Makoto MAYANAGI, Hiroshi
KOSOTO
(Department of History
of Medicine, Oriental Medicine Research Center of the Kitasato Institute,
Tokyo)
前回は金代初期の医家より、成無己とその著作について記した。今回はこれに引き続き、金代中期頃の劉完素と張元素の著作について記そう。
『素問玄機原病式』(1154頃成)(図1)
図1 明嘉靖頃刊『素問玄機原病式』
(台湾国立中央図書館蔵)
金元4大家の一人、劉完素の撰になる医論書[1]、全1巻[2]。劉完素の伝は『金史』本伝に見えるが、記載は簡略である。これと諸書の序跋などから次のようなことがわかる。
劉完素は河間(河北省河間県)の出身。字を守真、号を通玄処士、通称を河間といい、完素はその名である。出生はおよそ金の天会4年(1126)から天会10年(1132)の間[3]と推定される[4]。25歳で『内経』の研究を志し、その後に霊的体験より医学に開悟、『素問玄機原病式』(以下『原病式』と略)ほかの書を著すことができた。晩年には医名高く、承安年間(1196-1200)に金の章宗帝(在位1190-1205)の徴召を3回受けたが応ぜず、それで高尚先生の号が授けられた。したがって没年は1200年以降、享年は少なくとも69以上と推定される。
河北省河間県劉守(真)村には彼の墓と墓碑、河間学東には高尚劉守真君廟碑、同省保定市には劉守真廟があり、北京や鄭州の薬王廟にも完素の像が祀られている。
完素の家系はその後、劉栄甫―劉吉甫と続いているが[5]、事跡・著作等の詳細は不詳。直接師事した門人には、董系・程道済・馬宗素・穆大黄・荊山浮屠・{羽+隹}公らがいる。董系は完素の最も早い門人。程道済は官僚であるが、まず董系に就き、後に完素の友人となった。馬宗素には『傷寒医鑑』 1巻の著(12世紀末-13世紀初頃)がある。荊山浮屠は弟子に羅知悌がおり、その弟子が朱丹渓である。
また直接師事はしていないが、張子和は完素の学統を継ぐ。『傷寒心要論』1巻を著した{金+留}洪(12世紀末-13世紀初頃)、これに馬宗素『傷寒医鑑』を加え校刊した葛雍も完素の学統に連なるが、 師事か私淑かは不明。
さて『原病式』は程道済の刊行の序(1182)より、1182年に初刊されたことが知られる。また道済は1154年に董系の治療を受けた後、董系に学んで『原病式』を入手。その後に劉完素と知りあったという。つまり1154年の少し後に『原病式』はすでに成っていたらしい。一方、本書の劉完素自序には年が記されないが、後述する彼の2書の名も挙げられている。したがって当自序は本書の成立時ではなく、初刊直前に書かれたもので、この間に内容もいくらかの修訂が加えられたであろう。とすれば完素が20代後半から30代前半の1154年頃に本書の草稿はできており、最終的な成立は初刊の1182年、彼が50代前半の時となる。
本書の内容について、劉完素は自序で、『素問』の五運六気による診察の枢要を277字のキーワードに整理し、それに2万余字の注釈を施した、と述べている。現行本では序と本文の間にその枢要227字が「素問玄機原病式例」と一括され、本書の目次の役割もはたしている。これは五運主病・六気為病の2類に分けられ、それぞれ五運の肝木・心火・脾土・肺金・腎水の5条と、六気の風・熱・湿・火・燥・寒の6条からなる。ちなみにこの11条227字に完素が整理したキーワードは、『素問』至真要大論篇の「病機十九条」と呼ばれる部分を骨子とするが、必ずしも原文の忠実な引用ではない。
本書の本文はこの11条の順に、五臓や六気の病症がすべて火熱証に帰結することを主眼に論説されている。ただし腎水や風・湿・寒と火熱証の関係については、説明が1行のみであったり、陰陽五行説を駆使した強引な解釈が少なくない。
『原病式』の初版本は伝わらない。現伝本に中国明刊本が6種、清以降の刊本が多数、また朝鮮刊本に1種がある。日本刊本には古活字版が3種、整版本に8種が確認される。これら日本刊本はすべて17世紀初から18世紀初にかけて出版されたもので、江戸前期にいかに本書がもてはやされたかがわかる。とりわけ後世方別派と称される饗庭東庵・浅井周璞・岡本一抱といった人々の関与が注目される。現伝本書誌についての詳細は別稿にゆずる[1]。
