真柳誠「『本草綱目』の日本初渡来記録と金陵本の所在」『漢方の臨床』45巻11号1431-39頁、1998年11月(2010, 8, 22、2014.6.16、2018.3.26補足)

 『本草綱目』の日本初渡来記録と金陵本の所在

真柳  誠(茨城大学・北里研究所)

1.  緒言

  『本草綱目』は中国での刊行後ほどなくして江戸初期の日本へ伝来し、江戸全期を通じて日本の本草研究に多大な影響を与えた。これは本書の江戸版本が6種あり、それらで計14回も印刷[1] されたことから容易に理解できよう。近代以降も活字版が3回刊行されており、今なお研究者を裨益し続けている。

 一方、本書が日本へ初めて渡来したという年、および本書の初版である金陵本の伝存については従来からの通説がある。しかし、これに訂正・追加すべき知見を得たので報告したい。
 

2.  日本への初渡来記録

図1     

 『本草綱目』が日本へ初めて伝来したのは、これまで江戸初期の慶長12年(1607)とされてきた。それは江戸政府の正史である『徳川実記』台徳院殿御実記の慶長12年4月の条に[2] 、「林羅山が長崎で『本草綱目』を購入し、徳川家康に献上した」の記録(図1)があることを根拠とする。白井光太郎[3] ・南方熊楠[4] ・渡辺幸三[5] ・岡西為人[6] ・上野益三[7] ・木村陽二郎[8] ら、近代日本を代表する植物学史・博物学史・本草学史の研究者が皆この説を記したため、当説は日本のみならず中国にまで普及している[9] 。

            図2
 さて林羅山(1583〜1657)は家康に仕えた大儒だが、彼の第三子の春斎がまとめた羅山の年譜(『羅山先生集付録』巻1[10])には、通説を遡る記録が見える。一般に「既見書目」と呼ばれるこの記録は、羅山が22歳の慶長9年(1604)までに実見した440余部の書名を列記しており、羅山自筆の目録に基づくという。「既見書目」に記されている医薬書は以下の11書である(図2)。

『素問』『霊枢』『本草蒙筌』『本草綱目』『和剤(局)方』『医経会元』『運気論(奥)』『難経本義』『痘疹全書』『医方考』『医学正伝』
  ここにはっきりと『本草綱目』が記録されている。したがって長崎で購入した本書を家康に献上した3年前の1604年までに、林羅山がどこかで本書を見ていたことは疑いない。当然ながら本書の日本への渡来も1604年以前となり、これまでの通説は改められる必要がある。「既見書目」は日本儒学の研究者によく知られていたが、医学史や伝統医学の世界では旧説が通行しているので、敢えて注意を喚起したい。

3.  金陵本の所在

 『本草綱目』の版本については、万暦24年(1596)刊の初版、いわゆる金陵本の伝存が少ないことから、その所在と部数がとかく取り上げられてきた。しかし現存点数を4部とするものから7部とするものまで各説があり、所在も一定していない。そこで金陵本の確実な現所蔵先と登録番号を調査したところ、以下のようだった。

図3     

1)日本・国立公文書館内閣文庫本(別42函 8号)[11](図3)
 完本。井口直樹の献本で、慶長19年(1614)の曲直瀬玄朔の書き入れがあることで知られる。玄朔は父・曲直瀬道三の『能毒』を『本草綱目』で増補した『薬性能毒』を、慶長13年(1608)に著している[12]。当内閣文庫本は1992年に大阪・オリエント出版社から影印出版された。

      図4
2)日本・国立国会図書館本(205-5)[13](図4)
  完本。蔵印記などから幕医・田沢仲舒(奈須恒徳の弟)の函崎文庫旧蔵書で、のち多紀氏の躋寿館に所蔵が移り、さらに国学者・榊原芳野を経て東京図書館(国会図書館の前身)に寄贈されたとわかる。本文に補写8葉がある。

