←戻る
真柳誠「『証治要訣』『証治要訣類方』解題 」、『和刻漢籍医書集成』第7輯所収、エンタプライズ、1989年1月

『証治要訣』『証治類方』解題

真柳 誠




一、作者についての問題

 本解題の二書は、朱丹渓(一二八二〜一三五八)の高弟である戴思恭(一三二四〜一四〇五)の作と、これまで伝えられてきた。戴思恭は明の大祖の侍医も任じた明初を代表する医家で、字を原(元)礼、号を粛斎といい、今の浙江省諸曁馬剣郷の出身である。しかし真の作者は、戴思恭でないことが近年の相次ぐ報告で指摘され、それはほぼ確実と考えられる。

 さて両書が戴思恭の作にしては不自然な点の多いことは、早くから論じられていた。例えば両書に引用される『和剤局方』の処方は極めて多く、それは『和剤局方』を強く非難した師の朱丹渓の説に背くことになる。これに気付いた兪弁は、『続医説』(一五三二初刊)にて、次のような苦しい解釈を述べている。

丹渓はただ『和剤局方』の薬の用法に誤りがあることを弁じただけで、その処方自体に罪はない。(中略)思恭は丹渓のこの心を熟知しているので、彼が『和剤局方』の処方を使用するのに不思議はない[1]
 一方、多紀元簡(一七五四〜一八一〇)は両書に脈の記述がほとんどないのに気付き、次のような疑問を呈している。
復庵の書は脈に言及しないが、その意はどこにあるのか。かつて許胤宗(隋唐間の医家)は、「医とは意であり、思慮に精しければこれを得ることができる。脈を候うのは幽にして明らかにし難く、わが意の解した所は口で表現することができない」、と述べていた。復庵もこの見解を持っていたのであろう[2]
 ちなみに元簡がここで言う復庵とは、後述する戴復庵のことである。思恭ではなく復庵の名を挙げるので、元簡も戴思恭の作とする説を疑っていたのかも知れない。これらの不審点を初めて考察したのは山田業広(一八〇八〜八一)であり、その『医学管錐外集』(一八七五成)巻一一に、次のように記している。
 戴元礼は丹渓門人の由なれども、その趣、丹渓と異なること往々あり。その言うところ牽強付会の説なく、明人の著述には大いに有用の書なり。『続医説』巻三に「近世方書。惟戴元礼『証治要訣』。議論切当。有益後学」とあれば、明代にても評判よろしきと見ゆ。その書中に、脈を言いたることなし。なにか見識ありたることと見ゆ。〔これは桂山先生(多紀元簡)もいえり。『医籍考』に見ゆ。○(『証治要訣』の)巻八「五虚者死」条、『素問』を引きたる処に「脈細」とあるのみ〕。

 『傷寒』『金匱』の方を挙ぐるに、みな『局方』『活人書』を引きて、本書を載せたることなし。『傷寒』『金匱』は、顕晦一ならざる書ゆえ、あに当時の世に流伝せず、目を寓するに及ばざるか。

 また按ずるに、この書、元礼述とあれども恐らくは門人の録せし所もあるべきか。何となれば、巻三「陰{ヤマイダレ+禿+頁}気」当帰四逆加呉茱生姜の条に「戴復庵曽用之効」、また巻五(「脇痛」の末尾)に「戴復庵云。腹内諸般冷痛。一箇釈実理中湯加減。作無限用」とあり、この文、自撰の口気にあらざるに似たり。また『(証治)類方』に「増入」の字画、往々あり。並に門人等の補うところに似たり。

 浅田栗園『先哲医話』北山友松子の条に、「拙軒(友松子)曰わく。明の一代、医書の多きことただ汗牛するのみならず、いわゆる模擬{食+丁}{食+豆}の多きに居る有り。戴復庵・呉有性・陳実功の外、わずかに数家のみ」とあり[3]

 以上のように、山田業広は『証治要訣』と『証治類方』を高く評価する一方、それらは戴思恭の手になるものではなく、その門人の撰であろうと推定していた。しかし残念なことに、文中の戴復庵が思恭と別人であることには気付かなかったらしい。
 

