真柳 誠*2
A Study on Newly
FoundChinese Materia Medica(Ben-cao)of the“ Xiaopin Fang” (Vol.11)
-On Its Original
Style and Herbological Value-*1
Makoto MAYANAGI*2
Summary
The author and others recently discovered an old manuscript of vol.1 of the“Xiaopin Fang”(小品方). This medical works was written by Chen Yanzhi (陳延之) between A.D.454 and 473 in China, but no copy of it has been known until now. This MS.describes that vol.11 of the“Xiaopin Fang”deals with Bencao (Chinese materia medica), and that it was written earlier than the revision of the“Shennong Bencao-jing”(神農本草経)by Tao Hongjing (陶弘景) between A.D.492 and 500. That is to say, a materia medica older than that of Tao Hongjing was written in the“Xiaopin Fang”.
Therefore, the author has made some researches into the paragraphs from the lost vol.11 of the “Xiaopin Fang” cited in available Japanese and Chinese literature, and has researched for the original text and herbological value of this volume. The study has led to the following suggestions.
(1)Most of the medicines in vol.11 seem to have been the same as those in the “Shennong Bencao-jing”, and many of the others being the same as those in the “Mingyi Bielu”(名医別録).
(2)It seems that about 200 to 300 medicines, were mentioned in vol.11, and that most of them were included in the“Shennong Bencao-jing Jizhu”(神農本草経集注) written by Tao Hongjing.
(3)Vol.11 consisted of the general and the item-by-item parts. In the latter part the Qiwei (気味), toxicity, main effects and the Qijing (七情) of each medicine, together with its byname with some explanation, the side effects and its application in particular cases, were described.
(4)The order of inclusion of the medicines in vol.11 seems to have been the same as that of the “Shennong Bencao-jing” presented before Tao Hongjing revised it.
(5)A more accurate restoration of the “Shennong Bencao-jing” and the “Shennong Bencao-jing Jizhu” will be possible by use of vol.11 and the old MS. of the“Xiaopin Fang”.
1.緒言
最近,これまで逸書とされてきた5世紀の陳延之著『小品方』全12巻中,巻1前半の古写本が東京の尊経閣文庫に見いだされた.そして当古写本の記載より,新たに本書の成立年代をはじめとする知見1~3)を得た.その一つに本草に関する発見がある.
中国本草書で現在にほぼ全体の内容が伝わる最古のものは,斉梁間の陶弘景による『本草経集注』7巻(以下『集注』と略す)である.ただし現存はその一部に限られ,他は歴代本草書に引用が重ねられた文しか伝えられていない.この『集注』は,陶弘景が数種の旧『神農本草経』(以下旧『本経』と略す)4巻を校訂.さらに,これと『名医別録』(以下『別録』と略す)3巻の記載を合編して『(神農)本草経』3巻を作成し,その上に注を加えて7巻本の『集注』としたものである.したがって以上を遡り,『本経』『別録』などの古本草も中国・日本で幾度か復元されているが,資料的に一定の限界は免れえなかった.
ところが『小品方』には本草の記載もあり,その成立(454~473)1)は陶弘景の『(神農)本草経』(492~500)4)より,少なくとも19年ほど早い.つまり彼の手を経ない古本草のまとまった資料が,『小品方』の記載を通じ提供されることとなったのである.このことは陶弘景以前の古本草ばかりでなく,彼がそれらを校訂した様子を考察する上でも,またとない資料の出現といえよう.
当古写本の現存部分は,内容よりおよそ以下の8部分に分けられる.①序文A,②引用書目と序文B,③全12巻の目録,④薬物の配合注意,⑤薬物の修治,⑥薬物の度量衡,⑦疾病背景の分析と服薬指示,⑧各論と処方.以上のうち,本草関係の記載は④⑤⑥に集中しているが,③などより本書の巻11は本草篇であったことも新たに知られた.
よって本稿では,すでに失われた『小品方』巻11について諸文献より検討を加え,その旧態と本草における歴史的価値を明らかにしてみたい.また年代の接近する『集注』との関係も,かねて考察してみたいと思う.
