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真柳誠「経穴部位標準化の歴史的意義」、
第二次日本経穴委員会『詳解・経穴部位完全ガイド/古典からWHO標準へ』411-422頁、東京・医歯薬出版、2009年6月(一部改変)

経穴部位標準化の歴史的意義

真柳 誠(茨城大学大学院人文科学研究科)

 

はじめに

 現在の歴史的意義は未来にならないと分からない。とはいえ過去の歴史を辿れば、今回の経穴部位標準化がいかなる歴史的位置に到達したのかを鳥瞰できるだろう。

 経穴の標準化は過去3回行われていた。第一次は約1世紀のことで、「概念レベル」での標準化がなされている。それは経穴の前提となる経脈とは何か、経穴とは一体どういうものなのか、という概念上の意思統一であった。第二次は約2世紀のことで、第一次の後に芽生えてきた各種経脈・経穴が、「学説レベル」で統一標準化されている。第三次は鍼灸療法が中国全土に広まった段階の11世紀、中国政府が有用な治療法としてサポートの必要性を認識し、「国家レベル」の統一標準化を行っている。

 これら第一次から第三次までは、ある学者あるいは何人かの学者の主観に基づく標準化であった。そして現在、鍼灸は世界の医療を担う一分野となり、現在の科学知見を踏まえ、客観性を保証できる標準化が必要となった。これが今回の標準化であり、歴史的には第四次の「世界レベル」における客観的標準化と位置づけることができよう。

 以上を踏まえ、経脈・経穴の発見と変遷、そして標準化の歴史を辿ってみたい。

 

1 紀元前2世紀より前の経脈概念と灸法

〔馬王堆出土医書〕

           図1 足臂十一脈灸経
 経脈に関する確固たる最古の文献は、地上で伝存してきた書物ではなく、地下に眠っていた出土物である。代表文献には中国湖南省の省都、長沙市の東郊外にある馬王堆の前漢3号墓から出土した医書群がある。そのひとつに絹布に書かれた帛書で、発掘後に『足臂十一脈灸経』と名づけられた文献がある。これは図1のように当時の篆書で記され、足と腕の11の経脈に灸をするための文献だが、内容は『霊枢』経脈篇の前身であった。

 これらの文字は現在ほぼ完全に解読されており[1]、たとえば図1の第1行は「足泰(太)陽(脈)出外踝窶中…」と釈読できる。ただしアンダーラインをつけた「温」の文字は、実際は「曰」の部分が「目」で、この文字は「脈」に解釈される。当部分は『霊枢』経脈篇の「足太陽之脈…(其支者)…出外踝之後…」に対応していた。また図1の第5行では「足少陽(脈)出於踝前…」と記されており、『霊枢』経脈篇の「胆足少陽之脈…(其直者)…出外踝之前…」に対応していた。『霊枢』は清朝の後期に偽書といわれたこともあったが、この例からも確固たる根拠のあることが分かる。

 しかも『足臂十一脈灸経』だけでなく、馬王堆からは『陰陽十一脈灸経』甲本・乙本と名づけられた類似内容の帛書も同時に出土している[2]。3号墓は紀元前168年から数年内に埋葬されたと推定され、馬王堆医書も前2世紀の埋葬となる。ただし馬王堆医書自体は、字形の特徴から秦代から前漢代の筆写であろうと推定されるので、内容の淵源は先秦に遡る可能性もあろう。

 これら馬王堆医書の記載から次の知見が得られた。第一に経脈は後世の五臓六腑に対応する11本を認識しているが、現在の心包経と任脈・督脈に該当する経脈の記載はない。つまり『霊枢』の経脈編で確定された六臓六腑に対応する十二経脈とは、後世の概念であったことが分かる。灸法は「諸病此物者、皆久(灸)足泰(太)陰(脈)」のごとく記すのが大多数で、穴名はなく、経穴に該当する部位の記載もない。灸はおもに手足のみで、どうも体幹部には行っていない。鍼(箴・針)法の記載もなかった。

