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梁永宣・真柳誠「岡田篁所と清末の日中医学交流史料」『日本医史学雑誌』51巻1号25-49頁、2005
岡田篁所と清末の日中医学交流史料
梁 永宣・真柳 誠
〔要旨〕長崎の医家・岡田篁所は一八七二年二月から四月まで上海と蘇州の各地を旅行し、その旅行記録に基づき『滬呉(こご)日記』を帰国後に著した。本書は彼が見聞した清末中国医薬界の情況を如実かつ客観的に要約しており、中国医学史と日中交流史の研究に価値ある史料を提供している。
キーワード−岡田篁所、滬呉日記、明治初、清末、日中医学交流史
Okada Kousho and
Historical Material of Medical Exchange
between
Japan and China in the last part of Qing dynasty
LIANG Yongxuan,
MAYANAGI Makoto
Japanese medical doctor Okada kousho who lived in Nagasaki traveled
around Shanghai and Suzhou from February to April in 1872. After coming
back to Japan, he wrote the “KoGo Nikki (Shanghai Suzhou Travel Diary)”
based on this travel records. This article truly and objectively
summarized his experience of Chinese medicine world in the last part of
Qing dynasty, which provides us a valuable material for studying the
history of Chinese medicine and the medical exchange between China and
Japan.
はじめに
一朝、志を得て鯨鼇に跨る。
想見す、当年、意気豪なるを。
游篇を読み罷へて深く感有り。
才華紙に満ち、風濤を捲きあぐ。
(先生はにわかに望みが叶って大船に乗って海外に渡航した。それだけでも先生の当時の気迫が推し量られる。私は本書を読み終え、深く心を動かされた。先生の才知が紙面に大波を巻き上げる如くに横溢している)
当漢詩は明治期漢方を代表する栗園浅田宗伯(一八一五〜九四)が岡田篁所の『滬呉日記』に寄せた詩、「読滬呉日記呈篁所先生(滬呉日記を読みて、篁所先生に呈す)」(1)で、ある。
さて明清代の中国に来訪した外国人の見聞録は、少なからず現存する。中にはマテオ・リッチの著述のごとく、中国社会に身を置きながらも部外者の視点から中国社会の諸相を如実に描写した記録もあり、中国史研究への価値が高い。本稿ではそうした見聞録のうち、これまで知られることの少なかった長崎の医家・岡田篁所の『滬呉日記』全二巻を史料とし、日本と中国の医学史研究への価値を検討してみたい。
なお本稿では訓読で理解可能な漢文を適宜訓読し、訓読のみで理解が難しい漢文は現代語訳し、いずれにも原文と所在の巻葉次を下三七ウ(下巻三七葉ウラ)のように注記した。また原文の漢字にJISコード内の常用・人名用漢字の略字がある場合はそれらに改め、ない場合は原字のままとした。
一 岡田篁所と『滬呉日記』および旅行目的
岡田篁所(2)(3)(4)は肥前長崎の人で、名は穆。字を清風、通称を良之進、後に恒庵といい、篁所また大可山人と号した。竹を愛し、屋を修行吾蘆また小緑天と称した。文政三年(一八二〇)に長崎西築町の医家・岡田道玄の子として生まれる。天保六年十六歳のとき、彦根藩士の宇津木静区が長崎に来游の際に就いて学ぶ。十七歳で大坂にて正式に静区に入門、静区の死(一八三七)に際し「宇津木静区先生伝」を著し、後も恩師とした。二十四歳で江戸に赴き、多紀元堅に医を学ぶ(5)。のち長崎にて医業を続け、儒者の野田笛浦にも学ぶ。彼は典籍に博通し、傍ら詩文や書画に及んで文才を発揮した。明治三十六年(一九〇三)二月十九日に逝去、享年は八十四だった。
さて篁所は明治五年(一八七二)の二月十三日に出航し、同年四月十三日に長崎に帰港した。この二カ月間に中国江南の上海・蘇州一帯を旅行したのである。同行者は骨董商の松浦永寿と、蘇州人の湯韵梅だった。篁所は中国語を話せない。しかし旅行した各地では漢文で筆談し、その記録を保存していた。彼は帰国後に全筆談文を整理し、上海の古名「滬」と蘇州の古名「呉」から『滬呉日記』と題したのである。
当書は完成後すぐに出版されなかった。その事情を篁所の子・岡田景は書末にこう記す。「家君、嘗て此の著ありて筐底に蔵すること久しく、未だ敢えて人に示さず。嚮者三渓菊池翁の我が崎港に游ぶや、一見して佳著と以為らく、細かに評点を下し、上梓を慫慂す」(6)、と。篁所の友人・菊池純も長崎旅行の際に「偶見示此巻」され、全書を通覧した。彼も篁所の文言に迫真を感じて批評を加え、上梓して本書が日本の詩林に伝わるよう促した。
『滬呉日記』の全体は日記形式で、篁所が各地を旅行して各界の人士を訪問した状况が日時順で詳細に記載される。本書は清末の上海史・蘇州史の研究のみならず、当時の日中文化交流の貴重な資料でもあり、すでに陳が当方面の研究(7)を発表している。
本書は上下二巻二冊・計五九葉で、明治二十三年(一八九〇)に京都で活字印刷されたが、現存本は少ない。筆者らは温知堂矢数医院の蔵書を用いた。なお国立公文書館内閣文庫にも明治二十四年刊と著録の同書一冊が所蔵(8)されるが、両本の版式・内容・印刷などに相異はない。