2.『小品方』巻11・本草篇について
1)本草篇の存在
陳延之は当古写本②部分の序文Bにて『小品方』を著した理由を述べ,その末尾(図1A)に本書の構成を以下のように記している5).
今更詳諸古方.撰取十巻可承案者.又撰本草薬性要物.所主治者一巻.臨疾看之.増損所宜.詳薬性寒温以処之.并灸法要穴為一巻.合為十二巻.為経方小品一部.また③の目録末尾(図1B)にも,以下の同様な記述が見える.
述用本草薬性一巻第十一.灸法要穴一巻第十二巻.右二巻連要方合十二巻.つまり古来の処方より理にかなったものを計10巻にまとめた.そして本草の要薬について寒温や主治等の薬性を巻11に,灸の要穴を巻12に記して『小品方』全12巻としたのである.本書が12巻本であることは『隋書』経籍志以来の記録6)に見えるが,各巻の具体的内容を正確に記録した文献はかつて知られていない.もちろんその巻11が本草篇であったことは,『外台秘要方』『医心方』の所引文からは推測不能であった.
陳延之はさらに,④で薬物の配合注意を述べた末尾にその意義を1字下げの書式で記し(図1C),続けて以下のように述べている.
薬性要物.已亦甲乙注名(明)也.故復重記述之.大法宜知此决(訣)也.すなわち,要薬の薬性についてはすでに一々明細に記してあるが,④にも重複して記述したというのである.この薬性を明細に記したというのは,まさしく先に掲げた文に「本草薬性要物.所主治者一巻」という巻11の本草篇を指している.かつ「甲乙注名也(一々明細に記した)」というからには相当数の薬物が収載され,それらの寒温や主治等の薬性が記載されていたことを意味しよう.ただ残念なことに,現存の古写本は巻1前半のみのため,巻11の様子はまずその逸文から窺うしかない.
2)本草篇の逸文
巻11からの引用と目される逸文を諸文献に求めると,それが確証されるa~r(図2)と,可能性が高いs~v(図3)の計22条を見いだすことができた7).ただしaとb,tとuはそれぞれ明らかに同文を引用したものなので,実質的な逸文の数は20条となる.そこでまず,これらを以下に翻字してみた.なお逸文前後の必要な字句は( )内に入れ,おのおのの出典を[ ]内に示した.また異体字・筆訛字等は当用漢字ないし現在通用の正字に改め,各文には便宜上句読点を施した.
a.(小品方云)鎮粉.焼朱砂為水銀.其上黒煙名也.[倭名抄8)]
b.(丹砂.一名…)鎮粉.焼朱砂作水銀.上黒烟名也.(出小品方)[本草和名9)]
c.金牙.一名黄石牙.(出小品方)[同上]
d.(署蕷…)一名土荼根.一名茅荼根.(已上二名.出小品方)[同上]
e.(牛膝…)一名牛脣.(出小品方)[同上]
f.(丹参.…一名逐馬.出陶景注.又小品方云)人病腰痛.服之則.能起走逐馬.故以名之.[同上]
g.(酸漿…)一名苦薝子.(出小品方)[同上]
h.(薺苨…)一名鹿隠忍.(根名也.出小品方)[同上]
i.(水萍…)水中大馬萍.一名馬菜.一名馬葉.(已上.出小品方)[同上]
j.(蝦蟇…)一名去甫.一名苦蠪.一名仇道.(出小品方)[同上]
k.(蓬蔂…)一名大苺、(出小品方)[同上]
l.礪石.一名磨刀石.(出小品方)[同上]
m.(天名精.…小品方名)天蕪菁.一名天蔓菁.[証類本草10)・巻7所載新修本草図経文]
n.(陟釐.…小品方云)水中麁苔也.[同上・巻9所載新修本草注文]
o.(王孫.…小品述本草)牡豪.一名王孫.[同上]
p.菫汁.味甘寒無11)毒.主馬毒瘡.擣汁洗之并服之.菫采11)也.(出小品方)[スタインNo.453412)新修本草・巻18新附薬条]
q.(麦門冬.…小品方)垣衣為使.[医心方13)]
r.牽牛子.木香丸用之.牽牛子尤瀉人腎.又害於元精.識者知也.[福田方14)]
s.(経方小品)倉公対黄帝曰.大豆多食.令人身重.[文選15)・巻53養生論李善注文]
t.(小品方云)倉公述曰.味合則成毒.毒合則成薬.未必即殺人及即病也.皆経久乃害耳.[延寿要集B本16)・厨膳第15]
u.(小品方云)味合則成毒.未必即殺人即病也.皆経久乃害耳.唯見朝食至暮無害.便謂喜17)記非実.甚可哀.[衛生秘要抄18)・合食禁第12]
v.(陳延之小品方云)食飲.養小至長甚難.逆迕致変甚□*.豈可不慎.[医心方19)] *この字は一部欠損で判読不能.