 すなわち経脈概念がまず先に成立し、経穴は後に確立された概念だったと推定できる。また経脈概念を用いる治療では灸法が先に開発され、その後に鍼法が開発されたであろうことも、これらの文献から推測できた。

〔灸法の起源〕

 なぜ灸が先に開発され、灸にヨモギを使ったのであろうか。台湾中央研究院の李建民教授は採火法に着眼した[3]。すなわち中国では上古からヨモギを燻した煙で邪気を払う風習があり、またヨモギは精油が多いため火付きがいい。それゆえ青銅の凹面鏡や丸く削った氷を使用し、焦点にヨモギを置いて採火する方法が上古で行われている。

 筆者の推測も加えると、太古から行われた各種採火法の中で、この方法による火は太陽から得たため、陽気が最もあると考えられたのだろう。他方、人は体温を失って最終的に死が確認され、それは邪気が原因と考えられていた。つまり、人の体温を奪い死に至らしめる邪気を、上古では陰気と考えていたらしい。それゆえ邪気を払うヨモギに太陽で着火し、この陽気で陰気を排除することから灸法が生まれた、という解釈である。証拠の少ない類推ではあるが、幾分の正鵠は突いていると思う。

〔綿陽出土の人形〕

      図2 木製黒漆人形(前漢時代)
 一方、四川省の綿陽市で発掘された前漢時代の墓からは、黒い漆を体表に塗った木製人形が出土している[4]。同時に出土したコインの年代から、埋葬は紀元前179年から前141年の間と判断された。図2のように人形の体表には、上下方向に左右対称で各9本、また背部の正中線に1本の赤い線が朱漆で描かれている。しかし経穴を推測させる点や文字などはない。これら赤い線を血管と解釈するのも不可能ではないが、背部の正中線に血管はないので、血管よりは経脈の蓋然性が高い。すると背部正中線は督脈、他の9本は手の三陰経と手の三陽経、および足の三陽経に該当すると考えられる。そうすると、足に三陰経がないのは注目される。

 前述の李教授は臓腑概念と無関係な督脈が描かれていることにも着眼し、督脈の起源を詳細に論じている。これに私見も加えると次のように推測できる。体表の中で露出しても寒気に一番耐えるのは顔面のため、顔面は陽気が集まる部分とイメージされた。それゆえ陽脈はすべて顔面に集まり、反対に陰脈は陰部に集まる流注となったのであろう。他方、人(男性)が排泄以外で外部に分泌する液体には、陽の中心にある口の唾液と、陰の中心にある生殖器の精液がある。このため分泌量の多い唾液を脊髄つまり督脈を介して陰部に流し込み、精液を補充する発想が上古に形成されていた。唾液と精液を還流させるルートとしての督脈概念は、房中術あるいは導引術に発展する思想と根源で関連しているため、後世の房中術や導引術では督脈を重視する。

 さらにこの人形には任脈と足の三陰経に該当する線がなかった。任脈は妊娠にも関連する経脈とされ、古くは任脈を女性の経脈とする概念もあったらしい。そしてこの人形は陽経6本と督脈および陰経3本につき陽性が強いので、恐らく男性であろうと東京理科大学の遠藤次郎教授より示唆されたことがある。

〔経脈概念の発展と融合〕

 以上からすると任脈・督脈は、六臓六腑の十二正経と起源を異にする概念であった。そして馬王堆医書に記録された11の経脈は五臓六腑に対応し、治療のための概念であったと考えられる。これが六臓六腑の十二正経に後世発展した。一方、綿陽市の人形は、生殖と出産を目的とする房中術で形成された督脈と任脈の概念が、陰経・陽経の概念と結合し始めた段階を示している。『素問』『霊枢』各篇での問答主体の相違は流派の相違を象徴するが、経脈概念にもいくつかの流派が形成されており、それらの融合にもいくつかの過程があったのはほぼ疑いない。

 

