真柳 誠・小曽戸 洋
A bibliographical study of the “Jingui Yaolue” (2)
-The “Xinbian Jingui Yaolue Fanglun” published by an anonymous person in the Ming dynasty and its related editions-
by Makoto MAYANAGI, Hiroshi KOSOTO
The “Jingui Yaolue”(金匱要略) originally written by Zhang Zbongjing(張仲景) at the end of the Dong-Han dynasty, was first edited and published in the Bei-Song dynasty. However, the original Bei Song-edition has long since been lost, and all of the now prevalent texts have more or less undergone further modifications. Therefore, there is no general agreement as to which text most faithfuly reflects the original work of the “Jingui Yaolue”.
The present authors have done research into extant editions in Japan, China and Taiwan, and have found two old editions of the different versions of the “Jingui Yaolue” which were published by Deng Zhen (the Deng-Zhen-edition) and an anonymous person (the AP-edition) respectively. (In the 1st report the authors studied the former edition.)
It is reported in the “Keiseki Hokoshi”, a catalogue of books compiled at the end of the Edo period, that Motoyasu Taki once had a copy of the AP-edition (the Taki-book) here in Japan (but it has been missing since that time). Therefore, we have conducted research using a copy of the AP-edition owned by the China Science Academy Library in Beijing (book-A) and another manuscript of the AP-edition owned by the Palace Museum in Taibei (book-B). From the study, the following conclusions have been made:
1) Book-B is an intermediate manuscript based on the Taki-book. The Taki-book and book-A are different versions within the same edition.
2) The AP-edition was published between the Jiajing (嘉靖) era of the middle Ming dynasty, and it is supposed that the Deng-Zhen-edition is the oldest and that the AP edition is the second oldest extant copy of the “Jingui Yaolue”.
3) The comparative study between the AP-edition and the Yu-Qiao(兪橋) edition (which is already known) made clear that they both had been derived from an unknown original, book-X. The comparative study among the Deng-Zhen-edition, the AP-edition and the Yu-Qiao-edition has also made clear that book-X had been made from a copy of the Deng-Zhen-edition (which has a missing leaf). Relations and differences in the transformations between these editions are summarized in Fig. 2.
