真柳 誠
一、著者と成立
両書の著者である厳用和の伝は史書等に見えない。しかし『厳氏済生方』(以下『済生方』と略す)と『厳氏済生続方』(以下『続方』と略す)の厳用和自序(前者をA、後者をBとする)、および『済生方』の宋刊本と室町初写本(後述)に前付の江万序(Cとする)より、彼の概略を窺うことはできる。
Cによれば厳用和の字は子礼。ABCに記す年号と地名より、十三世紀頃の南宋・南康(今の江西省星子県)の廬山にて活躍した医家と知れる。一方、彼の生没年代は次のように推定される。ACの記年より『済生方』の成立は宝祐元年(一二五三)である。またAでは十七歳で医業を開始後、三十余年を経て『済生方』を著したという。さらにBの記年より『続方』の成立は咸淳三年(一二六七)であり、そこでは医業を始めて五十余年と述べる。以上から逆算すると、厳用和はおよそ慶元年間(一一九五〜一二〇〇)の生まれ。五十余歳の一二五三年に『済生方』を完成し、七十歳頃の一二八七年に『続方』を著し、没年はそれ以降となる。
さてAには八歳より書に親しみ、十二歳で劉開(字を立之、号は復真)に入門し、五年間医学を修めたと述べている。劉開の伝は『南康府志』[1]に見え、『方脈挙要』を著したと記し、当書は北京図書館に嘉靖三十三年(一五五四)黄魯曽刊本が現存する。また『(復真)劉三点脈訣』一巻(中国科学院図書館が明前期版を所蔵)と『脈訣理玄秘要』一巻(宮内庁書陵部が『東垣珍珠嚢』と合冊の朝鮮版を所蔵)の著書は、いずれも嘉煕五年(一二四一)に自序が記されている。後書には「前大医劉開復真撰。前制幹門人厳子礼用和図説」と記されているので[2]、厳用和は師の書に図説を加えるほど第一の門人だったらしい。また劉開には『傷寒直格』五巻の著もあったらしいが(岡西為人『宋以前医籍考』四七四頁)、現存は不詳。この他、わが国では劉開の書に明の熊宗立が加注した『察脈神訣』一巻(『医方大成』からの録出、図1)も刊行されている。
さらに劉開は崔嘉彦(号は紫虚道人)に師事し医術を修めた、と張道中『玄白子西原正派脈訣』序に記されている[3]。崔嘉彦も南康の人で、淳煕年間(一一七四〜一一八九)にかけて活躍し、唐・杜光庭『玉函経』への注釈書三巻や、『(紫虚真人)脈訣』一巻などの著作で知られる。以上のように、厳用和は南宋時代の南康の地で医名をはせた崔嘉彦−劉開−厳用和と続く学統の医家であった。
二、構成
『済生方』の構成は「論治およそ八十、製方およそ四百、総じて十巻となし、済生方と号す」、と『続方』の自序に記されている。後述するが、日本には厳用和の時代の南宋刊本とそれに基づく古写本や和刻本が伝えられ、いずれも自序どおりの構成である。
『続方』の構成は、その自序に「方をなすにまた九十、評をなすに二十四」と記されている。後述の本書室町初写本は、自序と巻一〜八の八巻に二十二評・八十一方があり、自序の記載よりやや少ない。これは書末の巻九・十が欠落しているためである。そこで当写本を底本に、多紀元胤(一七八一〜一八二七)は朝鮮の『医方類聚』所引文より欠落の二評・十二方を補遺し、完全な書として刊行している。
ところが中国では両書ともに清初頃にはすでに世上になく、以後現在までの刊本は全て両書の逸文を集めた五十六論治・二百四十余方の八巻本、または両書の和刻本を分解・再編した不完全本である。いずれにしても、原本の構成は一切保たれていない。
三、内容と後世への影響
『四庫全書総目』[4]は『済生方』を評して次のように言う。「書中の議論は平正、条を分かち或いは縷析すること、往々に深く肯綮に中たる云々」、と。また呉澄の『古今通変仁寿方』序を引き、「予、最も厳氏済生方の薬を嘉ぶ。泛せず繁せず、これを用うれば則ち功あり」とも記している。
