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真柳誠「『医心方』巻30の基礎的研究−本草学的価値について−」『薬史学雑誌』21巻1号52−59頁、1986年7月

A basic research on the vol. 30 of the "Ishinho"
On historical and herbological value*1

Makoto MAYANAGI*2

*2 Department of History of Medicine, Oriental Medicine Research Centre of the Kitasato Institute
5-9-1, Shirokane, Minato-ku, Tokyo Japan 108

Summary

    The Ishinho(医心方)written by Yasuyori Tanba(丹波康頼)in 984 is the oldest extant medical work in Japan. One of the most important contributions of this work might consist in the systematic compilation of materials selected from vast foregoing medical documents. Many of the original sources utilized by Tanba at that time have been since long lost,and people can imagine the original form of each of these lost sources through cited paragraphs in the Ishinho.

    The vol. 30 of this book deals with materia medica,and near the half of the content is cited from the Xinxiu-bencao(新修本草). Fortunately,wehave in Japan an old manuscript,if not perfect,Xin-xiu-ben-caoNinnaji-MS,仁和寺本). The present author will therefore try to make a comparative analysis betweenthe Ishinho and the Ninnaji-MS of the Xin-xiu-ben-cao. From this study following suggestions could be made:

    [1] All of herbal diets seen in the vol.30 of the Ishinho had been produced and utilized in Japan before Yasuyori Tanba.

    [2] The attitude of the author of the Ishinho might have been primarily based on practical use of materials,and not necessarily on the traditional Chinese ideas of drug classification.

    [3] All citations from the Xin-xiu-ben-cao might have been made by the strong personality of Yasuyori Tanba who has laid stress on practicability. The selection and alteration of primary sources might have occurred in thiscontext.

『医心方』巻30の基礎的研究−本草学的価値について−*1

真柳誠*2 

*1…医心方研究発表会(1985年10月、京都)にて発表
*2…北里研究所附属東洋医学総合研究所医史学研究室

 

 『医心方』(1)全30巻は針博士(2)・丹波康頼が永観2(984)年に撰進と伝えられる(3)、現存する日本最古の医書である。かつその最大の特色と価値は、岡西(4)・吉田(5)・長沢(6)・新村(7)・馬(8)・小曽戸(9)らが報告するごとく、既散書を含む六朝・隋・唐を中心とする医薬文献などより多量の逸文が出典を明記のうえ引用されていること。およびそれらのすべてが、後世の改変を受ける以前の旧態で引用・保持されていることにある(10)。それゆえ、『神農本草経』(11,12)・『本草経集注』(13,14)・『新修本草』(15,16)・『食療本草』(17,18)、および『小品方』(19)・『素女経』・『玉房秘決』・『玉房指要』・『洞玄子』(20)など唐以前の医薬書を重輯・校訂する格好の資料として、本書はこれまでいく度も利用されてきた。

 しかし『医心方』にかぎらず、所引文や断片的記述を研究資料とするにはその信頼性に対する基礎考察が不可欠である。当然ながら、このためには引用上の特徴や編述姿勢がまず把握されねばならない。あいにく現伝『医心方』には編者自身の序や跋がなく、その間の事情が不明瞭である。したがって中国医薬書の抄出・羅列にすぎないと単純に評論されることが多く、この方面には従来見るべき考察がなかった(21)

 さて『医心方』の巻30は、それ自体が一種の食物本草とも呼ぶべき、やや独立した体裁となっている。前述のごとく、当巻にも『神農(食)経』(22)・『本草拾遺』(23)をはじめとする既散医薬書の逸文が多量に保存され、唐以前の本草・食経書をうかがう上で資料価値がきわめて高い。さらに所引文の約半数量は書誌学的問題の少ない『新修本草』(24)や『証類本草』(25)中に対応文があり、それらについては信頼度の高い比較考察が可能である。

 よって本報は、まず『医心方』巻30の構成・収載文・引文の取捨、の3方面より検討を加える。その結果、編著・丹波康頼の編纂姿勢と引用特徴、および日本の本草書としての価値を考察する。ひいては巻30のみならず、『医心方』所引文全体の信頼性をはかる一視座の提出を目的とするものである。
 

1.構成

 『医心方』巻30は、安政版(26)によれば「札記」を除き全51葉。全体は「目次」、「総論」(27)、「五穀部第一(24品)」、「五菓部第二(41品)」、「五肉(28)部第三(45品)」(29)、「五菜部第四(52品)」からなり、4類・計162品の食物薬が収載されている。そこで、まず丹波康頼が食物薬を五穀・五菓・五肉・五菜の4類に編成したゆえんを考察してみる。

