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真柳誠「『明医雑著』解題」『和刻漢籍医書集成』第8輯所収、エンタプライズ、1990年1月

『明医雑著』解題

真柳  誠






一、王綸について

〔事跡〕

 本書および『本草集要』などの著者である王綸の事跡は、精粗の差はあるが次の文献に記載が見える。

(1)『本草集要』自序(一五〇〇)[1]
(2)『明医雑著』自序(一五〇二)
(3)『医学入門』(一五七五)歴代医学姓氏[2]
(4)『本草綱目』(一五七八)歴代諸家本草[3]
(5)天啓四年(一六二四)『慈渓県志』巻七[4]
(6)雍正八年(一七三○)『慈渓県志』巻七[4]
(7)『明史』(一七三九)方技・呉傑伝[5]

 いまこれらを整理すると以下のようである。

 王綸の字は汝言、号は節斎、慈渓(浙江省慈渓)の出身である。父は真静居士と号し、病弱であった。王綸と兄の王経も病弱だったので、学業の余に医を学ぶことが家訓とされていた。そこで王経は『本草』『内経』や李東垣・朱丹渓の書を三年学び、その重要性を王綸に説いた(1)。この兄は進士となっている(2)。

 王綸も成化二十年(一四八四)に進士に挙げられ(6)、工部主事(工部司・郎中の文書係)の官に就いた(5)。弘治五年(一四九二)より公務の暇中に本草を研究し、同十三年(一五〇〇)に『本草集要』八巻を刊行。この時は奉議大夫(文階官、正五品)で、礼部儀副郎中(礼部儀礼清吏司の副主管)の官にある(1)。同十五年には広東の布政司左参政(民政長官の輔佐官)の職にあり、また『明医雑著』を著し刊行した(2)。なお広西の左布政使(民政長官)であった(5)のも、恐らくこの弘治年間(一四八八〜一五〇五)頃であろう。正徳年間(一五〇六〜二一)には右副都御史(百官の監察機関たる都察院の次官、正四品)となり、湖広(湖北・湖南省)の行政長官で民治・兵制・刑獄をつかさどる巡撫の官を兼務した(7)。(4)には官が都御史(都察院長官、正三品)に至った、とも記される。

 王綸は行政に辣腕をふるい、多くの功績をあげたが、清廉頑固だったので昇進は遅かった。著書には『学庸要旨』『書斎雑稿』『礼部要稿』『分守要稿』『承宣・巡撫』などがある(5)。彼は任地にあって日中は民の訴えをきき、暮れには民を治療したので、神農祠の中に祭られた(6)。その治療に立効なきはなく(7)、人々は朱丹渓の再来とも称した(5)。

 以上の記録に生没年は見えないが、 一四八四年に進士[7]となっていることから、生年を一四六五年頃[8]あるいは一四六〇年頃[9]とする説がある。さらに後説は七八歳で没したと記し、以後の中国の解説書等は皆これに従っているが、筆者はその根拠を知らない。王綸を約一四六〇〜一五三七年の人とする見解[10]も、後説の敷衍であろう。

〔著作〕

 王綸の医学に関する書は、『明医雑著』以外に以下の書が知られている。

『本草集要』八巻(図1)
 本書の王綸自序[1]によると、弘治壬子(一四九二)年より編纂を開始。まず本草書などより要点を五巻にまとめ、これを中部とした。次に本草の総論、また『内経』や東垣の諸説より本草に関するものを一巻にまとめ、上部とした。さらに一二門に分類した薬性を二巻にまとめ、下部とした。以上を改稿すること三回、四年を費やし本書八巻を完成した。そして友人のすすめで本書を刊行することにした、という。すると本書の成立は編纂を開始した四年後の一四九六年。初刊は序年の弘治十三年(一五○〇)となろう。

 内容[10]は巻一が総論の上部で、『証類本草』巻一の序例ほか、東垣・丹渓の薬論を引用する。巻二〜六は各論の中部で、計五四五薬を草・木・菜・果・穀・石・獣・禽・虫魚・人の一〇類の順に収載し、三品分類を廃している。この自然分類順の所以は、「本草各薬、莫多于草」なので草部を首とし、「人為万物之霊」なので人部を末尾に置く、と述べている。巻七と八の下部は『証類』巻二に倣い、病証を気・寒・血・熱・痰・湿・風・燥・瘡・毒・婦人・小児の一二門に分類。各部門内をさらに補気薬・降気薬などと薬能で細分し、薬名を列挙している。

 本書には王綸独自の本草的知見がほとんどないため、李時珍は「別無増益、斤斤泥古者也」と評している[3]。しかし『本草綱目』の薬物分類には、本書の影響が考えられるべきだろう。