さて、『済生方』の論治および『続方』の評治には、各処に『素問』『難経』や『金匱要略』『(巣氏)病源候論』『千金方』などを引く立論が見られる。また王叔和・朱肱等の所説も少なからず引用されている。とりわけ『和剤局方』『三因方』の影響は相当に大きい。例えば五積散・華蓋散・香蘇散・十神湯などは、いずれもこの二書を出典とする処方である。『済生方』ではこの他に、巻四に崔知悌の骨蒸灸法、巻六に{禾+尤+山}大夫の癰疽治方、巻九に時賢の胎前十八論治、巻十に郭稽中の産後二十一論治など、当時の民間的治療まで相当に広範囲から採録されている。
ただし中国における『済生方』『続方』の影響はあまり見られない。それは両書が南宋あるいは元代の刊行以降、十八世紀に不完全な復元本が『四庫全書』に収められるまでの間、翻刻本の流布した形跡がないこと。南宋末元初の『証治要訣』『証治類方』、元の『医方集成』、明の『永楽大典』『古今医続大全』『本草綱目』など、十六世紀までの一部方書や極めて大部の書物にしか引用されなかったことが背景に考えられる。
一方、日本では早くも鎌倉時代の惟宗具俊『本草色葉抄』(一二八四)に引用され、梶原性全は『頓医抄』(一三〇四)と『万安方』(一三一五)に『済生方』を大量に引用している。つまりその成立後、数十年を経ずして、わが国で利用されるところとなった。南北朝時代になると、僧・有隣の『福田方』(一三六三頃)に『済生方」『続方』からの引用が見える。室町時代の成立と思われる『新方』(存上巻一冊、台北故宮博物院図書文献館・大阪中之島図書館蔵。和気家の著と目される仁和寺旧蔵本からの転写。台湾本は小島宝素の旧蔵)にも『済生方』『続方』が引かれる。以上の日本書で江戸時代に刊行されたのは『福田方』のみで、いずれも後世に広く流布したわけではない。後世に影響を与えたコンパクトな医書では、曲直瀬道三の『啓迪集』(一五七四)に「所従経籍」の一書として『済生方』が挙げられている。恐らくこれが本書の名を高めた最も早期のものであろう。
江戸期になると、本書を出典とする処方が多くの方書に転載されるようになる。とりわけ江戸期全般にわたり愛用された『古今方彙』をはじめ、『観聚方要補』『勿誤薬室方函』などの名著にも本書や『続方』から採録され、現代も人口に膾炙している名方は少なくない。例えば当帰飲子・加減腎気丸(牛車腎気丸)・帰脾湯・柿蒂湯などは、皆それらを介して知られた『済生方』の処方である。
四、伝本
〔厳氏済生方〕
@宋刊本
宮内庁書陵部(紅葉山文庫旧蔵、図2)および台北・故宮博物院(曲直瀬養安院旧蔵)所蔵。前者は自序と江万序(末尾約四葉欠落)および巻二〜五・七・九が宋刊。他は補写を以て配され、目録を欠く。後者は宝祐癸丑年の嚴用和「嚴氏濟生方序」五葉、目録十三葉を存するが江万序を欠き、宋刻は巻一首の第十七葉までで、他は全て影写を以て配され、「養安院藏書」「杉垣{艸+移}/珍藏記」「愛陰書屋」および楊守敬藏印記四種が捺される。両者ともに宋刻部は同様の版式で、南宋の建安刊と目される[5]。
なお小曽戸氏の研究(「『名方類証医書大全』解題」『和刻漢籍医書集成』第七輯、一九八九)により、台湾国立中央図書館所蔵の宋版『新大成医方』(張適園旧蔵)は、宋刻『済生方』本文と宋刻『続方』序文の版木を用い、書名・著者名のみを埋め木で改刻・捏造された元代の印本であることが明らかにされた。そして当書本文の大部分は、上述の宮内庁本・台北故宮本とは別版なので、宋版は最低二種あったことになる。
A元刊本
清の邵懿辰『四庫書目邵注』に著録される。現在その所蔵を記す目録は日・中ともになく、おそらく散佚したと思われる。あるいは元代に、前述の『新大成医方』が捏造印刷される前に印行された書だったかも知れない。