2 第一次標準化―経脈・経穴概念レベルの統一

 経脈概念は以上の経緯で発展・融合していたが、流派等の相違もあり、鍼灸療法の普及に伴い概念統一の必要性が生じた。そして『素問』『霊枢』の前身が編纂された約1世紀、経脈・経穴の概念が統一された。われわれが見ている現在の『素問』『霊枢』は当時の書ではなく、相当に後世の修飾を経ている。しかし馬王堆医書から、『素問』や『霊枢』の記載が確実に紀元前を遡る内容を伝承していることは間違いない。

 約1世紀の原『素問』『霊枢』では、経脈概念と経穴概念を絶対的なものとするため、天文学の知識を援用した。1年に月が12回満ち欠けし、約365日あるのは当時の天文学で正確に認識されおり、それは絶対真理の数字でもある。この絶対的な天の数に人の数を演繹することで、経脈と経穴の概念統一を企画したのであった。その作業の論理基盤に用いられたのが、天文概念でもあった陰陽説と五行説である。さらに天地人の三才説も用い、6や12や360の数を論理化した。当過程では陰陽をさらに3分して三陰三陽にするという、他の中国哲学や思想になく、医学だけにある概念も生み出している。こうして原『素問』『霊枢』段階で六臓六腑の概念と、対応する十二正経の概念が統一標準化された。さらに別系統の任脈・督脈も子孫を作るために重要な概念ゆえ、十二正経と並ぶ位置づけがなされ、現在の経脈概念の基本が形成されたのである。

 他方、経穴の数を365とする記載は現在の『素問』『霊枢』に幾度もあり、1世紀頃の両書の前身段階でも間違いなく記載されていたであろう。ところが、両書にある実際の経穴は132穴に過ぎない[5]。すなわち、1世紀頃までは130穴ほどしか開発されていなかったが、天の数から演繹した365穴を理想とする概念に統一されていたことも分かる。

 

3 金属鍼の普及と穴数の増加

     図3 銀鍼(左側2本)と金鍼(右側4本)
 馬王堆医書の出土により、前2世紀以前での経脈概念を用いた治療は、灸法が中心であったと分かった。しかし時代が進むにつれ、これにも変化が生じる。中国では前2世紀の前漢時代から青銅器に代わり鉄器が本格的に普及し始め、後漢の1世紀では鉄製の毫鍼も普及していたらしい。また王侯貴族向けには金や銀の鍼も使用されていた。

 図3は紀元前112年に埋葬の満城漢墓から出土した金鍼(右側4本)と銀鍼(左側2本)の複製で、比較用に現中国の長鍼(約12㎝)を手前に置いた。出土したのは前漢王朝の一族で中山靖王であった劉勝の墓で、「医工」と刻まれた薬を煎じる器なども一緒に埋葬されていた[6]。金鍼・銀鍼の材質と形状からしても裁縫用は否定され、現存する最古の人体用金属鍼と確証される。ただし毫鍼といえるほど細くはなく、皮下5ミリ程度の刺入が限界であったと考えられる。

      図4 画像石(2世紀前半)
 一方、当時の鍼治療を推測させる資料が、墓室の壁を飾る画像石として山東省から8点ほど出土している[7]。いずれも2世紀前半のもので、人面鳥身の人物が対面する人物の手を取り、もう片方の手に何かを握って相手にかざしている(図4、図5)。これらの画像石で、人面鳥身に何かをされている人物はみな頭髪を垂れ下げている。頭髪を結わえた正装でないのは、病人の象徴だという。図4では人面鳥身の尾羽にカラス様の鳥が留まっている。この鳥はカササギとされ、カササギは漢名を「鵲」という。さらに図4の人面鳥身が病人にかざすのは大きく太いので、排膿などに用いられた石鍼の砭石と思われる。

 ところで『史記』にも記述される伝説上の名医・扁鵲であるが、その「扁」と砭石の「砭」は今も昔も音通する。すると砭(扁)石を用い、カササギ(鵲)をシンボルとした医者グループを扁鵲と呼んだ可能性を推測してもいい。これら画像石で扁鵲らしき人物が病人らしき人物の手を取っているのは脈診の象形と考えられ、扁鵲の流派は脈診することが一大特徴と当時認識されていたことをも推測させる。なお、同じ山東省出土では図5の拓本と模写で分かるように、細い金属鍼を置鍼する画像石もある。このことから、2世紀前半の山東省一帯ではすでに金属鍼が普及していたと考えられ、当時の人間の移動や知識の伝播からして、それが中国のかなり広い範囲に伝達されていたことも類推できる。