本書には友人による以下の序文が前付される。すなわち菊池純の「滬呉日記序」、韓中秋(谷口藍田)の「滬呉日記送辞」、高知琳(烽見)の「送篁所君游支那」、岡田嘯雲(可譲)の「送篁所君游支那」、池原謙(枳園)の「送篁所君游支那」。および篁所が日本に帰国の際、以下の中国知友から送られた送別の漢詩も付す。すなわち呉門の許鍔(穎叔)、平江の呉福保、呉県の蒋子賓(爕鼎)、呉門の顧芙卿、呉門の顧承(駿叔)、梁渓の銭懌(子琴)など。書末には張子ムの「跋滬呉日記」、韓中秋(藍田)の「題滬呉日記」、前掲した浅田栗園の「読滬呉日記呈篁所先生」、古越の僧蒙(心泉)の「同前」、菊池純(三渓)の「同前」、石津発(灌園)先生の「跋語」があり、末尾に篁所の子・岡田景の識語が付される。
さて、篁所は自らを「古玩書画の鑑賞を以て業と為す者」といい、本文冒頭にもこう記す(9)。
私は幼少より中国に一度旅行したいと願っていたが、幕府の禁で果たせず、ただ瞻望するよりなかった。明治維新以来、渡航の禁が解除された。そこで蘇州人の湯韵梅と村人の松浦永寿を伴い、上海に出航した。この旅行は上海で銭子琴に会い、また蘇州・杭州間を歴遊したいと思ってのことだった。すなわち明治五年壬申春二月十三日のことである。
以上および本文中の記載からすると彼の中国旅行目的は、「中国文化の一斑を窺」い、「文墨の士に謁」え、「有徳の君子に謁えて大教を請」うこと、また「収蔵家に問いて古賢の遺墨を観」、「名山に登りて勝景を探り、佳き山水を覧」るのが主だったといえる。同時に手紙等で相知った中国の友に面会することだった。
二 篁所が目睹した中国の医薬業
岡田篁所の一行三人は一八七二年二月十三日に長崎より出航、二日後の十五日正午に上海へ着岸した。そして翌十六日午後から上海での活動を開始する。
篁所は中国での訪問先など日程を事前に細かく計画していた訳ではなく、まったくの観光者として行く先々で気ままに見聞した。ただし開業医や薬店の看板を見かけた時だけは違う。すぐに自己紹介して入れてもらい、筆談を交している。一方、篁所はかつて儒を学び、さらに多紀元堅(一七九五〜一八五七)に入門して高レベルの中国医学を修めていた。それゆえか中国の「儒医」にまみえる強い期待を抱き、また自らも一開業医として当地の薬店や開業医に多大な好奇心を示した。
二月十七日、篁所はたまたま「一良済堂薬鋪」を見かけるとすぐに入り、薬を購入している。そして薬店の状况を以下のように記した(10)。
薬材はみな精良である。いかなる丸散剤やカット生薬も客の求めに応じられるようになっている。というのも中国の医者は病人を診察し、診断も記した処方箋(医案)を書いて渡すにすぎない。薬材はみな患者が薬店で購入するからである。したがって薬店たるは商品に遺漏があってはならず、ない物が一点でもあれば恥とされる。もし、しばしば欠品があれば医家はその店を責め、罰は三日の営業停止という。
一方、当時の日本では医者が薬店から薬を購入し、それを患者に処方・投薬して診察料を含めた薬代をもらうのが普通だった。金銭の流れからして、医者の立場が薬店より弱くなることもある。篁所は前述の見聞から、中国では医者の立場が薬店より強いことを察知し、こう記す。「中国の医権は往々にしてこのようで、まつりごとの一端をみるに足る(唐山医権、往々如此。亦足以観政之一端矣)」、と。当文には両国医療システムの相異のみならず、明治維新で漢方凋落の気配を感じ始めていた彼の心情も窺えないではない。
二月十九日、篁所は街頭を散歩していて『童昆玉「儒医」方脈』の看板を見かけ、「卒然として門を入」り、以下の筆談(11)を行う。
こう書き付けた紙片を示した。「童先生、私は日本の生まれで姓は岡田、篁所と号します。看板を見て訪ねることにしましたが、筆談に問題なければご教示ください」。童氏は「何も問題ありません」という。
篁。先生のご出身と貴号をお教えください。
童。私の姓は童、茘裳と号し、寧波の出身です。
篁。寧波の儒医では誰が崇拝されていますか。
童。私は疏才浅学です。どうぞご謙遜なさらないで下さい(小字の篁所注で「これは童の誤解」)…。
篁。現在の上海で誰が高名な儒医ですか。
童。高名な人は仕官のため北京に行ってしまい、上海に留まる人のうち誰が高手かは分かりません。恐らくそのような人はいないでしょう。
篁。現在の天下で高名な儒医の著述や新刊書をお教え下さい。
童。医者なら蘇州の葉天士、儒者なら劉墉が宰相になりました(小字の篁所注で「童は、また今と以前の人を誤解する」)。
篁。私が思うに、劉石庵の書法は高名で、王夢楼・梁同書・孫樹峰とともに四大家と称されています。私は彼の書をみたことがありますが、著作は見たことがありません。葉天士は『臨証指南』以外に著書がありますか。
童。彼には『疑証医案』もあり、さらに好い書です。版木は蘇州にあるのですが、世上に見るのはまれです。
この童昆玉という開業医は当対話で、現在の高名な医者として葉天士(一六六七〜一七四六)、儒者として劉墉(一七一九〜一八〇四。石庵と号した)を挙げる。しかし二人とも、筆談した時より七十〜百年ほど以前の人物である。篁所は中国の儒医へ強い関心があり、当時の高名な儒医に会いたいと希求したが、昆玉は自らの看板に違い、儒医の意味すら理解できていない。結局、篁所は当部分に小字注を二回加え、童が彼の質問を誤解したと書くしかなかった。なお昆玉がいう葉天士の『疑証医案』なる書名は中国の各種目録に見出せず、ただ各種の『葉氏医案』が著録されるに過ぎない。
ところで儒医の表現だが、おおむね中国の宋代以降に普及し、科挙で官に就き、退官後に医を趣味とする者が自称した。一方、科挙試験に受からないため、医を行う者が自称することも明以降に増える。むろん前者はきわめて希、後者もそう多くない。つまり一開業医の童氏からすれば、ただ名儒や名医を知るだけで、そもそも篁所が言い求めた「儒医」の真意が理解できなかったらしい。以下の例にも同類の問題が見られる。
二月二十三日の午後、篁所は街で「徐福堂眼科」の看板をみかけ、すぐに面会を求めた。しかし主人不在のため、二十五日にふたたび徐福堂を訪れる。その診察室に徐大椿(一六九三〜一七七一)の『医書六種』があるのを見かけた篁所は、すぐに徐氏が大椿の後裔かと尋ね、また蘇州・杭州間の儒医で高名な人物を教示願いたいと申し出た。ところが徐福堂の返答(12)は、またもや篁所の求めを裏切ったのである。
徐大椿は外地の人ゆえ、私と血縁はありません。現今の江蘇・浙江二省で医者をしている高儒など聞いたこともありません。みな浅薄な人ばかりです。