『内経運気要旨論』(1172以前成)
劉完素の撰になる運気の書[1]。原3巻、現8巻。『拝経楼蔵書題跋記』には、1172年の劉完素自序がある元版『(校正)素問精要宣明論方』が記録されている。その序に完素は、『内経』の運気要妙の説を7万余言9篇3巻に編み、これを『内経運気要旨論』と名付けた、という。ならば本書3巻の成立は1172年以前となる。他方、前述の『原病式』自序(1182)には10万余言9篇3部の『内経運気要旨論』を刊行したと記すので、本書の初刊は1182年以前と理解される。
しかしこの9篇3巻の初刊本は早くに失われたらしい。現存するのは元版の『(新刊)図解素問要旨論』と題する8巻本が最古で、『{百+百}宋楼蔵書志』に記録される陸心源旧蔵書が、東京の静嘉堂文庫に唯一架蔵されている。静嘉堂文庫本には劉完素の自序と馬宗素の序がある。それによると宗素が原本の9篇3巻に図解等を加え、9巻本に重編したらしい。記録には静嘉堂文庫本と同名同巻数の金刊本も見えるが[6]、馬宗素重編の9巻本が金版や元版の8巻となったのは、巻4のみが計2篇を収めるためであろう。
本書はその後、明・清や江戸時代にも復刻された形跡がない。よっていま静嘉堂文庫所蔵の元版より、その篇目を以下に掲げておく。
巻1:彰釈元機第一
巻2:五行司化第二
巻3:六化変用第三
巻4:抑沸鬱発第四・玄相勝復第五
巻5:六歩気候第六
巻6:通明形気第七
巻7:法明標本第八
巻8:守正防危第九
『黄帝素問宣明論方』(1172成)(図2)
図2 明万暦29年刊『黄帝素問宣明論方』
(『医統正脈全書』所収、台湾国立中央図書館所蔵)
劉完素の撰になる医方書[1]。原3巻、現15巻。本書(以下『宣明論』と略)の通行本に劉完素の自序はないが、前述のように『拝経楼蔵書題跋記』には、本書の元版に付された1172年の自序が記録されている。つまり本書の成立はその年となる。また後述の『素問病機宜保命集』(以下『保命集』と略)の劉完素自序(1186)に、すでに『宣明』等の3書が刊行されていると記すので、『宣明論』の初刊は1186年以前であることが知られる。
ところで完素は本書の元版自序に、「一帙計十万余言。目曰素問薬証精要宣明論方」という。『原病式』自序では、「一部三巻十万余言。目曰医方精要宣明論」という。つまり当初のそれは十万余言の3巻本であり、書名もこのように称していたらしい。しかし元版は書名を「(校正)素問精要宣明論方」とする7巻本なので、金の初刊本から元版の間に書名・巻数が変化している。
次に古い現存版本は明の宣徳6年(1431)刊本で、書名を「黄帝素問宣明論方」とする15巻本である。以後の現存版本は、巻数・書名ともに明・宣徳刊本と同様である。したがって本書は初刊から明代の間に書名が変化し、巻数も3巻→7巻→15巻と少なくとも2段階を経て増えている。この過程で内容にも増補が加えられたことは、通行15巻本の目次薬方名下に「新増」と注記されたり、本文の薬方名上に「新添」と記すものがあることから窺える。
本書の内容について、『原病式』や本書の劉完素自序は、仲景の方論を宗とし、「内経」の説より初学者が病を論じて方を処す方法をまとめたという。現行の15巻本を見ると、巻1と2に『素問』所載の61病証に対する処方、巻3-15は風論から雑病まで全18門に対する処方が記されている。このように病門別に医論、次いで処方を載せる形式は方書として特に珍しくはない。ただし多くの医論部分に「内経」医書を引き、その旨をさらに発展させて処方を論ずる姿勢は、完素独自の世界といえよう。
本書の金代初版本は早くに失われた。現存最古の刊本は元刊本で、中国中医研究院図書館所蔵本(7巻本、書名:『(校正)素問精要宣明論方』)が唯一である。日本にもかつて木村蒹葭堂所蔵の元刊本が存在したが(『経籍訪古志』著録)、のちに江戸医学館に移り、1806年に焼失した[7]。明刊本には6種が現存するが、いずれも『黄帝素問宣明論方』と題する15巻本である。日本刊本は元文5年(1740)刊の田中素行訓点本が唯一で、本版は『和刻漢籍医書集成』に影印収録してある[1]。
