←戻る
真柳誠・沈樹[サンズイの字]農「『医心方』に記述される「経義解」の検討」『日本医史学雑誌』42巻3号349-368頁、
1996年9月 *『ANNUAL REPORT of THE KITASATO INSTITUTE」』Vol.34, p.685-704, 1996に転載

 『医心方』に記述される「経義解」の検討

(図表省略)

真柳誠・沈★農

 A Study on "Kyo Gige" or "Jing Yijie" mentioned in the "Ishinpo"
by MAYANAGI Makoto and SHEN Shunong


(ABSTRACT)

   The Ishinpo (医心方) written in 984 is the oldest extant medical work in Japan. In this work a unique sequence of characters 経義解 (Kyo Gige in Japanese, Jing Yijie in Chinese) followed by the character 云 which usually  indicates a citation, can be found only once in vol.25 of the Nakarai-MS (半井本). That is why it has been regarded as a cited book title until now. However, there were no books with the title  経義解 before the time of the Ishinpo.  The authors therefore tried to make a historical investigation into this  phrase. The following results could be found:

  (1) The phrase in question has to be seen as one unit together with the last character of the former line 脈 and should be read as  脈経義解(Myakukyo Gige in Japanese, Maijing Yijie in Chinese).

 (2) There are no books extant with the title  脈経義解, and we see no possibility that such a book might have been written before the time of the Ishinpo.

 (3) The most possible reason, why the phrase  脈経義解 which is not a book title is given only here, is miscopy and mispagination. Originally, there must have been two separate citations, one from 脈経○○, an annotated book to the Maijing(脈経), and the other from 義解, a shortened name of the Ryo-no Gige (令義解). As a result of miscopy and omissions,  脈経 and  義解 are finally combined to 脈経義解.

 (4) The sentence  小児初生号赤子 which follows the phrase 脈経義解 may be a missing part of the 脈経○○.

 (5) There is a possibility that the 脈経○○ might have been the Maijing Yinyi(脈経音義) written in China, or anyother unknown book written in Japan.
 

(要旨)

  984年に著された『医心方』は現存する日本最古の医書である。本書の半井本巻25には唯一、「経義解」(日本語で「きょうぎげ」、中国語でJing Yijie)に引用をふつうは示す「云」の文字をつけた漢字列の特異な語句がみえる。それで今日まで「経義解」は引用された書名と考えられてきた。しかし『医心方』以前に「経義解」と名づけられた書はない。そこで筆者らは当語句に史的検討を加え、以下の結果が得られた。

  (1)問題の語句は前行末字の「脈」と続けて「脈経義解」(日本語で「みゃくきょうぎげ」、中国語でMaijing Yijie)と釈読すべきである。

  (2)『脈経義解』という書は現存せず、そうした書が『医心方』以前に著されていた可能性もない。

  (3)なぜ書名ではない「脈経義解」の語句がここにだけ記されているもっとも可能性の高い理由は、誤写と錯簡である。本来そこには『脈経』注釈書の『脈経○○』からと、『令義解』を略称した「義解」からの二つの引用文があったに相違ない。そして誤写と脱落により「脈経」と「義解」が結合した結果、「脈経義解」になったのである。

  (4)「脈経義解」以下に記される「小児初生号赤子」は『脈経○○』の佚文だろう。

  (5)『脈経○○』は漢籍の『脈経音義』、または未知の日本書だった可能性がある。
 

  緒言

  平安時代九八四年に撰進された医学類書、丹波康頼の『医心方』が引用する文献は数多い。その文献数や各々の引用回数がどれだけあり、各文献がいかなる書なのかを解明することは、日本医学史のみならず中国医学史にとっても興味深い研究課題である。

  当問題については検討形式の相違もあるが、半井本系統に基づく森(1) ・岡西ら(2) ・吉田(3) ・長沢ら(4) ・新村(5) ・馬(6) ・小曽戸ら(7) の報告がすでにある。真柳(8)も巻三〇の引用文献とその字数について報告した。引用文献の統計方法に関する諸問題についても、薮内(9) ・赤堀(10)・真柳(11)・馬(12)による議論がなされてきた。

 しかし、いずれも引用数の少ない文献まで十分に考察しているわけではなく、子細に検討するなら訂正の余地も当然あって不思議はない。
 

 一  問題の所在

  半井本『医心方』には巻二五の本文第七行目(図1)(13)にのみ一回、「経義解云…」という記載がみえる。半井本を模刻した安政版では第五葉の表にあり、安政版を影印した人民衛生出版社本(14)は版心を除去するが、内容はいずれも違わない。すなわち図1のように第七行目行頭より「経義解云小児初生号赤子」と記され、この前行は末字以下に五〜六字分の空格があって改行されている。