4) This reasoning leads us to doubt the validity of the view expressed in the “Keiseki Hokoshi” that the AP-edition is a copy of the Song-edition.
5) The AP-edition containing more misprints, blanks and omissions than any edition, is not considered as a reliable (source) text. Therefore, a student of medical history should refer to the Deng-Zhen-edition which has much more value from a bibliographical viewpoint.
緒言
『金匱要略』は、東洋伝統医学のもっとも基本的典籍の一つである。にもかかわらず、その底本とすべき版本にはいまだ定説がない。したがってこの問題を解決することは、『金匱要略』を研究するための第一前提といえるが、それには現存する版本の掌握と系統の解明が必須である。この結果、はじめて各版本の優劣、および字句の異同についても正当な議論の根拠が与えられよう。よって筆者らはまず『金匱要略』の諸版本を捜索し、近代以降未報告の古版二種を発見した[1]。当研究の第一報ではその一つ、元・ケ珍刊本の調査結果と価値について報告した[2]。本報では引き続き、いま一つの古版である明・無名氏刊本を取り上げることにする。
かつて当版の存在については、『経籍訪古志』(一八五六年成、以後『訪古志』と略)著録[3]の多紀氏聿修堂蔵本のみが知られていた。しかし明治以降はその所在記録[4]がなく、岡西[5]は『訪古志』著録本を現存不明とし、石原[6]・宮下[7]も現存の版本中に当版を挙げていない。そこで筆者らは国外にも調査を重ね、これまで刊本およびその影写本の各一本を発見した。さらに両書の複写も入手し得たので、以下に各本の調査結果を報告する。次いで当版の年代・伝承・特徴に考察を加え、それに至る版本系統と当版の価値を明らかにしたい。
一、調査結果
(一)明・無名氏刊本(A本、図1左上)
[所蔵]
北京・中国科学院図書館、子四五二・○○八号。
[版式]
上中下三巻。匡郭は四周双辺、毎半葉は縦約一八・三cm、横約一三・二cm。有界。版心は白口で上下に黒魚尾、上魚尾の下に巻次、下魚尾の下に葉次を刻す。宋臣序(撰者無記の小文を三字低書、七行・行一四字にて末尾に附刻)は全二葉で、各半葉は八行・行一八字。目録は全一〇葉、巻上は全四四葉。巻中は全三七葉であるが、第三七葉のオモテ末行以下ウラまでの計一一行には文字が刻されていない。巻下は全三一葉。目録と巻上・中・下の各半葉は、いずれも一〇行・行二〇字。宋臣序頭、目録頭・尾、巻上頭・尾、巻中頭、巻下頭などに記す書名は均しく「新編金匱要略方論」に作る。
[現状]
刊本。分二冊。各冊は縦約二六cm、横約一四・八cmの四つ目綴。第一冊は目録・本文巻上の順に綴じるが、宋臣序全二葉および巻上の第四三葉ウラと第四四葉ウラを落丁する。ただし巻上第四四葉オモテは版心部分が断裂のため、誤って第二冊の末尾に綴じ込まれている。第二冊は巻中・下の順に綴じるが、巻中の第一葉オモテと巻下の第二九葉ウラから第三〇葉・第三一葉までを落丁する。両冊とも各処に破損・虫損があり、とくに目録全葉の綴じ目に近い下方や、巻上の第四四葉オモテの版心から欄脚・綴じ目にかけての破損が著しい。二冊ともに総裏打が施されている。本文は全体にわたり朱筆で句読点が打たれ、各篇名・処方名の多くは上に○の円符号が書き加えられている。また所々に刷りの薄い文字や、誤字と認められたものに対する墨筆での訂正、上欄・匡郭内の書き込みが見られる。
(二)明・無名氏刊本の影写本(B本、図1右上)
[所蔵]
台北・故宮博物院、故観〇三四四二・〇三四四三。
[版式]
A本と同一。
[現状]
写本。料紙は雁皮紙。分二冊。各冊は縦約二五・六cm、横約一六・七cmの仮り綴じ。第一冊には宋臣序・目録と本文の巻上、第二冊には本文の巻中の順に綴じるが、本文の巻下(第三冊)はない。影写の字様は秀麗で、紙魚による糸状・点状の虫蝕はあるが、文字の判読に支障を来すほどではない。蔵書印記は宋臣序第一葉に「楊守敬印」「宜都楊氏蔵書記」「惺吾海外訪得秘笈」、巻中第一葉に「惺吾海外訪得秘笈」が捺される。
二 考察
(一)前人の見解と出版年代
A本とB本の体式は前述のごとく同一である(B本は写本であるが、A本の同版本による影写本であるから、以下総称して当版という)。ところが各蔵書目録はA本を「清初刊本」[8]、B本を「日本影宋写本」[9]と記す。するとB本を影写した底本は宋版となり、同版でありながらA本が清版とされることとは、著しく年代が離れてしまう。これは出版年を確定するための根拠となる刊記、あるいは刊行者の序跋等がA・B本ともになく、それゆえ両者の鑑定年代が相違したものと思われる。後述するが、かつてわが国に現存していた同版本にも刊記等はなかったらしく、宋版とする説と明版とする説があった。このように当版については宋版・明版・清版の三説があるので、出版年代の検討なくしてその価値と他版との系統関係は論究しえない。