『傷寒直格』(1182前成)(図3)
劉完素の撰になる『傷寒論』の研究・処方解説書。全3巻。原名を『習医要用直格』という。「傷寒直格」は後に本書と完素の弟子の著作2書を集めて刊行した叢書名で、以後原名に代わり通用したものである[1]。本書について『原病式』の程道済序(1182)は、「習医要用直格並薬方、已板行於世」と記すから、1182年以前には初版が刊行されている[8]。しかし本書に完素の自序はなく、他書の序等も本書に言及しないので、成立は1182年以前としかいえない。
本書には完素に師事した{羽+隹}公[9]の序(無記年)がある。それによると、師の完素は本書を10巻本として完成させたかったがはたせず、未刊としていた。しかし世に有益な書なので、太原の劉生という書店が刊行することにしたという。するとこの{羽+隹}公序は、1182年前の初刊時に付けられたものであろう。
本書の内容は、上巻の「十干」から「六気為病」の19篇が、臓腑経絡と五運六気を主とする総論、脈応三部九候」から「死生脈候」までの11篇が脈診の論。中巻は「傷寒総評」と題し、「傷寒六経伝受」から「懊{リッシンベン+農}」までの計12篇に分かれ、各々の傷寒諸証に応じた処方が挙げられる。下巻は「諸証薬石分剤」と題する仲景処方の解説、および「泛論」「戦汗」「受汗」「汗後」「傷寒伝染論」の傷寒についての医論からなる。
本書の初版である1182年前の金刊本は早くに失われたらしい。現伝する古版本には、元刊本が2種、明刊本が4種[10]ある。また和刻本に明の『医統正脈全書』本に基づく享保11年(1726)刊本がある。
『素問病機気宜保命集』(1186成)
劉完素の撰になる医論・医方書。全3巻。本書には1186年の劉完素自序があるので、成立はその年、完素がおよそ50代後半の頃である。しかし自序に「秘之篋笥、不敢軽以示人」と記してあるように家秘とされ、生前は刊行されなかったらしい。
本書にはまた、1251年に楊威が刊行に際して記した序がある。 これによると楊威は1234年に金に赴き、太医の王慶先宅にて本書を発見。早くより『原病式』『宣明論』『直格』の3書に親炙していたが、完素が没した今も本書は未刊なので、これを刊行すると述べている。したがって本書は成立の65年後、1251年に初刊されたことがわかる。
ちなみに、本書は完素の自著ではなく、その序も偽撰にかかり、本来は張元素の作であろう、とする説がある。これは李時珍が『本草綱目』の序例で初めて述べ、以来清末までこの偽書説は信じられていた。しかしこれに対し、多紀元胤はかつて『医籍考』に仔細な考証と反論を述べ、現在は中国でも元胤の非偽書説が支持されている。
本書の現行本は全32篇の医論、および医方よりなる。その篇目を以下に掲げておこう。
巻上:原道論、原脈論、摂生論、陰陽論、察色論、傷寒論、病機論、気宜論、本草論本書の1251年初刊本は早くに失われた。現存最古の刊本は元至正元年(1341)刊『済生抜粋方』所収本。当版は杜思敬が金元の諸医書を節略して編纂(1315序)した叢書『済生抜粋方』の巻17に、「活法機要」と題して収められる1巻本で、全20篇よりなる。その標題下に「東垣与潔古家珍及劉守真病機保命、大同而小異矣」と杜思敬が記入するように、文章は節略されているが『保命集』と一致する。なお同叢書の巻12・13には、類似する書名の『傷寒保命集類要』が収められるが、これは張璧(張元素の子)の撰による別書。
巻中:中風論(付癲癇)、q風、破傷風、解利傷寒論、熱論、内傷論、瘧論、吐論、霍乱論、瀉痢論、心痛論
巻下:咳嗽論、虚損論、消渇論、腫脹論(付小児)、眼目論、瘡瘍論(付疥口瘡)、瘰癧論、痔疾論、婦人論(付帯下)、大頭論、小児{ヤマイダレ+斑}疹論、薬略針法論
明刊本には5種の存在が知られる。日本・朝鮮ではどういうわけか翻刻された形跡がない。
以上、劉完素の自著と確証しうる5書をとり挙げたが、この他に完素の作とされるものに『三消論』『保童秘要』『傷寒心法類萃』がある。
