こうした歴史的・地理的・文化的な背景があって、日本には中国の医薬文献が大量に保存されてきた。その中には清末までの中国で散逸した書もあり、一部は1868年の明治維新以降に中国へ還流したが、いまなお中国(台湾を含む)に存在しない書が多数発見される。
そこで筆者らは日本・中国・欧米の蔵書目録調査と実地の比較調査を重ね、これまで日本と欧米の18機関に中国散逸古医籍を見出した。うち最も書数の多かった日本の国立公文書館内閣文庫(以下、内閣文庫と略す)に所蔵される中国散逸古医籍206部・150書目については、 その来歴と特徴の分析結果をすでに報告した2)。今回は内閣文庫以外の日本の12機関に新たに1機関を加え、計13機関に所蔵される中国散逸古医籍についての調査結果、および内閣文庫を加えた全日本の14機関に現存する中国散逸古医籍の分析結果を報告したい。
この宮内庁書陵部には計183部・148書目の中国古医籍が所蔵されており、うち18部・18書目が中国で散逸した書だった4)。したがって逸書の含有率は部数で約10%となる。各逸書の来歴は、江戸医学館の多紀氏旧蔵書が7部、不詳が6部、紅葉山文庫の秘閣旧蔵書が3部、佐伯毛利氏(高標)旧蔵書が1部、古賀氏旧蔵書が1部だった。
江戸医学館本・紅葉山文庫本・毛利高標本の蒐書経緯については前報2)に述べたが、江戸医学館の旧蔵書が最も多いのは内閣文庫でも同様だった。こうした貴重書を蒐集した多紀氏の業績は高く評価されねばならない。
さて宮内庁書陵部に所蔵される中国散逸古医籍18部について、各々が著された成書年代、および各々が刊行ないし筆写された各国の年代で分析してみた。これを次の表1に示す。
成書 | 元代刊 | 明代刊 | 明代写 | 清代刊 | 清代写 | 朝鮮刊 | 室町写 | 江戸写 | 合計 |
宋 | - | 1 | - | - | - | 1 | 1 | - | 3 |
金元 | 1 | - | - | - | - | - | - | 1 | 2 |
明 | - | 6 | 1 | 1 | - | 2 | - | - | 10 |
不詳 | 1 | - | - | 1 | 1 | - | - | - | 3 |
計 | 2 | 7 | 1 | 2 | 1 | 3 | 1 | 1 | 18 |
以上のように宋・金元・明の各時代に成立した18部の中国散逸書が、元刊本・明刊本・明写本・清刊本・清写本・朝鮮刊本・室町写本・江戸写本の形態で宮内庁に保存されている。唐代までの書がないのは内閣文庫と同様。唐代までの印刷技術の未発達と時代が古いことで書物の伝承率が低いこと、かろうじて日本に伝承された隋唐以前の書は貴重性から影写本・影刻本・影印本となってすでに中国に還流していることによる。したがって表1に唐代までの書がないのはおよそ当然だが、明代に著された書は10部、また明刊本・明写本でも計8部と高い比率を占めている。一方、清代に著された書の逸書は1部もない。
これも内閣文庫と同傾向で、もともとが江戸時代に蒐集された書ゆえ、時代が重なる明清代に著された書や明版・清版は当然多い。ただ中国ではとりわけ医書について江戸医学館に相当する政府機関が蒐集しなかったため、後世に評価や復刻がなされなかった医書、とくに明代までの書が逸書となった一方、時代が近い清代の書は民間に数多く伝承されて逸書となる率が低い。この双方の事情により、宮内庁に保存される中国逸書に明代の書、ないし明刊本・明写本の比率が高いと理解されよう。
他方、内閣文庫で206部の中国逸書のうち朝鮮刊本は 2部、元刊本・室町写本は各1部だった。ところが宮内庁ではわずか18部しかない中国逸書のうち、朝鮮刊本は3部、元刊本は2部、室町写本は1部と内閣文庫より多い。これは、それらの貴重性ゆえ前述のように1891年に宮内庁へ移管されたからである。
以上のように宮内庁書陵部所蔵の中国散逸古医籍は、朝鮮刊本・元刊本・室町写本という貴重書の比率が高い以外、おおむね内閣文庫の蔵書と同傾向が認められた。とりもなおさず、それは宮内庁書陵部の蔵書の大多数が内閣文庫から移管された書であるからにほかならない。