3.木草篇の旧態
1)所載薬の傾向
以上a~vの22条中,b~sには( )内に補足した字句を含め,薬物の正名が計19種挙げられている.それらの歴代本草書における出典を見ると,丹砂・署蕷(薯蕷)・牛膝・丹参・酸漿・水萍・蝦蟇・蓬蔂(蓬蘽)・天名精・王孫・麦門冬・大豆の12種が『本経』薬.金牙・薺苨・陟釐・垣衣・牽牛子の5種が『別録』薬.また菫汁は『新修本草』,礪石は『本草拾遺』20)と,この2種は唐代の本草書21)に至り初めて収載されている.つまり19種中の17種・約90%までが,『本経』と『別録』を介して『集注』に収録された薬物と一致する.ただ以上はわずか19種からの数値にすぎず,これから全体の傾向をにわかに類推はできない.
ところで陳延之は,本草篇の収載薬を④に重複して記したと述べていた.そこで④に記述の薬物を見ると計35種あり,『本経』薬は栝楼・乾薑・紫菀・石斛・ 伏苓(茯苓)・白僉(白歛)・麻子・遠志・牛黄・竜骨・勺薬(芍薬)・黄連・呉茱萸・烏頭・半夏・梨蘆(藜蘆)・細辛・人参・大黄・礜石・防已・厚朴・沢瀉・皀莢・燓石(礬石)・牡厲(牡蠣)・当帰・閭茹({艸+閭}茹)・甘草・海藻・甘遂・大戟・元花(芫花)・犀角の34種.『別録』薬は芒消(芒硝)の1種となっている.
さらに本草に関する内容である⑤の修治部分には16種.⑥の度量衡部分には11種の薬物がおのおの記され,④との重複薬を除けば計16種となる.このう ち,『本経』薬は附子・天雄・麻黄・黄蘗(蘗木)・巴豆・蜜(石蜜)・杏人(杏仁)・石葦(石韋)・膠(阿膠)・蠟(蠟蜜)・大豆の11種.『別録』薬は桂・膠糖(飴糖)・生薑・酒・艾(艾葉)の5種である.
この16種は修治や度量衡の説明に代表例として挙げられるほどなので,当然ながら巻11の本草篇にも記載があったであろう.すると④および⑤⑥に記載の計51種は,いずれも本草篇所載薬と考えられる.
他方この51種と,前述した本草篇逸文の19種に重複する薬物は大豆の1種のみである.したがって両者を加算すると全69種で,『本経』薬は56種の約81%,『別録』薬は11種の約16%,唐代の本草書に至り採録されたのが2種の約3%となる.この数値は69種の薬数から考え,ある程度は『小品方』本草篇に収載された薬物の性格を反映していると見て,大きな隔たりはあるまい.とするならば,そこにはおよそ次のような傾向のあることが示唆される.第1に 本草篇所載薬の多くは『本経』薬であったろうこと.第2にそれ以外の多くも『別録』薬であったろうこと.したがって第3に,その全体は『集注』所載薬とかなり重複していたであろうことである.