『三消論』1巻は、張子和の友人である麻徴君が完素の後裔より入手した遺著。張子和関係の著作などと一括され、1244年に初刊された『張子和医書』所収本が静嘉堂文庫に所蔵されている。『保童秘要』は、朝鮮の『医方類聚』(1445成)に引用されるが、内容から見て完素に仮託した書の可能性が高い。『傷寒標本心法類萃』2巻は、明の『医統正脈全書』に完素の撰として収められ、今日に伝えられている。内容は『傷寒直格』に類似するので、門人の書が後に完素の作とされた、と一般に考えられている。
『医学啓源』(1200前成)
張元素の撰になる医論・医方・薬論の書。全3巻。本書には元素の高弟・李明之(東垣)の求めで、張建(吉甫)が序を書いている。これによると、元素は本書で門生を教育し、他に30巻の医方書もあったが、壬辰の変(1232)で本書だけが残ったという。李東垣(1180-1251)が元素に師事したのは、泰和2年(1202)以前の数年間である[11]。すると本書の成立は、およそ1200年より少し前と考えてよかろう。
張建[12]の序年は記されないが、壬辰の変以降であることは明らか。その後の戦乱から、東垣が郷里の真定に落ち着いたのは1244年であり、張建序は「真定李明之」と記すので、序年と初刊はそれ以降だろう。
張元素の伝は張建序が最も詳しく、『金史』張元素伝はその転録である。張建序の大略は以下のようである。
張元素の字は潔古、易水(河北省易水県)の出身である。8歳で朝廷に登用されたが、27歳で進士の試験に失敗。以後、医を志し、20余年間医書を渉猟研鑽するも、腕はさっぱり上らなかった。ある夜、誰かが大斧で胸を開け、『内経主治備要』数巻を入れる夢を見て以来、医術に洞徹するようになった。以上の伝から、張元素は27歳から20数年後の50歳頃に医術に洞徹し、その後すでに高名であった劉完素を治療した、と理解される。完素が高名になったのは著書の初刊年よりすると、およそ1180-90年頃の50代前半から60代前半である。とすれば張元素は劉完素より、少なくて数歳、多くて10数歳位は若いかと想像されるが、正確なところはわからない[13]。また張元素の没年は、李東垣が師事した年代より、1202年頃以降と思われる。その頃、河間(河北省)の劉守真(完素)は医名が高かったが、傷寒を8日も患い、門人もなすすべがなく潔古に診察を依頼した。潔古は脈診により完素の誤治を指摘、その所以と治療法を説明した。完素は大いに感服し、その薬を飲むと1服で病が癒えた。これより潔古の名が天下に満ちた。
潔古は、新病に古方は対応できないと言い、病に応じた処方で必ず効を収め、神医と称された。門生には『素問』の五運六気、『内経』の治要、『本草』の薬性をまとめた『医学啓源』で教育した。他に「医方書」30巻もあったが、壬辰の変で遺失し、『医学啓源』のみが現存している。
潔古の高弟である真定(河北省正定地区)の李明之が私に序を請うので、これを書す。蘭泉老人、張建・吉甫序。
元素に師事した門人は他に王好古がいる。元素の子は張璧(雲岐子)といい、『済生抜粋方』に節略本ではあるが、『潔古雲岐子針法(雲岐子論経絡迎随補瀉法)』1巻、『雲岐子注脈訣並方(雲岐子七表八裏九道脈訣論並治法)』1巻、『(雲岐子)保命集論類要』2巻の3書が収められている。
『医学啓源』3巻の篇目は以下のようである。
上巻:天地六位臓象図、手足陰陽、五臓六腑、三才治法、三感之病、四因之病、五鬱之病、六気主治要法、主治心法以上のうち、中巻の「内経主治備要」は元素が夢で胸に入れられたと伝に記す書と同名であり、かつ内容は劉完素『原病式』の転録である。また中巻「六気方治」には完素『宣明論』からの引用が多見される。さらに上巻の「天地六位臓象図」は、張子和『儒門事親』15巻本の巻10の図と同一で、後者は1244年前に開封の劉完素後裔宅で発見された『三消論』に添付されていたという[14]。このように、本書には劉完素の影響が色濃く認められる。
中巻:内経主治備要、六気方治
下巻:用薬備旨