 『医心方』の通常書式からすると、改行後に行頭から「…云」とあれば、その「…」の文字は引用出典を指す。したがって見慣れぬ名称であるにしても、「経義解」を書名と認識しても当然であった。

 「経義解」を書名と判断した記録は、すでに森立之『医心方提要』(1) 所収の安政四年自筆「医心方引用書目」に見える。彼ら江戸医学館の学者により半井本が世に出現したので(15)、「経義解」を書名とするのは森の判断が記録上の最初だろう。のち岡西ら(2)(一九三七)・吉田(3)(一九三九)・馬(6)(一九八五)・小曽戸ら(7)(一九八六・九四)・☆ら(16)(一九九三)も「経義解」を書名として記す。

 さらに岡西ら(2) と馬(6) は「経義解」を非医書類に分類するが、分類の根拠に言及しない。筆者らも十世紀以前の日本・中国の蔵書目録や古医薬文献の引用書目を管見のかぎり調査したが、これに該当する書名等の記録は発見できなかった。

 はたして「経義解」は書名なのか、それとも書名以外なのだろうか。しかし当問題を考察する前に、当該部分を「経義解」と読み取るべきかがまず検討されねばならない。
 

  二  「経義解」と読む妥当性

  (一)半井本と仁和寺本系の記述形式

 まず半井本で「経義解」と記された前行の文章を見てみよう。すなわち図1の第六行では行頭から一字下げて、

今案太素経云小児初生為嬰能咲為孩脈
と読める文章がある。行頭から一〜二字下げる「今案」注は半井本巻二五にしばしばみられ、当部分はその直前に『小品方』から引用した文章についての注記文であることを、前後の引用文と区別している。ちなみに文章は『太素』からの引用と理解されるが、現伝の楊上善注『太素』や『素問』の新校正注が引用する「太素」「楊上善」の文章にみえない佚文であった。

  さて当佚文の「…能咲為孩脈」の「咲」は「笑」の古字で問題ない。ただし末尾の二文字が「孩脈」では文意がよく通じず、それゆえか「脈」の右横には「児□」の傍注が記入されている。いまの半井本は虫損で「□」の部分がほぼ欠けているが、安政版の版下に半井本を模写した時点では読めたらしく、同部位に「与(歟)」の草体を刻している(14)。つまり傍注では、意味不通の「脈」を「児歟(児か?)」と疑っていた。そうすれば「孩脈」自体は「孩児」となり、語義が通じるからだろう。

 ただし文章全体では「初生為嬰」と「能咲(笑)為孩」が対句なので、一文字の「嬰」と対応するのは一文字の「孩」で、それが二文字の「孩脈」では古語の語法と合わない。たとえ傍注のように「孩児」と釈字しようが、やはり一字あまって文意は通じない。

 一方、巻二五は現存の仁和寺本にない。そこで寛政三年(一七九一)に多紀氏聿修堂で仁和寺本を筆写(15)し、将軍家に献上した内閣文庫所蔵本(以下、内閣仁和寺本と略)で当該部分をみると、図2(17)六行目のように『小品方』引用文以下に細字双行で、

今案太素経云小児初生為嬰能咲為咳脈経義解云小児初生号赤子産経云凡児生当長一尺六寸重十七斤
と記されている。細字双行による「今案」注文の書式は半井本でも一般的で、もちろん当部分は「太素経云小児初生為嬰能咲為咳」「脈経義解云小児初生号赤子」「産経云凡児生当長一尺六寸重十七斤」の三文章からなる。

  第一文末字の「咳」は『説文』に「咳、小児笑也。从口、亥声。古文咳、从子」(18)とあり、小児が笑うことで、その古字を「孩」とする。したがって第一文は初生児を嬰、咲(笑)うようになったら咳(孩)という、の意味になる。第二文は初生児を赤子といい、第三文は初生児の身長・体重をいう。このように三文とも小児のうちの初生児、つまり「嬰」についての記述であり、図2の四行目にある『小品方』引用文中の「嬰児」に対する注と理解していい。

 他方、七行目の『針灸経』文と八〜九行目の『千金方』文は小児への針灸に関する規定を述べ、ともに「嬰児」の説明ではない。両文は『小品方』文への注ではなく独立した引用文なので、それが両書名を行頭から記す書式にも示されている。

(二)半井本の混乱と「脈経義解」

 このように、内閣仁和寺本の巻二五図2部分は記載内容と書式構成がほぼ合致し、とりあえず問題 はない。逆に半井本巻二五の図1部分は『医心方』の「今案」文の書式として、いささか混乱があると認めねばならない。当混乱が生じた所以は、半井本の平安写本でも天養二年加点の諸巻が「一点、一画をゆるがせにしない端麗な筆法を示して、証本として書写されているのに対し」、巻二九および当該の巻二五が「本文を書き留めることを旨としており、自分の手控本としての性格が強い」別本、と山本が指摘(19)することとおおいに関連するだろう。半井本に基づき安政版を校刻したとき、仁和寺本の転写本と詳細に対校した江戸医学館の学者らもこれら混乱に気づいていた。安政版巻二五の札記の該当部(20)には、