 『医心方』以前に成立の医薬書中、食物薬をこのように類編・収載することを現在に知られ、丹波康頼が参考とした可能性を想定できるものに以下の例があげられよう。

(a)陶弘景編『本草経集注』(30)7巻(492-500)(31):巻6に虫獣、巻7に果・菜・米食の計4類を収める(32)

(b)孫思{貌+シンニュウ}著『千金方』(33)30巻(655-659)(34):巻22(35)に果実・菜部・米食部・鳥獣部の計4類を収める。

(c)『新修本草』(36)20巻(659):巻15に獣禽部、巻16に虫魚部、巻17に菓部、巻18に菜部、巻19に米等部の計5類を収める。

 上掲3書中、『本草経集注』と『新修本草』は各類をさらに上・中・下の三品に分類するが、『千金方』巻22および『医心方』巻30はこの三品分類を採用していない。かつ後2書は総論を冒頭に置く点、4類に食物薬を編成する点も共通している。すなわち『医心方』巻30の構成は、『千金方』のそれを参考にした可能性が推測されよう。これは、『医心方』にこのような巻を設けることが、『医心方』巻1「服薬節度第三」の冒頭に『千金方』より引用された、「夫為医者、当須洞視病源、知其所犯、以食治之。食療不愈、然後命薬」を受けたものであろうことから傍証できる。

 しかし丹波康頼は、『千金方』巻22の構成・類編名などをそのまま模倣しているわけではない。『医心方』巻30の総論を注目すると、そこには『太素経』より「五穀為養、五菓為助、五畜為益、五菜{土+卑}」(37)と、巻30構成篇名と順次のひな型を示す文が引用されている。したがって丹波康頼は、巻30編纂の発想を『千金方』によりながらも、具体的類編と順次は『太素』の記載(38)に依拠したものと考えられる。ちなみに、『太素』が「五畜」とするのに、『医心方』の類編で「五肉」と改めるのは、鳥・魚・貝なども含ませる目的に相違ない。この構成に、康頼が独自の観点を示そうとする意識を見ることができよう。
 

2.収載品

 『医心方』巻30に収載される食物薬162品は、『千金方』巻22所載の約170品とほぼ同数である。しかし個々の品目には相当数の出入がある。これは『千金方』巻22所載品の大多数が『本草経集注』より採録されている(39)のに対し、『医心方』巻30所載品は「本草」(40)ばかりでなく、多くの食療本草類から採録されている(41)ことによる。

 そこで、巻30所載162品の各条で、第1に引用する書毎の回数を表1に作成してみた。この表より大体の傾向として、主食たる五穀では大多数が『(新修)本草』を第1に引くが、他の3類 とりわけ五肉部では『(新修)本草』以外の記述を第1に引用するものが多いことを了解できる。次にこの五肉部を例にとり、さらに検討を加えてみた。

 すなわち、『本草経集注』品で『千金方』巻22に引録されるが、『医心方』巻30五肉部に見えないものを(a)。『医心方』巻30五肉部所載品であるが、『千金方』『新修本草』両書に未収のものを(b)として列挙すると以下のようになる。

(a)人乳、馬乳、羊乳、驢乳、醍醐、熊、馬、狗、虎、豹、狸、獺など。

(b)雲雀(ヒバリ)、鳩、鵤(イカルガ)、鯛、鯖、鯵、鮭、鱒、王余魚(カレイ)、海月(クラゲ)、海蛸(タコ)など。

 一見して理解されるように、(a)は主に畜獣、(b)は野鳥・海産魚類という特徴がきわめて明瞭である。つまり丹波康頼は(a)の動物性食物薬をあえて『千金方』『新修本草』より採らず、逆に両書未収の(b)を諸家の食経書などから捜し出して収録しているのである。この(a)・(b)の相違に、当時の日中間の産物・習慣・副食品の違いに対する康頼の配慮を如実に見ることができる。

