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真柳誠「『傷寒論条弁』解題」『和刻漢籍医書集成』第13輯所収、エンタプライズ、1991年8月

『傷寒論条弁』解題

真柳 誠


一、    著者と成立

 本書の著者・方有執について、伝に相当するものは一切のこされていない。しかし方有執は本書および本書の付録に多くの自序・跋を記しており、これらよりある程度は知ることができる。年代順に挙げると以下のものがある。

A、条弁序 万暦十七年(一五八九)三月
B、条弁後序 万暦十九年(一五九一)冬
C、刻条弁序 万暦二十年(一五九二)上元節日
D、条弁引 万暦二十一年(一五九三)陽月
E、条弁跋 万暦二十一年(一五九三)仲冬
F、痙書序 万暦二十六年(一五九八)秋
G、痙書跋 万暦二十七年(一五九九)正月

 右の七文などから伝をまとめると、次のようになろう。

 方有執の字は中行(『条弁』など巻頭)、九山山人(D)あるいは九竜山人(G)と号した。新安郡(A、E)歙県(『条弁』巻頭)(今の安徽省歙県)の出身。一五九二年に七〇歳(C)、一五九三年に七一歳(F)なので嘉靖二年(一五二三)生れ。没年は不明だが、Gを記した七七歳の一五九九年以降[1]のことである。

 彼はもともと医を学んではいなかったが、三〇歳にみたぬ妻を「中風風寒」で二人なくし、前後して五人の子供も「驚風」で失った(F)という。これが医学を志す契機となったのだろう。それがいつ頃かは明記されていないが、「以通仲景之源。風霜二十余年」さらに「八経寒暑。稿脱七謄」で『条弁』をまとめたと一五九一年に記している(B)。とすれば、『傷寒論』の研究を始めたのは一五六○年代、彼が三○代後半の頃と思われる。

 本書の成立については「属草於万暦壬午(十年、一五八二)。成於去歳己丑(万暦十七年・一五八九)」(E)という。つまり一五八二年に着手し、八年かけて七回改稿し(B)、脱稿した一五八九年が成立年となる[2]。また初刊年は一五九二年に「吾将刻之。刻之以待庶乎」(C)というが、翌年にも引や跋を記すので、実際に版木が彫り上り、初版が出たのは一五九三年であろう。一方、一五九八年には、「条弁…梓布有年」「更集是篇(『痙書』)。梓布条弁」(F)とも記している。すると彼は一五九三年に『条弁』を初刊後、さらに『痙書』を増補して重印していた。この再版年は『痙書』に跋(G)を記した一五九九年と考えられる。

 本書名の所以について、彼は「曰傷寒論者。仲景之遺書也。条弁者。正叔和故方位而条還之謂也」(E)と述べる。つまり王叔和が改変する前の『傷寒論』に「条」文を「正(弁)」す、という意味で名付けたのである。また本書の選述目的を「余何人斯而条弁哉。蓋将以為後之有志仲景之堂室者。級階梯之助云爾也」(A)といい、彼の自信のほどを物語っている。


二、構成と内容

 本書は本文部分の全八巻、および付録の『傷寒論条弁或問』『傷寒論条弁本草鈔』『痙書・痙書或問』などからなる。また本文巻末にも劉復真の脈法などが付録されている。劉復真については拙文[3]で触れたことがあるが、南宋時代の医家である。

 本文部分は陽病・陰病の図と説を前付し、次に巻一〜三に太陽病・巻四に陽明病・少陽病、巻五に太陰病・少陰病・厥陰病、巻六に温病類・霍乱病・陰陽易差後労復、巻七に痙湿暍病・弁脈法、巻八に可不可諸篇の順で収められている。

 冒頭の図は身体・臓腑(経絡)と陰陽・表裏の関係を示したもので、三陰三陽病の病位を図示したものでは最も早い部類に入るかも知れない。本臓腑図のオリジナルは、諸点より宋・楊介の解剖書『存真環中図』と考えられる。ただしそれに直接よったとは考え難い。金末・蒙古間の王好古は当時の代表的『傷寒論』傾倒者であり、彼は同類の図を載せた『伊尹湯液仲景広為大法』(一二三四成)を著している[4]。この書には一五三四年の刊本(図1)もあるので、方有執が王好古の図を見ていた可能性を考えてよいかも知れない。

 本文の構成は宋版や成無己注の『傷寒論』とは相当に異なっている。それら『傷寒論』は王叔和・林億・成無己らにより改変がなされていると方有執は考え、これを仲景の旧に復原する目的で構成に大幅な手を加えたからである。方有執は本理由で、『傷寒論』研究の「錯簡重訂派」の首唱者と呼ばれる[5]。復原の方法論こそ異なるが、この考え方がわが国で吉益東洞らに多太な影響を及ぼしたことは無視できない。方有執は次のような改変を行い、仲景の旧に復そうと試みた[6]。