これ以降、儒医について篁所が当地の医家に尋ねることは二度となかった。ただし漢方医である彼は、出会った中国医家の臨床にもある程度興味を示している。たとえば上述の眼科医・徐福堂と篁所はこう問答(13)した。
篁。昨今の西洋医学は精緻で、眼科が最も精しいといいます。先生の眼科の宗派をお教えいただけますか。
徐。世に眼科の書は多数ありますが、みな大同小異です。とくに難しいのが手術で、『医宗金鑑』はそれを集大成した書です。しかし師伝を受けないと上手くできません。西洋の医法を中国人はまだ学んでいません。私は浅学で、ただ師伝を墨守しているだけです。
明治維新後、日本の漢方医は西洋医学の伸張に衝撃を受けていた。そこで篁所は西洋医学の伝入が中国に与えた影響を知りたく、眼科医の徐福堂に西洋医学では眼科がとりわけ精しいと水をむけたらしい。これに対する徐福堂の返答からすると、当時の中国で眼科の開業医は師伝の学が中心で、まだ西洋医学の知識を受容し始めていなかったらしいことが分かる。
三 中国開業医の海外知識
日本など中国周囲の国や地域は、長期にわたり中国医学の影響を受け続けてきた。日本からは遣隋使以降、文人や僧侶が中国に留学し、医を学ぶ者もあった。しかし島国日本からは渡海という困難がある。鎖国から開国になっても、篁所が旅行した十九世紀後半に中国へ旅行した日本人はそう多くなかったらしく、当時の旅行見聞録は三〇点ほど知られているにすぎない(14)。しかも篁所は中国伝統医学と関係の深い外国人であり、このような例は当時の中国できわめて稀少に違いなく(15)、彼の訪問は中国医家の好奇心も惹いた。
篁所は蘇州に旅行中の三月二十四日、招かれた知人宅での宴席で偶然、針灸医の郭文俊と出会う。そして郭氏は、当時の中国人針灸医なら当然かと思われる以下の疑問を篁所に尋ねた。「貴国に針灸はありますか。銀針を持ってきましたか」「貴国に『銅人図』はありますか。また『霊枢』『素問』『難経』の書もありますか」「貴国の『東医宝鑑』は中国にもあります」「貴国で医業をしている中国人はいますか」(16)、と。
これら質問のうち、日本に針灸があるかどうかの愚問を篁所は無視したが、他には一々丁寧に以下の説明(17)を加えた。
私は針術を学ばなかったので、(銀針を)持ってきていません。わが国には金針もあり、銀針より一層妙効があります。わが国の針術にも固有の古法があり、ここ三、四十年では石坂宗哲という名医がいて、針灸の名家として西洋の医者に伝授しました。いま西洋で行なわれている針灸は宗哲の系統といいます。…
わが国には固有の医法があって、多くは張仲景を医宗としています。『黄帝内経』『難経』および貴国近代の書で、舶来していないものはありません。古書でも以前貴国にあったが、いま恐らくない書が日本にはあります。たとえば『聖済総録』ですが、貴国の最近の刊本には欠本があります。一方、わが国の官庫には宋刻の完本以降の各版本があり、往々にして皆この類です。欧陽公の『日本刀歌』も貴国で散佚した書ですが、その百篇は今なお日本に現存しており、これでも分かるでしょう。…
『東医宝鑑』は朝鮮の医者が編纂した書で、わが国の著述ではありません。その幕府復刻版も日本にはあり、字句校正が行きとどいています。
以上のうち篁所の言及には、背景等をいささか補足説明しなければならない。
石坂宗哲(一七七〇〜一八四一)は幕末の針灸医で、多くの門人を擁した。西洋解剖学も修得し、西洋・東洋両医学の欠点を批判しつつ、独自の観点から東西医学の統合を試みている。またシーボルト(一七九六〜一八六六)と交流があって日本の針灸を伝授したため、シーボルトが針灸術をヨーロッパに紹介する契機を築いた(18)。
他方、篁所が日本の官庫(幕府の紅葉山文庫だろう)にあると誇った宋刻『聖済総録』(一一一一〜一八成)の完本(二〇〇巻)であるが、頒行前に版木が金軍に奪われたため純粋の宋版はありえない。正確には宋刻版木による元・大徳四年(一三〇〇)印本のことで、それ以前に宋刻版木による金・大定(一一六一〜八九)印本もあった(19)。しかし現在、各国の蔵書に大定本は見出せず、大徳本も不全な残欠本が中国・日本に伝存するにすぎない(20) (21)。
なお江戸医学館は文化十三年(一八一六)、大徳版に基づく木活字の完本を出しており、東京の内閣文庫(22)ほかに現存する。当版は江戸医学館が最初に校刊した中国の医学全書で、活字の彫刻から印行まで前後四年を費やす大事業だった。責任者の一人に多紀元胤(一七八九〜一八二七)がおり、校刊に参加した医官らは計四一名におよぶ(23)。元胤が没した後、医学館の主宰と多紀家の学は弟の元堅が担った。篁所は元堅門下ゆえ以上の事情を知悉しており、郭文俊の質問に上記の返答をしたのだった。
また文俊が日本書と誤認した『東医宝鑑』は李氏朝鮮を代表する全二五巻の医学全書。宣祖の勅命により太医の許浚が編纂し、光海君三年(一六一一)に成立、同五年(一六一三)に初刊された(24)。のち江戸幕府も本書を医官に命じて一七二四年に校刊(一七三〇・九九年後印)させ、これは江戸時代初の官版医書だった(25)。篁所は以上のことを言っている。また篁所が訪中する以前の清代でも復刻が重ねられている(26)(27)。一方、郭文俊は本書を中国東方の国の著述とだけしか理解していなかったのだろう。それで朝鮮と日本を混乱したのに違いない。
日本の伝統医学や研究業績が中国で認知され始めるのは、楊守敬が日本で購入した多紀氏父子著述の版木一三種を用い、『聿修堂医学叢書』と名付けて重印した光緒十年(一八八四)以降である(28)(29)。岸田吟香(一八三二〜一九〇五)も上海に精リ水の販売所を一八六八年に設置したが、彼が上海ほかで著名になるのは一八七八年以降である(15)。また上海で開業して医名の高かった日本の漢方医もいたが、それは光緒十八年(一八九二)より一年ほど前のことだった(30)。さらに広く中国人が日本の諸学芸・文化に目を向けるようになるのは、明治二十七・二十八年(光緒二十・二十一、一八九四・九五)の日清戦争以降である。とするなら篁所が訪中した一八七二年、ほとんどの中国人はまだ自大主義にひたっていた。その中国で日本の伝統医学や研究業績を知る人は上海でもまず皆無に違いなく、一開業医の郭文俊が誤認したのは当時として無理もなかったといえよう。