一方、任応秋の校勘によると[15]、巻上「主治心法」は王好古『湯液本草』の「東垣先生用薬心法」に、巻中「六気方治」は羅天益『衛生宝鑑』の巻6・17に、巻下「用薬備旨」は『湯液本草』と徐用誠『本草発揮』に同類文が多見される。元素の医説を門下の東垣・好古、そして羅天益らがこのように継承し、いわゆる「易水学派」が形成されたものといえよう。
本書は元刊本が1種、明刊本が2種、いずれも中国に現存する。1978年に出版された任応秋の校注本[15]は評価に値する。
『潔古老人珍珠嚢』(1200前成)
張元素の撰になる薬物書。全1巻。本書の成立年代を知る手がかりはなく、いま『医学啓源』の年代に準じ、とりあえず1200年前の成としておく。本書について、李時珍『本草綱目』序例の諸家本草は、以下のように解説する。
潔古珍珠嚢。書およそ1巻。(中略) 薬性の気味、陰陽厚薄、升降浮沈、六気十二経の補瀉、および随診用薬の法を弁じ、立てて主治秘訣心法要旨となし、これを珍珠嚢という。本書の現存本は、元版『済生抜粋』所収の1巻本のみである。わずか10丁に全143薬の条文があるにすぎず、李時珍の言からして、かなりの節略本と思われる。書中にはまた「東垣曰」「海(蔵)云」の字句が見え、後代の手も加えられている。
本書と『医学啓源』巻下の「薬類法象」を対比すると、後者がより完全であり、本来の姿は『医学啓源』に近いと思われる。また『湯液本草』に「珍云」と題する文は、内容より見ても本書からの引用であろう。いずれにしても相互に節略が多々認められる。3者を校合すれば、ある程度は旧態の復元が可能と思われる。
なお本書と紛らわしいものに『東垣処方用薬指掌珍珠嚢』2巻がある。この書は1468年に農家から発見されて初刊の後、1493年にも重刻。朝鮮でも1547年に翻刻されている。また明初に刊行された『医要集覧』所収の『珍珠嚢』1巻も、同一内容の書である[16]。内容は『潔古珍珠嚢』を増補改訂したものであるが、それが李東垣であるかは定かでない。さらに東垣の編とされ、『珍珠嚢指掌補遺薬性賦』とか『雷公薬性賦』と題する書がある。これは上述書に再び増補改訂が加えられた内容で、もはや『潔古珍珠嚢』の旧はほとんど窺えない。
『(新編)潔古老人注王叔和脈訣』(1282序刊)(図4)
張元素・張肇の注釈になる脈診・医論・医方の書。全10巻。本書には至元19年(1282)の呉駿(声父)序、および蒼博R人の題記がある。それらによると、虞成夫は南方にまだ知られていない本書を入手したので、刊行することにしたという。この1282年の初刊本(『訪古志』著録本)は、官内庁書陵部にのみ2部現存している[17]。
本書の目録頭に、「潔古老人張元素注、雲岐子張璧述」と記されるごとく、張氏父子の共著である。内容は『王叔和脈訣』の逐条に対し、張父子が各々注釈、さらに医論・医方を加えたもの。『済生抜粋方』巻4の『雲岐子注脈訣並方』1巻は、本書の巻5-7からの転録である。しかし、済生抜粋本の所々にある「海蔵(王好古)云」の語は後代に付加されたもので、元来の本書には見えない。また明初の『医要集覧』に収められている「潔古老人論入式歌」1篇は、本書巻1巻頭(図4)からの転録である。
『王叔和脈訣』は、脈診の要点を五言や七言の歌訣にしたもので、北宋の煕寧元祐間に劉元賓が注を加えて以来、広く流行した。王叔和の名は仮託で、真の作者は五代頃の高陽生と考えられている[18]。
以上のほか、張元素の作と伝えられる書に次のようなものがある。
『潔古家珍』:『済生抜粋方』巻8に12篇からなる節略の1巻本がある[19]。文章・処方に劉完素の『保命集』と同文が多く、元素の自著か疑わしい。劉純の『玉機微義』(1396成)が引く本書の文はより詳しいので、かつて完本があったのであろう[20]。
『臓腑標本薬式』:『本草綱目』序例に「臓腑虚実標本用薬式」として引用される他、清・周学海の『周氏医学叢書』にも収められる。内容は『医学啓源』や『潔古珍珠嚢』より整理されており、後代の手が加えられているのは疑いない。
『薬注難経』:滑寿の『難経本義』(1361成)難経実彙考中に「潔古氏薬注(難経)」を挙げ、「不知何自遂乃板行」というので、かつて刊行されたらしいが、伝存刊本はない。また滑寿は、その論旨が乱れているので李東垣・王好古・羅天益らが見たら流布させるはずはないといい、本書は草稿か仮託の書であろうと推測している。