2)記載内容
当篇の逸文は以上の22条しか発見しえず,しかもほとんどが部分的引用文たることは一目瞭然だろう.したがって全篇の具体的記述は把握しえないが,主には以下の内容が記載されていたと考えられる.すでに述べてきたように,本草篇には要薬の寒温や主治等の薬性が一々明細に記載されていたはずである.その様子はpの逸文に調製・使用法,および気味・毒性・主治などの薬性が記されていることより窺える.陳延之はこの薬性と称する薬物の性格・作用に基づき,患者と疾病のタイプに応じた処方の加減が必要なことを『小品方』古写本の⑦に強調していた3).さらに④では,具体的な加減方法につき17条にわたり処方名を挙げ,薬物の相悪や相反の配合禁忌を指摘.次いで病症に応じ,一方を他薬に置き換えるべきことを論じている22).
ここで注意すべきは,④に挙げた薬性は本草篇に重複して記載してある,とその末尾に陳延之が述べていることである.ならば本草篇に記述された薬性には,さらに相悪・相反や相使などの「七情」も含まれることになろう.上掲逸文の『医心方』が引くqに,「麦門冬は垣衣を使と為す」とあるのは,まさしくその証左である.ただしこれは『集注』の記載と合致しない23).しかし『医心方』はこの直前に『集注』の「七情」文を引いているので24),『集注』にない例外的ものとしてqが引用されたと理解できる.ちなみに先に述べた④の論説では,そこに挙げられる配合禁忌が1例を除き,『集注』の「本経」文以下に注記される「七情」文と一致している.さらに各薬の主治や置き換えるべき際の症状記載の大部分も,『集注』の「本経」文ときわめてよく一致している22).ならば各薬の主治文のみならず「七情」文もまた,少数の例外はあるにしても『集注』のそれと相当に近似していたと推定されうる.
一方,前掲逸文のa・b~pには薬物の別名が記され,かつa・bは鎮粉,fは逐馬という別名の説明文となっている.つまり本草篇には薬性のみならず,ときに薬物の別名やその説明も記されていたことがわかる.またその多くはpや諸正統本草のように,各薬物の薬性とともに記載されていた可能性が高い.しかし『医心方』が「陳延之同」として引く『曹氏』の文には,経穴ごとの別名と灸の禁忌を記す総論があるので25),本草篇にも薬物の別名などを一括した総論があったかもしれない.
次にr~vは副作用の論説である.rは④の条文と酷似した文体より陳延之自身の文で,かつ内容からは牽牛子条中に記されていたと判断される.ところで『医心方』巻2が引く陳延之や『小品方』の文には,「黄帝曰」「経曰」と書き出す灸の副作用や禁忌に関する総論がある26).それらは内容から見て,灸の要穴篇たる『小品方』巻12の逸文であることは疑いない.また巻1~10の逸文中にも処方とその主治文以外に,総論に相当する文が少なからずある.ならば巻12の逸文と同様,「~曰」と書き出す副作用論のsとt(u)も本草篇総論の逸文である可能性が高い.ただしt・uとvについては,いわゆる「食禁」「食治」の議論の一環と考えることも可能である.『小品方』の目次1)には巻4に「治食毒諸方」,巻9に「治虫獣狗馬毒諸方」の篇名が見えるので,あるいはそれらの総論の逸文かもしれない.
以上の考察より,本草篇には次のような内容が記載されていたと考えられる.第1に当篇の各論部分では,およそ各薬物条ごとに気味・毒性・主治・七情などの 薬性が記されていた.そしてその記載は,『集注』の「本経」文や注記文と相当に近似している可能性が高いこと.第2に各薬物条の一部では別名・使用法や副作用の注意が記され,ときに別名の説明もなされていたこと.第3に当篇には,副作用などについての総論部分があったかもしれないことである.