    図5 画像石(2世紀前半)の拓本・模写
 原『素問』『霊枢』の1世紀段階では、正経12脈と任脈・督脈および365経穴に概念統一が図られたが、実際の経穴数は約130しかなかった。しかし、365穴を理想の数としたことと金属鍼の普及に伴い、経穴数はその後急速に増加したに違いない。ただし時代や流派や地域で個々に穴名や部位が定められるなら、必然的に相違が生じる。経脈にも流注や新たな奇経の認識などが起こり、学説レベルの混乱が生じてきたと思われる。

 

4 第二次標準化―学説レベルの統一

 1世紀以降の金属鍼の普及により、経脈・経穴の混乱が深まり、その解決として原『素問』『霊枢』に基づく標準化がある段階で迫られた。他方、『素問』『霊枢』は基礎医学全般も論述し、必ずしも鍼灸の専書ではない。そこで当時の学説を整理し、経脈・経穴の専書として正経12脈と奇経8脈、それらに属する約349穴を定めたのが3世紀頃の『明堂』であった。図6は唐初の楊上善が注を加えた『黄帝内経明堂』巻1で、鎌倉時代の写本である[8]。そのルーツは遣唐使の将来本に遡り、日本にのみ伝承されて中国では散佚していた。図のごとく経文は、「肺蔵。肺重三斤三両、六葉両耳…」のように、臓腑ごとに蔵象論と経脈・経穴、そして鍼灸法が具体的に記載される。

図6 黄帝内経明堂(楊上善注本)          
 さらに無名氏が原『明堂』と原『素問』『霊枢』を鍼灸専門に再編したのが4世紀後半の『鍼灸甲乙経』で、本書には365穴ではなく、356穴が載る[9]。また『明堂』は日本に伝存した楊上善注本巻1、および『甲乙経』や『医心方』等の引用文を用い、相当に精緻な復元が日中双方で完成した。中国中医科学院・黄龍祥教授の『黄帝明堂経輯校』[10]、および小曽戸丈夫氏・日本内経医学会編の『黄帝内経明堂』[11]である。それらにより、いまわれわれは第二次標準化のほぼ全貌を知ることができるようになった。

 

5 唐代までの経穴図と経穴の変化

 経穴は人体上にあるため、絵図に描く視覚化も早くから行われたに違いない。そして原『明堂』と前後して『明堂図』も描かれたであろう。その直接の引用図が現存しないため具体的手がかりはないが、唐代までの経穴図からイメージの推測はできる。

 現在知られる最も古い経穴図のある書は『黄帝蝦蟇経』(図7)で、『隋書』経籍志に著録される書名等から、ルーツは3世紀後半の成立と考えられる。やはり『明堂』同様、中国で散佚し日本だけに伝承された佚存書で、江戸後期に幕府医学館の多紀元胤らが古写本を発見した。図7は幕府医学館の模刻で、髪際や人迎の穴名が見える。また月の中にガマとウサギがいるように、月の満ち欠けとの関連から灸を忌避する経穴等が記される。

図7 黄帝蝦蟇経        図8 医心方

  図9 スタイン6168文書(ロンドン大英図書館)
 平安時代では丹波康頼が、おもに隋唐以前の文献に基づき『医心方』を984年に撰進した。その巻22には妊娠10月毎の絵図があり、おのおのには裸体妊婦・胎児・臓腑・経脈・経穴等が描かれる。いずれも『産経』からの引用で、妊娠の月毎に胎児の発育と臓腑経脈との関連や鍼灸を禁じる穴名等も記される。これらのうち、胎児の発育と臓腑経脈との関連内容は馬王堆出土『胎産書』系統の伝本に由来し、淵源は極めて古い。『医心方』所引『産経』の成立年代は未詳だが、おそらく5世紀と考えて問題ない。図8は国宝成簣堂文庫本の複製[12]によるが、成簣堂本は国宝半井本から江戸時代に分かれた僚本で、そこに描かれる赤い線の経脈が『産経』に本来あったかどうかは確証できない。