四 中国三医家との談論
篁所は旅行中の二ヶ月間、街頭で見かけた開業医を気ままに訪ね、前述のごとく筆談していた。さらに紹介された三人の医家とも会い、互いの関心事に意見を交わしている。
彼が最初に訪問したのは、同じ「医而善画」という医家の王済安(名は仁、平舟と号す)だった。二月二十四日、友人の紹介で篁所は済安と面識を得たが、筆談は残していない。
彼らは再会を約した五日後に筆談する。まず篁所から質問した。「先生の医法が教理とするところ、および今日の貴国の医者が学ぶところ、これらは如何ですか。ご教示下さい」(31)、と。
対して済安はこう答え、また尋ねた(32)。
上古には黄帝の『素問』『霊枢』、次は漢代の張仲景、そして朱丹渓・李東垣があり、これを大綱とします。貴国でも同様ですか。…『千金方』『外台秘要方』の外に、元代には劉河間があり、また本朝(清)には葉天士と薛生白があり、ともに名医です。
済安の返答は基礎と臨床、また古代から当時までの代表的医書と医家の概略を説いており、確かに当時の中国医家の「教理」と「学」だったと言っていいかも知れない。しかし、入門者への説明に近い凡庸な内容に篁所はいささか気を害し、日本の「医法」をこう述べる(33)。
わが国にはわが国の医法があり、多くの名医を歴代輩出してきました。その主眼は実際を重んじ、虚飾に走らないことで、中国の「所学」とはいささか異同があります。張仲景の『傷寒雑病論』は大いに有益の書で、その典型です。『素問』『霊枢』の二書については偽託が半ばあり、疑いながら学ぶべきです。一方、『神農本草経』は採るべき書ですが、李時珍の『本草綱目』は博雑ゆえ却って嫌われます。この他『八十一難経』『甲乙経』『諸病源候論』および『千金方』『外台秘要方』、そして明清諸家に至る医書はまさに汗牛充棟で、私などが渉猟し尽くせるものではありません。およそ医たる要務は、病因を探り、病情を知り、用薬を誤らないことだけです。
このように篁所が、あえて済安より詳しく中国医薬書を論評した真意は後述する。一方、歴代の名著が「汗牛充棟で、私などが渉猟」できないというのは篁所の謙遜と理解していい。しかし、「『素問』『霊枢』の二書については偽託が半ば」「『本草綱目』は博雑ゆえ却って嫌われ」るというのは、とうてい多紀元堅門下の発言に似つかわしくない。当三書ともに多紀氏主宰の江戸医学館で講義されていたのであるから(34)(35)。
この点と張仲景の『傷寒雑病論』を筆頭にあげる点からすると、篁所の発言は吉益東洞(一七〇二〜七三)以降の古方派に合致する。ただし「『神農本草経』は採るべき書」という点が合致しない。すると彼が古方派に近い見解を述べたのは、最も日本的かつ中国に希な説だったからか、その過激性で済安を挑発したかったからか、単に日本で当時も主流の説だったからか、篁所自身は元堅門下ながら古方派にも共感を覚えていたからか、いずれとも判然としない。恐らくこれらの意図がないまぜになって、そう発言したものと推測される。
篁所は以上の発言の後、「たとえば貴朝(清)の柯韵伯(一五七三〜一六一八)・徐大椿(一六九三〜一七一一)・陳修園(一七六六〜一八三三)の三人は医傑というべきでしょう。いつも私はその卓識に感服しています」(36)と述べ、今回の談論を終えた。このように篁所が清代の名医を論評したのにも、ある意図が窺える。「明清諸家に至る医書はまさに汗牛充棟で、私などが渉猟でき」ないと前述したにもかかわらず、王済安が言及してもいない清代名医の柯韵伯・徐大椿・陳修園を、正しく前期・中期・後期の順に列挙すること。三名ともに『傷寒雑病論』や『神農本草経』の著名な研究書を著していること。以上より『傷寒雑病論』『素問』『霊枢』『神農本草経』などの中国医薬古典のみならず、近世の中国医薬書までも篁所が熟知していることが分かる、等々である。これら深意がいかほど済安に伝わったか明らかではないが、田舎国の医者と思っていた篁所の学識に、少なからず喫驚したことは疑いない。
篁所が会った第二の医家は楊淵だった。『中国歴代医家伝録』(37)によると、楊淵の字は子安および寿山。江蘇省の呉県出身で、富仁坊巷に居を構えていた。沈Z(字は安伯、平舟と号した)の弟子で、傷寒の治療で嘉慶・道光年間(一七九六〜一八五〇)に医名を馳せ、名医の張大爔と名を争った。著書に『寿山筆記』一巻がある。
今回は例外で、楊淵が自らから篁所を訪問した。日本から来た漢方医の筆述する医論が群医を圧すると聞きおよび、大いに憤懣を覚えたためらしい。三月二十三日、楊淵は侍従とともに憤然として篁所を来訪する。
二人は互いに自己紹介の後、まず篁所から彼の関心事を「貴邦の近代医法はどの書と誰を教理とするかご教示下さい」と問うと、楊淵はこう答えた(38)。
医書は汗牛充棟ですが、みな講究すべきで、張景岳・喩嘉言・朱丹溪・李東垣が最もすばらしい。本朝(清)の徐霊胎・葉天士・薛生白・張璐玉(ママ、正しくは璐の一字あるいは路玉と記す)らにも著書があります。曹仁伯の『琉球百問』もあります。また本朝編纂の『医宗金鑑』は貴国にありますか。『東医賓(ママ、宝)鑑』は通行していますか。
これを篁所は讃えつつも、違う意見を次のようにいう(39)。
老先生は博学ですので談論いたしましょう。これらの書はわが国で朝も夕もみな講究しています。しかし『琉球百問』だけはまだ見るに及んでおりません。いわゆる汗牛充棟の書は終身をついやしても読みつくせるものではありません。貴朝(清)の柯韵伯・徐霊胎は大変な豪傑の医家です。陳修園もまた近代の英傑です。しかし劉河間・張子和・朱丹渓・李東垣を張仲景に比すことはできません。李仲梓にもよい説がありますが、これらは一、二日かけても論じ尽くせません。
さらに篁所は特に陳修園の『南雅堂全集』に言及し、本書は「卓見また少なからず」という。すると楊淵は反論し、「この書には偏見があり、教理とすることはできないだろう。清朝では喩嘉言・徐霊胎に発明がもっともあり、もっともすばらしい」(40)という。
ここまで談論しても二人は認識を共有できない。そこで篁所はさらに喩嘉言・徐霊胎に話題を転じ、こう記した(41)。