杏雨書屋の蔵書は以下のように形成された5)。大正12年(1923)の関東大震災で東京帝国大学図書館が焼失したように、東京にあった古典籍が大量に灰燼に帰した。武田薬品の五代目・武田長兵衛氏(1870-1959)はこれを痛惜し、関心のあった日本・中国の本草医書の散逸を防ぐために蒐書を開始した。六代目の武田長兵衛氏(1905-80)も蒐書を続けた。
この結果、杏雨書屋には1932〜33年に早川佐七氏の植物学書、昭和初期に小野家の本草書、1935年に内藤湖南博士の恭仁山荘善本、1944年に藤浪剛一博士の乾々斎蔵書、昭和20年代に福井崇蘭館旧蔵書・三木栄蔵書・佐伯理一郎蔵書、昭和30年代に中尾万三蔵書・藤田蔵書・奥村良筑家蔵書、1965年以降に江馬家伝来書・楢林家伝来史料・東野家医学書・渡辺蔵書・羽山蔵書・乾家蔵書など、貴重なコレクションが蒐集されてきた。
六代目の武田長兵衛氏は1978年に杏雨書屋の全蔵書を武田科学振興財団に寄贈、また武田薬品も蔵書の一部を寄付し、ここに公開と保存が目的の図書館として杏雨書屋が設立された。また1983年には医史学者・阿知波五郎博士の蔵書を蒐集するなど、現在も蔵書は増加している。
さて『杏雨書屋蔵書目録』5)を調査したところ、所蔵の中国古医籍のうち10部・10書目が中国で散逸した書だった。その分析結果を以下の表2に示す。
成書 | 明代刊 | 清代刊 | 清代写 | 中国写 | 室町写 | 江戸刊 | 日本写 | 不詳写 | 合計 |
宋代 | - | - | - | - | - | - | - | 1 | 1 |
元代 | - | - | - | - | 1 | - | - | - | 1 |
明代 | 2 | - | - | - | - | 2 | 1 | - | 5 |
清代 | - | 1 | 1 | - | - | - | - | - | 2 |
不詳 | - | - | - | 1 | - | - | - | - | 1 |
計 | 2 | 1 | 1 | 1 | 1 | 2 | 1 | 1 | 10 |
このように宋・元・明・清の各時代に成立した10部の中国散逸書が、明刊本・清刊本・清写本・中国写本・室町写本・江戸刊本・日本写本などの形態で杏雨書屋に保存されている。唐代までの書がないのは内閣文庫や宮内庁書陵部と同じ理由による。一方、明代に著された書は 5部と半数を占め、最も多い。当傾向も内閣文庫や宮内庁書陵部と共通していた。
内閣文庫と宮内庁書陵部の蔵書は由来がほぼ共通するが、それとまったく異なる蒐書経緯を持つ杏雨書屋の蔵書にも同じ傾向がみえる。すると明代に著された書や明刊本が多いというのは、日本に保存された中国散逸医書の特徴かも知れない。
本図書館の自然科学関係蔵書目録6)とその貴重書解題7)を作成した経験によると、医薬書は約1000部あり、日本書の所蔵は室町写本から、中国書は明前期刊本からで、それ以前の刊本・写本はなかった。これは本願寺宗主が写字台文庫を開設した時代に関連するらしい。それでも嘉靖年間以前の明版、室町写本・江戸初期貴重版・名家自筆本のみで計37点が貴重書と認められた。中国版は明・清の全時期にわたってあり、また多くが他の所蔵を経ていないことから、江戸期を通して長崎から直接購入していた可能性が高い。このように全江戸期にわたって蒐書し続けたという点では、規模は小さいが内閣文庫と類似した傾向の蔵書ということができよう。
さて大宮図書館には計332部・262書目の中国古医籍が所蔵されており、うち8部・6書目が中国で散逸した書だった6)。この逸書の含有率は部数で
2.4%となり、内閣文庫の13%や宮内庁書陵部の約10%よりかなり低い。内閣文庫と宮内庁書陵部の中国医書の半数以上は江戸医学館が意図的に善本を蒐集したのに対し、大宮図書館の核たる写字台文庫は本願寺の歴代宗主が仏典以外の教養書として蒐集したのだから、含有率が低いのは当然といえよう。とはいっても、杏雨書屋が約2万部の日中古典籍に10部の中国逸書を所蔵していたのに比べるなら、大宮図書館蔵書の逸書含有率ははるかに高いと言わねばならない。その分析結果を表3に示す。
成書 | 明代刊 | 清代刊 | 江戸写 | 合計 |
元代 | 1 | - | - | 1 |
明代 | 3 | 3 | 1 | 7 |
計 | 4 | 3 | 1 | 8 |