 敦煌からも経穴図のある唐代文書が出土している。 図9はロンドン大英図書館所蔵のスタイン6168文書で、『灸法図』や『灸経』などと呼ばれる。『蝦蟇経』同様に経脈は描かれず、「手髄孔」や「五舟」など現在に伝わらない経穴も記される。またパリ国立図書館所蔵のペリオ2675文書[13]には、文頭に「新修備急灸経一巻 京中李家於東市印」と記される。つまり当文書は、京中(現在の西安)の繁華街・東市にあった李家が出版した『新修備急灸経』1巻に基づく写本であった。その紙背は本書の後半で、治療の適否に関係する「人神」の所在を生年の干支や季節・月・日等で規定する内容があり、末尾に咸通2年(861)の書写年を記す。したがってこの文書は唐代861年以前の西安で、すでに灸書が出版されていたことを明瞭に示すとともに、現存する世界最古の医書出版記録でもある。

 一方、図7~9の髪型に注目すると、図8だけ女性であるにもかかわらず、みな酷似している。身体の描き方も酷似する。このように唐代までの経穴図には規格化された様式があり、さらにペリオ2675では人体上方に「明堂」と大書されるので、当時は経穴の図示を「明堂」と呼んでいたと分かる。ならば3世紀頃にできた『明堂図』もこの様式で描かれており、それが唐代までも踏襲されていたと推定されよう。

 ただし経穴には変化が生じていた。図9の「手髄孔」や「五舟」は『明堂』佚文になく、ペリオ2675では肩井を「膊井」、角孫を「陰会」、神庭を「住神」、眉間の印堂を「光明」と記す。『明堂』以降も時を経るにしたがい、経穴の別名や新しい経穴が出現し、それらを用いる流派や学説などが生まれ続けていたのであった。

 

6 第三次標準化―国家レベルの統一

 図10 銅人(東京国立博物館)
 唐以後に五代の混乱を経て中国を再統一した北宋政府は、皇帝が文民統制政策を行ったせいもあり、医療行政を重視した。その基盤として『素問』『霊枢』など医学古典を校訂、また本草書の増訂と大部な医学全書の新規編纂を行い、当時普及してきた木版印刷技術を用いて政府版を公刊している。鍼灸も皇帝自ら効果を認め、経脈・経穴の混乱を校訂するよう医官の王惟一に命じた。惟一は14経・354穴に校訂した『図経(図と経文)』を天聖4年(1026)に勅撰し、翌年それに基づく立体的な銅人が「新鋳」され、『図経』は『〔新鋳〕銅人腧穴鍼灸図経』3巻として公刊された[14]。

図11 石碑拓本       
 ちなみに当時の北宋版には文字がコイン大でB4判ほどの大字本があり、おもに宮廷・官僚向けの豪華本ゆえ一般人や市井の医者には高価で購入できない。そこで一般向けの小字本を大字本の後に出版することが医書でも多く行われた。しかし『銅人腧穴鍼灸図経』を小字本にすると銅人図を収めるのが困難となる。小字本がどうも出版されなかったのはこれが理由かと推測するが、政府は本書を石碑に刻んで都の汴京(今の開封)に立て、人々に拓本をとらせて普及させた。この銅人鋳造と書物出版、さらに石碑-拓本を用いた周到な普及手順は国家レベルでの統一が目的であり、まさに第三次の標準化であったと言っていい。

 ところで『蝦蟇経』や『医心方』所引『産経』・ペリオ2675文書でも分かるように、「人神」の所在から鍼灸を避諱すべき経脈や経穴を規定する論説は、唐代まで広く流行していた。それが『明堂経』の段階から存在していたかは未詳だが、『銅人腧穴鍼灸図経』では2カ所で少しだけ言及する。広く普及した論説を無視できなかったのであろう。