今案  以下至重十七斤三行、仁和寺本細行。為孩  仁和寺本孩作咳。脈経  仁和寺本脈字下属、可従。
の注記があり、仁和寺本のように脈と経を連続して「脈経」と釈読すべきと判断する。
  
 以上より、半井本巻二五で「経義解」と記された前後の三文章は、ともに疑いなく『小品方』引用文に対する「今案」注と判断できる。また半井本の祖本のある段階では三文章が連続して筆写され、かつ内閣仁和寺本と同文だったことも疑いない。すなわち「今案…為孩。脈経義解云…」と記された底本が必ず存在していた。それを筆写のある段階で「…為孩脈」の後で改行したため、「今案…為孩脈/経義解云…」という半井本巻二五に至ったのである。よって第二文は「脈経義解云。小児初生号赤子」の記述がとりあえず正しい。すると書名としてこれまで記録にない、脈書らしい「脈経義解」が次の問題となる。 この「脈経義解」については可能性が以下の四通り考えられる。

 まず想定すべきは、かつて漢籍か韓籍か国書の『脈経義解』が存在したが、既知の文献には記録されずに散佚した可能性だろう。というのも多紀氏聿修堂では将軍家に献上した内閣仁和寺本と同時に手控え本も筆写しており(15)(21)、東京国立博物館に伝承された多紀氏手控え本の当該「今案」注部分では、『太素経』や『産経』と同様に「脈経義解」にも左に朱線を引き、彼らが書名と判断していたからである(22)。

 あるいは「脈経義解」の記述それ自体になんらかの錯簡があり、本来は別な記述だった可能性も想定すべきだろう。なお三木の研究からすると「脈経義解」が韓籍名の可能性まずない(23)。よって以下は、漢籍の可能性、国書の可能性、錯簡の可能性について順次検討したい。
 

 三  「脈経義解」が漢籍名の可能性

  中国では二八〇年頃の王叔和『脈経』以来、十世紀までに各種『脈経』や「脈経…」「…脈経」「…脈経…」の名を持つ書が多数著されていた(24)。だが「脈経義解」どころか、宋・金時代まででも書名に「義解」の二字がある医書は既知の文献記録にない(25)。類似書名なら◆安時(一〇四二〜一〇九九)の『難経解義』もあったが(26)、そもそも時代が違う。一方、「脈経…」「…脈経…」という書名に後付される「…」は、「訣」「鈔」「略」「機要」「手訣」「音」のみだった(24)(27)。この書名から推せば、およそ当時の「脈経…」「…脈経…」という書は『脈経』の要点ないし字音を記したらしく、字句に義や解の注釈を加えた意味になる「脈経義解」とはまったく違う。これだけからすると、当時中国でそうした書の必要性があったとは考えられない。

 他方、このような書名記録すらない佚書としても、非医書に「義解」の二字を持つ書が多数あれば、『脈経義解』が実在した可能性も示唆しよう。そこで中国十世紀までに存在した書物の名称を、『漢書』芸文志・『隋書』経籍志・『旧唐書』経籍志・『唐書』芸文志で通覧してみた(28)。

 『隋書』経籍志以来、「…義疏」「…義注」「…義綱」や「…音義」という書名が多出し、また「…集解」「…経解」「…節解」も少なからずある。しかし「義解」の二字を持つ書は、『唐書』芸文志の論語類に『崔豹(論語)大義解』の一例しか発見できない。あるいは疎漏もあろうが、「…義解」がきわめて例外的な書名なのは明瞭で、「脈経義解」の書名がありうる条件も満たされない。

 以上より、中国で『脈経義解』という書が著されていた可能性、つまり漢籍の可能性はきわめて低いと判断された。
 

 四  「脈経義解」が国書名の可能性

  平安時代までに日本で著された書物の現存はまれで、医書はもっと少ない。ただし日本には八三四年に施行された『令義解』がある。同様に『脈経義解』なる書が著されていたが、書名すら佚伝していた可能性を一概には否定できない。しかし他に記録も見いだせないので、当時の日本で『脈経』注釈書が著述される条件の有無をまず検討する。次に書名に「義解」が用いられる条件を検討し、「脈経義解」が国書名である可能性を考察してみたい。