B室町初写本
国立公文書館内閣文庫所蔵(江戸医学館旧蔵)。自序・江万序・目録および本文巻一・二の一冊のみ。自序首葉(図3)には「金沢文庫」の印記があり、その前には『続方』自序一葉も綴じ込まれている。当蔵書印記の真偽は書写年代と関連して諸説があるが、福井氏[6]は北条氏滅亡後に金沢文庫を管理した称名寺にて捺されたと推測する。
また台北故宮博物院図書文献館にも、室町後期写本・存六卷(欠巻七〜十)二冊(観字七六七号、故観号〇一四〇六・〇一四〇七)がある。当本は毎半葉、一五行・行二二字で、「博愛堂記」「小嶋氏/図書記」と不詳印記三種・楊守敬蔵印記四種が捺される。帙には、「此本相帋質墨光、当是二三百年前鈔本、巻末天明識語、蓋後人所記、非抄写時月也、甲寅小春、城東寓居、書{木+聖}陰生、尚眞」「文政八年挿架」、第2冊末に「天明戊申仲冬、奉東州平忠世」の識語がある。なお小島尚真『医籍著録』(台北故宮蔵)に曲直瀬玄朔の東井文庫古抄影宋本を家蔵し、巻七以降を欠く古抄本を伊沢氏酌原堂が所蔵と記すが、ともに現所在は不詳。
C享保十九年(一七三四)植村玉枝軒刊本
国立公文書館内閣文庫ほか所蔵。阿部隆庵序・甲賀通元序・目録・本文十巻からなり、厳用和序・江万序を欠く。刊行経緯は後述する。
〔厳氏済生続方〕
@宋刊本
『続方』の厳用和自序は当書を刊行すると述べ、前述のように台湾中央図書館所蔵の『新大成医方』が宋刻『続方』序文の版木を用いていたので、間違いなく宋版は存在した。しかしその後、当版の所蔵記録はなく、早くに失われたと思われる。
A室町初写本
国立公文書館内閣文庫所蔵(江戸医学館旧蔵)。全体は本文巻一〜八の一冊で巻九・十を欠き、目録はない。本書の自序は前掲の同文庫蔵『済生方』室町写本に誤って綴じ込まれている。また自序(図4)および本文巻頭には、ともに「多紀氏蔵書印」「紀陽湯氏架蔵医書」などの印記が捺される。なお『医籍著録』は古抄本として、湯河家本と「金沢文庫」印記がある江戸医学館本の二種を記している。
B文政五年(一八二二)多紀元胤跋刊本
東京大学総合図書館・東北大学付属図書館・静嘉堂文庫・国会図書館・北京図書館所蔵。厳用和序・本文八巻・補遺、および湯河元{イ+炎}と多紀元胤の跋よりなる。刊行経緯等は後述する。
〔済生方・続方の混合本〕
@『四庫全書』所収本
明初の叢書『永楽大典』に引用される『済生方』『続方』佚文を八巻にまとめ、『四庫全書』(一七八五)に収録したもの。構成・内容ともに旧態を著しく失っている。
A清・光緒四年(一八七八)刊『当帰草堂医学叢書』所収本(図5)
清の丁丙が編纂した当叢書に、前掲の『四庫全書』本および『四庫全書提要』文を刻入したもの。一九八二年には杭州市古旧書店が当叢書全体を影印、また一九五六年には人民衛生出版社が本書のみを影印単行している。いずれも巻数・内容とも『四庫全書』本と同様。
B一九八〇年人民衛生出版社鉛印『重訂厳氏済生方』
本書は前掲の和刻『済生方』と和刻『続方』の二書を、浙江省中医研究所文献組らが再編し簡体字に改めたもの。前言・解題・済生方自序・続方自序・本文・処方索引よりなる。内容は『四庫全書』本より完全だが、原本二書の構成を無視した再編の意義は小さい。
以上『済生方』の伝本四種、『続方』の伝本三種、混合本の三版本を紹介した。今回の復刻には内容と和刻であることを考慮し、『済生方』は国立公文書館内閣文庫蔵の享保十九年刊本(昌平黌旧蔵)、『続方』は東京大学総合図書館蔵の文政五年刊本(多紀元堅旧蔵)を底本に選択した。また『済生方』の厳用和序と江万序を、国立公文書館内閣文庫蔵の古写本より補足することにした。
五、影印底本について
〔享保十九年刊『厳氏済生方』十巻〕