さて近世以降、宋版『金匱要略』なる書の存在を記録[10]するものに、望月三英(一六九七〜一七六九)の『医官玄稿』(一七五二年序)[11]がある。しかし三英は、「現行の『金匱要略』には良い版本が少ないが、近頃幸いに宋板を入手した。これはきわめて貴重なので、刻して世に広めたい」[12]と述べるのみで、宋版であることを証明する具体的記述はしていない。また彼がこれを希望どおり復刻した形跡も見られず、その「宋板」の真偽や当版との関連は不詳である。
一方、江戸医学館を主宰した多紀元簡(一七五四〜一八一〇)の聿修堂も、「宋本」と称する『金匱要略』を所蔵していた。これは元簡著の『金匱要略輯義』[13]が、その総概末の識語(一八〇六年記)にて、校勘に使用した版本の一つに「宋本」を挙げることや、本文各処の校勘に「宋本」の字句を引くことより知れる。現在この多紀氏聿修堂旧蔵本の所在は不詳だが、『訪古志』が『金匱要略』の筆頭に掲げる「新編金匱要略方論三巻、明代倣宋本、聿修堂蔵、毎版高六寸一分(一八・五cm)、幅四寸四分(一三・三cm)、十行廿字』[3]がそれに該当する。このことは、『訪古志』が以上に続けて引用する聿修堂蔵本に記入されていた元簡の跋文から理解される。当跋文はいささか長文ではあるが、考察の都合上、以下に全文を転録しておこう。
櫟窓先生(多紀元簡)跋に曰く。是の書、未だ何朝代の所刊たるかを知らず。宋臣の序中を閲するに、国家主上の字は皆な擡頭して書し、開巻首の「金匱要略」上に「新編」の二字を冠す。林億等の言を攷うるに、其の「新編」の字有るはまさに是れ宋板の旧なるべし。且つ詮次諸臣の名銜を前に署し、而して叔和仲景の名氏は却って後に在り。此れ古人修書経進の体式。流伝の諸本に未だ此のごときものを見ず。兪子木本は此れとほぼ同。兪本の中巻末は排膿湯以下の四方を欠す。而して此の書は排膿湯より以下中巻末に至るまで全欠す。且つ訛字頗る多し。余が蔵する所の王氏脈経は諱字多く、而して和剤局方・魏氏家蔵の類は則ち之れ無し。蓋し脈経は乃ち北宋の頒布本、其の余は則ち南宋の坊本に係る。此の書亦た諱字無し。宋本の訛字多きは胡元瑞が嘗て之れを論ず。知る、是れ南宋書{巾+白}の所刻なるを。然れども猶、館閣の旧を失わざるなり。児胤、浅草の市を閲し之れを購得す。安んぞ宝愛せざるべけんや。文化七(一八一〇)年庚午、冬十二月朔。重装し識す。(原漢文)つまり元簡は息子の元胤(一七八九〜一八二七)が浅草で購入した『金匱要略』を、その版式および誤字の多さと宋帝の諱を避けた文字がないことから、南宋の坊刻本と判断したらしい。ところが『訪古志』は当跋文を引用しながらも、そのタイトルに「明代倣宋本」と明記する。すると『訪古志』の編撰者らは後年、この聿修堂蔵本が宋版ではなく、明代の倣宋版である、と鑑定を改めていたことになる。
他方、『訪古志』の編撰にも携わった小島尚真(一八二九〜五七)は和刻の兪橋本『金匱要略』上に、六色の筆で他の六版本による校異を克明に記入していた。さらにその扉には校異に使用した六版本の解題を凡例的に記し、その筆頭に「明刊本」を挙げて以下のように説明している[14]。
明刊本。医学所蔵。毎半版は十行、行廿字。序文は大書、八行、行十八字。四周双辺。刊行歳月を記さず。毎巻に新編の字を題し、玉函の字は無し。且つ諸氏の名銜を署すに、すべて兪氏と此の本は同じ。故に前輩はおもえらく宋時の坊本なりと。今審かにするに、明氏中葉の所刊たり。巻中の文字、譌脱多きに居るは、亦た概ね此の本と合す。然るに他の諸本に比せば、まま据るべきものあり。且つ今行中の最古たり。故に今拠りて精対し、朱筆を以て之を記す。(原漢文)また書末にも以下の識語を認めている。
安政二(一八五五)年歳次乙卯、夏四月廿三日、医学所蔵の明代刊本を以て校讐し、卒業す。按ずるに、明刊本は梓行の時月を記さず。版式字様を以て之を攷うるに、蓋し明氏中葉の所刊たり。巻中の訛字は頗る多し。然れども他の諸本に照らせば、猶旧裁を存し、後人の校改を経る者に非ず。此の故に今校し、顕然たる誤字と雖も一々精対す。後の是の書を読む者、迂を以て之を僻目すること勿れ。尚真。(原漢文)以上の各記述より、次の事実が明らかとなろう。すなわち、@元簡のいう「宋本」と『訪古志』の「聿修堂蔵・明代倣宋本」、また尚真のいう医学(江戸医学館)所蔵の「明刊本」[15]はすべて同一書を指していること。A『訪古志』と尚真の記す版式その他の特徴は、A・B本のそれと完全に一致する。したがって『訪古志』著録本とA本は同版本、B本はその影写本であること。B当版に誤字は多いが、元簡・尚真は意図的校訂が加えられず旧態もよく保存されていると認め、また『訪古志』はその底本を宋版と判断していたこと。C当版の出版年代を元簡は南宋としたが、『訪古志』は明代、さらに尚真は版式と字様を根拠に明代中期の刊本と鑑定していたこと。
まず@とAから、A・B本は「宋本」「明代倣宋本」「明刊本」などと呼ばれ、多紀氏聿修堂、つまり江戸医学館に架蔵されていた書と同版であることが確定された。Bについては、後述する当版の版本系統で考察する。Cについては、鑑識眼に優れた『訪古志』の編纂者らが判断するのであるから、明代中期の刊本と見るのがもっとも妥当[16]であろう。