  (一)『脈経』注釈書が著述される条件

 『脈経義解』なる書が日本で著されるには中国脈書の存在が前提である。その記録は、七〇一年の大宝律令で医生のテキストに『脈経』を指定(29)するのが最古。八九一〜八九七年ころの『日本国見在書目録』は王叔和『黄帝脈経訣』一二巻・釈羅什『耆婆脈訣』一二巻・楊玄操『脈経音』一巻を著録し(27)、九八四年の『医心方』では当該の「脈経義解」以外に、巻二に一回だけ『耆婆脈訣経』を引用していた(7) 。うち『見在書目録』の王叔和『黄帝脈経訣』一二巻と現在の王叔和『脈経』一〇巻は同一著者で、巻数が近似するので関連性を疑える。一方、『見在書目録』の『耆婆脈訣』と同一書らしい『医心方』引用の『耆婆脈訣経』佚文は、罹患すると危険な日を干支で記す。この書名は仏教医学との関連も推測させるが、ほかに手がかりはない。

 『見在書目録』の楊玄操『脈経音』も他に記録が一切ない。ちなみに玄操の他の著述は『見在書目録』に楊玄操『黄帝八十一難経』九巻(30)・楊玄操『八十一難音義』一巻・楊玄(操)『本草注音』一巻・楊玄操『針経音』一巻・楊玄操『明堂音義』二巻(31)、『宋史』芸文志に楊玄操『素問釈音』一巻が著録される(32)。また『医心方』に一回引用される「楊音」(7) は薬名の藜蘆への反切で、同文が九一八年頃の『本草和名』上巻にも「楊玄操音」として記載される。これら『本草和名』が多量に引用する「楊玄操」「楊玄操音」「楊玄操音義」(33)は記述内容から同一書、かつ『見在書目録』の楊玄(操)『本草注音』のことと推定できる。楊玄操の書はよく利用されて著名だったらしく、楊玄操『…音義』を楊『音』とまで略しても誤解されなかったのだろう。また『本草注音』は『本草音義』とも呼ばれたらしい。同様に楊玄操『脈経音』には「脈経音義」などの別称があった可能性も疑っておくべきだろう。ともあれ奈良〜平安時代の日本に中国脈書は実在し、利用されていた。

 では当時の日本で、中国脈書に注釈する環境はあったのだろうか。中国医書の注釈例では出雲広貞『難経開委』や小野蔵根『集注太素』の記録があり(34)、『難経開委』は『医心方』に「開委」として一回引用される(7) 。一方、作者不明だが『医心方』には『小品抄義』の引用が一回(7) 、また『小品方抄義』から別条文の引用が一二八四年の『本草色葉抄』に一回あり(35)、ともに同一書らしい。一三六二〜六八年の『福田方』には『小品方音義』の引用が一回あるが、中国では十一世紀に『小品方』が失伝した(36)。こうした『小品方』関連書は中国の記録になく(37)、とくに『小品方抄義』は書名からして国書の可能性が高い。他方それらの原典は、大宝律令で『小品方』と『脈経』(29)、『続日本紀』の七五七年の勅令で『太素』と『脈経』(38)、九二七年の『延喜式』で『太素』『難経』『小品方』(39)が医生などのテキストに指定されていた。とするなら『難経開委』『集注太素』や『小品方抄義』と同様、日本で『脈経』に注釈する環境は疑いなくあった。

  ところで当該「今案」注第二文の「脈経義解」が書名なら、「小児初生号赤子」がその佚文となろうが、『脈経』にこの注をつけるべき部分や必要性が当時あったのだろうか。当時の『脈経』は現存せず、佚文も八一〇年の『一切経音義』に引かれる「王叔和脈経」(40)がほぼ唯一だが、それは現在の王叔和『脈経』とよく合致する。そこで現在の王叔和『脈経』を影宋版でみると巻九に「平小児雑病証第九」篇がたしかにあり、その直前の「平婦人病生死証第八」篇には「新生乳子」の語句もある(41)。一方、新生児を「赤子」と呼ぶ例は中国に紀元前からあり(42)、これに九二二〜三一年頃の『和名抄』が「知古(ちご)」の和名をあてるように(43)、当時の日本で「赤子」は注が必要な語彙だった。もし当時の『脈経』に「小児初生」ないし「赤子」の語句があれば、「小児初生号赤子」の注釈があってもいい。

 以上の状況証拠によると、奈良〜平安時代に「小児初生号赤子」を記した『脈経』注釈書が著される可能性はたしかにある。

  (二)『脈経』注釈書名に「義解」が用いられる条件

 『脈経』注釈書名に「義解」が用いられるにはそうした前例、しかも著名な書の存在が第一条件である。前述のように『唐書』芸文志には『崔豹(論語)大義解』があったが、『日本国見在書目録』にはなく、同じ崔豹の『古今注』ほどひろく知られた書ではない。『見在書目録』に「義解」がつく他書の記録もない。中国書名の踏襲は想定しなくていいだろう。

