字。

 本紙右下に安親筆と記し、巻絹上に活斎賛と記す。作年不詳。
 

 (11)盤柏子画・丹羽最賛「炎皇像」 一幅

 紙本墨画、賛四行・二八字、巾四七糎・竪一二〇糎。紙装。総丈、巾五七糎・竪一七六糎。

 炎皇は神農のこと。巻絹上に盤柏子画と記す。作年不詳。
 

 (12)浅田惟常(宗伯)賛・温知社模刻「医祖神像」 一幅

 紙本木版、賛二一行・一四五字、巾三一糎・竪八六糎。紙装。総丈、巾三九糎・竪一四〇糎。明治十七(一八八四)年十二月刻。

 本幅は旧江戸医学館の躋寿殿に祀られ、維新後は農商務省所轄にて上野博物館に保管されていた神農刻像を、明治十六(一八八三)年十一月二十六目に模刻の理由で温知社に借与が許可されて模刻したもの。借与された像及び扁額・聯・香炉・花瓶・燭台等の備品は、その後いく度の変遷を経て、現在全品が御茶ノ水の湯島聖堂内の神農廟に祭祀されている。刻像の由来はこれまで諸説紛々であるが、寛永十七(一六四〇)年頃の作と考えられる。扁額は文化十一(一八一四)年右近衛中将花山院愛徳の書。左右の聯は同代の千賀道栄の書。香炉は文化四(一八〇七)年九月に姫路藩士とされる岡本喬造の献納。

〔文献〕(1)所掲文献a四一〇〜四二〇頁。b原田謙太郎「御物神農像を温知社に拝借の事情」『日本医事新報』九七九・九八○号(一九四一)。i矢数道明「恩賜神農像祭祀変遷年代表」『漢方の臨床』一五巻七号、五二〜五五頁(一九六八)。
 

 (13)浅井正準(子的)筆「子的翁戒子孫之書」 一幅

 紙本墨書、六行・一二九字、巾四一糎・竪一三一糎。紙装。総丈、巾四七糎・竪一六○糎。

 浅井正準(一七四五〜一七七七)は尾張浅井家三代正路の養子、四代正封の父。的之進と称し、子的はその字。和泉国貝塚の医者新川典膳の第三子であり、二十二歳で正路の妹与貴を娶りその養子となる[4]

 (14)浅井貞庵(正封)筆「貞庵先生開講詩」 一幅

 文政十(一八二七)年揮毫。紙本墨書。前詩、五行・五六字。後詩、五行・五六字。本紙、巾五六糧・竪二九糎。紙装。総丈、巾五九糎・竪一〇四。

 浅井貞庵(一七七〇〜一八二九)は尾張浅井家第四代で、名を正封、貞庵と号した。本幅は貞庵五十八歳時の作。いずれも七言律詩で、長子の正翼に示したもの。
 

 (15)浅井貞庵(正封)筆「貞庵先生示教書」 一幅

 紙本墨書、一一行・一六一字、巾三三糎・竪二八糎。紙装。総丈、巾三八糎・竪八四糎。

 本幅は浅井貞庵が長子・正翼(一七九七〜一八六〇)に示教した書。正翼の性格を指摘して家長たる者の務めを述べている。正翼は幼名を桃太郎、紫山と号した。
 

 (16)浅井正封賛・幡野潮音画「怪魚図」 一幅

 紙本墨画。賛四行・二八字。本紙、巾四六糎・竪一三五糎。紙装。総丈、巾五〇糎・竪一八九糎。

 本草・博物の学にも精通した正封も、この怪魚の名は識らずと賛している。
 

 (17)浅井貞庵(正封)筆「貞庵翁七夕和歌」 一幅

 紙本墨書、二行。本紙、巾六糎・竪三六糎。紙装。総丈、巾二〇糎・竪八三糎。
 

 (18)浅井九皐(正贇)筆「守周道行漢術」 一幅

 元治元(一八六四)年揮毫。紙本横墨書。本紙、巾一二三糎・竪三〇糎。紙装。総丈、巾一四二糎・竪三〇糎。

 九皐[コウ](一八二八〜一八八三)は尾張浅井家六代目。名を正贇[マサトシ]九皐と号した。尾張医学館を主宰した最後の代で、浅井国幹はその長子。
 

 (19)浅井正典(国幹)撰・川村真秀筆「博愛病院記」 一幅

 明治十二(一八七九)年十二月撰文。紙本墨書、一六行・四五六字、隷書。本紙枡目朱印紙、巾六二糎・竪一三四糎。紙装。総丈、巾六六糎・竪一九〇糎。

 浅井正典[マサツネ](一八四八〜一九〇三)は尾張浅井家七代目、国幹と号した。明治十二年二月、国幹は旧門下の諸医ならびに愛知県下の漢医三〇〇名を糾合し、官許を得て名古屋に私立博愛病院を設立。また愛知博愛社を設けてその長を任じ、漢医存続運動の火蓋を切ったときのもの。
 