3)日本・東洋文庫本(11-3-A-c-23)[14](図5)
 完本だが、ほぼ全巻にわたり日本人による鈔補が計68葉ある。東洋文庫創設者・岩崎久彌の旧蔵書。

4)日本・東北大学附属図書館・狩野文庫本(狩8・21595・36)[15](図6)
 完本。中国学者・狩野亨吉の旧蔵書。

5)米国・国立国会図書館本(G141.76/L61.4)[16]
 完本。日本の旧蔵書で、1997年に親見した。巻1に「出雲国藤山氏蔵書記」「俳諧書二酉精舎第一主萩原乙彦(亥?)記」「八巻氏」「□避険危斎蔵書」と巻52に「子孫□保」の蔵印記、および巻8に「杏林園文庫」の朱筆書き入れがある。さらに巻12〜16の各所に考証医学者・森立之の墨筆書き入れがあり、巻13末尾に朱筆で「辛巳(明治14、1881)八月廿六日、一読過、七十九翁枳園」と「立之」の丸印記、巻14末尾に朱筆で「一読了、加朱筆、森立之」の書き入れがある。

図5      

        図6

6)中国・中医研究院図書館本(0953/子21-1578)[17]
  完本で、丁済民が1947年に古書店から購入したと記録[24]する書。

7)中国・上海図書館本(善本480471-90)[17、18](図7)
 完本。1993年に上海科学技術出版社が当本を影印出版した。その蔵印記から新中国以前は上海市科学技術図書館の蔵書だったと分かるが、これ以前の蔵印記は不鮮明で「中国□□□(科学院?)図書館」としか分からない。(銭超塵『金陵本本草綱目新校正』前言〔上海科学技術出版社、2008〕より、□□□は「科学社」であること、中国科学社は1915年にアメリカで結成され、1921年に中国科学社明復図書館を上海に設置、同図書館は1956年に上海科学技術図書館と改名、1958年に上海図書館に合併されたことが分かった)

8)日本・京都府立植物園・大森記念文庫本(38番)[19](図8)
  巻19〜21と巻47〜49の計6巻を欠く。植物学者・白井光太郎の旧蔵書で、それ以前は紀州・小原桃洞の蔵書だった。

       図7

図8               

9)日本・武田科学振興財団杏雨書屋本(貴 593)[20](図9)
  現存は巻19〜28の計10巻のみ。江戸の本草学者・小野蘭山と幕末の考証医学者・伊沢蘭軒の旧蔵書。

10)日本・宮城県図書館伊達文庫本(30196 伊)[21](図10)
 現存は巻36〜38の計3巻のみ。曲直瀬養安院、奥田慶安、幕末の考証医学者で弘前藩医の渋江抽斎、伊達家と所蔵が移り、現在に到っている。

 この他に日本では伊藤篤太郎所蔵本[22]と長沢規矩也旧蔵本[23]が報告されていたが、現所在は不詳となっている。さらにドイツ生まれのオランダ人で東インド会社に勤務したGeorg Everhard (Everhart) Rumph (Rumphius) (1628〜1702) の旧蔵本が、かつてドイツのベルリン王立図書館にあった[25]。しかし第二次大戦中に紛失したという[26]。

       図9

 なお王重民によれば、新安の程嘉祥・摂元堂が入手した金陵本の版木で1640年にも印刷しており[27]、この重印本が米国・国会図書館に完本(G141.76/L61.2) と本文2巻を欠く残欠本が各1組現存している[28]。当版は出版者名の部分を彫り直したのみなので、基本的には金陵本と同版といえる。したがってこの程嘉祥印本を加えるなら、金陵本の現存は10箇所に完本8組、残欠本4組の計12組まで確認された。さらに鄭金生〔「《本草綱目》金陵版重修本―製錦堂本初考」『中華医史雑誌』44巻2期106-110頁、2014〕によると、中国河南省洛陽市の白河書斎・晁会元氏収蔵の完本は金陵本の版木による製錦堂・呉吉徴の重印(図11)で、一部に補刻・修刻がある。製錦堂本はアメリカ国会図書館の摂元堂本より後期とおもわれるが、金陵本がさらに1組増加したことになる。また中国中医薬報(2018/3/21)によると、河南省鄭州市の邢沢田氏も金陵本(図12)の正文41巻(欠11巻)・図2巻を最近購入し、書き入れなどから日本旧蔵書と判明(岸田吟香が上海で販売した可能性あり)、また晁会元氏は程嘉祥・摂元堂本の存正文12巻も所蔵していた。つまり金陵本の現存は15組となる。