このように、元代と明代に成立した8部が明刊本・清刊本・江戸写本の形態で保存されている。唐代までの書がないのは、もはやいうまでもない。やはり明代に著された書が7部と大多数を占める。明刊本も4部と最も多い。中国の散逸書に明代成立書や明刊本が多いのは、全体に共通した傾向とみていいだろう。
なお前報2)では本図書館所蔵の中国散逸医書を7部5書目と記した。のち検討したところ、本図書館の元・呉瑞『[家伝]日用本草』8巻の明・嘉靖4年(1525)版は540余品を収載し、他に所蔵が一切なかった。一方、通行の『日用本草』3巻本はこれを170余品に節略し、明・万暦48(1620)年に『食物本草』と合刊された版本に由来するものしかない。したがって8巻本の本書を加え、龍谷大学大宮図書館に所蔵される中国散逸古医籍は8部・6書目となった。
しかし1万部を越える医薬書に6部しか中国散逸古医籍がないのは、古医籍全体が1万部以下で、古医籍がほとんどの富士川文庫本でも日本書が主体であること、などの理由によるだろう。本特徴や明治以降に蒐集された蔵書という点は杏雨書屋と共通し、江戸期に連綿と蒐書されて形成された内閣文庫・宮内庁書陵部・龍谷大学大宮図書館の蔵書とは傾向がまったく違う。この6部・5書目の分析結果を表4に示す。
成書 | 明代刊 | 清代刊 | 江戸刊 | 合計 |
金代 | - | - | 1 | 1 |
明代 | 3 | - | - | 3 |
清代 | - | 2 | - | 2 |
計 | 3 | - | 1 | 6 |
上のように、金・明・清代に成立した6部が明刊本・清刊本・江戸刊本の形態で保存されている。やはり明代に著された書や明刊本が 3部と最も多く、ついで清代成立の書また清刊本が2部となっている。つまり京都大学所蔵の中国散逸医書でも、明代成立書や明刊本が多いという傾向が現れていたのである。
当図書館の蔵書すべてを実見するには及んでいないが、目録記載から判断すると4部・3書目が中国散逸古医籍だった。すべて明代に著された書で、1部・1書目が明刊本で3部・2書目が江戸刊本である。
蔵書は日本書1540部・6323冊、中国書597部・5155冊からなり、文学と医薬の書がその約半数を占める。中国書には元版1部・明版60余部もあり、それら善本には三角家の旧蔵書が多い13)。中国散逸古医籍は2部・2書目あり、ともに明代に著された書で、明刊本と室町写本の各1部だった。
成書 | 元代刊 | 明代刊 | 朝鮮刊 | 室町写 | 江戸刊 | 合計 |
宋代 | - | - | 1 | - | - | 1 |
金代 | 1 | - | - | - | 1 | 2 |
明代 | - | 5 | - | 1 | 6 | 12 |
計 | 1 | 5 | 1 | 1 | 7 | 15 |
*九州大学医学図書館:4部・3書目 前田育徳会尊経閣文庫:3部・3書目 大阪府立中之島図書館石崎文庫:2部・2書目 東北大学附属図書館・国立国会図書館・静嘉堂文庫・鶴見大学図書館・西尾市立図書館岩瀬文庫・名古屋市蓬左文庫:各 1部・1書目 |
他方、表5の9機関に所蔵される書には江戸写本が1部もなく、表1〜4でも江戸ないし日本写本は宮内庁書陵部・杏雨書屋・龍谷大学大宮図書館に各 1部があるにすぎない。ところが内閣文庫所蔵の中国散逸古医籍206部のうち江戸写本は44%の91部もあり、筆頭だった。さらに91部のうち79部までが多紀氏の江戸医学館旧蔵書だった2)。この事実は、多紀氏らがそれらの貴重性や善本性を十分に認識した上で写本を作成していたことを示す。
その一方、多紀氏らが作成した江戸写本を除くなら、日本に保存された中国散逸古医籍の主流は明代に成立した書の明代刊本であることも示している。しかし日本に保存されたのは、こうした明代成立書の明代刊本だけということではない。日本は中国の各時代にわたる古医籍を高い率で保存してきたに過ぎないので、問題は中国で明代に著された書の明代刊本のみ高い確率で散逸していたことにある。この理由については前報である程度考察した2)。さらに別な要因も関与していた可能性も推測されるが21)、まだ確証は得ていない。
成書 | 元刊 | 明刊 | 明写 | 清刊 | 清写 | 中写 | 朝刊 | 室写 | 江刊 | 江写 | 日写 | 某写 | 合計 |