 (20)亮阿闍梨兼意撰・塚原睛写「薬種抄」 巻子本一巻

 文政十三(一八三〇)年三月二日、塚原睛(修節)拠保元元(一一五六)年写本模写。紙高三二糎、全長約一六米。天地単辺無界、一行約二〇字、挿図八面。

 本巻を模写した塚原修節は浅井正封(貞庵)の門人。この約二年前の文政十年十二月、正封の命を受け京都仁和寺蔵の『新修本草』『太素』を借り出して模写したことで知られている。本巻末尾の識語には、「静観堂」すなわち正封の薬室にて筆写したと記されている。『薬種抄』は亮阿闍梨兼意(一〇七三〜一一五九〜?)が宋・陳承の『重広補注神農本草并}経』二三巻(一〇九二刊)を主要底本に、薬図と解説を密教の修法支度品用に抄録したもの。伝写本は比較的多いが、本巻の原底本である醍醐寺旧蔵(現杏雨書屋蔵)本や、石山寺旧蔵(現天理図書館蔵)本などが著名。兼意は他に『香要抄』『穀類抄』『宝要抄』などの同類書を編撰している。

〔文献〕(4)所掲文献f。j森鹿三「薬種抄について」『ビブリア』一七号(一九六〇)。k天理図書館善本叢書和書之部第三十一巻『香要抄・薬種抄』(影印本)、天理大学出版部、天理市(一九七七)。
 

 (21)浅井国幹画「明治維新前居宅図」 一紙

 一紙朱墨画、巾四七糎・堅三五糎。

 明治前の浅井家・医学館の見取図。五二一坪強の広大な敷地の建物の配置、間取、用途、維新前・後の番地等が克明に記されている。
 

 (22)「浅井家歴代勤書」 七綴

 〈第一点〉初代浅井周迪正仲(一六七二〜一七五三)勤書、六葉綴。高二一・五糎、巾一四糎。
 〈第二点〉二代浅井頼母政直(一七〇六〜一七八二)勤書、六葉綴、付二紙。高三四糎、巾一七糎。
 〈第三点〉同右、四葉綴。高二四・五糎、巾一七糎。
 〈第四点〉同右、一〇葉綴。高三一糎、巾二一・五糎。
 〈第五点〉四代浅井平之丞正封(一七七〇〜一八二九)勤書、五葉綴。高二四・五糎、巾一七糎。
 〈第六点〉同右、五葉綴。高三〇・五糎、巾二一糎。
 〈第七点〉不詳勤書、五葉綴。高二五糎、巾一七糎。
 

 (23)「浅井家歴代系譜・家譜」 七点

 〈第一点〉浅井長政公(一五七三〜一六三二)、一〇葉綴。高二一・五糎、巾一三・五糎。
 〈第二点〉藤原氏浅井(系譜)、一三葉綴。高二六・五糎、巾一七・五糎。
 〈第三点〉(浅井家)系譜、一九葉綴、付二紙。高二五糎、巾一七糎。
 〈第四点〉浅井氏略系譜。五葉綴。高二四・五糎、巾一九糎。
 〈第五点〉家譜、一冊。枡目緑印罫紙、毎半葉九行・二〇字詰、版心下刻“餐霞楼”、三〇葉、付二紙。書高二二・五糎、巾一六糎。
 〈第六点〉家譜、一冊。枡目緑印罫紙、毎半葉一一行・二二字詰、版心下刻“浅井蔵”、二六葉、付一紙・一綴(三葉)。書高二七糎、巾一九糎。
 〈第七点〉家譜、一冊。六〇葉、付系図等一三点。書高二五糎、巾一七・五糎。
 