喩嘉言には『寓意草』『医門法律』等の書があり、この翁が論じる燥症は古人未発の説で、卓説としていいでしょう。徐霊胎の『六書』(42)等は私が若い時に渉猟したものです。『六書』中で先生はどの書を第一としますか。
楊淵はやや黙止してから「『蘭台軌範』為第一」といい、これにも篁所は自説を次のように開陳する(43)。
そうではなく、小生は『難経経釈』を第一とし、『神農本草経(百種録)』を次とします。論文なら『医学源流論』が第一です。また『傷寒類方』にも卓識が頗るあります。我が国の吉益東洞という者も卓識の士で、すでに『傷寒類方』より十数年前に『類聚方』という書を出版しています。この書…と徐氏の『類方』はまさに符合し、通じ合っています。最近の医者は医術だけで医道を言わないため、西洋医から嘲笑されるのです。
このように二人の意見は一向に合致を見ないが、篁所は楊淵の学識にすっかり敬服した口調で、「今夜、得たことは少なくありません。ただ早く知り合えなかったのが残念です」と記した。楊淵も来訪した時の憤然とした様子からうち解けたらしく、篁所とまた談論する希望からか「詳しくお教え願いたい」「ご教示いただきたい数書があります」と述べている(44)。
一方、篁所は元堅門下らしく、すぐに楊淵の言及した『琉球百問』を書店で購入できるか尋ねた。しかし楊氏は「刊本ではあるが、遭難(太平天国の乱だろう)以来は見かけるのが希になった」(45)としか答えていない。たしかに当書は清・咸豊九年(一八五九)の刊だが、いま上海第二医学院図書館のみに所蔵される。のち一九一四年と一九一八年の叢書二種中に収載され(46)、一九八三年に江蘇科技出版社出版から活字校点本が出たにすぎない。
なお篁所は前述した王済安との筆談部分の後に按語を加え、「王済安が私に答えた論をひそかに評すなら、まったく浅薄である。彼らはわが国を知っていたとしても、そこに人がいる(学芸・文化がある)のを知らない。それで私はこう答えたが、他に言いようもなく、やむを得なかったのだ」(47)、と嘆いている。今回の楊淵との筆談後でも同様の感想をこう記した。「中国の医者はみな自国のみを知り、他国を知らない。ゆえに往々にして(日本に)書物すらないのではと疑うらしい。それで私は仕方なく多言してしまった」(48)、と。これは前述のごとく、正しく当時の中国の現状であったろう。しかしそれに多言を弄して理解を得るしかなかった彼の慨嘆には、いささか考えさせられる。
篁所が訪問したもう一人の医家は金徳鑑である。篁所は長崎に来ていた金嘉穂と知り合っており、その祖父の弟が徳鑑で、上海の二馬路で開業していることも聞き及んでいた。そこで蘇州旅行から上海に戻り、日本に帰る直前の四月七日・八日、徳鑑と二回面談したのだった。
金徳鑑の字は保三、前釈老人と号し、江蘇省元和県の出身。医理に精しく、上海の北部で開業し、山水画にも秀でていた。子供の時にジフテリアに罹り、陳莘田の治療で全治したことから咽喉科に潜心。『霊枢』『素問』『難経』の諸書も研究した。彼の伝と著述等は多くの書(49)に載る。
初対面の時、二人の話題は古刻鼎帖書画ばかりだった。保三は彼の妻が書した扇と董文敏(一五五五〜一六三六、明末清初の著名な文人・書画家)の画を篁所に開陳したばかりでなく、それらをゆっくりと吟味できるよう篁所に宿屋まで持ち帰らせている。さらに董文敏の書画を入手したがる篁所のために、わざわざ保三の友人が所蔵する文敏の水墨山水堂画を、篁所に譲ってくれるかどうか明日ききに行ってみるとまで述べていた。
翌日、篁所がそれらを返却するため保三を再訪したところ不在だったが、篁所の帰寓後に保三から訪問してきた。この二度目の面談で二人は医術についてひとしきり筆談する。その中で篁所はもっぱら保三に意見を求め、また当地の名医にまみえたいと希望した。それに対し保三は蘇州の小児科医の呉慎先と陳少霞、また『喉科枕秘』『十薬神書』『丹痧輯要』『霍乱急方』の四書を自著として挙げた。さらに二人は当四書の版本問題について意見を交わすが、これについては梁がすでに考察を報告した(50)。最後に篁所は同宿していた同郷者の客亭主人(松浦永寿か)の一向に治らない咳嗽の診察を保三に請う。保三は一診して、こう戒めた。「発病時に補う処方を用いてはならない。これは痰飲による病だから」(51)、と。以上の筆談からすると、篁所は前述した王済安・楊淵より、いっそう金保三の学識を尊敬したらしい。
こうした中国人との交流において、篁所の言辞には常に謙遜の態度と高い素養がみえる。また彼は希望した回答が得られたかの有無にかかわらず、終始恭しく接して虚心に教えを請い、篤く謝辞を述べた。すなわち「大教に受益し、兼ねて謙徳に服す。真に銘すべし、真に銘すべし」「今夜の受益少なからず。只だ相い見えるの晩きを恨む」「桂帆は即日に在り。受益の久しく能わざるを恨む」(52)等の言葉が本書の随所にみえる。
ちなみに篁所は許夫子という中国人との離別に際し、多紀元簡の『扁倉伝彙講』(『扁鵲倉公伝彙攷』のこと)一部を譲っている。中国に現存する当書は刊本十一点、写本一点が著録(53)されているが、あるいはその中に篁所の譲渡本があるのかも知れない。
五 中国人を診療
きわめて興味深いことに篁所は中国人に請われて診療し、その記録七例を本書に遺していた。今でこそ日本の漢方医が中国で診療することは希にあるが、清末の当時では恐らく最初だったであろうし、診療記録としても本書が唯一かと思われる。
第一例は二月二十一日のこと。長崎から同行していた湯韻梅の度重なる催促により、彼の知人・鄭項華の長男を診察することになった。患者は発病して五、六年にもなる。いくら治療を受けさせても効果がなかったので、日本から来た篁所のことを聞きつけて診療を願ったという。患者宅に行き、盛餐の接待を受けた後に診察し、診断と処方を記した医案を示すと項華は感謝し、こう記した。「日本の医法は精良で、四診もとりわけ親切でした」(54)
、と。のち二月二十九日にも再診し、三月七日に篁所らが船遊びをした時には項華から大きな重箱二つの茶食を差し入れられ、次の感想を記している。「私が項華の子供を診察して以来、彼と情交が大いに通じた。私が蘇州に旅行するのも、皆すべて彼の力による」。これらは篁所の誇張や虚構とも思えないので、治療結果はかなりよかったらしい。