 図10は東京国立博物館にある銅人で、かつて北宋に鋳造された天聖銅人と呼ばれていた。これは義和団事変で八国連合軍が北京に進攻したとき、参加した日本軍が北京の故宮から運び出したとの陳存仁説が発端である。しかし当銅人は江戸幕府・鍼医官の山崎次善が幕命で18世紀末に鋳造し、江戸医学館に所蔵されていたことを北里大学の小曽戸洋教授が論証しており[15]、もはや反論の余地はない。図11は天聖5年の直後に汴京に設置された石碑の拓本で[16]、左下に「新鋳銅人腧穴鍼灸図経巻上」とある。当石碑は元代に今の北京に運ばれ、明代まで保存されていた。この残石が北京城壁の発掘調査中に発見され、一部は北京の中国中医科学院6階の博物館に展示されている。なお明政府も北宋石碑が破損・磨耗したため石碑をそっくり複製し、拓本をとらせて普及させていた。その完全な明拓本は宮内庁書陵部にあり、もとは図10の銅人と一緒に江戸医学館に所蔵されていた。

 図12〔新刊補註〕銅人腧穴鍼灸図
 一方、北宋1027年版の『銅人腧穴鍼灸図経』は現存しない。のち金の1186年に増補された5巻本『〔新刊補註〕銅人腧穴鍼灸図経』が復刻されたが、この金版も現存しない。図12は俗に金版と呼ばれている『〔新刊補註〕銅人腧穴鍼灸図経』であるが、実際は元の模刻版で、台北の国家図書館に唯一現存する。当本は楊守敬が明治初期の来日時に入手しており、銅人を鋳造した幕府鍼医官・山崎家の旧蔵本であった。のち守敬から劉世珩に譲渡され、世珩は元版説を知りながら当本を金版と称して清末に影刻、それが現在も中国で仿金版として影印出版されている[17]。他方、当本自体は民国政府が南京に設立した中央図書館に収蔵され、幾多の変遷を経て現在に至っている。

 

7 元明清および漢字文化圏への影響と変化

 金版の『〔新刊補註〕銅人腧穴鍼灸図経』は元代に少なくとも1回復刻された。また明政府が「新鋳銅人腧穴鍼灸図経」の石碑で拓本を作製させたことからも分かるが、明清代では「銅人」を冠する鍼灸経穴書が多数出版され、普及している。そして銅人や明堂は経脈・経穴を図示した書の代名詞とされたが、反面で書物間における相違も生じた。朝鮮政府は金版『〔新刊補註〕銅人腧穴鍼灸図経』に基づく元の崇化余志安勤有書堂版を4回ほど復刻しており、かなりの影響を及ぼし続けたと思われる。一方、日本では江戸前期に明版が1回復刻されただけで、17回も復刻された『十四経発揮』ほどの影響はなかった[18]。なお現存するベトナム古医籍500点ほどを筆者が調査した範囲では、まだ『銅人腧穴鍼灸図経』の直接影響を見出していない。

 

8 近現代の世界普及とWHOによる第四次標準化

 このように宋政府の第3次標準化は、以後の元明清代また漢字文化圏各国にも、程度の差はあれ影響を与えていた。ただし重視した古典籍や手技・用具の相違および臨床経験も重なり、近代以降の各国テキスト間では特に経穴部位において様々な振幅が生じている。

 現代ではWHOのサポートもあり、鍼灸は世界で医療の一翼を担う医学に発展した。そこでWHOは、およそ1980年から始まる伝統医学プログラムの一環として経穴の標準化を図り、1991年には西太平洋事務局から改訂版『標準鍼学術用語』が出版された。そのPart1では宋代の天聖銅人に因み、明代の銅人を基に中国中医科学院の馬継興教授が開封市で復元した銅人の写真、Part2では東京国立博物館所蔵銅人の写真が使用されている。ただしこの段階では経脈・経穴の標準表記を定めるのが限界であった。しかし日中韓の研究者はさらに幾多の検討と議論を重ね、2006年ついに経穴部位の国際標準化を完成させたのである。