 ちなみに、『医心方』巻30所載品で「本草云」の引文を持つもののうち、橡実・酪・{魚+即}魚・竜葵・蘆茯(莢{艸+服}根)などは『新修本草』新附品である。かつそれらの「本草云」の文章は皆『新修本草』の大字文と一致する。したがって、少なくともそれらについては『新修本草』を引用していることが明らかである。そこで巻30所載品の配列順次を見ると、全体としては『新修本草』や『本草経集注』に従っている。ところが、同類品を前後に集める結果、処々は両書の類編や三品配順が無視されている(42)。『千金方』巻22所載の『本草経集注』品の配順にも同様の傾向を見られるが、『医心方』巻30ほどではない。むろん、『医心方』の約66年前に成立(43)の『本草和名』が、ほぼ完全に『新修本草』の配順を踏襲している(44)のとは相当の違いである。この配順に、丹波康頼の合理性と独自性をうかがうことができよう。

 次に各食物薬条末に小字で付記される和名を注目すると、酪と酥(45)を除くすべてに和名が同定(46)されている。『本草和名』や、それに追加・訂正したと思われる本書の巻1諸薬和名第10は『新修本草』の全品を引録するため、後者ですら約5分の1(47)に和名が記されない。つまり『医心方』巻30は、日本に産出し、すでに広く使用されて和名のあるものを選択・収載していることが推測できる。さらに、和名の前に小字で「今案」と述べる文が30品に見られるが、そのうち25品に「今案、損害物」と明記されている。これは明らかに丹波康頼の字句であるから、康頼が人体に害を与えると判断するに足る使用経験がすでに蓄積されていたことになる。

 以上の検討より、『医心方』巻30所載品は日本の実情に合わせ、日本に産出して一定の使用経験があり、かつ中国の書物に記載のある品を選択し、それらを康頼の観点から配置している、と考察される。
 

3.引用文の取捨

 『医心方』巻30所蔵計162品の各条文は、前述の「今案」文と和名を除き、すべて引用文で構成されている。おのおのは引用書数や引用文の長短により必ずしも一定しないが、全体傾向として薬名以下は基本的に(a)気味、(b)毒の有無、(c)主治・効能、(d)服用・調理法、(e)久服や多服時の副作用、の内容からなっている。(a)〜(c)は『本草経集注』、『新修本草』の大字文に必ず記される内容である。また所引文から見るかぎり、諸家の食経には(d)・(e)の記載が多い。諸書より漫然と引用・羅列して、(a)から(e)の内容が満たされることはむろんありえない。したがって、ここに丹波康頼が正統本草と諸家食経双方の内容を包括させんとした目的意識を読みとることができよう。

 次に個々の引用文に検討を加えてみる。まず巻30所引書毎の引用字数・回数を集計し、それを表2にまとめてみた。「崔禹」に次いで引用数の多い「本草」は、前述したように『新修本草』あるいは『新修本草』『本草経集注』両書の大字文を引用したものである。ところで、両書の大字文はもともと均しく朱と墨で『神農本経』と『名医別録』の字句が区別されていたはずである(48)。両者を区別せずに「本草」と記すことは、康頼の使用したものが『新修本草』、『本草経集注』のいずれにせよ、「本経」文・「別録」文ともに墨書されていた可能性を示唆している。『本草和名』(49)も両者を区別しないこと、仁和寺本系『新修本草』(50)がすべて墨書されていることもその示唆を証左しよう。なおかつ、この「本草云」以下の文字は、現行『証類本草』白・黒大字より仁和寺本系『新修本草』の大字とはるかに良く合致する。以上を勘案するならば、丹波康頼の引く「本草」は仁和寺本と同系にある『新修本草』の可能性が高いと推測できる。

 また「陶景注云」「陶景云」、「蘇敬注云」「蘇敬云」などとわずかに異なる字句を付す引用文がある。それらすべてを『新修本草』『証類本草』と照合したところ、2例(51)を除きいずれも陶弘景と蘇敬の注釈文の引用であった。したがって『医心方』巻30に「本草」「陶景注」「蘇敬注」などと記される引文は、均しく『新修本草』からの所引と見なしてよいと考えられる。

 上述の検討にもとづき、表2より引用字数の多い順に書名をあげると、『新修本草』、「崔禹」、「拾遺」、「孟{言+先}」等々ということになる。とすると、丹波康頼は巻30の編纂にあたり、およそこの順に各書の記載を重視している、と見て大きな問題はないだろう。筆頭の『新修本草』は半数の巻(52)が『証類本草』に転録の形でしか伝わらないにしても、幸いなことに現在その全文を知ることが可能である。そこで、現伝『新修本草』と巻30所引文を照合したところ、以下の明瞭な傾向が認められた。

