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真柳誠・高毓秋「日中医学交流史の文献学的調査と研究」『日中医学』7巻2号10-12頁、1993年3月

日中医学交流史の文献学的調査と研究

日本側研究者代表  真柳 誠(北里研究所附属東洋医学総合研究所研究員)
中国側研究者代表  高 毓秋(上海中医学院講師)




目的

 千数百年にわたる日中の医学交流は、時代ごとに大きく様相を異にしている。したがって大きくは時代を江戸時代までと明治以降に区分、明治以降はさらに新中国以前と以後に分けて検討する必要がある。なお新中国成立以後、特に文革以降は本格的な相互交流の吋代といえる。(財)日中医学協会の活動はこれを象徴するものであるが、本時代の交流については機会を改め史的研究を継続したい。
 

1.江戸期の中国医書渡来年代と普及年代
 日本は江戸時代までほぼ一方的に中国伝統医学を導入し、消化してきた。当然その知識は多く書籍を介して伝えられていた。一方、江戸期に中国伝統医学は本格的な日本化がなされ、それが明治以降の日中伝統医学交流の基盤となった。したがって江戸期の中国医書渡来・普及年代の調査なくして、中国医学導入状況および明治以降の交流基盤は解明しえない。よってこれを当初の予定に追加し、研究目的の1とした。

2.中国へ伝入した日本伝統医学文献
 日本は明治維新以降、伝統医学の政策的廃止により中国医学の導人が1960年代までほぼ停止した。そして江戸時代まで蓄積されていた中国日本の伝統医学文献は無用の長物と化し、大量に中国へ売却された。それらを実地に調査し伝入経緯を研究することで、医学交流史の空白を埋めることが可能となる。これを研究目的の2とした。

3.中国で受容された日本伝統医学
 明治末期からは、近代医学の立場より伝統医学を研究した医学書・薬学書が日本で著わされた。それらと日本の純粋伝統医学文献は、民国時代に数多く翻訳や復刻がくりかえされ、当時の中国医学に一定の影響を与えたと思われる。しかしその受容の過程や影響の程度はほとんど研究されていない。この調査を研究目的の3とした。

4.日本を介し中国に受容された近代医学
 江戸期に漢訳、また明治時代に和訳されたヨーロッパ医書は中国より多い。明治維新以降それらが中国に伝入したことも疑いないが、さらに中国で翻訳・翻刻された書はかつて調査されていない。よって民国時代、日本を介して中国に受容された近代医学の調査を研究目的の4とした。
 

方法

1.調査研究の分担
 中国での調査研究は真柳誠、小曽戸洋北里研究所附属束洋医学総合研究所室長と高毓秋氏が担当した。日本での調査研究は小曽戸と真柳が担当した。

2.研究目的の1
 江戸期の中国書渡来記録には、渡来年を直接記した1次史料および間接的に推知できる2次史料がある。

 本調査では現存する15種の一次史料と代表的な13種の二次史料より、中国医書名と各々の渡来年を抽出した。中国書の江戸期における普及は和刻版の刊行および復刻回数に左右されるので、普及年代も各書和刻版の印刷年より確実な示唆が得られる。本調査では日本・中国(台湾省を含む)の89図書館の蔵書目録より、印刷年の明らかな和刻版中国医書の記録を抽出した。

 以上の調査結果に基づき、さらに江戸時代における中国医学の伝来と受容の傾向について考察を加えた。

3.研究目的の2・3・4
 中国での調査は、蔵書目録で計60図書館について予備調査した。つぎに貴重文献について、中国医学科学院・中国中医研究院・北京大学・北京医科大学・上海中医学院・上海第一医科大学・中華医学会上海分会の各図書館にて調査した。日本での調査も蔵書目録で予備調査の後、貴重文献について内閣文庫・国会図書館および慶應義塾大学・東北大学・京都大学の各図書館と、宮城県図書館・研医会図書館・武田科学振興財団杏雨書屋にて調査した。この結果より以下の方法で検討した。

 研究目的の2では、日本から中国へ伝入した文献のうち日本で失われた日本人の著作について現所蔵先・伝入年代・介在人物について考察を加えた。研究目的の3では、中国で出版された日本の伝統医学書のうち日本独自の腹診書について翻訳者・出版元・出版年と翻訳出版の経緯、および影響について考察した。研究目的の3・4では、中華民国時代にかけて日本の伝統医学と近代医学を精力的に翻訳紹介した丁福保について、経歴、当時の日中医界、自著と日本の医学文献の関連、日本の伝統医学と西洋医学に対する見解、当時および後世に与えた影響に考察を加えた。
 