 本書の現存版本には、正徳五年(一五一〇)刊本[11]、明刊黒口本[12]、嘉靖八年(一五二九)朱廷立刊本[13]、万暦三十年(一六〇二)劉竜田刊本[14]がある。

『医論問答』一巻
 宮内庁書陵部に嘉靖二年(一五二三)の序刊本、武田杏雨書屋にその複写、浙江図書館に嘉靖間刊本がある。内閣文庫所蔵の江戸写本には、『(節斎)医論』一巻(『明医雑著』の別称)が付される。いずれも未見につき仔細は不詳だが、『明医雑著』自序末に「尚俟他日続成全書、以畢予志」と予告するのが本書かも知れない。

『節斎公胎産医案』一巻
 上海中医学院図書館に康煕五十年(一七一一)の退思堂重刊本、広東省中山図書館に写本がある。光緒二十五年(一八九九)の『慈渓県志』[15]によれば、馮氏抱珠山房の重刊本もあったらしい。未見につき成立・内容等は不詳。

『節斎小児医書』
 前掲書と同じく『慈渓県志』に記録[16]されるが、現存等は不明。
 

二、無注『明医雑著』

 『明医雑著』には本来の無注本と、これに薛己が注を加えた六巻本がある。両者は刊行経緯・内容構成ともに相違するので、まず無注本の版本を挙げておこう。

〔版本〕

中国刊本
@弘治十五年(一五〇二)王綸序刊本 佚。

A弘治十六年(一五〇三)徐弼序重刊本 佚。

B弘治間刊本 浙江図書館所蔵。

C正徳(一五〇六〜二一)頃刊黒口本[17] 国立公文書館内閣文庫所蔵、多紀氏聿修堂旧蔵本(図2)および吉田意庵旧蔵本。

D嘉靖三十年(一五五一)趙晟跋刊本 佚。

F万暦三十一年(一六〇三)劉竜田喬山堂刊本 『留真譜』[18]著録(図3)

 これらの内、@ADは現伝本の序・跋による推定。Bが弘治十五年以降であることは明らか。Cは一巻本で、他に『新増{月+瞿}仙神隠伝』を巻二に、『新刊孫真人養生延寿書』を巻三に合刻している[19]。Eの現存は不詳だが、小嶋宝素『宝素堂蔵医籍目』[20]に二巻本[21]と記すので、前述の『医論問答』との合刊も疑われる。

朝鮮刊本
F刊年不詳『節斎医論』一巻 尊経閣文庫所蔵。

G刊年不詳『明医雑著』一巻。

 Fは同文庫目録に「節斎医論慈渓王汝言著』と書名を記す。これと同一書名に作る慶長古活字版(後述H)があり、これにはDの跋があるので、FもDに基づくかも知れない。Gは三木氏の報告[22]によるが現存不詳。

日本刊本
H慶長中(一五九六〜一六一四一)刊古活字一二行一七字本 大東急記念文庫所蔵[23](図4)

I慶元中(一五九六〜一六二三)刊古活字一一行一九字本 大束急記念文庫所蔵[24]

補足 元和三年(一六一七)刊古活字一一行一九字本 版心黒口 黒魚尾 京大富士川文庫蔵(メ・055)。

J不詳古活字本 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵。

K正保二年[25](一六四五)野田弥兵衛刊本 研医会図書館・小曽戸洋氏ほか所蔵。

L正保二年(一六四五)中野小左衛門刊本東北大学附属図書館ほか所蔵。

M不詳年芳野屋徳兵衛刊「医家七部書」所収本 慶応大学医学情報センターほか所蔵。

 Hは図のように、内題の書名を『節斎医論』に作るのはFと同じ。さらに巻末には書名を「新刊明医雑著」と題し、@ADの序跋もあり内容は他の一巻本と同一である。Iは眉上に異本との校異を活字で植版し、Kはこれを覆せ彫りした整版。LMはKと同版の後印本である。Iにも@ADの序跋があるので、やはりDの系統に基づくと認められる。

 以上、中・朝・日の無注刊本一四種を挙げたが、筆者が親見した現存版本は、CにDの跋文がない以外はすべて同一内容の一巻本であった。そこで今回の影印復刻は、小曽戸洋氏所蔵のK本を底本とした。

〔内容構成〕

 無注の一巻本はいずれも、以下の一一内容より構成されている。a.医論(二〇条)、b.発熱論、c.補陰丸論、d.枳朮丸論、e.化痰丸論、f.備用要方、g.随証治例(五篇)、h.擬治嶺南諸病(五条)、i.序次丹渓小児痘瘡治法、j.続医論(一五条)、k.続随証治例(二篇)。