[1]『新修本草』大字文後半の産地・採取時期は一切引用されていない。

[2]大字文中の薬物別名はほとんど引用されない。

[3]気味と毒の有無は必ず採録される。

[4]久服による延年軽身に類する記述は、多くが採録される。

[5]久服・多服による副作用は、多くは採録される。

[6]類似品との鑑別注釈文の多くは採録される。

 さて、上掲の傾向は次のように理解することができる。

[1]については先に考察したように、巻30所載品すべてに日本産品が同定・開発されており、あえて風土の異なる中国の採取時期や産地を引用する必要のないことは当然である。ましてや、その地名は後漢頃のものと陶弘景が記す(53)だけに、当時の日本に実用的意味のないことはなおさらであろう。

 [2]は、『医心方』前に成立の『本草和名』が、『新修本草』中の全別名をすでに網羅しているためと考えられる(54)

 [3]の「味」の記載については、品質や類似品との鑑別の目的と、『素問』など「内経系医書」に記録される「五味説」を利用した薬効の抽象的簡称目的の2通りが考えられる。ところで先に述べた巻30の総論冒頭に引かれる『太素』の文は、本来は五味の抽象的作用論説の一部分である。しかし総論には所引文の前後にある五味論説が一切引用されないばかりか、所引文に対する楊上善注も「五味」の2字を一々除去して引用している。丹波康頼のこの際立った姿勢は、同じく『千金方』22巻の総論に『太素』と酷似した五味論説が大量に記述されているのと全く対照的である。したがって(6)の傾向も考慮すると、康頼は各々の味を実践的鑑別目的で採録(55)していると理解される。

 [3]の「気」と毒の有無、そして[4][5]の引用傾向は、いずれも巻30所載品が薬物であると同時に食物でもあり、そもそも久服し、時には多服もするからである。一般に『神農本経』『名医別録』に記される「久服延年軽身」の類は神仙流の邪説と退けられることが多い。しかし少なくとも当時の食養生において、これは究極の目的であり、きわめて現実的課題であった。[4]の傾向はこの意味でしごく当然であり、かつそれは『医心方』巻27に養生の内容が編纂されていることに呼応している。同様に[5]の傾向は、『医心方』巻29に食禁の内容が編纂されていることと軌を同じくしている。

 [6]の傾向は、『千金方』巻22が食物薬の実践的応用の記述に始終するのに対し、康頼が陶弘景や蘇敬らと同じく、応用面以外に正条品の同定・鑑別という基礎的側面にも留意していたことを物語る。それは先に指摘したごとく、巻30を単なる食物本草ではなく、正統本草の内容をも踏まえたものにせんとする康頼の意識を体現したものと理解できよう。

 以上6点の傾向に加え、陶弘景・蘇敬の注文や字数の多い大字文は程度の差はあれ、ほぼすべてが処々省略のうえ引用されている。また少数ながら、記載の前後を変えた引用例(56)も見られる。それらのある部分は、あるいは現伝『新修本草』『証類本草』と、康頼が使用した底本との相違に由来する可能性も全くは否定しえない。しかし他条との比較より、多くは康頼の観点を反映した節略・改変と考えられる。

 以上の検討より、丹波康頼は当時の日本に適した実用的内容を持ち、また正統本草の長所をも具有した食物本草として巻30を編纂していると考察された。したがって『新修本草』からの引用は、一定の基準で条文が取捨され、時には前後を入れ換える操作なども行われている。当然このような取捨・改変は、他の所引文中にも存在するであろうことは想像に難くない。
 

4.結論 

 『医心方』巻30に対し、構成・収載品・引文の取捨の3方面より検討を加えた結果、下記の結論と示唆が得られた。

 [1]『医心方』巻30はごく一部を除き、すべて中国書籍(57)の引用文で構成されている。しかしながら、その収載品は日本に産出して使用経験のあるものが選択されている。

 [2]丹波康頼の編纂姿勢は、三品分類や正統本草の薬物類編に必ずしも拘泥せず、「五味」説と薬味を関連させる観念主義も排するなど、構成・収載品・引文の取捨ともにきわめて実践的意図に立脚している。そこには中国という権威を借りながらも、単なる引用・模倣にとどまらず、自己の見識を反映させたより完璧な食物本草を編纂せんとする康頼の強固な意志をもうかがうことができる。

 [3]巻30所引の「本草」は、『新修本草』大字文である。それらは陶弘景注・蘇敬注からの引用も含め、[1][2]の理由による康頼の取捨と一部の改変が施されたものである。したがって『医心方』所引の様々な逸文は、各々の旧態を保ちつつも、一定の節略・改変が存在することが示唆される。