 日本では『養老令』の公的注釈書である『令義解』が、前述のように八三四年に施行された。本書の令文解釈は法としての権威があって後世まで尊重され、八五九〜八六八年の『令集解』では本書から引用を通例「謂」と略称するが、しばしば「義解云」とも略称する。そう称して問題なかったなら、「義解」を書名に持つのは『令義解』が当時およそ唯一だったのだろう。ちなみに「義解」を書名に持つ国書は、『国書総目録』と『古典籍総合目録』に八一文献が著録される(44)。うち成立年代が明らかな平安時代までの書は『令義解』が唯一で、のち南北朝時代の書も一点(45)あるが、両書以外は医薬書三点(46)を含めすべて江戸時代の著述だった。

 以上から判断して、もし『脈経義解』が国書なら『令義解』の踏襲以外ありえず、当然その著述は『令義解』施行の八三四年以後でなければならない。他方、「脈経義解」は丹波康頼の「今案」文中の記述なので、後代に書き入れられた可能性が排除され、『医心方』撰進の九八四年以前の著述でなければならない。

 すでに検討したように『脈経』の注釈書が奈良〜平安時代に著された可能性はあった。しかし、そうした脈論注釈書の必要性や需要が八三四〜九八四年にあったのだろうか。もう一度検討してみたい。

 『脈経』は七〇一年の大宝律令から七五七年の勅令まで医生のテキストに指定されていたが、九二七年の『延喜式』では指定からはずされている。『脈決』も大宝律令(29)から七五七年の勅令(38)まで針生のテキストだったが、『日本紀略』の八二〇年の勅令で指定された針生の学ぶべき医書になく(47)、『延喜式』も指定しない(39)。当時の医薬書等でも、九一八年頃の『本草和名』や九二二〜三一年頃の『和名抄』に脈書の引用は一切ない(33)(48)。九八四年の『医心方』では前述のように『脈経』を一回も引用せず、脈書は巻二に『耆婆脈訣経』から罹患すると危険な日を干支で記す説と、当該の「脈経義解」の記述が各一回あるだけで、ともに脈論とは無縁の文章だった。そればかりではない。

  医学全書としての『医心方』には巻一・二に治療・薬物・経穴の総論があるが、脈の総論部分だけがない。さらに全篇に引用された『諸病源候論』の文章でも、脈論部分だけはほぼ悉く削除されている(49)(50)。この脈論排除の姿勢は完全に意図的といっていい。

 すなわち日本における脈論書の需要は八世紀までで、九世紀以降は学習されず、十世紀後半の『医心方』では脈論すら排除する。したがって脈論注釈書は八世紀までなら著されてもいいが、八三四〜九八四年に著される可能性はきわめて低い。「脈経義解」が国書名だった可能性もほぼ否定された。
 

  五  錯簡で「脈経義解」となった可能性

  (一)可能性の有無

  「脈経義解」が漢籍名や韓籍名や国書名だった可能性、つまり『脈経義解』という書が存在した可能性はほぼ否定された。残されたのは「脈経義解云」の記述自体に錯簡が存在する可能性である。ただし錯簡にしても「脈経」「義解云」以外の文字単位から、「脈経義解云」が合成される可能性は常識的にもありえない。すると「脈経…義解云」の「…」部分が脱落し、「脈経義解云」の記述となったのだろうか。

 まず「脈経…」であるが、『医心方』の『脈経』や脈論を排除する編纂姿勢からして、「『脈経』…」だったとはあまり考えられない。いわんや「『耆婆脈訣経』…」が錯誤で「脈経…」に変化する可能性もおよそない。よって「脈経…」は『脈経…』という書物の引用だった可能性が大である。さらにその書には脈論以外の内容がなければ『医心方』に引用されるはずはない。ならば仁和寺本の「今案」注の第二文、「小児初生号赤子」こそ『脈経…』という書の佚文である可能性をまず考えておくべきだろう。先に考察したように、奈良〜平安時代に「小児初生号赤子」を記した『脈経』注釈書が著された可能性はたしかにあったのだから。

  一方、『令義解』の医疾令は令文中の「少小」に対し、解として「謂。六歳以上為小。十八以上為少。言。療治少小固多異成人。故別云少小」を記す(51)。この「六歳以上為小。十八以上為少」と完全な同文は、図1・2のように当該「今案」文の注対象である『小品方』引用文の冒頭にある。さらに『令義解』からの引用を当時は「令」を省略し、「義解云」と記すのが一般的だった。これに『医心方』が引用可能な「義解」のつく書は唯一『令義解』だったことも勘案すると、「義解云」が『令義解』の引用を指すことはまず疑いない。以上を前提に、「脈経…」と「義解云」が「脈経義解云」となるには、どのような混乱を推測すべきだろうか。