 さて一五〇二年五月の王綸序によると、彼は一カ月家にこもり、まずgを書き、次にb・a・c・dなどの順で著した。そして求めに応じ、これを『明医雑著』と名付け刊行することにした。しかしまだ不完全なので、公務を退いた後に続篇も刊行するつもりだという。この初刊本が前述の@本である。

 また一五〇三年七月の徐弼序によると、徐は一五〇三年の春に本書を入手した。見るとa〜iの内容があり、あたかも活人の至宝なので、自費で翻刻することにしたという。これが前述のA本である。徐が入手したのは@本なので、当然これはa〜iの九内容から構成されていたに相違ない。

 ところでいずれの無注一巻本も、jのタイトル下に、小字で「弘治十六年七月、北河舟中著」と刻されている。これは徐の序と同年同月である。j・kはタイトルもa・gの続篇なので、王綸序の口吻からするとj・kも彼の著述であろう。また徐の序文には官僚として目上の王綸に対し、「使公之心、無遠弗届也」などと媚びた口調が見える。

 したがって二人に面識があれば、jkはA本の段階で増補されたことになる[26]。ともあれ王綸は初刊本に増補する希望をかなえており、現伝の無注一巻本を見る限りにおいて、『明医雑著』自体にその後の増補は加えられていない。
 

三、薛己注『明医雑著』

 薛己の注本が出現して以来、中国ではこの六巻注本のほうが広く流布している。したがって中国の解説書のほとんどは、『明医雑著』が王綸の段階から六巻であったと記しているほどである[27]。まずは現存の版本を挙げておこう。

〔版本〕

中国刊本
@嘉靖三十年(一五五一)宋陽山刊本 北京図書館所蔵(図5)

A嘉靖三十一年(一五五二)王朝補遺刊本 {菫+(郁−有)}県古物保存所所蔵、范氏天一閣旧蔵本。

B万暦間(一五七三〜一六一九)刊本 北京・故宮博物院図書館所蔵。

C万暦間刊『薛氏医案』所収本 上海図書館・浙江図書館所蔵。

D不詳明刊『薛氏医案』所収本 北京図書館ほか所蔵。

 以上は明刊本であるが、清・民国間には『薛氏医案』が一五回ほど刊行されている。@は薛注の初刊本で[28]、一九七九年に上海古籍書店より影印されている。またこれを主底本とする鉛印本が、一九八五年に江蘇科学技術出版社より刊行されている。

日本刊本
E承応一二年(一六五四)武村市兵衛刊『薛氏医案』所収本 矢数道明氏ほか所蔵。

 EはCないしDを底本に翻刻したもので、他に和刻の薛注本はない。したがって今回の影印復刻には、矢数道明氏所蔵のE本を底本に選択した。

〔内容構成〕

 無注本に付されている序跋等を薛注本は欠くが、代わりに銭薇と薛己の序文が前付されている。しかし和刻のE本はこれも欠くので、いま@本より図6に掲げておく。

 この薛己序(一五五一)によると、王綸は晩年に隠居したら『明医雑著』を増補したいというが、残念ながら果たせていない。そこで私は本書に注と治験、また診法を欠くので滑伯仁の『診家枢要』を加え、初学者の便に方集を書末に付し、全六巻にまとめた。そして魏翁のすすめで、これを宋尹(陽山)より刊行することにした、という。

 薛己(一四八七〜一五五九)は江蘇省呉県の出身。字を新甫、号を立斎という。正徳間(一五〇六〜二一)に南京太医院の御医を任じ、嘉靖間(一五二二〜六六)には北京太医院にて奉政大夫・太医院便の官に至った。著書・注釈書は多く、それらは万暦間(一五七三〜一六一九)に一括して、『薛氏医案』全七八巻の叢書として刊行されている。
 さてこの薛注本をみると、ほぼ全体にわたり注および治験が「愚按〜」以下一字落ちで記され、王綸の原文と区別されている。また全六巻の内容構成を無注一巻本と比較すると、数カ所で篇順が改められたり合篇されている以外、無注本のほぼ全文が収められている[30]。序文に言う薛己の増入は、巻三後半の『診家枢要』、巻六の「附方」である。

 しかしながら巻四の全文、巻五の巻末一篇を除く全文は無注本にない内容である。いずれにも薛己は「愚按〜」と注・治験を付すので、それらは薛己以前の文に相違ない。かつその内容には、王綸の無注本と一脈通じるところがある。すると次のように考えられよう。