3)記述形式
本草の記述内容は上述のごとく多岐にわたっている.またそれらの記述形式も時代により,幾度も変遷が重ねられてきた.それゆえすでに散逸した『本経』などの旧態を把握する際,記述形式の問題を避けることはできない.いま現存最古の本草書である『集注』より,トルファン出土断簡の天鼠屎条を見ると以下のように記述されている27).
天鼠屎,味辛寒.有毒.主治面癰腫.皮膚説々時痛.腹中血気.破寒熱積聚.除驚悸.去面黒皯,一名鼠沽.一名石肝.生冷浦山谷.十月十二月取(以上は大字文).悪白斂白薇(以上は小字の「七情」文).方家不用.世不復識此耳(以上は小字の陶弘景注文).このように『集注』の段階ではおおむね,正名―気味・毒性―主治―別名―出所・採取時期―七情―陶弘景注の順に記述されている.しかしそれ以前の古本草がこの順に記述されていたとは必ずしも限らない.つまり渡辺幸三氏の指摘するように28), 陶弘景が旧『本経』と『別録』を合併して『(神農)本草経』を編纂した際,都合上新たに記述形式を統一した可能性がありうる.この推定の根拠は,『太平御覧』の引く『呉普本草』や旧『本経』の一種たる『本草経』が,およそ正名―別名―気味・毒性―出所・採取時期―主治の順に記述することにある.すなわち別名と出所・採取時期はおのおの正名と気味・毒性の後で,主治文は最後なのが旧『本経』本来の記述順と推定しうるのである.したがって森立之もこの記述順で『本経』を復元している29).
ところで『諸病源候論』が引く『小品方』の逸文に,陳延之は石薬の服用法を説く道弘道人の「製解散対治方」を批判し,「検神農本草経.説草石性味.無対治之和…」30)と述べている.したがって彼が旧『本経』の一種を実見していたことは確実であり,本草篇の編纂にそれが参照されたこともまず疑いない.このことは,本草篇所載薬と目された69種の大部分が『本経』薬だったことから首肯されよう.とすると本草篇には,陶弘景以前の旧『本草』の記述形式も保存ないし反映されていた可能性がありうる.
そこで前掲逸文につき記述形式を見ると,cとl条は正名の直後に別名を記し,i・m・o条も『本経』の正名とは異なるが,薬名の直後に別名を記している.まさしくこの記述形式は前述した『太平御覧』所引の『本草経』や『呉普本草』と同一である.当事実は陶弘景が旧『本経』の記述形式を改めた,とする渡辺幸三氏の推定の正しさをいっそう確証させよう.ただし,c・i・l・m・oの5条にしても正名と別名以外は省略されて引用がなく,その他の内容がほぼ窺えるのはp条が唯一である.
ところがp条は正名―気味・毒性―主治―使用法―別名の順に記述され,別名が正名の直後にない.これは却って『集注』の形式に類似している.しかし本条は 『新修本草』の新附薬であるので,蘇敬らが『小品方』より引用の際に他条との統一上,別名を条末に移動したものと理解される.もちろんその際,他の字句にも省略や基本的内容が変化しない程度の改変がなされている可能性も高い.したがってp条は記載が多く残された逸文ではあるが,記述形式を考察するには信頼 性に欠ける.
以上より『小品方』本草篇の記述は,各薬物条において次のような形式であったと理解される.第1に,およそ正名の直後に別名が記述されていただろうこと.第2にそれは陳延之が実見していた旧『本経』の形式なので,別名以外の記述にも旧『本経』の形式を反映していた可能性が高いことである.
4) 収載薬数
当篇の性格を把握するにあたり,最後の問題とすべきは収載薬物数である.しかしその具体的数字は古写本の現存部分や,その他の逸文中にも見いだせない.また④⑤⑥の記述と本草篇の逸文からは,前述した69種の収載しか推定しえなかった.ただし陳延之は,当古写本②の序文Bに歴代の処方が膨大な量となったゆえんを述べ,続けて以下のように記している.