第二例は蘇州に到着した後の三月十二日のこと。前述した長崎で知遇を得た金嘉穂の友人・顧駿叔(字は楽泉)から接遇を受けた後、胃腸が悪くて食欲もほとん
どない虚弱体質とのことで診療を請われた。そこで篁所が腹診を始めたところ、そんな体験のない楽泉はこそばゆくて笑いやまない。ついに服の上からにしてほしいと願ったが、篁所は『傷寒論』の記載をあげつつ、腹診しなければ病源を突きとめられないと主張。しかし楽泉に受け入れられず、診察は後日にということになった。
第三例は三月十四日のこと。腹水のある楽泉の召使いから診察を請われた篁所は「敦阜」(56)と診断、原因は飲食過度のため消化不良を起こしているためと判断し、消化を助ける処方をした。この診療後に主人の楽泉が言うには、三、四日服薬しただけで大いに奏功し、すっかり治ってしまったという。
第四例は三月一五日のこと。呉雲軒という道士の弟子・桐岡を診察し、柴胡の入っている処方を書いて渡した。ところがその場にいた顧左泉という若者が、当地の人間は気質がとても弱いので、発表薬の柴胡を別な薬味に代えるべきではないか、という。そこで篁所は経典に基づきこう反論(57)した。
柴胡は小(ママ、少)陽経を和解する薬であって、発表の薬ではない。『神農本草経』
がこの発表に一言も言及していないことからも分かるだろう。柴胡の気は軽く清らかで、胆気を昇らせ上焦に到達させることは、李東垣がこれを補中益気湯に配剤したことからも分かるだろう。貴国では往々にして柴胡を発表の薬としますが、やはり誤りでしょう。
これで左泉は同意し、「そうでした、まさしく先生は貴国の名医です。感服しました」(57)と記したのだった。
第五例は三月十六日。顧左泉が請うには、兄の鑑亭が長患いしている紅斑症を診療してほしいとのこと。ただし蘇州中のいい医者を探したが、誰も治せなかっ
たという。篁所は「蘇州は古くから医林と称えられている。その蘇州の医者が治せないのを、どうして私ごときが治せよう」(58)と記し、この日は診療に同意しなかった。しかし翌日も朝食中に左泉が兄を同伴してきて請うので、午後しかたなく鑑亭の館にて供応を受けた後に彼の紅斑症を診察し、その医案を渡している。
第六例は三月二十日のこと。慢性の下痢症を六年も患う顧永保が診療を求めてきた。篁所は下痢の症状、裏急後重・腹痛・脱肛等の有無を問診してから、これは久年の痼疾ゆえ直ぐには治せないが、もし投薬が合えば奏効するだろうと記した。が、その夜は来賓がとりわけ多かった理由で、失敬ながら日を改めて詳診したいと述べ、処方は与えていない。しかし、その後の結果は本書に記載がない。
第七例は同日、第六例の後。顧左泉が来てこういう(59)。
小生は寝ていて発病したのですが、頭を枕に置いてもめまいがして目もくらみ、頭痛したりしなかったりします。元々からだが弱く、肝胃気が不調で、脱肛などもあります。一昨日は湿邪により酸っぱい胃液を幾盆も嘔吐しまして、以来二日三晩も穀粒を食べることができません。今日は無理に起きたのですが、足腰に力が入りません。どうも湿邪が残っているのか、あるいは虚証なのでしょうか。
これへ篁所の診断は「才子多病」という意をつくもので、さらに治療方法も雅趣あふれるものだった。『素問』の上古天真論から一文を引き、「恬澹虚無であれば病はどこから来るだろうか、と経典にあります。この言葉を服用して下さい」(59)、と記したのである。
以上の七例はいずれも処方名や処方薬がはっきり記されていないが、著効例・再診例、未治療の難病、また心理療法の応用例があった。そして実際の出来事を客観的かつ生き生きと描写し、注意深い診療の様子からは篁所の高い医学知識と豊富な臨床経験を窺うこともできた。
たとえば「敦阜」病の診断は、中国でもごく一部の医家しかできないだろう。ところが篁所は手掌を指さすがごとくに診断している。一方、日本では普通に応用されている腹診法が、中国では一例において「笑而不止」により使用できなかった。これは両国の伝統医学・医療に少なからぬ相違もあることを、具体的に示す
一例であった。
おわりに
岡田篁所の上海・蘇州旅行記録『滬呉日記』は個人的なものであり、何らかの美化や誇張が個々の表現に含まれる可能性は否定できないだろう。しかし旅行当時の日記と持ち帰った筆談録から構成されているのは明らかで、虚飾や虚構の存在はほぼ否定される。それゆえ一面で清末医薬界の実態を客観的に描写していると判断され、貴重な研究史料として日中医学交流史の研究にも少なからぬ価値が認められる。
すなわち本書の記録を通し、清末一八八〇年代における医薬業の実況、市井の医家における中国医学知識と国外の中国医学研究への理解レベル、および中国古医籍の善本が日本に保存・伝承されていた状况、中国医家や患者との交流等の実際を知ることができた。
一方、岡田篁所に代表される日本の医家が当時も中国医学の導入と学習に力を注ぎ、謙虚かつ真剣に中国人に教えを求めたことも理解された。中国医学は中国周囲の国や民族、とりわけ日本・朝鮮・ベトナムの伝統医学に大きな影響を及ぼし続けてきたのである。そして吸収と同時に固有の医学体系を確立してきたが、篁所にみられた実事求是の学問態度は今日の我々にとっても示唆するものが多い。
謝辞
本稿を草するにあたり、ご蔵書の『滬呉日記』を使用させていただいた矢数圭堂先生と故・矢数道明先生に深謝申し上げる。
文献と注
(1)原文は下三七ウ「読滬呉日記呈篁所先生。栗園浅田當(「當」と印字されるが、宗伯の名・惟常の「常」の誤植だろう)拝草。/一朝得志跨鯨鼇。想見当年意気豪。読罷游篇深有感。才華満紙捲風濤」。
(2)安西安周『明治先哲医話』四三頁、東京・竜吟社、一九四二年。
(3)大日本人名辞書刊行会『〔復刻版〕大日本人名辞書』(講談社学術文庫)四四六頁、東京・講談社、一九七四年。
(4)竹岡友三『医家人名辞書』一一三頁、京都・南江堂、一九三一年。
(5)矢数道明・小曽戸洋の報告(「多紀元堅門人録」『漢方の臨床』四二巻一〇号九四頁、一九九五年)には、元堅への入門が篁所二十六歳の弘化二年(一八四五)とある。すると篁所が江戸に着いた後、元堅に入門するまで一〜二年の期間があったらしい。