 一方、各図書館には「万暦刊本」とのみ記録される『本草綱目』も少なくない。今後、金陵本の版式(本文毎半葉:12行・毎行24字、匡郭縦約20cm・横約13.8cm)に注意して調査が進められるなら、「万暦刊本」の一部が金陵本と認められる可能性も十分に考えられるであろう。
 

図10         

4.  結論

1)日本の本草研究に多大な影響を与え続けてきた『本草綱目』は、通説のように1607年に日本へ初渡来したのではなく、それより早く1604年以前にすでに渡来している。

2)『本草綱目』の初版・金陵本は現存数に諸説があったが、調査の結果、世界に15組まで伝存が確認された。この現存点数は、調査が進めばより増加する可能性もある。

*本稿は第92回日本医史学会総会(1991)で「『本草綱目』の伝来と金陵本」と題して発表した内容に増訂を加え、李時珍生誕480周年国際シンポジウム(1998、中国湖北省)にて発表したものである。
 

      図11

文献と注

[1]岡西為人『本草概説』229-233頁、大阪・創元社(1977)。

[2]『徳川実記』台徳院殿御実記巻5、432頁、東京・吉川弘文館(1976)。

[3]白井光太郎『白井光太郎著作集』第1巻369頁、東京・科学書院(1985)。

[4]南方熊楠「物産学・本草会・江戸と本草綱目および本草学」『本草』16号1-4頁、東京・春陽堂(1933)。

[5]渡辺幸三『本草書の研究』136頁、 武田科学振興財団(1987)。

[6]上掲文献[1] 、229 頁。

[7]上野益三『日本博物学史』42頁、東京・平凡社(1973)。

 

       図12

[8]木村陽二郎『生物学史論集』131頁、東京・八坂書房(1987)。

[9]{革+斤}士英「『本草綱目』伝日及其影響」『中華医史雑誌』11巻2期102-105頁,1981。

[10]いま国立公文書館内閣文庫所蔵の1662年刊本(205函127号)による。

[11]国立公文書館内閣文庫『内閣文庫漢籍分類目録』228頁、東京・同文庫(1956)。

[12]『薬性能毒』の奥書による。

[13]国立国会図書館図書部『国立国会図書館漢籍目録』365頁、東京・同図書館(1987)

[14]東洋文庫図書部『東洋文庫漢籍分類目録』子部53頁、東京・同文庫(1993)。

[15]東北大学附属図書館『東北大学所蔵和漢書古典分類目録』子部230頁、仙台・同図書館(1976)。

[16]WAN Chung-Ming(王重民)『A Descriptve Catalog of Reare Chinese Books in the Library of Congress(国会図書館蔵中国善本書録)』546-550頁、Washington・Library of Congress(1957)。

[17]中国中医研究院図書館『館蔵中医線装書目』78頁、北京・中医古籍出版社(1986)。

[18]中国古籍善本書目編輯委員会『中国古籍善本書目』子部16巻15葉a、上海古籍出版社 (1994)。

[19]大典記念京都植物園『大森記念文庫図書目録』11頁、同植物園(1937)。

[20]武田科学振興財団『杏雨書屋蔵書目録』805頁、大阪・武田科学振興財団(1982)。

[21]宮城県図書館『宮城県図書館漢籍分類目録』97頁、仙台・同図書館(1985)。

[22]上掲文献[5]、128頁。

[23]長沢規矩也「収書遍歴」『長沢規矩也著作集  第6巻書誌随想』259頁、東京・汲古書院(1984)。これによると1930年に長沢規矩也が蘇州の古書店で購入し、帰国後に文求堂という古書店に譲渡している。

[24]丁済民「跋明金陵刊本本草綱目」『医史雑誌』2巻3・4期(1948)。

[25]上掲文献[1]、233頁。

[26]Paul U. UNSCHULD『MEDICINE IN CHINA A History of Pharmaceutics』166頁、Los Angeles and Berkeley・University of California Press(1986)。

[27]上掲文献[16]、551頁。

[28]王重民『中国善本書提要』259頁、上海古籍出版社(1982)。

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