本草薬族.極有三百六十五種.其本草所不載者.而野間相伝所用者.復可数十物.これより本草の薬物数は365種で,それ以外に民間で伝え用いる薬物は10種を数える程度,と陳延之が理解していたことが知れる.もちろんその365種とは,『集注』序録に上薬120種・中薬120種・下薬125種31),と記される『本経』の薬数に相違ない.ただし彼が365種という本草の薬数は,必ずしも正確でない可能性がある.というのは陶弘景が彼以前の旧『本経』収載薬数について,「魏晋以来.呉普李当之等更復損益.或五百九十五.或四百三十一32).或三百―十九」33)と述べているからである.
ならば陶弘景をやや遡る陳延之の時代にも,旧『本経』の薬数に同様の混乱があって当然だろう.『小品方』本草篇の収載薬と目された69種のうち,『本経』薬以外の多くが『別録』薬だった理由の一部は,あるいは上述の混乱に起因するかもしれない.しかし陳延之はその一方,365種以外の民間薬は10種を数える程度,とも述べていた.したがって彼の利用した旧『本経』の収載薬は,陶弘景の挙げる例ほど大きく365種を離れていなかった可能性が高い.
さて先に掲げたごとく,陳延之は「撰本草薬性要物.所主治者一巻」また「薬性要物.已亦甲乙注名也」と,2度も「薬性要物」と述べている.すなわち彼が本草篇に載せたのは,なんらかの本草文献を基準に選択された重要薬なのである.先の検討から彼が依拠した本草文献に旧『本経』が含まれていることは確実であり,その内容も記述形式も相当に踏襲されていると推定された.当然その収載薬の基準に旧『本経』が意識されても不思議はない.とすれば収載薬数の上限は, およそ『本経』の365種を下回ることになろう.
実際,365種程度が収載されていたと仮定し,森立之復元の『本経』の字数から換算すると,『小品方』古写本ではおよそ1,116~1,186行が必要である.しかし『小品方』古写本の現存部分は計530行で1),目次が記す巻1の内容と照らし,巻1全体は多くとも1,000行を越えていなかったと推定される.また巻子本医書の行数が巻により2~3倍相違する例に『医心方』があるが,それにしても最大は巻25の1,417行で,これ以上の行数に達する現存の巻子本医書は知られていない.ならば本草篇の収載薬数の上限を365以下,およそ300種程度と推定しても,実際を大きく乖離することはないはずである.
他方,陳延之は本草篇に収載したのは要薬と述べるが,逸文の19種中には唐代に至って本草書に採録された堇汁と礪石がある.また麦門冬の使薬として挙げられるにしても,陶弘景が「方薬不甚用.俗中少見有者」34)と注する垣衣のように,当時でもあまり重要とは思えない薬物も記載されている.もちろん上述した逸文の多くは別名が目的で引用されているので,やや特殊な薬物が挙げられている可能性が高い.しかしこのような例もあるので,彼のいう要薬には最重要薬以外も含まれ,本草篇の収載薬数はまた365種を大幅に下回ることもないことになる.したがって以上の諸点に常用の薬物数を勘案すれば,本草篇の収載薬はほぼ200~300種程度,と想定するのがおよそ妥当であろう.
4. 本草篇の価値
これまでの考察から『小品方』の巻11は,本草書としても十分な体裁を備えていたことが理解された.これは陶弘景以前の段階で,すでに本草の知識が相当程度に整理・体系化されていたことを意味する.とりもなおさず,それは本草篇の各面に反映された旧『本経』の古態でもあった.したがって今後は『小品方』の記載を手掛かりに,『本経』の復元精度を一層高めることも可能となろう.