さらに考究すれば、日中を代表する中国書誌学者の長沢規矩也および昌彼得の言[17]からみて、当版の版式は明の正徳・嘉靖間(一五〇六〜六六)頃のものと考えられる。また字様も嘉靖年間頃のそれに近い。したがって先に引用したA本を「清初刊本」、B本を「日本影宋写本」とする見解は、いずれも修正の必要があろう。しかし刊行者についてはいまだ不詳なので、筆者は当版を明・無名氏刊本と呼ぶことにしたい。
(二)伝承経緯と現状
その一 A本について
A本には元簡の跋文、あるいは多紀氏聿修堂や江戸医学館などの蔵書印記がない。したがって『訪古志』著録本と同版とはいえ、別本たることは自明である。しかしA本が中国科学院図書館へ収蔵されるまでの経緯について、筆者らはほとんど知るところがない。
一方、その現状は調査結果に記したごとく全二冊に綴じ、第一冊は本来その頭にあるべき宋臣序と、末尾にあるべき上巻末の第四三葉ウラと四四葉ウラを落丁する。また本来は宋臣序の次にあり現状は第一冊の頭にある目録も、全体にわたり破損が著しい。第二冊も本来その頭にあるべき中巻第一葉オモテと、末尾にあるべき下巻末の第二九葉ウラ以下を落丁している。このように各冊の頭と末尾が破損などで脱落するのは、長年の伝承を経た冊子本としてとくに珍しくない。ただしそれら以外に落丁はないので、A本は以前より現状と同様に綴じられていたのであろう。そして両冊の前後が表紙ともども脱落した後、総裏打ちが施され、その上に新たに表紙が掛けられたものと理解される。
その二 B本について
B本の料紙は日本のみに産し、トレースに適した薄様の雁皮紙である。つまり日本にて影写されたと思われる。また蔵書印記から楊守敬(一八三九〜一九一五)の旧蔵書と知れるが、他の印記や書き込みなどはない。ならば守敬が来日していた、明治十三〜十七(一八八○〜八四)年間の旧江戸医学館関係者との交際からみて、あるいは彼らの協力を得てこのB本を入手。ないしは『訪古志』著録本から直接に影写したか、その精写本から再影写したのがB本と考えられる。そして守敬が没後の民国十七(一九二八)年、他の蔵書と一括して北京の故宮博物院へ収蔵され、同三十八(一九四九)年に台湾へ移転。同五十七(一九六八)年より現在の台北・故宮博物院が架蔵するに至ったと理解されよう。
ちなみに楊守敬が光緒二十七(一九〇一)年に出版した『留真譜初編』には、『金匱要略』の書影が三種収録されている。ただいずれも説明を欠くため版種は不詳であったが、筆者らはその一種がケ珍本であることを第一報にて指摘した。さらにいま一つの書影(図1下)[19]を見ると、図1右上・左上と同版である[20]。したがって『留真譜』所録書影の一つはB本系統の明・無名氏本に基づいており、そこに収録されていた理由もこれで明らかとなった。またこの事実は、A・B本が『訪古志』著録本と同版であることの具体的な確証でもある。
その三 B本と『訪古志』著録本の関係
さてB本には第一冊の序・目録・上巻、および第二冊の中巻ともに落丁がない。しかし下巻を欠く。そして楊守敬の旧蔵書が、北京の故宮博物院へ収蔵後の民国二十一(一九三二)年に刊行された守敬の『観海堂書目』[21]も、B本を「存上中二巻二冊」と記録している。
つまり一九三二年の時点で、すでにB本には下巻が欠けていた。一方、その底本たる『訪古志』著録本について、多紀元簡は『金匱要略輯義』総概末の識語に「宋本。不載雑療以下」、と注記している。また本文でも下巻の雑療方第二三[22]以下の三篇には、「宋本」による校異が見えない。すると『訪古志』著録本は、下巻末尾の三篇が欠落していた可能性も考えられる。
ところが多紀元堅(一七九五〜一八五七)の弟子である豊田省吾は、『金匱要略輯義』などに従い校訂した『(新校)新編金匱要略方論』(一八五三年初刊)にて、その三篇についても「(倣)宋本」[23]による校異をしている。また校異の字句はいずれもA本と一致し、かつ他に同一字句の版本はない。さらに小島尚真も、前述の六色の手校本にて同様の校異をしている。ならば当該部分の三篇は、もともと『訪古志』著録本に存在していたに相違なかろう。これは同本を『訪古志』が「新編金匱要略方論、三巻」、『躋寿館医籍備攷』が「三巻一冊」、と著録することからも傍証されうる。とするとB本が下巻を欠くのは、日本にて影写された後、故宮に入る一九三二年までの間に脱落した。あるいは何らかの理由で、そもそも下巻のみは写されていなかった、と思われる。
ともあれA・B本それぞれに欠落はあるが、幸い両本を合わせると明・無名氏刊本はほぼ完全となる。しかし、それでも巻下末尾の約二葉分が欠けてしまうのはいささか残念である。
(三)無名氏本の特徴
この無名氏本には前報のケ珍本と同様、現在通行している諸版本に見えない特徴が多い。そこで各特徴を以下に列挙し、各々に検討を加えることにより、当版の版本系統と価値を考察する前段としたい。
その一 北宋版の旧態