当本の刊記によると、出版元の玉枝軒は京都の書店植村藤治郎である。またその刊行経緯は阿部隆庵と甲賀通元の序文などより知ることができる。
阿部隆庵(陸僊)は甲賀通元の序に浪花の医家と述べられる以外、不詳である。隆庵の序によれば、彼は本書の虫蝕い本三種を名家より入手。それらを校合した数年後の享保十七年(一七三二)、別の写本を持参した玉枝軒の翻刻希望により、再度それで脱誤を補訂したという。一方、享保十九年(一七三四)の甲賀通元序によると、かつて某書店が本書の翻刻を企画し、校閲を依頼されたが書末に脱漏が多かった。幸い阿部隆庵蔵本により完全となったので、再び校訂し訓点を加え出版することにした、と述べる。
甲賀通元(号を健斎)は京都の医家である。その事跡はあまり知られていないが、『済生方』出版と同年の享保十九年に、『済生抜粋』本の李東垣『医学発明』二巻に訓点を施して刊行。元文五年(一七四〇)には自著『医方紀原』三巻(享保五年、一七二〇自序)を刊行。延享二年(一七四五)には『古今方彙』の出典・誤脱を訂正、また処方を増補して刊行。さらに父の甲賀祐賢(敬庵)著『医門丘垤集』二巻に附録一巻を加え、宝暦四年(一七五四)に刊行。宝暦五年(一七五五)刊の陶山南濤の『傷寒(論)後条弁鈔訳』に序を記し、刊年不祥だが『方鑑』を著すなどの活躍をしている。
なお浅田宗伯は『皇国名医伝』の岡本玄冶(一五八七〜一六四五)の項に[7]、甲賀通元は玄冶の門人と付記する。しかし両者の年代はかなり隔たるので初代玄冶の門人ではなく、後代の玄冶の門下だったかも知れない。
ところで『井上書店古典籍目録』二十四号(一九九三秋)は、「享保二年八月甲賀通元自筆抄録・享保三年得松岡玄達翁之摘鈔相照考閲(清・陳士鐸『本草新編』より一二六種を抜書。巻末、「洞庵通元識」と記す左に「甲賀氏」「通元之印」の二顆を押す)」という『本草新編抜抄』一冊(二〇万円)を載せる。さらに『医方紀原』には元文四年(一七三九)の松岡玄達(一六六八〜一七四六)叙があり、「(通元の)令弟敬元が来て、本書を出版することになったので序文を求めた」という。通元の弟の甲賀敬元は松岡玄達の門人で、著書に『大和本草記聞』や松岡子典(玄達の子)と共編の『用薬須知後編』(一七五九刊)がある。とするなら通元は玄達よりやや年少で、面識も当然あっただろう。
通元の学識を望月三英は、「博覧強識」「独好古方、亦能弁新方」と『古今方彙』の序に評している。また三英は通元重訂の『古今方彙』があまりに売れ、洛陽の紙価まで値上がりしたと形容するので、その好評ぶりが窺える。この通元の博識は、『済生方』に寄せた序の最後に「まだ『続方』が得られず遺憾である」、とその存在を示唆した口吻からも知られよう。
ちなみに当和刻『済生方』を、前述の宋版および古写本と比較してみた。厳用和序・江万序を欠落する点は残念だが、目録は方名の脱漏が補足され、本文は一部を除き行数・字詰めまで宋版とほぼ一致している。したがって当和刻本は倣宋版と言えぬまでも、原本に忠実に校訂された翻刻版と評してよいだろう。
〔文政五年刊『厳氏済生続方』八巻及補遺〕
当本は多紀元胤が希覯医書の復刻を企画した『衛生彙編』の一環として、『黄帝蝦蟇経』『本草衍義』とともに刊行したものである。いずれも多くは印刷されなかったらしく、現存本は極めて少ない。
当本を元胤が刊行した契機は、前述の『続方』古写本を叔父の湯河元{イ+炎}がその門人より得たことに始まる[8]。湯河家は多紀家同様に代々の医官で、四代目寛房に子がなく元胤の父元簡(長男)の弟左膳(二男)を養子とし、五代目湯河忠房としている。しかし忠房も子がなく、その実弟(三男)を忠房の没後に再び養子とし、六代目湯河元{イ+炎}(安道)とした[9]。