 もっとも自然な混乱なら当該部分は、

今案。太素経云小児初生為嬰能咲為孩。脈経…義解云小児初生号赤子。産経云凡児生当長一尺六寸重十七斤。
だったかもしれない。そして仁和寺本と半井本の共通祖本のある段階で「…」部分が脱落し、「脈経義解云」となったという推測である。この場合、「小児初生号赤子」は『令義解』の文章となる。しかし『令義解』の全文を精査しても同文や類文は発見できず、当推測はなりたたない。

  他方、『令義解』を引用するなら、『小品方』と同じ規定をする医疾令解文の「六歳以上為小。十八以上為少」を引用するはずがない。あえて注記するなら『小品方』の同文直後に「(今案令)義解同之」と記し、続けて文頭に「又(云)」をつけて以後の文章を引用するだろう。が、当『小品方』引用文にはそうした痕跡もみえない。それよりは『小品方』文末尾の「有少小方焉」について、「療治少小固多異成人。故別云少小」を文意からしても引用するはずである。この場合、話の順次より、

今案。太素経云小児初生為嬰能咲為孩。脈経…云小児初生号赤子。産経云凡児生当長一尺六寸重十七斤。義解云療治少小固多異成人故別云少小。
という文章がもっとも妥当となる。ただし「…」部分と「療治少小固多異成人故別云少小」の脱落と同時に、「義解」が「…」部分に移動するという相当に激しい混乱が生じなければ現在の文章にならない。そうした可能性を想定しうるだろうか。

  (二)錯簡で「脈経義解」となる現実性

 破損などや筆写の際に文章が脱落するのはよくある。半井本でも脱文を後で書き入れた部分は多い。ただし「義解」が「…」に移動するには、唯一の可能性しか考えられない。俗に「目が飛ぶ」という現象で、隣接した二行のほぼ同位置に同字や類似句があった場合、そこから目線が隣の行に移って読んでしまうことである。そして「…」に「義解」と筆写した後、ふたたび目線が本来の行に戻り「云」以下を筆写した場合しか起こりえない。

 これが発生するには「…」と「義解」は同一か類似した語句だったろう。しかし「脈経…」が「脈経義解」だった可能性はすでにほぼ否定された。

 残る可能性は「…」が「義解」と類似していた場合である。当然「…」は二文字に相違ない。そこで「脈経…」を「脈経○○」とし、今案注は本来の主な書式と思われる細字双行だったとしよう。「○○云」以下の字数は「義解云」まで二六字あるので、一行二六字詰なら一定条件で「○○云」と「義解云」は二行の同位置に隣接する。なお細字双行の今案注は『医心方』全体でおよそ一行二〇〜三〇字の範囲で記されており、それが二六字詰だったと想定しても問題ない。以上の条件にしたがい、脱落しただろう「療治少小固多異成人故別云少小」に横線を引くと、「○○云」と「義解云」が隣接する場合は左のA・B・Cを想定できる。
 

A ……有少小方焉今案太素経云小児初
                   生為嬰能咲為孩脈経
     ○○云小児初生号赤子産経云凡児生当長一尺六寸重十七斤
          義解云療治少小固多異成人故別云少小
 
B  ……………………有少小方焉   今案太素
                           経云小児
        初生為嬰能咲為孩脈経○○云小児初生号赤子産経云凡児生
                当長一尺六寸重十七斤義解云療治少小固多異成人故別云少小
 
C  …………………………………有少小方焉
       今案太素経云小児初生為嬰能咲為孩脈経○○云小児初生号
              赤子産経云凡児生当長一尺六寸重十七斤義解云療治少小固

            多異成人故
            別云少小

  かりに仁和寺本と半井本の共通祖本のある段階で右のように記され、これを筆写すると き「目が飛ぶ」現象を伴えば、「脈経○○云」が「脈経義解云」になることは十分ありう る。その後あるいは同時に横線部分が脱落しなければならないことも併考すると、共通祖 本はAに近似した書式だったかもしれない。しかし、もともと筆写本の『医心方』は相当 に自由な字詰で記されている。したがって「○○云」と「義解云」が近くに隣接し、さら に横線部分が脱落しやすい書式はA・B・C以外にも多数ある。以上より判断すると、『 脈経○○』と『令義解』の引用が錯簡により合成され、問題の「脈経義解」となった可能 性がもっとも高い。

  (三)『脈経○○』について

  以上の考察が正鵠を得ているなら、「小児初生号赤子」の佚文を持つ『脈経○○』とは いかなる書なのだろうか。その「○○」は「義解」に類似していたはずである。

 漢籍なら第一候補は『見在書目録』の楊玄操『脈経音』一巻だろう。というのも当書に は「脈経音義」の別称もあった可能性が先に推測され、この「音義」は「義解」と類似す るからである。一方、現『脈経』には小児病篇があり、婦人病篇では新生児に言及する。 すると楊玄操が底本とした『脈経』に「小児初生」ないし「赤子」の語句があり、『脈経 音義』に「小児初生号赤子」の注釈を記していたかもしれない。ただしこれは状況証拠か らの推測にすぎず、確証もないので、可能性の指摘にとどめたい。