成績

1.研究目的の1
 江戸期に伝来の中国医書は書目数で約980あり、各々の渡来年も明らかとなった。江戸期に刊行の中国医書は書目数で約320あり、各々の刊行年も明らかとなった。両者および中国での出版年の比較検討より、中国医書の多くは刊行後ほぼ数十年内に日本へ伝来、渡来書目数の約3分の1が和刻され、その多くは伝来より数年から数十年内に刊行されていることが明らかとなった。一方、渡来記録回数が多いのは中国の流行書、和刻回数が多いのは日本の流行書であり、両者の上位10書を比較すると1書を除き共通する書はなかった。この差は中国での流行に左右されず、日本の視点で中国医学を受容した当時の状況を反映しており、伝統医学の日本化と密接に関連していると考えられた。

2.研究目的の2
 中国に現存するが日本に所蔵記録がない日本人の伝統医学著作は、写本38種・刊本6種であった。このうち明らかに孤本と考えられたのは中国中医研究院図書館に4書、北京大学図書館・南京図書館・中華医学会上海分会図書館に各1書が所蔵されていた。

 中国中医研究院は満州医科大学の蔵書を受け継ぎ、満州医科大学蔵書は昭和4年に松岡洋右が満鉄図書館に命じ北京で購入させた図書の内の医書を寄贈したものである。中国中医研究院図書館所蔵4書のうち2書は、本経由で伝えられていた。

 北京大学図書館所蔵の1書は清末の李盛鐸旧蔵書である。李盛鐸は明治31〜34年の来日時に書誌学者・島田翰の助力で大量の善本・古籍を購入したので、当書もそのとき入手されたものと考えられた。南京図書館の1書は未見につき書誌不明。かつて国民党政府は故宮博物院の蔵書を一部南京で手放し、多くは南京図書館に収蔵された。故宮博物院所蔵和書のほぼ全ては明治13〜17年に清国大使に伴い来日した楊守敬が、書誌考証医学者・森立之らの協力で購入した厖大な善本・古籍である。したがって当書も楊守敬の購入書であった可能性は高い。

 中華医学会上海分会図書館の1書は、収蔵経緯など一切が不詳であった。

3.研究目的の3
 日本で発達した腹診学はいま中国で注目されているが、清末〜民国時代すでに日本腹診書が出版されていた。それは多紀元堅の腹診書『診病奇{イ+亥}』で、@光緒14年王仁乾刊本・A民国20年蘇州国医社刊本・B昭和10年台湾漢医薬研究室刊本の3種が確認された。

 天保14年に成った『診病奇{イ+亥}』は大部分が和文であるが、未刊のまま明治を迎えていた。多紀元堅の子・雲従の弟子であった松井操は腹診が中国にないことを知り、腹診を普及させるために本書を漢訳。明治初に来日して東京で書店等を経営していた王仁乾らが、松井の希望をうけて漢訳本を日本で印刷し中国に頒布したのが@。Aは浙江中医専門学校の教材として@の漢訳を王慎軒が校訂し、『診断学講義』の名で出版したもの。Bは日本の統治下にあった当時の台湾で、漢医制度復活運動の一環である講義の教材として、蘇錦全が『診腹学講義』の名でAを再版したものである。わが国で石原保秀が@などに基づき初めて本書を出版したのはBの9か月後であり、日本より先に中国で出版されていたことが明らかとなった。

4.研究目的の3・4
 日本の医学状況視察の命を受けて明治42年に来日した上海の丁福保は、日本が大胆に西洋文化を導入しながらも「和魂洋才」の形で自己の文明を失っていないことに感銘。その翌年には上海で「中西医学研究会」を発足させ、中国で最初に中西医学結合を唱えた。

 彼が全訳ないし摘訳して紹介した日本の医学文献は、江戸の純粋伝統医学書、明治以降の近代医学書および近代医学の立場から伝統医学を研究した書で、近代医学関連書が最も多い。内容は医学のほぼ全分野にまたがり、いずれも小冊子の類であるが総数で170書を越える。この大量の翻訳活動による近代医学の啓蒙は、江戸期の『解体新書』に比すべき影響を当時の医界に及ぼした。同時に日本における伝統医学の近代的研究の紹介と中西医学結合の提唱は、その後の中国伝統医学の進路に強い示唆を与えるものであった。
 

結論

 江戸期は鎖国下でも迅速に中国医書が伝えられ、約3分の1が和刻されていた。その選択には日本独自の視点があり、伝統医学の日本化と関連すると考えられた。

 日本の伝統医学は明治に制度上廃絶され、伝統医学文献は散逸し始めたが、楊守敬・李盛鐸らの功績により中国で保存された書は多い。中国に伝入した書には、日本で発達した腹診書や丁福保が紹介した近代的伝統医学書があり、教材さらには漢医制度復活運動の支えとされていたことも明らかとなった。

 江戸期に日本化された伝統医学は明治期に暗黒時代を迎えたが、逆に中国へ伝えられ、永年の学恩に報いることができた。これにより歴史上初の相互理解がなされ、現在の相互交流の基盤が形成されていた。