二、作者と成立年代

 両書の作者が戴思恭と伝えられること、また思恭と戴復庵が同一者とかつて考えられてきたことに対し、近年になって姜春華[4]・万方[5]・史常永[6]の三氏が、相次いで反論を発表している。それぞれの論拠には重複する点もあるが、およそ次の諸点に整理しうる。

@戴思恭が証の診断に脈診を重視していることは、彼の『金匱鈎玄』の記載や、宋濂『翰苑続集』に載る思恭の治験例から明らかである。しかし『証治要訣』は脈に言及することが殆どなく、わずか「{リッシンベン+登}仲」(巻九)の条に「脈乱」の二字があるのみで、これとて脈学の用語ではない。(姜春華)

A思恭の師である朱丹渓は、『局方発揮』にて『和剤局方』を強く非難している。しかし『証治類方』所載の全四四三処方中、『和剤局方』の処方は一三〇首に上り、筆頭を占める。なのに丹渓の処方は一首も引用されず、丹渓の名すら挙げない。(姜春華・万方・史常永)

B張仲景の処方を仲景の書からでなく、『南陽(傷寒)活人書』から転載している。学術に優れた思恭が『傷寒論』『金匱要略』から引用しないはずはない。(姜春華)

C丹渓学派の祖である劉完素は『南陽活人書』を批判し、下痢の赤白で寒熱を分かつことに反対している。また丹渓は痘瘡の治療に、陳文仲が主張する燥熱補剤を使用することに反対している。しかし『証治要訣』は、そのいずれにも背いている。(史常永)

D胡{サンズイ+榮}の「証治類方序」は、思恭の『証治要訣』と『証治類方』が「蔵之篋笥。甚為秘惜」されていた、という。しかし大儒である思恭が、そのようなことをするはずがない。(姜春華)

E思恭と同時代・同郷で面識のあった宋濂は、思恭について「行状」の一文を記している。また思恭の没後、孫の戴紹は北京の王汝玉に「太医院使戴公墓志銘」を撰文してもらっている。しかしいずれも戴復庵の号を挙げず、また著書に『証治要訣』『証治類方』があることを記さない。(姜春華・万方・史常永)

F『証治要訣』の「陰{ヤマイダレ+禿+頁}気」条や「胎前産後」篇には、「戴復庵云々」と記されている。しかし作者が文中に自己の姓名を挙げることは、ありえない。(姜春華・史常永)

G胡{サンズイ+榮}の序文は、永楽寺の西緒という僧が戴思恭よりこの両書を写させてもらい、珍蔵していたと記す。しかしその年代と場所は、思恭の実際の事跡と合致しない。(万方)

H胡{サンズイ+榮}の序年(一四四三)より両書はその年に刊行されたと考えられ、これは思恭が没して三八年も後のことである。しかしその間、金銭的に恵まれていたはずの思恭の遺族が両書を出版せず、逆に無関係のところから突然に出現するのはおかしい。(史常永)

 以上の諸点より、『証治要訣』『証治類方』が戴思恭の所撰でないことは疑いない。さらに問題の戴復庵について、万方と史常永の両氏は次の『温州府志』の記載を挙げる。

戴{火+胃}、号復庵、永嘉人。文端公渓之後、為臨安府知録。咸淳間(一二六五〜七四)、謝后得異疾、舌出不能収、{火+胃}応召、傅以消風散立愈。后大喜、詢知文端公孫、妻以姪女。後元兵至、弃官学道……後游竜虎山、又至衢州……。
 したがってこの両書は、南宋末〜元初の人で医学に通じていた戴復庵に何らかの関係があること。それを後代の西緒が戴思恭の作と誤認して以来、近年まで誤り伝えられたことがわかる。そこで真の作者と成立年代について、万氏は次のように推測している。

 復庵は咸淳年間に杭州で官吏をしていたが、元兵が来てから杭州の寺に隠居し、そこで両書の元になる書を著した。このことは引用書の多くが、復庵の年代以前の成立であることからわかる。また『証治要訣』には「戴復庵云々」、『証治類方』には「増入」などと記す部分もあるので、両書は寺僧が転録する過程で増補も加えられた。そして最も後代の引用書は危亦林の『世医得効方』(一三三七)なので、成立はそれ以降、丹渓の著書が世に出る一三四七年(これは『格致余論』の序年)以前である。