 巻四前半は「風症」の篇名で、「問」と「答」の文章からなり、後半の「擬治諸方」はこれに関する処方集である。その特徴からみて、先に王綸の著作として挙げた『医論問答』一巻との関連が疑える。この書は嘉靖二年の刊本があるので、薛己が見ていて不思議はない。薛己は序に「(王綸が)著す所の発熱等の篇、『明医雑著』と名づけ刊行すること年あり。およそ、その問答・擬議は悉く医学の綱目にもとづく云々」とも記している。したがって王綸は嘉靖二年に、増補篇として『医論問答』を『明医雑著』に付刻していたらしく、そのため薛己は両者を一括したのであろう。

 巻五はすべて小児科の篇よりなるので、先の記録に見える『節斎小児医書』との関連が考えられる。しかしその書は現伝しないようなので、真偽は不詳。ともあれ薛注本には、無注一巻本以外の王綸の著述が保存されているとみられ、その意味でも価値は高い。
 

四、王綸の医説と後世への影響

〔中国での影響〕

 『明医雑著』には方論書・医案書の側面もあるが、医論書としての色彩が最も濃い。王綸の序に「かつて丹渓の語録・余論等の書を続せんと欲し、医論二十条および補陰・枳朮等丸の方論を著し得たり」とあるように、医論書である朱丹渓の『格致余論』に影響されたのであろう。しかし論説はその常として、影響のあるものほど後世の批判も多く、本書もまた例外ではない。

 とりわけ反論が集中したのは、王綸の人参・黄耆論である。彼は本書の各処で、虚証とあれば参・耆を処方する当時の風潮を戒め、気虚に参・耆は良いが、血虚や津液の虚には却って害になることがあると述べている。しかしそれは原則論で、例外も多いとする反論が続々と出された。

 最も早いのは虞摶の『医学正伝』(一五一五成)で、これは王綸がまだ存命中のことと思われる。また兪弁の『続医説』(一五二二初刊)は参・耆論のみならず、王綸の補陰丸を盲信して数年服用し、副作用の出た例も記す。この他に汪機『石山医案』(一五三九)、{龍+共}廷賢『寿世保元』(一六一五)、趙献可『医貫』(一六一七)、李中梓『医宗必読』(一六三七)など、参・耆論への批判は多い。しかしいずれもやや感情的な議論で、冷静な意見は張介賓『景岳全書』(一六二四)の本草正に見える[8]。また方広は『丹渓心法付余』(一五三六序)の各処に『明医雑著』を大幅に引用するほか、滑寿『診家枢要』も付載している。薛己が注本に同書を増補したのは、恐らくこれに倣ったのであろう。

〔日本での影響〕

 『明医雑著』が日本にいつから渡来したか、その正確な記録はない。しかし他書の例からして、本書の刊行後まもなく伝来したと思われる。いま知り得る最も早い記録は、国宝の宋版『史記』(米沢本、文化庁所轄)の「扁鵲倉公列伝」に月舟寿桂(一四六〇〜一五三三)が書き入れした中に、『明医雑著』の巻頭医論が引用されている。寿桂の活躍年からすると、彼が利用したのは弘治・正徳頃の無注刊本、ないしはそれによる写本であったろう。

 一方、曲直瀬道三(一五〇七〜九四)の一門が、本書をよく読んでいたことはつとに知られている。道三の『啓迪集』には本書の引用が少なくない。さらに武田杏雨書屋には、内閣文庫蔵本と同じ正徳頃刊三書合刻本に基づく古写本(杏2349)があり、「雖知苦斎道三」の簽署が認められている。

 学説としても、『啓迪集』に記す気血痰鬱の病因論はもと丹渓の所説ではあるが、恐らく本書の医論を介したものと思われる。また曲直瀬玄朔(一五四九〜一六三一)の『十五指南篇』の冒頭には、本書の巻頭論より次の名文を二つ引用し、以後の人口に膾炙した。

 医の内経あるは、なお儒道の六経のごとく、備わらざるところなし。(張・李・劉・朱)四氏の説は、学・庸・語・孟の六経の階梯たるがごとく、一も欠くべからず。

 外感は仲景に法り、内傷は東垣に法り、熱病は河間を用い、雑病は丹渓を用う。

 このような江戸初における本書の流行は、前述した古活字や整版による復刻にとどまらない。管見に及んだだけでも左記のいわゆる「抄物」が多いことは、本書が当時よく研究されていたことを如実に物語ろう。