宋 | 1 | 2 | - | - | - | - | 3 | 1 | - | 9 | - | 1 | 17 |
金元 | 2 | 2 | - | - | - | - | - | 1 | 4 | 6 | - | - | 15 |
明 | - | 99 | 1 | 2 | 1 | - | 3 | 2 | 20 | 54 | 1 | - | 183 |
清 | - | - | - | 13 | 2 | - | - | - | - | 16 | - | - | 31 |
不詳 | 1 | 4 | - | 1 | 2 | 1 | - | - | - | 8 | - | - | 17 |
計 | 4 | 107 | 1 | 16 | 5 | 1 | 6 | 4 | 24 | 93 | 1 | 1 | 263 |
*元刊:元刊本 明刊:明刊本 明写:明写本 清刊:清刊本 清写:清写本 中写:中国写本 朝刊:朝鮮刊本 室写:室町写本 江刊:江戸刊本 江写:江戸写本 日写:日本写本 某写:不詳写本 |
前報にて簡単に紹介したが、中国散逸古医籍は欧米の5機関にも計7部の所蔵が見いだされている。したがって日本を加えて世界では計 270部になるが、そのほとんどが日本の蔵書であることには変わりがない。その日本所蔵書は表6のように、明代に著された書が183部と全体の70%もを占めている。ついで清代に著された書が31部と全体の12%を占め、あとは宋代・不詳年代の成立書各17部と金元代の書15部で、いずれも10%以下で大差ない。
一方、刊本・写本の別でみると、明刊本が107部・41%と最も多く、ついで江戸写本の93部・35%となり、両者で76%という大多数を占める。しかも江戸写本93部のうち79部までが多紀氏の江戸医学館旧蔵本だった。あとは江戸刊本24部と清刊本16部が比較的多いだけで、これら以外の刊本・写本の現存はともに10部に満たない。江戸刊本の24部は書目数で11種の書であることは、すでに前報2)に述べた。
つまり明代に著された書の明刊本が最も多くて99部あり、全体の38%に達する。つぎは明代に著された書の江戸写本が54部で全体の21%あり、双方のみで全体の約60%にもなる。また江戸写本の大多数が多紀氏らにより作成されていたので、もし彼らの行為がなかったと仮定するなら、単純に計算して(263-79=184)中国散逸古医籍は 184部だったろう。そのうち明刊本は107部なので60%弱、明代成立書の明刊本でも99部で 184部の半数以上になる。
以上のように中国で散逸して日本に現存する中国医書は、明代に著された書の明刊本と江戸写本という顕著な特徴が認められた。もし多紀氏ら努力がなかったと仮定するなら、明代に著された書の明刊本が中国散逸書の特徴といえるだろう。なぜ、そうした限られたタイプの書のみ中国で散逸したが、日本には99部も保存されたのであろうか。
その所以を前報の内閣文庫蔵本の分析では次のように考察した2)。すなわち内閣文庫本は江戸時代の蒐書ゆえ、時代が重なる明清代に著された書や明版・清版が当然多く、しかも政府機関が蒐集・保管したのでほぼ全体が伝承された。他方、中国ではとりわけ医書について江戸医学館に相当する政府機関がなかったため、後世に評価や復刻がなされなかった医書、とくに明代までの書が逸書となったが、清代の書は数多く伝承されてた。この双方の事情により、内閣文庫に伝承された中国逸書の大多数が明代の書、ないし明版の比率が高いと理解された。
たしかに日本に保存された中国散逸医書の大多数は内閣文庫本なので、以上の要因は大きいだろう。しかし今回あげた内閣文庫以外の蔵書でも、やはり明代成立書の明刊本が中国散逸医書の多数を占めていたので、江戸政府機関が意図的に蒐集・保管したことをのみ理由にはできない。すると日本側の要因もさることながら、中国では明代の書に限ってとりわけ散逸率が高いという現象もあったことになる。当然この現象は清代以降のことになるが、その理由はまだ推測の域を出ず21)、今後さらに検討すべき課題といえよう。
(2)263部が著された年代は宋・金元・明・清に分布していたが、明代の書が183部と全体の70%を占めていた。伝承形態ではさまざまな刊本・写本の相違があったが、明刊本が 107部と最も多く、ついで江戸写本の93部となり、両者で全体の76%を占めていた。