 一方、史氏は両書の所引書一九種を挙げ、その中に『世医得効方』以降、戴思恭の没年(一四〇五)以前の書が一つもない点より、成立を元末の約一三四〇〜五〇年の間頃と推定する。しかし作者については未詳とし、後考を俟つという。山田業広もすでに指摘していたごとく、両書は少なくとも二段階を経ており、最初の段階は南宋末期頃だろう。ただその名が数回記されることのみで戴復庵の原著、また両書が西緒なる僧の手から出たことのみでそれ以前の寺僧が増補した、とする万氏の推測はいささか性急に過ぎよう。

 ところで後の段階の年代を方氏・史氏はともに、『世医得効方』の危亦林の序年(一三三七)を一つの根拠とする。しかしそれは成立年にすぎず、実際の初刊は一三三九年である。さらに『証治類方』が引く『済生抜粋』の初刊は一三一五年であるが、これは北方での刊行で、南方に流布したのは一三四一年の復刻以降と考えられる。丹渓の書が世に広まったのも一三四七年の『格致余論』序年ではなく、それらが『東垣十書』に収められ、初めて刊行された一三九九〜一四二四年以後と考えられる[7]

 以上の点を勘案すると、『証治要訣』『証治類方』の最終的な成立年代は、元末明初頃の一四世紀後半とするのが妥当な線であろう。そして胡{サンズイ+榮}の序が記すように、僧・西緒の手を経て正統六年(一四四一)に監察御史の陳氏に伝えられ、一四四三年に序刊されたことになる。『証治類方』に「増入」と記される処方も、刊本として『証治要訣』の記述と対応させる体裁上、その際あるいは付加されたのかも知れない。

 ちなみに陳氏の求めで序を記した胡{サンズイ+榮}は、官吏ではあるが医学にも通じており、永楽中(一四〇三〜二四)に編纂した『衛生易簡方』一二巻を明政府に進上している[8]。これは宣徳二年(一四二七)に刊行され、当初刊本は北京図書館ほかに現存している。
 

三、構成と内容

 『(秘伝)証治要訣』には後述の諸版本があるが、いずれも全一二巻本である。各巻毎に、諸中・諸傷・諸気・諸血・諸痛・諸嗽・寒熱・大小腑・虚損・拾遺・瘡毒・婦人の計一二門があり、各門はさらに個々の病症の計一〇二類に分かれている。また各病症は、まずその論があり、次に細かな病症の相違に応じた治療処方を挙げ、いわゆる方論書の典型的な体裁となっている。ただし煩を避けるためであろうか、各処方の薬味・分量・服用法などの記載は一切なく、それらは全て『証治類方』にまとめられている。この形式を採る方論書はさほど多くはない。あるいは原著書に増補がなされた際、このように分けられたのかも知れない。

 各病症の論は精粗の差も大きいが、全般に病因・病源・病症・処方・加減などが網羅されている。個々の内容は『三因方』や『厳氏済生方』などに代表される、北宋〜南宋代の方論書に近似している。とりわけ薬物の加減において、その気味から効能を論じる金代の成無己・劉完素・張元素、元代の李東垣・王好古など、北方医家の影響がほとんど見えない。明初頃からは、彼ら金元流の薬理論が中国全土を風靡した。それで山田業広も、本書を「その言うところ牽強付会の説なく、明人の著述には大いに有用の書なり」と評価しながら、明代の作には疑念を呈したのであろう。

 しかし本書が基本的には南宋時代の特徴を持つ方論書であるにしても、多紀元簡が指摘したごとく、脈に言及しないのは極めて異例である。また病症の論において、通常は「経曰」などと『素問』などを引き、自説の論拠としたり博識を誇示したりするが、それも見えない。そして金元諸家のような自説の強烈な主張もなく、実に淡々と記述されている。これから推すと、本書の当初の作者は師伝を受けたり、医を専職としていたような人物ではないのかも知れない。

 さて『証治類方』であるが、これは『証治要訣』に対応した純然たる処方集である。ただし伝本に四巻本と一二巻本があり、収載方は基本的に同一であるが、その編成は全く異なる。四巻本は処方を剤型名称順に配列しており、巻一湯類、巻二飲類、巻三散類、巻四丸類・丹類・膏類となっている。初刊本と見られる正統年間刻本も、この四巻本である。