 まずそれまでの『傷寒論』十巻のうち、巻一の「弁脈法」「平脈法」「傷寒例」「痙湿暍病」および巻七〜十の「可不可」諸篇は、いずれも王叔和が仲景に付翼したもので、特に。「傷寒例」は意義がないと考えた。そこで「傷寒例」を削除、「痙湿暍病」「弁脈法」「平脈法」も巻頭に置くのは不適切とし、「可不可」篇の前に移軌させた。

 次に三陰三陽病篇では、太陽病篇の条文配列を大幅に変化させている。すなわち、太陽病の上篇を「衛中風而病」の篇とし、桂枝湯証とその変証に類する条文計六六条・二〇方を一括。中篇を「栄傷於寒而病」の篇とし、麻黄湯証とその変証、および「傷寒」の二字が冒頭にある条文など計五七条・三二方を一括。下篇を「栄衛倶中傷風寒而病」の篇とし、青竜湯証と「脈浮緊」「傷寒脈浮」の諸条文計三八条・八方を一括した。その他の各篇でも条文配列に手を加えているが、さらに温病関係の条文計二〇条・三方を別にまとめ、厥陰病の後に配している。

 このように篇や条文の順次を改めた上で、各篇頭および各条文に注を加えている。しかしそれらすべてが方有執の独創にかかる訳ではない。風邪が衛にあたり、寒邪が栄をやぶり、風寒の邪が栄衛をともに中傷するというのは王叔和の説。また太陽病を桂枝湯証・麻黄湯証・青竜湯証に分けるのは、孫思邈の『千金翼方』に見られる。各条文の注でも明記はしないが、成無己『注解傷寒論』の影響が少なくない。さらに注釈文や太陽篇の条文分類には相互に矛盾が多く、閔芝慶はそれらを手きびしく批判し、自己の臆見で妄改することの愚を指摘している[7]。

 さて付録の『傷寒論条弁本草鈔』一巻は、『傷寒論』の薬物九一種の性味・効能等を整理したもの。旧本は各方薬下に一々性味を注記するが(成無己本のこと)、冗長で意義がないので、初学者の便に一括して付説すると冒頭にいう。薬数を九一種としたのは『傷寒論』の林億序文に従ったと思われるが、ここで挙げているのは桂枝〜甘潤水までの八七種が薬物で、さらに斗升合・鉄分両・方寸匕{口+父}咀の四項目を加え無理に九一種としている。内容は『証類本草』にほぼ基づいているが、注釈文には方有執の意見や見聞がまま見られる。例えば竜骨の解説には、嘉靖三十二年(一五五三)の洪水で出現した河の中州に、全身の揃った竜骨があった目撃談を記しており興味深い。

 『傷寒論条弁或問』は計四六の問答からなる。『傷寒論』中の基本理論・用語および医療の理念について、方有執自身の見解がかなり具体的に述べられており、本文の八巻を読む上でも参考となる部分が多い。『痙書・痙書或問』は主に『金匱要略』の「痙湿暍病」篇に基づき、注釈を加えたもの。方有執は家族を痙に類似した驚風(破傷風などのひきつけ)で数多く亡している。また『傷寒論』と『金匱要略』の「痙湿暍病」篇の記載は相互に詳と略があるので、『条弁』を再版するとき本『痙書』を付刻したという。痙病の病因・病理と治法、および小児や産婦に多い理由、傷寒との関連についての論説に富んでいる。


三、後世への影響


 方有執は本書の各所で、王叔和・成無己らが『傷寒論』に手を加え、仲景の原意を損ねたと強く非難している。そして彼が推定する仲景の旧態に全体を改変し、解釈を加えた。特に太陽病を「風中衛」「寒傷栄」「風寒中傷栄衛」の三篇に分類した点に特徴がある。これらの観点は約半世紀後、喩昌(嘉言)の『尚論篇』に強い影響を及ぼした。そして方有執・喩昌の見解は、張路玉の『傷寒纉論』、呉儀洛の『傷寒分経』、程応旄の『傷寒論後条弁』などに継承され、明末から清初にかけて広く受け入れられていった。さらに喩昌以降からは彼らに反論し、王叔和・成無己を擁護する立場、あるいは中間の立場をとる考え方も出現し、第三次『傷寒論』ブーム(第一次は宋代、第二次は金元代)が形成された。

 一方、本書を初めとする「錯簡重訂派」の著作は、前後の相違はあるが日本でも復刻され、その時代関係からして古方派台頭の一契機となったことは疑いない。

 それらをまず初渡来の記録から見ると、『傷寒論条弁』は承応二年(一六五三)、『尚論篇』は元禄元年(一六八八)にいずれも幕府の紅葉山文庫へ収蔵されている[8]。『傷寒論後条弁』も元禄元年(一六八八)の唐本の売立目録に記されている[9]。和刻では『尚論篇』が最初で元録九年(一六九六)、次いで『後条弁』が宝永元年(一七〇四)、『条弁』が享保八年(一七二三)の順となっている[10]。