 (24)浅井国幹撰「家譜大成」 一冊

 全三九葉、毎半葉約一四行・三〇字詰。書高二三・五糎、巾一六糎。自筆稿本。

 本書は浅井国幹(一八四八〜一九〇三)が、前掲(23)諸家譜ほか計一三史料を参考に編述したもの。三〇代敏達天皇の孫大職冠鎌足公より四三世の正典(国幹)に及び、明治十七(一八八四)年十二月に終わっている。題箋は「家譜大成前編 乾」と記す。

〔文献〕(4)所掲文献f、(5)所掲文献g。

 (25)頑医生編纂「古医方小史」 一冊

 本文二九葉、毎半葉約一〇行・二〇字詰。書高二四・五糎、巾一七糎。浄書稿本。

 本書は“頑医生編纂”とし、浅井国幹の活動を第三者的に記述するが国幹自筆の遺著。上古医祖神より日本医史を述べるが、その重点は愛知博愛社・東京温知社・京都賛育社・熊本杏雨社と日本全国の漢医存続運動を糾合し、請願運動から議会闘争を経て衰亡の一途をたどる苦闘の経過に置かれている。

〔文献〕(4)所掲文献f、(5)所掲文献g。
 

 (26)浅井国幹編「医令摘要」 一冊

 本文五三葉、毎半葉一〇行・二〇字詰。書高二四・五糎、巾一七糎。自筆浄書稿本。

 本書は明治政府が発令した医師資格・医師開業診察資格・医師試験規則など、漢医の存亡に関するものを編録する。明治元(一八六八)年十二月六日付太政官令より、同十八(一八八五)年三月二十五日付内務省甲第一〇号まで、約一〇年間に亘る政令等が記録されている。外題には本書名を「医令集」と記す。

 (27)浅井国幹撰「農像紀事絶句」 一点

 明治二十一(一八八八)年二月自筆稿。一〇葉(本文九葉)綴。本文、枡目朱印罫紙使用、版心下刻“不如学吟社”、毎半葉七行・一八字詰。稿高二四糎、巾一六・五糎。

 本稿は『和漢医林新誌』一二二号(一八八八年五月三十一日発行)に掲載文の原稿。現在、御茶ノ水湯島聖堂神農廟に安置されている神農木彫像について、その由来から当時浅田宗伯宅に搬入祭祀されるまでの変転経緯を、一〇節に分けて七言律詩と漢文で解説している。外題には本稿名を「蕪稿」と記す。

〔文献〕l安西安周「聖堂安置の神農像記」『漢方の臨床』九巻三号、五〜一五頁(一九六二)。

 (28)浅井国幹撰「国幹詩稿」 一冊

 自筆浄書稿。四周双辺・藍印罫紙、および四周単辺・朱印罫紙使用、全四九葉。毎半葉一〇行・一七字詰。半葉匡郭、高約二一・五糎、巾約一五・五糎。書高二八糎、巾一九・五糎。付無綴詩稿、二点・計一一葉。

 本書は折にふれての感興を賦した漢詩、およびそれらに対する評注を集成し、浄書したもの。中には前掲(27)「農像紀事絶句」の最終完成稿も収められている。書末は明治三十一(一八九八)年作、悲哀溢れる「対島客中作」の詩で終わる。

〔文献〕(4)所掲文献f。
 

 (29)浅井国幹撰「文稿」 一冊

 自筆浄書稿本、全七五葉。記文、前三五葉。四周単辺、藍印罫紙使用。毎半葉匡郭高約一八・五糎、巾約一二・五糎、一二行・一六字詰。漢文。付無綴文稿三点。

 本書は明治以降、国幹が草した漢文の激文・書簡・序文・医論・講演文等を集録、浄書したもの。末尾は明治二十(一八八七)年七月撰文の「方彙続貂序」。
 

 (30)浅井国幹筆「備忘録」 一冊

 全一三四葉。四周単辺、半葉匡郭高約一三糎・巾一〇糎、一〇行、朱印罫紙。書高一八糎・巾一三糎。

 明治十二(一八七九)年頃より同三十三(一九〇〇)年頃にかけて使用されたもの。漢文医論・医説の抜粋、(28)「国幹詩稿」の草稿である自作漢詩、住所録、日本医学史に関するメモ、所得税通達の記録、明治十五年一月二十二日より八月十二日までの日誌、同年十月熊本に赴いたときの日誌、証文、医師に関する政令などが記されている。
 