(3) 成立年代と伝承形態の双方でみると、明代に著された書の明刊本が99部と最も多く、ついで明代に著された書の江戸写本が54部あり、双方で全体の約60%を占めていた。江戸写本の大多数は多紀氏が意図的に作成していたので、これを除くなら明代成立書の明刊本が特異的に日本に保存され中国で散逸していた。
(4) 明代に著された書の明刊本が最多だったのは、その多くを占める内閣文庫本が江戸時代の政府機関蒐書に由来するので、時代が重なる明清代の書や明版・清版が当然多く、しかもほとんど散逸せずに伝承された要因が大きい。しかし内閣文庫本以外でも同様の傾向が認められた。
(5) 中国では明代の書に限って清以降に散逸する現象があったと推定される。これは江戸医学館に相当する政府機関による医書の蒐集・保存がなかったこと、さらに別な要因も想定しなければ説明できず、今後さらに検討が必要と考えられた。
謝辞:本調査研究に古医籍資料の閲覧と複写の便宜を供与いただいた各図書館および文庫、ならびに事業資金を助成された日本国際交流基金アジアセンターに衷心より深謝申し上げる。
2) 真柳誠・王鉄策・小曽戸洋「内閣文庫所蔵、中国散佚逸古医籍の分析」、馬継興・真柳誠・鄭金生・王鉄策編『日本現存中国散逸古医籍的伝承史研究利用和発表(第一報)』7-16頁、北京・中国中医研究院中国医史文献研究所(1997)。
3) 小曽戸洋・久保道徳「漢方文献の善本を所蔵する図書館とその利用法(その1)」『薬学図書館』26巻 1/2号、19-28頁(1981)。
4) 宮内庁書陵部刊(1953)の『和漢図書分類目録』理学・本草(1459-61頁)および医学(1478-89頁)より算出した。
5) 武田科学振興財団『杏雨書屋蔵書目録』(京都・臨川書店、1982)の序文、および杏雨書屋の展示会パンフレットによる。
6) 龍谷大学刊(1997)の『龍谷大学大宮図書館和漢古典籍分類目録(自然科学之部)』漢籍子部・医家類(35-52頁)より算出した。
7) 真柳誠『龍谷大学大宮図書館和漢古典籍貴重書解題(自然科学之部)』、京都・龍谷大学(1997)。
8) 京都帝国大学附属図書館刊(1942)の『京都帝国大学和漢図書分類目録』第 4冊・医学より算出した。
9) 富士川游旧蔵書は他に慶應義塾大学北里記念医学図書館と日本大学医学部図書館にも所蔵されている。
10) 九州大学医学図書館刊(1987)の『古文書関係目録』による。
11) 北里研究所附属東洋医学総合研究所医史文献研究室編『小品方・黄帝内経明堂古鈔本残巻』、東京・北里研究所附属東洋医学総合研究所(1992)。
12) 前田育徳会刊(1934)の『尊経閣文庫漢籍分類目録』による。
13) 大阪府立図書館刊(1968)の『大阪府立図書館蔵 石崎文庫目録』による。
14) 東北大学附属図書館刊(1976)の『東北大学所蔵和漢書古典分類目録 漢籍』による。
15) 真柳誠「『儒医精要』解題」、馬継興・真柳誠・鄭金生・王鉄策編『日本現存中国散逸古医籍的伝承史研究利用和発表(第一報)』 17-19頁、北京・中国中医研究院中国医史文献研究所(1997)。
16) 国立国会図書館刊(1987)の『国立国会図書館漢籍目録』による。
17) 静嘉堂文庫刊(1992)の『静嘉堂文庫宋元版図録』による。
18) 鶴見大学図書館刊(1994)の『特定テーマ別蔵書目録集成4 漢方と泰西医学』による。
19) 西尾市教育委員会刊(1990)の『岩瀬文庫稀覯本展観目録』および西尾市教育委員会復刊(1992)の『岩瀬文庫図書目録』による。
20) 名古屋市教育委員会刊(1975)の『名古屋市蓬左文庫漢籍分類目録』による。
21) 一般論として、明代の医学は宋代の『局方』流医学と、金元のとりわけ李東垣・朱丹渓流医学が融合し始めた時期のものといえる。この融合のために先駆的な書が多数著され、また出版された。しかし融合の試みはまだ荒削りだったため、たとえば人参・黄耆の補益論のように議論が重ねられて修正され、清代にはより完全な融合が達成されていったように思える。こうした背景のため、明代の書の一部は清代に価値がなくなって散逸していった過程が推測可能である。