(6)原文は下三八ウ「家君嘗有此著、蔵筐底久矣、未肯示人。嚮者三渓菊池翁之游我崎港也、一見以為佳著、細下評点、慫慂上梓」。
(7)陳捷「岡田篁所の『滬呉日記』について」『日本女子大学·人間社会学部紀要』第十一号二三一〜二四五頁、二〇〇〇年。
(8)国立公文書館内閣文庫『改訂内閣文庫国書分類目録』上三二〇頁、東京・国立公文書館内閣文庫、一九七四年。
(9)原文は上一オ「余自少小、欲一試唐山之遊、以官有禁而不果、徒瞻望耳。維新以来、官禁解除、於此伴蘇州人湯韵梅、及邑人松浦永寿、将航上海。是游擬於上海見銭子琴、而歴遊蘇航(杭)之間。即明治五年壬申春二月十有三日也」。
(10)原文は上三ウ〜四オ「薬材皆精良。凡丸散飲片、皆応客索而給。盖支那医者、診病人、唯書医案処方与之耳。如薬材、則皆取之薬舗。故為薬舗者、収蔵無遺。一物不蔵、則薬舗之所愧。若屡有欠乏、則医家責其舗、罰以禁売三日云」。
(11)原文は上五オ〜ウ「書示曰。童先生閣下、弟也日本生、姓岡田、号篁所。敢候文旗、無嫌筆話請教。童曰。何妨。敢問先生郷貫貴号(篁)。弟姓童、号茘裳、寧波人(童)。寧波儒医向名為誰(篁)。弟才疏、学浅、先生不必謙遜(童誤解)。………上海現今儒医、其高名者為誰(篁)。高者赴京求官、留上海者、未知其高手為誰。恐無其人矣(童)。現今天下高名儒医、其著述新刊、請教(篁)。医則蘇州葉天士、儒則劉墉官至宰相。(童又誤解、問今人、以前人之些々者)。余曰。劉石庵、書法高名、与王夢楼、梁同書、孫樹峰、有四大家之称。弟見其書、未見其著。葉天士、臨証指南一書之外、別有著書否(篁)。他還有疑証医案、其書更好。板存蘇州、世上罕見之(童)」。
(12)原文は上一二ウ〜一三オ「徐大椿出外人、然未始別裔。現今江浙二省、鴻儒及医家、未聞其人、都是一派浅浅耳」。
(13)原文は上一三オ「西洋輓(晩)今医事精博、眼科最称精。先生眼科其所宗、請教(篁)。眼科著書、世不乏其人。皆大同小異。所難特在手術。医宗金鑑、是集大成之書也。然非師伝不易能也。西洋医法、中国人未学之。弟浅学僅守株師伝耳(福堂)」。
(14)
http://www.ricoh.co.jp/net-messena/ACADEMIA/SHANGHAI/biblio/1899.htmに載る(二〇〇四年七月八日)日本上海史研究会の報告によると、以下の各書がある。高杉晋作『遊清五録』(一八六二)、松田屋伴吉『唐国渡海日記(千歳丸)』(一八六二)、山口錫次郎『黄浦誌』(一八六四)、岸田吟香『呉淞日記』(一八六六)、高橋由一『上海日誌』(一八六七)、安部保太『上海紀行』(一八六七)、柳原前光『入清日記』(一八七〇)、東本願寺『東本願寺上海別院過去帳』(一八七二)、小栗栖師『八州日歴』(一八七三)、酒井玄蕃『北清視察日記』(一八七四)、葛元煦『滬遊雑記』(一八七五)、藤堂蘇亭『上海繁昌記』(一八七八)、曽根虎俊『清国各港便覧』(一八八一)、岸田吟香『清国地誌』
(一八八二)、曽根俊虎『清国漫遊誌』(一八八三)、上海商同会『上海商業雑報』(一八八三)、小室信介『第一遊清記』(一八八四)、岡千仞『観光紀遊』(一八八五)、岸田吟香『上海城廂租界全図』(一八八六)、楢原陳政『禹城通纂』(一八八八)、宮里正静『清国巡回記事』(一八八八)、岡田篁所『滬呉日記』(一八九〇)、内田定槌『上海に於ける外国人居留地制度(東邦叢書支邦彙報)』(一八九四)、宮内赤城『清国事情探検録(一名清国風土記)』(一八九四)、名倉亀楠『金玉均銃殺事件』(一八九四)、高柳豊三郎『清国新開港場商業視察報告書』(一八九六)、永井荷風『上海紀行』(一八九八)、内藤虎次郎『燕山楚水』(一八九八)、西島良爾『実歴清国一班』(一八九九))、山本憲『燕山楚水記遊』(一八九九)。
(15)筆者らの報告では、一八六六年以降しばしば上海に渡って多彩な活動をした岸田吟香(真柳誠・陳捷「岸田吟香が中国で販売した日本関連の古医書」『日本医史学雑誌』四二巻二号一六四〜一六五頁、一九九六年)、昌平黌で吟香と同窓かつ一八八四年から上海・杭州・蘇州を旅行した岡千仭(真柳誠「魯迅のエッセイ『皇漢医学』について」『日本医史学雑誌』四九巻一号四〇〜四一頁、二〇〇三年)がある。
(16)原文は下二九オ「貴邦針灸有無。銀針帯来否」、下二九ウ「貴邦有銅人図否。及霊枢、素問、難経書亦有否」「貴邦東医宝鑑、中国亦有」、下三〇オ「有中国人、在貴邦行医者否」。
(17)原文は下二九オ「弟未学針術、故不帯来。我邦有金針、比之銀針更妙。我邦針術自有古法、先此三四十年、有名医石坂宗哲者、以針灸名家、伝法于西洋国医。西洋行針灸、係于宗哲之伝法云」、下二九ウ「我邦自有我邦之医法、然多以仲景為医宗。岐黄之内経、越人之難経、以及貴国近代之書、無不舶来也。如古書、恐有中国古有、而今無者。現如聖済総録一書、貴邦近刻却有欠本。如我朝官庫所蔵、自有宋刻完本、往々皆此類也。欧陽公日本刀歌、逸書百篇今尚存句、可以見也」「東医宝鑑、是朝鮮国医所輯、非我邦人著。我邦亦有官刻、字画鮮明」。
(18)間中喜雄「石坂宗哲の時代と背景」『漢方の臨床』九巻一〇・一一号一九三〜二一〇頁、一九六二年。
(19)多紀元簡『医賸』巻上、『近世漢方医学書集成』一〇八所収本七二〜七三頁、東京・名著出版、一九八三年。本書で元簡は大略こう記す。『聖済総録』
は北宋政府の勅撰書にもかかわらず、『宋史』芸文志・『通史』芸文略・『玉海』・『郡斎読書志』・『直斎書録解題』に未著録で、南宋の諸書にも引用されない。というのも北宋の版木は彫板の直後に金軍に奪取され、それは印刷頒行以前のことだった。この版木により元の大徳四年に印行され、当大徳版の序より金の大定年間すでに同版木で印行されていたことも分かる、と。
(20)岡西為人『中国医書本草考』一一一頁、大阪・南大阪印刷センター、一九七四年。
(21)小曽戸洋「北宋代の医薬書(その二)」『現代東洋医学』八巻四号八六〜九五頁、一九八七年。
(22)内閣文庫『内閣文庫漢籍分類目録』二一九頁、東京・国立公文書館内閣文庫、一九五六年。当医学館版の杉本良序によると、吉田宗桂は天文十六年(一五四七)に二度目の入明をし、四年後の帰国時に大徳版を持ち帰り、のち代々珍蔵していた。それを江戸医学館が宗桂後十世の子頴より文化十年(一八一三)に借り、医学館を主宰する多紀家の蔵本や古写本と校勘し、同十三年(一八一六)に二百部を活字印刷した、とある。これにより本書の完本が再び世に行われることになったが、いま吉田家旧蔵本の行方は知れない。