 

おわりに

 鍼灸医学の骨格をなす経脈・経穴は、第一次に概念のレベルで標準化された。第二次では学説レベル、第三次では国家レベルで標準化された。この歴史は、発見した現象を帰納し論理化するための概念統一、さらに概念の演繹と経験による変化を帰納するための論理化と統一の作業が、規模を拡大しつつ行われてきた過程といえる。ただし当過程は、論理化がなされても主観に基づく統一であったため、未科学を擬似科学のベールで覆ったに過ぎない。結局、後々の相違が生じるのは不可避であった。

 しかし今回の部位標準化により、客観性を備えた第四次の標準化が世界レベルで達成された。この第一次から第四次までを顧みると、伝統技術が現代に継承され、さらに確固たる科学技術として発展・深化・普及する歴史を、まさしく典型的に示しているのが分かる。

文献

[1] 馬王堆漢墓帛書整理小組『馬王堆漢墓帛書〔肆〕』釈文注釈3-4頁、北京・文物出版社、1985

[2] 真柳誠「書評『馬王堆漢墓帛書〔肆〕』」『日本医史学雑誌』33巻2号272-274頁、1987

[3] 李建民『生命史学 -従医療看中国歴史』21-97頁、台北・三民書局、2005

[4] 真柳誠「前漢時代の墓から出土した黒漆木製人形」『漢方の臨床』 43巻7号1386-1388頁、1996

[5] 陳存仁著・岡西為人訳「中国鍼灸沿革史(1)」『漢方の臨床』3巻12号60頁、1956

[6] 中国社会科学院考古研究所・河北省文物管理所『満城漢墓発掘報告』下冊図版27、北京・文物出版社、1980

[7] 真柳誠「人面鳥身の針医-二世紀の画像石から-」『漢方の臨床』41巻4号462-464頁、1994

[8] 北里研究所附属東洋医学総合研究所医史学研究室『小品方・黄帝内経明堂古鈔本残巻』23頁、東京・北里研究所附属東洋医学総合研究所、1992

[9] 陳存仁著・岡西為人訳「中国鍼灸沿革史(1)」『漢方の臨床』3巻12号56頁、1956

[10] 黄龍祥『黄帝明堂経輯校』、北京・中国医薬科技出版社、1988

[11] 日本内経医学会『黄帝内経明堂』、東京・北里研究所東洋医学総合研究所医史学研究部、1999

[12] 丹波康頼『医心方』巻22婦人部、東京・荻野仲三郎、1937

[13] 叢春雨『敦煌中医薬全書』200-211頁、北京・中医古籍出版社、1994

[14] 丸山敏秋『鍼灸古典入門-中国伝統医学への招待』159-170頁、京都・思文閣出版、1987

[15] 小曽戸洋「東博銅人形の製作者および年代について-幕府医官山崎氏の事跡-」『日本医史学雑誌』35巻140-142頁、1989

[16] 于柯「宋『新鋳銅人腧穴鍼灸図経』残石的発現」『考古』1972年6期、1972

[17] 小曽戸洋「元版『銅人腧穴鍼灸図経』」『漢方の臨床』41巻9号1146-1148頁、1994

[18] 真柳誠「江戸期渡来の中国医書とその和刻」、山田慶兒・栗山茂久『歴史の中の病と医学』301-340 頁、京都・思文閣出版、1997

図版出典

図1・2:中国中医科学院の鄭金生教授提供
図3・7:真柳所蔵
図4:真柳撮影
図5上部・図11:中国中医科学院の黄龍祥教授提供
図5下部:『山東中医学院学報』1981年3期60頁
図6:北里研究所附属東洋医学総合研究所医史学研究室『小品方・黄帝内経明堂古鈔本残巻』23頁(東京・北里研究所附属東洋医学総合研究所、1992)
図8:巻子本『医心方』巻22(荻野仲三郎、1937)
図9:British Library所蔵
図10:東京国立博物館所蔵重要文化財
図12:国家図書館(台北)所蔵