北宋政府による『金匱要略』の祖刊本には、通行本にない以下の特徴があることを筆者らは第一報にて指摘しておいた。すなわち、a:書名に「新編」の二字を冠すること。b:宋臣序に続け、低書で撰者無記の小文を附刻すること。c:宋臣序の書式は、文中でもっとも敬畏すべき「主上(天子)」を改行して行頭に置く平擡で記し、これに次ぐ「国家」「太子(皇子)」についてはその上の一字分に文字を記さない空格とすること。d:本文各巻頭で書名の次に記される撰編者名を、林億・王叔和・張仲景の順に配列し、通行諸版の順次と正反対であること。e:本文全体はその書式により、宋臣らが底本に用いた原写本の文章と、他の方書から採録した文章を区別すること。以上の五点である。
当版について多紀元簡の跋文はa・c・dの三点を指摘するが、さらにb・eの二点も備わっている。森立之(一八〇七〜八五)がその著『金匱要略攷注』にて、原文は和刻の兪橋本に拠るが体式は当版が正しい[25]、とするのはおそらくこの理由によろう。なお上述の全特徴を持つのは、他にケ珍本が唯一である。ただし前報にて考察したように、ケ珍本の書名に「要略」の二字を欠く点は、決して北宋版の旧態ではない。つまりこの点に限れば、当版はケ珍本よりも北宋版の原形を保持していることになる。
その二 兪橋本との共通特徴
明・嘉靖年間(一五二二〜六六)の兪橋[26]が序刊した、いわゆる兪橋本『金匱要略』とこの無名氏本は、年代が接近するのみならず、他の版本にない以下の際立った特徴を共有している。第一に主治条文の末尾にて個々の処方名を「後方」と略称し、「用後方主之」「用後方」[27]などに作る部位が一致すること。第二に本来あるべき文字が版木中で彫られず、黒く印刷される墨丁の部位などが一致すること[28]。第三に前後からみて明らかにケ珍本に妥当性が認められる文字を、意味が不通となる類似した字形の文字に作る部位が両者で一致すること。たとえば「乙」を「九」、「眠」を「服」、「有」を「者」、「及」を「文」、「加」を「四」、「甘」を「芍」、「遅」を「運」、「肺」を「脉」、「舌」を「右」[29]等々である。
第四に元簡も指摘するが、無名氏本と兪橋本とはそれぞれ、かなりの文章を一括して欠刻する点で一致する。すなわち無名氏本は巻中末尾の第三七葉オモテにて、第十八篇の排膿散方のいわゆる「方後の指示」(以下、「方後」と略)までを、下記の書式にて刻す(=は匡郭を示す)[30]。しかし、その末行の第一〇行と同葉のウラは匡郭と罫線のみで、文字が刻入されない白紙となっている。したがって無名氏本はそれ以降、巻中末篇の第十九篇末尾までの全文を欠落しているのである。
また兪橋本も排膿散の方後まであり、それ以降を欠落するのは同様である。ただし第十九篇の途中である「蛔厥者…」以下(a文)から末尾までは残存し、これを排膿散方後の次行より左記の書式にて連続して刻入している[31]。
第五に上記のように刻された無名氏本と兪橋本の排膿散方後は、それぞれ字詰の相違で改行部分こそ異なるが、その計三三字は完全に一致している。ところがケ珍本など他の版本はこれが計三二字で、前半「右三味杵為散取鶏子黄一枚以薬散与鶏黄相等揉」までの二一字(b文)のみ一致し、後半はまったく違う文章で一致しない。すなわちケ珍本などの後半は「和令相得飲和服之日一服」の一一字(c文)であるが、無名氏本・兪橋本は「和煎如薄粥温服一升差即止」の一二字(d文)に作るのである。そこでこの一致する部位と相違する部位をケ珍本の位置でみると、上記の書式にて刻されている[32]。
この三版本の比較から、次の事実が明らかとなろう。つまり本来の排膿散方後は、ケ珍本のようにb文からc文に連続する計三二字が正しいこと。ところが無名氏本と兪橋本はいずれも、ちょうどケ珍本の第二五葉全文に相当する文章を欠落していること。そのため違う処方(甘草粉蜜湯)の方後の後半であるd文がb文に連結し、計三三字の別な文章となっていること。また方後ばかりでなく、ケ珍本のb文までとd文以下を連続して刻すと、まさしく兪橋本の体裁になること。一方、無名氏本は兪橋本の体裁でd文までを残し、a文以下をもう一度欠刻していることである。
以上に掲げた無名氏本・兪橋本に共通する五特徴は、両者より刊行の早いケ珍本には見えない。したがって、もとより北宋の祖刊本にそれら混乱があろうはずもなく、その後の伝承経緯に起因するのは明らかである。と同時に、当混乱の発生したある段階以降の系統から、無名氏本と兪橋本が派生していることを十分に確証させよう。
(四)無名氏本に至る版本系統と価値
その一 無名氏本・兪橋本の関係と両者の底本
ここで問題とすべきは、無名氏本が兪橋本といかなる関係にあり、さらに何の系統に由来するかである。これには、いずれか一方が他方を底本に翻刻している可能性を、まず疑わねばならない。第一に考えられるのは、先に指摘したように巻中末尾の欠落状況が兪橋本は一段階であり、無名氏本は二段階であること。したがって無名氏は兪橋本を底本に翻刻し、その際にa文以下をふたたび欠落した可能性である。しかし前述した北宋版の旧態ほかの保存度についてみると、兪橋本は無名氏本よりはるかに劣っていた[33]。当然そのような状態を底本にしても、無名氏本に見える宋版などの旧が生まれようはずはない。つまりこの可能性は否定されうる[34]。