 (31)「常宮皇女降誕助勤下命書」「常官拝診御用助勤差免書」 各一紙

 下命書、高一七・五糎、巾三六糎。差免書、高二三糎、巾三一糎。

 「下命書」は青山御産所御用掛・松浦詮の署名で、明治二十一(一八八八)年八月四日付。明後六日午前十時、青山御産所に出仕されたし、と記される。「差免書」は皇室の紋章である桐紋のすかしが右肩に入り、同二十一年十一月二十七日付、官内省の発書。国幹ら漢医が被免されたのは政府による養育法改正の発令による。同年十月三十日、第六子常宮昌子内親王参拝の次第を記す一紙を付す。
 

 (32)「書簡」等 五通

 〈一〉浅井頼母(政直)筆、一紙。
 〈二〉徳勝守蔵明筆(下面「先代之手跡系譜」)、一紙。
 〈三〉浅井貞庵(正封)筆、一紙。
 〈四〉浅井意誠筆、浅井篤太郎(国幹)宛、一紙。
 〈五〉山木藹人筆、浅井篤太郎(国幹)宛、一紙、付「東西浅井両家略系」二葉半。

〔文献〕矢数道明「浅井家のこと二題」『和漢薬』二六九号(一九七五)。
 

 (33)「(重訂)古今方彙」 一冊

 浅井家旧蔵。編者不詳。延享二(一七四五)年甲賀通元序、安永九(一七八○)年望月三英序。文化五(一八○八)年改刻印本。横版。書高一三糎、巾一九糎、厚六・五糎。全葉総裏打済み。付一紙。

 本書は脱落した前六葉を模写・補配するほか、原本に、“医家必要”として附録されている薬性歌以下の三八葉を欠き、代わりに中風・傷寒・感冒など八○数門に分けて処方を補遺。また書末には治法毎に処方名を記したものなど計一七〇葉が補綴されている。筆を異にする多量の書き込みは浅井家歴代のものと考えられる。浅井貞庵(正封)には子の正翼が筆記、孫の正贇が補考した『方彙口訣』[5]もあり、本書とともに浅井家の家学を伝えている。
 

 (34)浅井正典(国幹)撰「正久配字記」 一紙

 縦三九糎、横五三糎。明治三十(一八九七)年一月、国幹自筆。

 国幹の長男・浅井正久(新太郎)の名につき、『中庸』の記載より説明したもの。

 (35)清国授与「三等第三宝星執照」 一紙

 縦五七・五糎、横六二・五糎。光緒二十九(明治三十六、一九〇三)年十二月四日授与。

 国幹の長男・浅井新太郎に清国政府より授与された勲章の証状。“宝星”は清・光緒七年制定の勲章。頭等より五等まであり、頭等から三等まではさらに三級に分かれる。浅井新太郎は、当時陸軍大学漢文教官。日清戦争にも従軍した。父・国幹が没したのはこの授賞と同年、一月十五日である。
 

謝辞:「温知社遺品」を偕行学苑に寄託された故浅井新太郎氏、及び「浅井家遺品」を東亜医学協会矢数道明理事長に寄託された現当主浅井誠一氏のご好意に深甚の謝意を表する。またこれらの保管と顕彰にこれまで当たられ、当研究所への移管を決定された矢数道明北里東医研所長のご尽力に深謝申し上げる。
 

参考文献および注

[1]真柳誠「WHO伝統医学研究協力センター開所、およびWHO主催“ハーバル・メディスン研究に関するサイエンティフィック・グループ”会議の概要報告」『漢方の臨床』三三巻四号、四五〜五一頁(一九八六)。

[2]矢数道明「温知荘雑筆−WHO指定記念講演の終わりに」『漢方の臨床』三三巻四号、六〇頁(一九八六)。

[3]森家の遺品も大槻清彦氏より北里東医研に寄託を受けた。小曽戸洋・矢数道明「森枳園百年忌祭報告」『漢方の臨床』三三巻四号、三三〜四四頁(一九八六)。

[4]浅井国幹『浅井氏家譜大成』(影印)、医聖社、東京(一九八○)。

[5]浅井貞庵『方彙口訣』(影印)、春陽堂書店、東京(一九七四)。又有「近世漢方医学書集成」77・78所収本、名著出版、東京(一九八一)。