さて前述の古写本には、図4のごとく湯河家の蔵印上に多紀家の印も捺される。これより元{イ+炎}が本書を旧実家の多紀家に譲渡したことがわかる。ところで『経籍訪古志』(一八五六序)が記す湯河氏蔵『続方』古写本一巻には、さらに「金沢文庫」の印記が自序頁にあるという。また多紀元胤も和刻『続方』の跋文に同じことを述べる。一方、前述の『医籍著録』では、多紀氏の医学館本に「金沢文庫」印記があるという。ところが図4の内閣文庫本にはこれがなく、あるのは図3の『済生方』古写本の自序頁のみである。すると湯河家はもともと、「金沢文庫」印の有無が違う古写本『続方』二点を所蔵していたのだろう。そして「金沢文庫」印記のある本を先ず医学館に譲渡したが、これは現在に伝わらず、のち印記のない本も医学館に譲渡し、それが現在の内閣文庫に伝わった、と推測できる[10]。
ともあれ元胤は本書を湯河元{イ+炎}より借覧後、その巻九と十の欠落に気付いた。彼は和刻『続方』の跋に次のように述べている。「叔父の湯河君はかつて巻首に金沢文庫印記のある一本を得たが、ただれて誤字も多く、その評治と処方の数は序文の記載と符合しない。そこで朝鮮の『医方類聚』の各門に引用される本書の佚文により校勘・訂正し、さらに欠落の二評・十二方を補足して完全なものとした。よってこれを刻して世に伝える(以下略)」、と。『医方類聚』(一四四五頃)は後に喜多村直寛が木活字を用いて印刷し世に広まったが、当時はすでに朝鮮にもなく、日本にのみ伝存していた医学全書である。これら日本にのみ伝存の古文献を駆使した作業は、まさにその恵まれた条件を自覚・利用し得た多紀家や江戸医学館の学識と権力によってのみ行い得た業績と言わねばなるまい。
当和刻『続方』の正確度は南宋の原刊本が存在しない以上、推し測るすべもないが、その古写本に較べるならば格段に優れている。また目録のない点は不便だが、古写本にもないので、元胤はあえて旧態の改変を望まなかったのだろう。そのことは『医方類聚』からの輯佚文を書末に「補遺」として付し、無理に巻九と十に配分していないことからも窺える。したがって当和刻本の体裁はさておき、内容的には元胤の言うごとく、ほぼ完全なものと考えてよいだろう。
〈文献および注〉
[1]『医部全書』一二三三○頁、台北・芸文印書館影印、一九五八。
[2]森立之ら『経籍訪古志』(『近世漢方医学書集成』五三巻所収、東京・名著出版影印、一九八一)四〇五頁。
[3]多紀元胤『(中国)医籍考』二七二頁、台北・大新書局、一九七五。張同君「『崔真人脈訣』弁偽」『中医雑誌』一九九〇年一〇期六二三〜六二五頁。張同君「崔嘉彦西原脈学及其学術成就」『中華医史雑誌』二二巻一期三二〜三七頁、一九九二。
[4]永{王+容}ら『四庫全書総目』八六七頁、北京、中華書局影印、一九八五。
[5]阿部隆一『増訂中国訪書志』三〇七頁、東京・汲古書院、一九八三。
[6]福井保『内閣文庫書誌の研究』一八〇〜一八三頁、東京・青裳堂書店、一九八〇。
[7]浅田宗伯『皇国名医伝』(『近世漢方医学書集成】九九巻所収、東京・名著出版影印、一九八三)三五三頁。
[8]石原明氏(「新発見の金沢文庫旧蔵医書二種」、『彙報金沢文庫』十八号、一九五六)は当本を入手したのは湯河忠房とし、その発見年を寛政頃とする。しかしそれは元胤のいう叔父の湯河元{イ+炎}を、その兄の忠房ととり違えたことによる誤認である。
[9]『新訂寛政重修諸家譜』第十九・二九七頁、東京・続群書類従刊行会、一九六六。
[10]石原明氏(前掲注[8]所掲文献)は『経籍訪古志』の記載を、「金沢文庫」印記のある『済生方』に『続方』序が綴じ込まれていたからとするが、実際は古抄本が二部存在していたことに気づかなかったための誤認である。