ならば逆の可能性はどうであろうか。もしそうであるなら、兪橋が無名氏本を翻刻する際、前述のa文以下を別のものから補足したことになろう。しかしながら、それ以前の一葉分に相当する大幅な欠落は補足されなかった。また排膿散方後の錯簡も、やはり訂正されなかった。さらに無名氏本には、兪橋本と一致しない明らかな誤字[35]や欠字[36]が少なからずある。ところが兪橋はそれらのみを訂正し、先に述べた両者に共通の省略や、明らかな誤字・欠字はそのままにした、ということになってしまう。このように不自然な状態が同時に起きることはまずありえない。つまり兪橋が無名氏本を翻刻した可能性も、同じく否定されうる。
結局、無名氏本も兪橋本も相互に直接の関係はなく、それぞれ独自に出版されたと考えられる。にもかかわらず両者は、前述のごとく宋版以降のある段階の混乱に起因する特徴を共有しているのである。とすると、両者の底本にもそれぞれ前述の混乱が共通してあった。それゆえ両者の特徴が一致すると解釈する以外、そのようなことは起こりえない。つまり両者の底本は同系統であり、それらは刊本ないし写本の共通祖版から派生しているのである。ただし、このような『金匱要略』の存在はかつて知られていない。そこでこの共通祖版を、とりあえずX本と呼ぶことにして論を進めてみよう。
その二 X本の年代とケ珍本との関係
X本の下限年代は当然、無名氏本や兪橋本以前となる。しかし上限年代については、X本系とケ珍本の双方に底本関係があるか否かの検討なしでは究明しえない。まずX本系からケ珍本が派生した可能性である。ところがX本系の無名氏本・兪橋本に共通の五特徴は、前述のようにケ珍本に一切ないので、この仮定は否定される。すると、ケ珍本系からX本が派生した可能性を検討すべきである。
前報で指摘したように、北京大学図書館に唯一現存する元版ケ珍本は、明・嘉靖頃の修印本であった。それゆえ補刻部以外の版木はかなり摩滅していたらしく、刷りの不鮮明な文字が多い。これら不鮮明な文字を無名氏本・兪橋本で見ると、一部には一致して未刻の空白(空格)に作る例[37]。その字を除き、前後を連続して刻す例[38]、字形の類似した明らかな誤字に作る例[39]、などが発見される。またケ珍本・無名氏本・兪橋本には、一致した部位で薬量の記載や方後の文章を明らかに欠落する例[40]、目録の一ヵ所でのみ丸を圓に作り「八味圓」と表記する例[41]、「生薑」・「乾薑」を全書にわたり「生姜」・「乾姜」に作る例[42]、などが共通して発見される。他方、先の考察で知られたように、すでにX本の段階で巻中の文章が一括して脱落していた。かつその部分はケ珍本・巻中第二五葉の、ちょうど全文に一致しているのである。
以上の一致は、X本の主たる底本がケ珍本であること。X本の底本に用いられたケ珍本は北京大学図書館所蔵本と同様、印刷の一部が不鮮明であったこと。また巻中の第二五葉が落丁していたことを、十分に確証させよう。と同時にX本の年代は、広くみて上限がケ珍本成立の一三四〇年以後、下限が無名氏本の嘉靖間(一五〇六〜六六年)頃以前、と確定することが可能となる[43]。
一方、ケ珍本の書名は「要略」の二字を欠き、「新編金匱方論」に作る。ところが無名氏本・兪橋本は、ともに「新編金匱要略方論」に作るので、X本の書名も同じだったと思われる。つまりX本は、書名においてケ珍本を踏襲しなかったらしい。そして前報で指摘したように、北宋〜金初間の通行版も書名を「新編金匱要略方論」に作っていたはずである[2]。かつケ珍本に見える明らかな誤字や嫌疑の持たれる字句を、無名氏本・兪橋本は稀に一致して妥当性の認められる字句に作る例[44]がある。これらからするとX本の一部に、ケ珍本と別の版本が参照されていた可能性を必ずしも否定できない。しかし、たとえそうであっても、X本は主たる底本としたケ珍本の落丁・欠字や不鮮明な文字などを、別の版本で十分に校正していないのも事実である。あるいはそのような版本が使用されていなくとも、医学と文字について通常の知識がX本の編刊者にあれば、ケ珍本の字句を偶然上述のように改めるのも、あながち不可能ではなかろう。
ともあれ無名氏本と兪橋本はX本に由来し、またX本は主にケ珍本に由来していた。ケ珍本を実見していない多紀元簡や小島尚真は、それゆえ意図的改訂が少ない無名氏本を通し、ケ珍本に保存される北宋版の旧態を垣間見ていたのである。したがって無名氏本を倣宋版とする『訪古志』の鑑定[45]も、いま修正されねばならない。
総括
(一)筆者らの調査により、多紀氏聿修堂(江戸医学館)の旧蔵書に基づく影写本が台北に、また別本ではあるが同版の刊本が北京に発見された。
(二)当版は明の中期およそ嘉靖頃に無名氏が刊行したもので、現存本中ではケ珍本に次ぐ古版と認められた。
(三)当版の特徴を既知の兪橋本と比較考察した結果、両者はかつて知られていたい刊本または写本のX本を共通祖版として派生していること。さらに前報のケ珍本とも比較考察した結果、X本はまた落丁などのあるケ珍本を主な祖版に派生していることが明らかとなった。これらの版本系統と変容の経緯を、図2に整理して示す。
(四)当版(A本)を『訪古志』は「明代倣宋版」と審定したが、上述の考察より「明・無名氏刊本」とするのが至当である。
(五)当版は少例ながら一部にケ珍本以外の字句も窺えるが、誤字・欠字・省略の甚だしさは諸版の筆頭であり、典拠としての使用には不適当である。また書誌学的価値もケ珍本に及ぶものではない。
謝辞:本調査にあたり多大なる便宜をはかられた北京・中国科学院図書館、ならびに台北・故宮博物院図書館の関係諸氏の御厚意に、衷心の謝意を申し上げる。