 他方、先に考察したように、八世紀以前なら『脈経○○』という書が日本で著されてい てもよかった。この場合、『小品方抄義』などから「脈経抄義」の名も類推できるが、推測の域を出ない。

 けっきょく『医心方』の当該今案注にある「小児初生号赤子」という佚文は、『脈経○ ○』という未詳書から引用された可能性が高いことは断言できる。それが漢籍の『脈経音 義』だったのか、未知の国書だったのかは判断を保留すべきだろう。
 

 六  結論

  以上、半井本『医心方』巻二五に唯一記される「経義解云」について、諸史料に基づき 検討を加えてきた。その考察結果は次のように総括できる。

(一)「経義解」という書名はありえず、これを前行末字の「脈」と続けて「脈経義解」 と釈読すべきである。

(二)『脈経義解』という書籍が存在した可能性もほぼ否定された。

(三)「脈経義解云」の記述は、『脈経○○』の引用「脈経…」と『令義解』の引用「義解云」が、誤写や錯簡などにより合成された可能性がもっとも高い。

(四)「小児初生号赤子」は『脈経○○』の佚文である可能性が高い。

(五)『脈経○○』は漢籍の『脈経音義』、あるいは未知の国書だった可能性がある。
 

 謝辞
    本拙考に貴重な御助言をいただいた文部省国文学研究資料館の歌野博氏、京都府立医科大学の新村拓氏、大阪大学の東野治之氏、北里研究所の小曽戸洋氏、日本医史学会 理事の杉立義一氏に深謝もうしあげる。
 

文献と注

(1) 森立之『医心方提要』二一葉表〜五一葉裏、一八六〇成立(石原明氏旧蔵の森立之自筆本)。なお『医心方提要』の相当部分は東京大学史料編纂所『大日本史料』第一編之二十一(東京大学出版会、東京、一九八一)に翻字収録されているが、「医心方引用書目」は採録されていない。

(2) 岡西為人・佐土丁「外台秘要医心方証類本草等所引用之古医書」『東方医学雑誌』一五巻一〇号、五四三〜五五三頁、一九三七。当報告は各書における古文献の引用回数を挙げるが、これを岡西為人『宋以前医籍考』(古亭書屋、台北、一九六九)は引用条数に誤って転載している。

(3) 吉田幸一「医心方引用書名索引」『書誌学』一二巻四号二〇〜二八頁、同一三巻一号一九〜二五頁、同一三巻二号一八〜二一頁、一九三九。

(4) 長沢元夫・後藤志朗「引用書解説」、太田典礼ほか編『医心方解説』一八〜二六頁、日本古医学資料センター、東京、一九七三。

(5) 新村拓「『医心方』引用書目」、新村拓『日本医療社会史の研究』二九八〜三一八頁、法政大学出版局、東京、一九八五。

(6) 馬継興「『医心方』中的古医学文献初探」『日本医史学雑誌』三一巻三号、三二六〜三七一頁、一九八五。

(7) 小曽戸洋・大上哲広「『医心方』所引文献索引」、山本信吉ほか編『半井本医心方付録  医心方の研究』資料・索引篇一〜三九頁、オリエント出版社、大阪、一九九四。当索引は小曽戸洋「『医心方』引用文献名索引」『日本医史学雑誌』三二巻一・三号(一九八六)に再検討・補訂を加えたものである。