他方,『小品方』本草篇の旧態は仔細において,いま一つ判然としない.これはひとえに当篇の逸文が少なく,かつ全文の引用でないことによる.しかしながら『小品方』自体は,唐令やこれに倣った日本の律令制度で医学生の必修教科書に指定され1),当時は高い評価を得ていた.そして唐代の『外台秘要方』や,平安時代の『医心方』には本書の文章が大量に引用されている35,36).にもかかわらず本草篇の逸文は後者にのみわずか1条,可能性があるものを含めても2条しかない.ならばその理由はすでに示唆された『集注』との近似を勘案すると,以下のように想定するのが最も妥当であろう.すなわち,当篇の内容はほとんど『集注』に含まれ,およそ前掲の逸文程度しか相違する記載がなかった.それゆえ他は当篇より引用の必要もなかった,という背景である.同時にそれは両者の使用した本草文献が近似しており,かつ『集注』はそれらの内容をより完全に網羅していたことを意味している.したがって『小品方』の記載は,『集注』の失われた部分を『新修本草』や『証類本草』などから復元する際の校訂資料ともなりえよう.
さらに本草篇を含めた『小品方』の記載は,陳延之が利用した文献あるいは陶弘景と『別録』の関連を論及する上でも,根拠とすべき多くの資料を提供している.したがって当篇に関して考察すべき事項は多々残されているが,論旨の都合上それらについては別に報告することにしたい.
5. 結論
以上,すでに失われた『小品方』巻11の本草篇について,まず諸文献に引用の逸文を捜索した.次いで古写本の記載などを参考に,当篇の旧態を収載薬の傾向と薬数および記述内容と形式の4方面から考察し,かねてその価値についても『集注』との関連から論及した.この結果は下記の結論と示唆に総括されうる.
1) 本草篇への収載が推知された薬物は計69種である.その傾向より所載薬の多くは『本経』薬であり,それ以外の多くも『別録』薬と考えられた.
2) 当篇の収載薬数はおよそ200~300種程度と推定される.そして1)の傾向より,その大多数は以後の『集注』に収載された薬物と重複していたと考えられる.
3) 当篇は副作用などの総論,および薬物ごとの各論に分かれていたと推定される.そして後者には『集注』と同様,気味・毒性・主治・七情などの薬性,ときには別名とその説明,また副作用の注意や使用法も記されていたと考えられる.
4) 当篇の各薬物条における記述形式は旧『本経』と同様,正名の直後に別名が記述されている.したがって全体は,およそ正名―別名―気味・毒性―主治の順に記されていたと考えられる.
5) 当篇を含めた『小品方』の記載は,旧『本経』や『集注』の復元精度を高めるための資料的価値が大きい.
謝辞
当『小品方』の閲覧と研究利用に際し,種種のご高配を賜った前田育徳会の故・大田晶二郎常務理事,永井道雄常務理事,本研究所の大塚恭男所長の諸先生方に厚く御礼申し上げる.さらに永年にわたりこのように貴重な文化遺産の保存に尽力され,後世に伝えられた前田家ならびに前田育徳会・尊経閣文庫に対し深甚の謝意を表する.
参考文献および注
1)小曽戸洋:『小品方』序説―現存した古巻子本―,日本医史学雑誌,32, 1 (1986).
2)石田秀実:『小品方』の医学思想,文化,50, 1 (1986).
3)真柳誠:『小品方』に見る疾病背景の分析と服案指示―治療と養生の接点について,日本医史学雑誌,33, 435 (1987).
4)渡辺幸三:本草書の研究,武田科学振興財団,大阪,p.7 (1987).
5)以下,本稿に引用する古写本の原文は,小曽戸洋,真柳誠「『小品方』残巻釈文」(当稿は近い内に何らかの形で発表を予定している)を基に,筆者の責任において一部を当用漢字に改め,句読点等を施したものである.
6)岡西為人:宋以前医籍考,古亭書屋,台北,p.521 (1969).