文献および注
[1]真柳誠ら「『金匱要略』の古版二種についての新知見」『日本医史学雑誌』三○巻二号、一○四〜一○六頁、一九八四。
[2]真柳誠ら「『金匱要略』の文献学的研究(第一報)−元・ケ珍刊『新編金匱方論』」『日本医史学雑誌』三四巻三号、四一四〜四三○頁、一九八八。
[3]森立之ら『経籍訪古志』(影印本)、大塚敬節ら編『近世漢方医学書集成』(五三)三九四頁、名著出版、東京、一九八一。
[4]高島久也らは明治十年刊の『躋寿館医籍備攷』(初編巻一下・金匱要略類第一葉、善信堂、東京、一八七七)に当版を著録している。しかし幕末までの躋寿館所蔵医書を解説する本書の性格からして、この記録が当版の明治十年までの存在を示すとは必ずしもいえない。
[5]岡西為人『中国医書本草考』三〇〜三二頁、南大阪印刷センター、大阪、一九七四。
[6]石原明「金匱要略解題」、『(影印明刊)金匱要略』一〜五頁、燎原書店、東京、一九七三。
[7]宮下三郎「張仲景方の版本」『中医臨床』三巻臨時増刊号、一三九〜一四九頁、一九八二。
[8]北京図書館ほか『中医図書連合目録』二五九頁、北京図書館、北京、一九六一。
[9]国立故宮博物院『国立故宮博物院善本旧籍総目(下)』六九五頁、国立故宮博物院、台北、一九八三。なお同本を、当目録以前の『観海堂書目』(九葉ウラ、一九三二)では「日本影鈔本」、『国立故宮博物院善本書目』(三六八頁、一九六八)では「日本鈔本」と著録する。
[10]清・孫馮翼の『問経堂書目』(岡西為人『宋以前医籍考』三八六頁、古亭書屋、台北、一九六九)は、宋の朱肱の校刊かと疑われる書きぶりで『金匱要略方』三巻の所蔵を記すが、その真偽・存否は不詳である。
[11]望月三英『医官玄稿』巻一第六○葉ウラ、蘇嶺山蔵版・須原屋茂兵衛ら刊、江戸、一七五二(宝暦二年)自序。
[12]「余毎慨今行金匱、刻板佳者鮮矣。近幸得宋板、以為荊璧。迺刻之塾、欲広于世」。
[13]多紀元簡『金匱玉函要略方論輯義』(影印本)、大塚敬節ら編『近世漢方医学書集成』(四三)一一頁、名著出版、東京、一九八○。
[14]現在この書は台北の故宮博物院に架蔵(旧観海五〇三)されている。
[15]小島尚真が所見の善本を記録した『医籍著録』(自筆写本、台北・故宮博物院蔵、故観一三九九七)の九葉オモテにも、『金匱』の筆頭として「明代倣宋本」を掲げ、それに「庫(医学館書庫所蔵の意)、桂山(多紀元簡)跋アリ、高六寸一分巾四寸四分、十八行廿字、序八行十八字」と注記している。
[16]ちなみに上掲注[4]所引文献は「此書則宋槧本也」と記すが、これは著者の高島らが多紀元簡の跋文をうのみにしたためであろう。
[17]長沢規矩也(「和漢書の印刷とその歴史」、長沢先生喜寿記念会編『長沢規矩也著作集』(二)四八頁、汲古書院、東京、一九八二)は、「(白口は)北宋刊本・南宋浙刊本及び明の嘉靖以後の刊本に多し。(中略)元刊本は黒口のもの多く、以て明初に及ぶ。正徳までは黒口のもの多き故、(以下略)」という。また昌彼得(「談善本書」『図書印刷発展史論文集続編』一九一〜二〇六頁、文史哲出版杜、台北、一九七七)は、「明正徳・嘉靖間覆宋版漸多、故版心変為通行白口」「嘉靖間、又有開始将書名改刻在上象鼻内」「版心上方刻有書名的、絶不会是明正徳以前的版本」という。つまり当版の版心は白口で上象鼻内に書名が刻入されない点より、およそ明の正徳末から嘉靖間の刊本と推定し得る。
[18]小曽戸洋ら「漢方文献の善本を所蔵する図書館とその利用法・二」『薬学図書館』二七巻一号、二五〜三二頁、一九八二。
[19]楊守敬『留真譜初編』(影印本)六五一〜六五二頁、広文書局、台北、一九六七。
[20]ただし『留真譜』の図は匡郭を左右双辺に作り、版心内に巻次・葉次を刻さず、また下魚尾の向きが反対の計三点において原書と一致しない。これは『留真譜』の図が写真影印ではなく、臨写による摸刻のためで、同様の例は他にも少なくない(阿部隆一『増訂中国訪書志』一一頁、汲古書院、東京、一九八三)。
[21]前掲注[9]所引文献。
[22]「雑療方」は『金匱要略』の第二三篇であるが、『金匱玉函要略方論輯義』はこれを「第二二」と誤刻している。
[23]豊田省吾は本書の凡例に「倣宋本」と記すが、本文の校異では一律に「宋本」と記す。
[24]豊田省吾校訂『(新校)新編金匱要略』(影印本)、久保道徳ら『漢方医薬学』一八○・一八五頁、広川書店、東京、一九八四。
[25]森立之『金匱要略攷注』(影印本)、北里研究所附属東洋医学総合研究所医史文献研究室編『漢方原典攷注集』(8)五〜七頁、オリエント出版杜、大阪、一九八六。
[26]天津中医学院『中国分省医籍考』(上冊)一〇一六頁、天津科学技術出版杜、天津、一九八四。
[27]このような省略は無名氏本と兪橋本の巻上・中に集中して見えるが、他の版本には一切ない。
[28]たとえば無名氏本と兪橋本のみに共通する未刻で黒く印刷する墨丁部分を、無名氏本の所在(上一a一とあれば上巻第一葉オモテ第一行目にあることで、ウラはbにて示す。以下の注も同様)で挙げると、下八a二・下二七b六・下二八a五などに見える。
[29]以上を無名氏本の所在で挙げると、上一三b八・上二九a九.中三b三・中九b四・中一〇b三・中一一b一〇・中一五b八・中二二a一などに見える。