(8) 真柳誠「『医心方』巻三〇の基礎的研究」『薬史学雑誌』二一巻一号、五二〜五九頁、一九八六。

(9) 薮内清「『医心方』所引の古文献」『医譚』復刊五四号、一〜四頁、一九八五。

(10)赤堀昭「『医心方』への引用回数」『漢方研究』一六五号、二九〜三六頁、一九八五。

(11)真柳誠「赤堀昭氏に質す」『漢方の臨床』三三巻一号、一六〜一九頁、一九八六。

(12)馬継興「関於『医心方』所引古文献条数的核実−答薮内清教授」『日本医史学雑誌』三二巻三号、二九一〜三〇二頁、一九八六。

(13)丹波康頼『医心方  半井家本医心方(五)』二一四六〜四七頁、オリエント出版社、大阪、一九九一。

(14)丹波康頼『医心方』五四九頁下段、人民衛生出版社、北京、一九五六・九三。

(15)矢数道明・小曽戸洋「江戸医学における『医心方』の影写と校刻事業」『漢方の臨床』三二巻一号、五〇〜七二頁、一九八五。

(16)☆双慶・張瑞賢ら校注『医心方』四〇〇頁、華夏出版社、北京、一九九三。

(17)丹波康頼『医心方  仁和寺本影写本・多紀家旧蔵本』三七八頁、オリエント出版社、大阪、一九九一。

(18)段玉裁『説文解字注』五八頁、成都古籍書店、成都、一九八一。

(19)山本信吉「半井本医心方について」、前掲文献(7) 解題・研究篇三〜二九頁。

(20)前掲文献(14)、五八六頁。

(21)杉立義一『医心方の伝来』二二二〜二五六頁、思文閣出版、京都、一九九一。

(22)東京国立博物館所蔵の多紀氏旧蔵写本を調査された杉立義一氏のご教示による。

(23)三木栄『増修版  朝鮮医書志』(学術図書刊行会、一九七三)に「脈経義解」や類似の書名はなく、三木栄『補訂  朝鮮医学史及疾病史』(思文閣出版、一九九一)は新羅一統時代(六六八〜九三五)の医学生が学ぶべき書に『脈経』が指定されていたことを指摘するが、『脈経』を含めそれらの注釈書が新羅で著された記録はない。

(24)岡西為人『宋以前医籍考』一二三〜一七七頁、古亭書屋、台北、一九六九。

(25)文献(24)一四二七〜一四五〇頁「書名索引」。

(26)文献(24)一一五頁。

(27)矢島玄亮『日本国見在書目録−集証と研究』一九三〜一九四頁、汲古書院、東京、一九八四。

(28)『史学叢書  中国歴代芸文志』一〜三三二頁、大光書局、上海、一九三六。

(29)丸山裕美子「日唐医疾令の復元と比較」『東洋文化』六八号、一八九〜二一八頁、一九八八。

(30)本書の楊玄操注は現伝の宋・王惟一『王翰林集注黄帝八十一難経』に楊曰として佚文が引用されている。

(31)文献(27)一八四・一九五・一九六頁。

(32)文献(28)四四一頁。

(33)真柳誠「『本草和名』引用書名索引」『日本医史学雑誌』三三巻三号、三八一〜三九六頁、一九八七。

(34)静嘉堂文庫所蔵の『本朝書籍目録(仁和寺書籍目録)』による。

(35)真柳誠「『本草色葉抄』所引の医学文献」『日本医史学雑誌』三六巻一号、三四〜三六頁、一九九〇。

(36)小曽戸洋「『小品方』書誌研究」、北里研究所附属東洋医学総合研究所医史文献研究室編『小品方・黄帝内経明堂  古鈔本残巻』六八〜八〇頁、北里研究所附属東洋医学総合研究所、東京、一九九二。

(37)文献(24)五二一〜五二二頁。

(38)国史大系編集会『新訂増補国史大系  続日本紀前篇』二四三頁、吉川弘文館、東京、一九七六。

(39)国史大系編集会『新訂増補国史大系  延喜式後篇』八二六頁、吉川弘文館、東京、一九七五。

(40)慧琳・希麟『一切経音義』正編二六・八一・二一三頁、続編七・二〇・二九・七二頁、大通書局、台北、一九八五。

(41)小曽戸洋監修『東洋医学善本叢書7  脈経・鍼灸甲乙経』九六頁、東洋医学研究会、大阪、一九八一。

(42)張玉書ら『佩文韵府』一五六五頁、上海古籍書店、上海、一九八三。

(43)京都帝国大学国文学研究室『古典索引叢刊1  狩谷〓斎箋注倭名類聚抄』四七頁、全国書房、大阪、一九四三。

(44)歌野博氏のご教示による。分野別では『令義解』を含む同書関係書および仏教書が各々一七書目あり、もっとも割合が高い。

(45)明山著『義解行位』。

(46)丹波忠守著『神遺方義解』、勝田五嶽著『傷寒論古義解』、武藤宗英著『大同類聚方方義解』であるが、後二書は現存不詳。

(47)国史大系編集会『新訂増補国史大系  日本紀略前篇』三一一頁、吉川弘文館、東京、一九七五。

(48)吉田幸一「和名抄引用書名索引(上)」『書誌学』一〇巻四号、一三〜二八頁、一九三八。

(49)平馬直樹・小曽戸洋「『医心方』に引く『諸病源候論』の条文検討」『日本医史学雑誌』三一巻二号、二五五〜二五七頁、一九八五。

(50)平馬直樹「『医心方』に引く『諸病源候論』の条文検討(第二報)」『医心方研究発表会−発表要旨集』三二〜三六頁、医心方研究発表会、東京、一九八五。

(51)国史大系編集会『新訂増補国史大系  令義解』二八〇頁、吉川弘文館、東京、一九七五。
 

(真柳:茨城大学人文学部)
(沈:南京中医薬大学医古文教研室)

→戻る