 これらの書に見られる臓腑経絡や薬物気味の説は古方派の批判を受けたが、『傷寒論』にある仲景以降の錯簡・衍文を正す必要がある、という論点は吉益東洞(一七〇二〜七三)以降の古方派も強調した。東洞の『類聚方』は、まさしくその目的を極端化した書といえよう。また『条弁本草鈔』や『条弁或問』に相当するのは、東洞の『薬徴」および『医事或問』であろう。これら類似点は従来さほど注目されていないが、今後は検討されるべきと思われる。


四、版本

 成立の項で記したように、方有執が本書を初刊したのは一五九三年、『痙書』を加えて重印したのは一五九九年と考えられるが、両者は基本的に同一版本である。また朝鮮版は知られていない。それらを掲げると左記のようである。

〔中国刊本〕
@明・万暦二十一〜二十七年(一五九三〜九九)霊山方氏家刻本 国立公文書館内閣文庫(図2)、北京図書館、中国科学院図書館、中国中医研究院図書館ほか所蔵。
A清.康煕間(一六六二〜一七二二)浩然楼刊本 中国医学科学院図書館、中国中医研究院図書館、北京中医学校図書館ほか所蔵。
B四庫全書本 北京図書館、遼寧省図書館所蔵。
C一九二五年、渭南厳氏孝義家塾復刻A本 北京図書館、中国科学院図書館、中国中医研究院図書館ほか所蔵。
D一九五七年、四川人民出版社重印C本 中国中医研究院図書館所蔵。
E一九五七年、人民衛生出版社鉛印A本 現存多数。

〔日本刊本〕
@享保八年(一七二三)武村新兵衛等刊本 国会図書館、東京大学付属図書館、東北大学付属図書館、大阪府立図書館、武田杏雨書屋図書館、下関市立図書館、台湾故宮博物院図書館所蔵。
A江戸刊本 武田杏雨書屋所蔵。

 和刻@本の訓点は奥付に八木梅庵によるとあるが、その人物は不詳。あるいは刊年より六年早い享保二年(一七一七)に、和刻する旨の跋文を記した人物との関連も疑われる。底本は中国@本ないしA本と思われる。A本は未見につき不詳。

 今回の影印復刻では、印刷の鮮明度より国会図書館所蔵の@本を底本とした。しかし和刻本は「傷寒論条弁跋」の最後の部分を第一冊二九葉ウラの末行以降欠落し、次の第三〇葉オモテからは別の「傷寒論条弁後序」が彫られている。したがってこれは和刻当初からの欠刻と判断され、同版他本で補うこともできない。よって以下に欠落部分の文章を、中国E本より転載しておく。

(和刻本第一冊第二九葉ウラ末行「……他固非愚之所可豫」)知也。曷敢道哉。抑瑞餘景衰肘。醜蹐何可以入人目。而乃劬劬若是。以取身後嗤唾邪。不然也。蓋亦不過遠。惟或者得徹觀於有道。在任則亦尚可以少見。競競專致。操存於一筆之不敢苟云爾。
  萬暦二十一年。歳次癸巳。仲冬閏辛巳朔粤三日癸未。朏新安方有執自跋。


参考文献および注

[1]陳夢賚ら『中国歴代名医伝』(北京・科学普及出版社、一九八七)二七四頁、および庄樹藩ら『中華古文献大辞典医薬巻』(長春・吉林文史出版社、一九九〇)九二頁は一五九三年の没とするが、一切根拠のない誤解にすぎない。

[2]本書の成立年を李経緯ら『中医人物詞典』(上海辞典出版杜、一九八八)七五頁、孫継芬ら『中国医籍提要(上)』(長春・吉林人民出版社、一九八四)一八四頁、賈維誠『三百種医籍録』(ハルピン・黒竜江科学技術出版社・一九八二)一七三頁、および(1)注『中華古文献大辞典』は一五九二年とする。また(1)注『中国歴代名医伝』は一五九三年とする。いずれも単に自序年を成立年に当てたにすぎず、序跋文の内容を読んでいないための誤認である。

[3]真柳誠「『厳氏済生方』『厳氏済生続方』解題」、本『集成』第四輯(一九八八)所収。

[4]真柳誠ら、漢方古典文献概説27 金代の医薬書(その3)」、『現代東洋医学』一一巻一号一一〇頁(一九九〇)。

[5]任応秋「『傷寒論』研究の流派」(拙訳)、『中医臨床』三巻臨時増刊号一二頁(一九八二)。

[6]任応秋『中医各家学説』一〇一頁、上海科学技術出版社、一九八○。

[7]多紀元胤『(中国)医籍考』三三〇頁、北京・人民衛生出版社翻印、一九八三。

[8]大庭脩「東北大学狩野文庫架蔵の御文庫目録」、『関西大学東西学術研究所紀要三』九〜九〇頁、関西大学東西学術研究所、一九七〇。

[9]大庭脩「元禄元年の唐本目録」、『史泉』三五・三六合併号一六四頁、関西大学、一九六七。

[10]小曽戸洋「和刻本漢籍医書総合年表−書名索引」、『日本医史学雑誌』三七巻三号四〇七〜四一五頁、一九九一。