[30]いま中国科学院図書館所蔵のA本に基づく。
[31]いま明刊本を影印した『四部叢刊〔初編〕』子部第二版所収本(商務印書館、上海、一九二九)に基づく。
[32]いま北京大学図書館所蔵の元版による影印本(燎原書店、一九八八)に基づく。
[33]たとえば上述宋版の旧態の内、b・c・eの書式が失われている。
[34]正確に断定するのは危険であるが、前掲注[17]の昌彼得の記載からすると、無名氏本の刊行は兪橋本より少し早いと思われる。
[35]上一八a六・上二五b七と一〇・上二八a一〇・上三〇a五・上三二b三・上四二a四・中一b一と二・中二a一〇・中五a五・中一〇b一・中一二a三・中一三a六と九・中一三b九・中一四a四・中一五a七・中二七a二・下四b三と五・下一七a一〇・下二八a五などに、兪橋本と一致しない明らかな誤字が見える。
[36]上一九b二・上三一b五・中一a一〇・中七a七・下一b一などに、兪橋本と一致しない空格が見える。
[37]ケ珍本の上一一a一・中六a二・中一三b一二にある印刷不鮮明な文字を、無名氏本の上一六a八・中八b五・中二〇b五および兪橋本の上一五b七・中八a一〇・中二〇a一は、いずれも文字を刻さない空格に作る。
[38]ケ珍本(下一〇a一)の「再合『滓』為一服」では「滓」字が印刷のかすれで判読不能のため、無名氏本(下一四b三)と兪橋本(下一四b二)は、いずれも「再合為一服」と「滓」字を除いて刻している。
[39]ケ珍本(中八a三)の「脈浮而『遅』浮即為虚『遅』即為労」は、二つの「遅」の字が印刷のかすれで判読困難のため、無名氏本(中一一b一〇)は各々を「連」と「運」、兪橋本(中一一b三)はいずれも「運」と誤刻している。
[40]ケ珍本の上九b一〇・中三a一二・中九a五・下一b一三・下三a四、無名氏本の上一四b二・中四b六・中一三a二・下二a八・下三b一〇、兪橋本の上一四a一・中四b二・中一三a五・下二a六・下四a三、など三者の一致した部位において、本来あるべき文字や字句が刻されずに空格となっている。
[41]「丸」を「圓」に改めるのは、「丸」の発音が北宋最期の欽宗帝の諱である「桓」の発音と近いことによる嫌名である。したがって目録の「八味圓」は北宋の大字本や少字本の旧態ではなく、北宋末期以後の改変に係ることを示している。また南宋代の改変ならば、この一例のみというのはかなり不自然なので、これは元代になってからの改変と見られる。前掲文献[3]四○三頁。
[42]もともと姜は姓に使用される字で、生薑・乾薑の意味や用例は本来ない。たとえば現存する宋版や元版の方書を見ると、『金匱要略』と同様に北宋校正医書局が初めて刊行し、それを南宋に復刻した『外台秘要方』(影印本、小曽戸洋監修『東洋医学善本叢書』(四)(五)所収、東洋医学研究会、大阪、一九八一)や『備急千金要方』(国立歴史民族博物館所蔵)には、「生姜」「乾姜」の用例が見えない。また「姜」が「薑」の俗字として使用されているのは管見の及ぶ現存の宋版方書中、南宋末に刊行の『普済本事方』『同後集』(一二五三年序刊、宮内庁書陵部所蔵)と『類編朱氏集験方』(一二六五年序刊、台北・国立中央図書館所蔵)に限られている。しかもこれら三書にしても「姜」「薑」を混用している。一方「生姜」「乾姜」のみで表記するのは元版の『三因極一病証方論』『類編経験医方大成』(以上は宮内庁書陵部所蔵)、『新刊傷寒直格』(静嘉堂文庫所蔵)、『易簡方論』(国立公文書館内閣文庫所蔵)などに見える。したがって「姜」を「薑」の代わりに多用しだすのは、およそ元代以降の傾向と思われる。
[43]無名氏本・兪橋本における前掲注[37]の空格、[38]の脱字、[39]の誤刻がケ珍本の印刷不鮮明によるのは明白なので、X本の上限年代がケ珍本の初刊された一三四○年の近くに遡る可能性は少ない。したがってX本の依拠したケ珍本も北京大学図書館所蔵本と同年代頃の後印本と考えるならば、X本の上限を元末・明初頃まで下げることができる。さらに北京大学図書館所蔵本の補刻部分は正統・弘治間(一四三六〜一五〇五)に刊行の医書(たとえば正統元年刊『(類編)傷寒活人指掌』、成化四年刊『全幼心鑑』、成化一〇年刊『新刊素問入式運気論奥』、弘治一八年刊『神珍大全』。以上は台北・国立中央図書館所蔵本)の字様に似るので、あるいはX本の年代もおよそ一五世紀後半頃に限定されるかもしれない。
[44]ケ珍本に見える明らかな誤字例の一つに、中一b一の「臣億等校諸本旋復花湯方皆『問』」の「問」があるが、無名氏本・兪橋本はいずれもこれを「皆同」に作る。またケ珍本・上二b二の「少陰之時陽始生」を、無名氏本・兪橋本はいずれも「少陽之時陽始生」に作る。これについて元版『注解傷寒論』(躋寿館影刊本、一八三五)巻二第二葉ウラ第一一〜一二行の成無己注が「金匱要略曰」として引く同部分の文章において、無名氏本・兪橋本と同じに作るので、成無己注の使用した北宋・金頃の『(新編)金匱要略(方論)』は、ケ珍本とこの字句が相違していたと思われる。さらにケ珍本の「升半」(中二〇a二)や「{(悟−吾)+占}{(悟−吾)+占}」(下六a九)を、無名氏本・兪橋本はともに妥当性が認められる「二升半」や「帖帖」に作る例などもある。
[45]『宋以前医籍考』[前掲注[10]所引文献]も『訪古志』の記載を踏襲し、当版を「明無名氏倣宋版」と記録する。