(23)森潤三郎著・日本医史学会校訂『多紀氏の事蹟』二一二〜二一七頁、京都・思文閣出版、一九八五年。
(24)三木栄『朝鮮医書誌』一一四頁、堺・三木自家出版、一九六一年。
(25)福井保『江戸幕府刊行物』八〇〜八三頁、東京・雄松堂出版、一九八五年。
(26)文献(24)、三五九・三八〇〜三八二頁。
(27)薛清録等『全国中医図書聯合目録』七〇三頁、北京・中医古籍出版社、一九八九年。
(28)真柳誠「清国末期における日本漢方医学書籍の伝入と変遷」『矢数道明先生喜寿記念文集』六四六頁、東京・温知会、一九八三年。
(29)真柳誠「江戸期渡来の中国医書とその和刻」、山田慶兒・栗山茂久『歴史の中の病と医学』三三二頁、京都・思文閣出版、一九九七年。
(30)真柳誠「『仲景全書』解題」『和刻漢籍医書集成』第一六輯解説一二〜一三頁、東京・エンタプライズ、一九九二年。
(31)原文は上一六オ「先生医法所宗、及方今貴国医士所学、是何法。請教」。
(32)原文は上一六オ「上古有黄帝素問霊枢、次則漢時張仲景、再則朱丹渓、李東垣、此之為大綱。敢問貴国亦似否」、上一六ウ「千金外台之外、元時有劉河間。又国初有葉天士、薛生白、倶是名医」。
(33)原文は上一六オ〜ウ「我邦自有吾邦医法、歴代名医輩出、不乏其人。務就実際、不趨虚飾、与中国所学稍有異同。仲師傷寒雑病論、大是有益之書、可為典型也。如素霊二書、偽託居半、学者存疑可也。神農本経却是可取之書、如李時珍綱目、却嫌其博雑。其余八十一難、甲乙経、病源候論、及千金外台、以至明清諸家、医書汗牛充棟、我輩渉猟亦不能及也。凡為医之要、務在探病源、知病情、而用薬不誤耳」。
(34)川瀬一馬「御目見医師講義聴聞躋寿館出席留」『日本書誌学之研究』五一六〜五三九頁、東京・講談社(一九七一)。
(35)町泉寿朗「医学館の軌跡―考証医学の拠点形成をめぐって」『杏雨』七号四九〜五八頁、二〇〇四年。
(36)原文は上一六ウ「貴朝如柯韵伯、徐大椿、陳修園三子者、可謂医傑矣。余常服其卓識」。
(37)何時希『中国歴代医家伝録』下一四頁、北京・人民衛生出版社、一九九一年。
(38)原文は下二五オ〜ウ「貴邦近代医法、以何等之書、及何人為宗乎。請教」「医書汗牛充棟、皆可講究。惟張景岳、喩嘉言、朱丹溪、李東垣、乃其最著者。本朝徐霊胎、葉天士、薛生白、張璐玉等、各有著書。曹仁伯先生有琉球百問。再国朝医宗金鑑、未識貴処可有否。東医賓鑑未識通行否」。
(39)原文は下二五ウ「老先生博学可共談也。我邦此等之書、朝夕皆所講究也。但琉球百問、未見及。所謂汗牛充棟之書、雖終身不能読尽也。貴朝如柯韵伯、徐霊胎、卓々豪傑之医也。陳修園、亦近代之英傑。劉張朱李、以張当仲景非也。李仲梓自有其説、請益一二日不能論尽也」。
(40)原文は下二五ウ「此書未免偏見、或未可宗。国朝以喩嘉言、徐霊胎、為最発明最当」。
(41)原文は下二五ウ〜二六オ「喩嘉言、有寓意草、医門法律等書。此翁論燥症、是古人未発之説、可謂卓説也。徐氏六書等、弟少時得渉猟。六書中先生以何書為第一」。
(42)通称『徐氏医書六種』のこと。徐霊胎の『難経経釈』『神農本草経百種録』『医貫砭』『蘭台軌範』『医学源流論』『傷寒類方』から成る叢書。
(43)原文は下二六オ「弟則異其撰、以難経経釈為第一、神農本草経次之。至其議論文章、以医学源流論為第一。傷寒類方頗有卓識。我邦吉益東洞者、亦卓識之士也。先傷寒類方十余年、已刻類聚方一書。此書…与徐氏類方如合符節、可謂音也。近医講術而不講道者、所以為西洋医所誹笑也」。
(44)原文は下二六オ「今夜受益不少、只恨相見之晩」「細々領教」「有数書請教」。
(45)原文は下二六ウ「雖系刻本、遭難以来已属罕見」。
(46)中医研究院・北京図書館『中医図書聯合目録』六八二頁、北京・北京図書館、一九六一年。
(47)原文は上一六ウ「篁窃評王済安答余之論、浅浅凡凡耳。彼若知有我国、而不知有人国者。故我以此答之。我豈好弁哉。余不得已也」。
(48)原文は下二六ウ「按彼邦医人、皆知有我邦、而不知有他邦。故往々似以書冊有無為疑者。余故做個多言者、出于不得已」。
(49)『清史稿 芸文志』『中国医学大成総目提要』『呉県志』『中国歴代医家伝録』『中医人物辞典』『中医人名辞典』『芥子園画譜』『海上墨林』など。
(50)梁永宣「清末金徳鑑与日本岡田篁所的学術交流」『中華医史雑誌』三四巻三期一八四〜一八六頁、二〇〇四年。
(51)原文は下三六ウ「発病時切不宜補方、是痰飲為病也」。
(52)原文は「大教受益、兼服謙徳、真銘真銘」「今夜受益不少、只恨相見之晩」「桂帆在即日、恨受益之不能久」。
(53)文献(46)、六九七頁。
(54)原文は上七ウ「日本醫法精良、四診之法、亦親切著明」。
(55)原文は上二〇オ「自余診其長子之病、爾來大通情交。余之游蘇州也、百事皆ョ項華之力」。
(56)「敦阜」は運気論用語で、五運主歳のうち土運の太過をいう。中国医学古典では『素問』五常政大論篇第七十にのみ、「帝曰、太過何謂。岐伯曰、木曰発生、火曰赫曦、土曰敦阜、金曰堅成、水曰流衍」
「敦阜之紀、是謂広化。厚徳清静順長以盈、…」の記載がある。
(57)原文は下一〇オ「柴胡是小陽経和解之薬、非発表之薬也。神農本経、無一語及其発表、可以見也。柴胡軽清升達胆気、李東垣以此味入補中益気湯中、亦可見也。貴邦人、往々以此味為発表之薬者、豈非誤者耶」「然也、信先生為貴邦国手也。佩服」。
(58)原文は下一〇ウ・一一オ「蘇州自古有医林之称。呉医不能医者、我輩安能得医之」。
(59)原文は下二〇ウ「弟適臥床発病、倚枕一観、墨花生動、覚頭痛頓軽也。弟身子素弱、肝胃気不調、兼有脱肛諸症。前日為湿所困、嘔吐酸水、幾至盈盆。不能進粒穀者両昼三夜。今日強起、腰脚甚軟、想是余湿未清、抑是虚像耶」「経曰、恬澹虚無、病安従来。請先生服此語可也」。
(梁永宣:北京中医薬大学医史文献教研室、真柳誠:茨城大学人文学部・北里研究所)
*本稿は平成一六年度文部科学省科研費特定領域研究(2)「東アジアにおける医薬書の流通と相互影響」による。