『張仲景五蔵論』:本書自体は張仲景に託し、唐代頃に作成されたものであるが[21]、これに張元素が大定22年(1182)の序を付した清代の抄本が最近報告されている[22]。敦煌出土本(S.5614、P.2755、P.2378)や『医方類聚』所引文より文体が整っており、序に記すように元素が整理したのかも知れない。元素の臓腑用薬の説には本書の影響が見られるので、序も偽撰ではなかろう。
[2]本書の現存版本には大別して、無注の1巻本、無注の2巻本、時平注の2巻本の3系統がある。本文内容はいずれも同一であるが、各々に程道済序と「原病式例」の有無が相違する版本がある。
[3] 『素問病機気宜保命集』の劉完素自序(1186)に、25歳で『内経』研究を始め、30余年の研鑽後に当書を完成した、と記されていることからの推定。
[4]出生を1110年とする説(李聡甫ら『金元四大家学術思想之研究』、北京・人民衛生出版社、1983)、約1120年とする説(裘沛然ら『中医歴代各家学説』、上海・上海科学技術出版社、1984)、1126年以前とする説(丁光迪『中医各家学説・金元医学』、南京・江蘇科学技術出版社、1987)もあるが、根拠はいずれも薄弱か明記していない。
[5]李湯卿の『心印紺珠経』(中医研究院図書館蔵1547年刊本、北京・中医古籍出版社影印、1985)に寄せた朱ッの序文に、「守真先生金朝人也。初伝得劉君栄甫、再伝得劉君吉甫」とある。
[6]岡西為人『宋以前医籍考』、台北・古亭書屋(1969)、p.69。なお『静嘉堂秘籍志』(同上文献、p.67)では、文達のいう金刊本とは静嘉堂の元刊元印本の誤認のことである、と記している。
[7]台北・故宮博物院所蔵、楊守敬旧蔵の小島尚真自筆『医籍著録』による。
[8]『四庫全書総目』(上掲文献[6]、p.485)は、本書を劉完素に仮託した書であろうと疑うが、程道済序より完素の自著と認められる。
[9]岡西為人(「劉完素」『漢方の臨床』14巻9号、1967)は、{羽+隹}公を大定年間初に尚書左丞を拝した{羽+隹}永固(仲堅)かと推測するが、『金史』の{羽+隹}永固伝にはこれに関する記載がない。
[10]上掲文献[6]、p.489。
[11]硯堅の「東垣老人伝」(1267述、『東垣試効方』前付、上海科学技術出版社影印、1984)の記載によると、東垣は泰和中に飢えた人々を救ったが、母の病死に無力だったので元素の門に数年遊学。その後は済源で監税官を勤めたが、戦乱を避けて{サンズイ+、+下}梁(開封)に行き、医を業とし公卿間に名が広まったという。『東垣試効方』巻9の治験例より、東垣が済源に居たのは泰和2年(1202)後、開封に逃れたのは金が遷都した1214年の頃と思われる。また1244年に帰郷とある。
[12]張建の伝は『金史』列伝第64に見える。蒲城の人で、字を吉甫、号を蘭泉と称し、詩文に優れていた。
[13]滑寿の『難経本義』(1361自序)は、その引用諸家姓名に「金明昌大定間(1161-95)、易水人」と記す。
[14]真柳誠「『儒門事親』解題、『和刻漢籍医書集成』第2輯、エンタプライズ(1988)。
[15]任応秋『点校医学啓源』、北京・人民衛生出版社(1978)。
[16]上掲文献[6](p.1325)の挙げる明刊本であるが、これを済生抜粋本と同列に置くのは誤りで、1327頁の「東垣珍珠嚢」の項に配すべきである。
[17]小島尚真の『医籍著録』によれば、元槧本が江戸医学館と百々家にあり、いま宮内庁にある2部がそれらに相当する。
[18]岡西為人「脈経考」、『日本医学』 1巻7号(1988)。
[19]上掲文献[6](p.966)は、「古本東垣十書」所収本も挙げる。しかし『医蔵書目』の記す「古本東垣十書」とは、収録書目から見て『済生抜枠方』の摘録かと思われる。
[20]小曽戸洋「『玉機微義』解題、『和刻漢籍医書集成」第5輯、エンタプライズ(1989)。
[21]宮下三郎「敦煌本『張仲景五蔵論』校訳注」、『東方学報』第35冊(1964)。
[22]{コロモヘン+者}謹翔「張仲景『五蔵論』真偽問題的探討」、『中華医史雑誌』13巻4期(1983)。