『明医雑著釈談』一巻、玄朔著・安芸道本編、明治写、京大文学部国文研究室蔵。
『明医雑著抄』二巻、玄朔講・弟子聞書、江戸前写、東大総合図書館蔵。
『明医雑著抄』三巻、失名抄、元寛中梅寿刊古活字本、武田杏雨書屋蔵。
『明医雑著抄』三巻、失名抄訳、明暦二年(一六五六)秋田屋平左衛門刊、金沢市立図書館・武田杏雨書屋蔵。
 

〈文献および注〉

[1]江戸写の『本草集要』(国立公文書館内閣文庫所蔵)による。

[2]李{木+延}『医学入門』復刻本二九頁、江西科学技術出版社、一九八八。

[3]李時珍『本草綱目』影印本六頁、台北・鼎文書局、一九七三。

[4]郭靄春ら『中国分省医籍考』九五七頁、天津科学技術出版社、一九八四。

[5]楊士孝『二十六史医家伝記新注』二六二頁、瀋陽・遼寧大学出版社、一九八六。

[6]『中医人名辞典』(四九頁、李雲ら編、北京・国際文化出版公司、一九八八)は、この進士が二甲第二七名であったと記す。

[7]進士となったのを弘治年間と記す解説もあるが(陳夢賚『中国歴代名医伝』二四五頁、北京・科学普及出版杜、一九八七)、これは『医学入門』の記す伝に「弘治時。官致広東布政」、とあることからの誤認かも知れない。

[8]江静波「王綸的学説及其著作」、『浙江中医雑誌』八巻二号、一九六五。

[9]余瀛鼇「王綸及其『明医雑著』」、『中医雑誌』一九八○年第一二期。

[10]尚志鈞ら『歴代中薬文献精華』二七〇頁、北京・科学技術文献出版社、一九八九。

[11]藩陽医学院・遼寧中医学院所蔵。

[12]中国中医研究院・上海中医学院所蔵。後者の蔵書目録は成化年間の刊本と記すが、本書の成立年からしてこれは誤認である。あるいは弘治十三年頃の初刊本か。

[13]武田杏雨書屋・北京図書館所蔵。

[14]中華医学会上海分会図書館所蔵。

[15]前掲文献[4]、一一五五頁。

[16]前掲文献[4]、一一一七頁。

[17]『内閣文庫漢籍分類目録』(一九九頁)は、当版を「六巻(巻四〜六欠)」と記す。しかしこれは各一巻の別な三書を合刻した内の当版と、六巻の薛注本を混同したことによる誤認。また多紀旧蔵本を徐弼の序より「明弘治十六序刊」と記すが、版式等より正徳頃の刊行と見られる。

[18]楊守敬『留真譜初編・二編』七五三頁、台北・広文書局影印、一九六七。

[19]前書は撰者不詳だが、{月+瞿}仙は明・太祖の第一六子、寧王の朱権のこと。後書は『千金方』巻二七の抜粋である。

[20]国立国会図書館所蔵。

[21]『明代版刻総録』(杜信孚編、楊州市・江蘇広陵古籍刻印杜、一九八三)巻五第二五葉ウラに、当版を「明医雑著六巻」と記す。しかし『留真譜』所掲図の版心に「上巻」とあるので、六巻本と記すのは薛注本からの誤認だろう。

[22]三木栄『朝鮮医書誌』二三八頁、学術図書刊行会、一九七三。

[23]川瀬一馬『古活字版之研究』には久原文庫蔵本、和田万吉『古活字本研究資料』には雪村文庫蔵本が記録される。

[24]他に川瀬は久原文庫蔵本を同右書に、また竜門文庫蔵本を同書増補に報告している。

[25]当版の刊記にある正保「旃蒙」は十干の乙の異称である。正保年間には乙酉の正保二年しかない。

[26]A本に増補はなく、これ以降に王綸が増補再版した場合も考えうる。するとC本は増補されているが、自著と無関係な二書を本人が合刊するはずもないので、王綸の再版はA以降C以前となろう。B本がこれに相当するかも知れないが、正確なところは不詳。後考に期したい。

[27]前掲文献[9]にいたっては王綸の初刊本が八巻であったとするが、その根拠を挙げない。

[28]薛注本にある嘉靖二十八年(一五四九)の銭薇序より、これを初刊年とする解説書や、この年の刊本を記録する目録も多いが、いずれも序年を刊年と混同した誤認。

[29]上掲文献[6]、九五二頁。

[30]筆者の疎漏かも知れぬが、医論二〇条中の第一一条「凡酒色過度〜」の文は、薛注本にないようである。

[31]兪弁『続医説』巻一「明医雑著」、上海科学技術出版社影印本、一九八四。