7)『外台秘要方』巻12には『小品方』巻11からの引用とする逸文がある〔小曽戸洋:『外台秘要方』による古医書輯逸の検討,日本医史学雑誌,30, 101 (1984)〕.しかしその内容は奔豘に関する記述なので,③の『小品方』目録の記述に照らし,巻1の「治気逆如奔豘脈状井諸湯方」ないしは巻5の「治上気如奔豚諸湯方」からの引用文であろう.したがってその引用を示す「出第一巻中」か「出第五巻中」の注記が,後に「出第十一巻中」に誤記されて伝えられたものと考えられる.なお『証類本草』所載では、『新修本草図経』の甘遂条,蘇頌『本草図経』の薺苨条・莨菪条・楮実条・鼺鼠条・赤小豆条,墨蓋子下(唐慎微 所引)の独活条・白冬瓜条に『小品方』からの引用文がみえる.しかしその大多数は『外台秘要方』,あるいは『医心方』にも『小品方』より類文が引用されている単方であり,いずれも『小品方』本草篇の逸文とは考えにくい.また『伊呂波字類抄』や『類聚名義抄」には,『本草和名』『倭名類聚抄』が引く『小品方』文の同文・類文を記すが,いずれも両書からの転載と思われる.
8)狩谷望之箋注:箋注倭名類聚抄,朝陽会,東京,p.3-83b (1921).
9)以下,底本には森立之による紅葉山文庫旧蔵古写本の影写本(台北・故官博物院所蔵)を使用する.そこに引かれる『小品方』の逸文の所在については,以下の文献に報告した.真柳誠:『本草和名』引用書名索引,日本医史学雑誌,33, 387 (1987).
10)以下,底本にはa柯逢時本『経史証類大観本草』(広川書店影印,東京,1970)と,b晦明軒本『重修政和経史証類備用本草』(人民衛生出版社影印,北京,1957初版)を使用する.
11)仁和寺本『新修本草』の模写本(上海古籍出版社影印,上海,1981)は,「無」を「无」に,「采」を「菜」に作る.
12)東洋文庫所蔵マイクロフィルムの焼き付けによる.
13)丹波康頼:医心方,日本古典全集所収,現代思潮社影印,東京,p.96 (1978).
14)有林:福田方,明暦3年刊本,科学書院影印,東京,p.945 (1987).
15)李善注:嵇叔夜養生論,文選所収,中華書局影印,北京,p.53-3a (1977).
16) 本書は尊経閣文庫所蔵の鎌倉以前古写本の一つ.著者および正式な書名は不詳だが,本書ともう一書を包む紙に「延寿要集」と記すことから,尊経閣文庫は本書にこの書名を与えている.小曽戸洋:新出の『医心方』古写零本巻二十七―現存した仁和寺本の僚本,日本医史学雑誌,31, 520 (1985).
17)『続群書類聚』巻第900(続群書類聚完成会,東京,1924初版)所収の同本は,「喜」を「書」に作る.
18)丹波行長:衛生秘要抄,尊経閣文庫所蔵古写本 (1288).
19)上掲文献 13), p.2661.
20)上掲文献 10), aのp.103, bのp.117.
21)上掲文献 10), aのp.583, bのp.39.
22)真柳誠:『小品方』による古本草の再評価,日本科学史学会第32回年会研究発表講演要旨集,p.57 (1985).
23)陶弘景:本草経集注,敦煌出土古写本,群聯出版社影印,上海.p.83 (1955).
24)上掲文献 4), p.207.
25)上掲文献 13), p.250.
26)上掲文献 13), p.249, 259, 304, 306.
27)岡西為人:本草概説,創元社,大阪,グラビア,p.1 (1977).
28)上掲文献 4), p.35.
29)ただし森立之はこの改変を陶弘景ではなく蘇敬の所作とする失考を犯している.森立之輯校:神農本草経, 昭文堂影印,東京,p.12 (1984).
30)巣元方等:諸病源候論,東洋医学善本叢書所収,東洋医学研究会影印,大阪,p.6-3b (1981).
31)上掲文献 23), p.5.
32)上掲文献 10)の記載では,a ・bともこれを441薬に作る.
33)上掲文献 23), p.3.
34)上掲文献 10), aのp.267, bのp.236.
35)小曽戸洋:外台秘要方所引書名人名等索引,東洋医学善本叢書・第8冊,東洋医学研究会,大阪,p.213 (1981).
36)小曽戸洋:医心方引用文献名索引(1)(2),日本医史学雑誌,32, 89-118, 333-352 (1986)