 一二巻本は剤型名称による分類ではなく、『証治要訣』一二巻と対応し、その記載順に処方を配列している。この一二巻本は王肯堂(一五四九〜一六一三)校訂の万暦三十三年(一六〇五)陳岐刊本から始まっているので、処方検索の便からあるいは王肯堂あたりの発案で、処方編成をこのように改めたのであろう。

 四巻本・一二巻本のいずれにしても、大部分の処方名の下には、各出典書名が略称で記されている。その省略を補足して挙げると、およそ次のようである。

『和剤局方』『傷寒活人書』『三因方』『易簡方』『世医得効方』『是斎百一選方』『魏氏家蔵方』『楊氏家蔵方』『厳氏済生方』『仁斎直指方』『宣明論方』『儒門事親』『千金要方』『普済本事方』『簡易方論』『済生抜粋』『端竹堂経験方』『夷堅志』
 ちなみに右の書以外で、『証治要訣』に挙げられる医書には、以下のようなものがある。
『葉氏録験方』『厳氏済生続方』『医余』『千里鏡』『楊法師』『陳文仲方(小児痘疹方論)』『薬経』


四、版本

 『証治要訣』『証治類方』には中国刊本と日本刊本があり、いずれも両書の合刻である。したがって以下には、両書を一括して記すことにする。なお( )内に『証治類方』の巻数を示した。

〔中国刊本〕
@明・正統間刊本(四) 北京図書館・四川省図書館所蔵。 恐らく正統八年(一四四三)序刊の初刻本だろう。

A明・万暦二十九年(一六〇一)序刊『古今医統正脈全書』所収本(四) 台湾国立中央図書館所蔵(図1)ほか現存多数。

B明・万暦三十三年(一六〇五)陳岐刊王肯堂校訂本(一二) 中国中医研究院図書館所蔵。

C不詳明刊本 現存多数。

D『丹渓心法』付録六種所収本(四) 明清間に一〇回ほど刊行されている。

E清末翻刻『医統正脈全書』所収本(四) この影印本も出版されている。

F民国十四年(一九二五)上海中華新教育社石印本(四) 上海中医学院図書館所蔵。

G民国二十四年(一九三五)〜一九六〇年商務印書館刊『叢書集成』所収本(四) 現存多数。

〔日本刊本〕
@寛文十一年(一六七一)田中長左衛門翻刻中国B本(一二) 慶応大学医学情報センター富士川文庫所蔵。

A江戸・武村新兵衛重印日本@本(一二) 矢数道明氏・研医会図書館ほか所蔵。

B江戸重印日本@本(一二) 岩瀬文庫ほか所蔵。

 以上の版本の内、日本刊本三種は版元が移ったのみで、いずれも同一版木による印刷である。したがって今回の影印復刻には、虫損・汚損の少ない矢数道明氏所蔵の日本A本を底本に選択した。

 なおこの和刻本の訓点者は吉田意安と伝えられている[9]。室町時代から名医を輩出した角倉吉田家は、渡明して名声を得た宗桂(一五一二〜七三)より代々、意安を称している。すると和刻本の初刊年からみて、訓点を施したのは宗桂の曽孫にあたる吉田宗格(一六一三〜八四)かと思われる。宗格ならば五八歳の時の仕事である。
 

〈文献〉

[1]兪弁『続医説』巻一「和剤局方」、上海科学技術出版社影印本、一九八四。

[2]多紀元胤『(中国)医籍考』七一七頁、北京・人民衛生出版社、一九八三。

[3]山田業広『医学管錐外集』巻一一、慶応大学医学情報センター・富士川文庫所蔵、自筆稿本。

[4]姜春華「試論戴原礼及其著作」、『浙江中医雑誌』一九八〇年四月号。

[5]万方「医林人物雑考(二)、(九)戴思恭・戴{火+胃}」、『中華医史雑誌』一一巻二期、一九八一。

[6]史常永「『証治要訣』及『証治類方』質疑」、『中医雑誌』一九八一年一二期。

[7]真柳誠「『東垣十書』解題」「『格致余論』『局方発揮』解題」、『和刻漢籍医書集成』第六輯所収、エンタプライズ、一九八九。

[8]前掲文献[2]、七二七頁。

[9]林春斎『倭版書籍考』巻五(慶安五年刊)、『解題叢書』所収本による。