 以上の結論と示唆は、今日『医心方』のみが持つ計り知れない価値をいくばくなりとも損なうものではない。巻30に限定しても、現存する日本の本草書として初めて自国に適した独自性を体系化した点で、日本の本草学・薬史学上に特筆されるべき価値を持つのは明白であろう。今後、『医心方』に対する基礎的研究がさらに進められれば、薬史学・医史学・書誌学などの各分野で、かけがえのない本書の資料価値が一層発揮されるものと考える。
 

謝辞:本研究費用は北里研究所附属東洋医学総合研究所の矢数寄金によった。当研究所所長・矢数道明博士のご好意に心より感謝申し上げる。また本研究にあたり、種々のご高配をいただいた当研究所副所長・大塚恭男博士、基礎資料収集に援助と助言を与えられた当研究所医史学研究室室長・小曽戸洋博士に深謝する。
 

参考文献および注

(1)万延元(1860)年初刊の江戸医学模刻半井本(「安政版」と略称)を底本に使用。その影印版に『日本古典全集』所収本(1935年初刊・1978年覆刊)、人民衛生出版社本(北京、1955年刊)、日本古医学資料センター本(1973年刊)、新文豊出版公司本(台北、1976年刊)がある。また国立公文書館内閣文庫蔵の江戸写本(「内閣文庫本」と略称)も参照した。

(2)安政版の刻医心方序に、撰進時の位を「従五位下行針博士兼丹波介丹波宿称康頼」と記す。

(3)安政4(1857)年に森立之が影刻した延慶本『医心方』の奥書(注(1)所掲の人民衛生出版社本に影印収録)に、「康頼、永観二年十一月廿八日撰此書、進公家」とある。

(4)岡西為人・佐土丁:外台秘要、医心方、証類本草等書引用之古医書、東方医学雑誌15、543、(1937)。

(5)吉田幸一:医心方引用書名索引、書誌学、12、120(1939);同13、19、50(1940)。

(6)長沢元夫・後藤志郎:引用書解説、影印安政版所付、日本古医学資料センター、東京、P.18(1973)。

(7)新村拓:日本医療社会史の研究、法政大学出版局、東京、P.286(1985)。

(8)馬継興:『医心方』中的古医学文献初探、日本医史学雑誌、31、326(1985)。

(9)小曽戸洋:『医心方』引用文献名索引(1)、日本医史学雑誌、32、89(1986)。

(10)小曽戸洋:漢方古典文献解説9・医心方、現代東洋医学、5(4)、77(1984)。

(11)森立之重輯:神農本草経、文祥堂書店再印、東京(1933)。

(12)尚志鈞校点:神農本草経校点、皖南医学院科研処、蕪湖(1981)。

(13)小嶋尚真・森立之・森約之重輯:本草経集注、南大阪印刷センター影印、大阪(1972)。

(14)尚志鈞輯校:本草経集注、蕪湖医学専科学校油印、蕪湖(1963)。

(15)岡西為人重輯:重輯新修本草、学術図書刊行会、川西市(1978)。

(16)尚志鈞輯絞:唐・新修本草、安徽科学技術出版社、合肥(1981)。

(17)中尾万三:校合食療本草遺文、上海自然科学研究所彙報、1(3)、(1930)。

(18)謝海州・馬継興・翁維健・鄭金生輯校:食療本草、人民衛生出版社、北京(1984)。

(19)高文柱輯校:小品方輯校、天津科学技術出版社、天津(1983)。

(20)葉徳輝編輯:双梅景闇叢書所収、公論社影印、東京(1982)。

(21)この空白を埋めるべく、平馬氏らの基礎研究が行われている。平馬直樹・小曽戸洋:『医心方』に引く『諸病源候論』の条文検討−その取捨選択方針初探。日本医史学雑誌、31、255(1985)。

(22)真柳誠:『医心方』所引の『神農経』『神農食経』について、日本医史学雑誌、31、258 (1985)。

(23)開元27(739)年、陳蔵器撰。宋・銭易の『南部新書』に「開元二十七年、明州人陳蔵器、撰本草拾遺」とある。宋・唐慎微の『証類本草』に「陳蔵器云」「陳蔵器余」として引用されている。

(24)底本には仁和寺蔵国宝古巻子本(巻17・19、武田長兵衛影印、1936)。江戸影写仁和寺本(巻15、武田長兵衛影印、1936)、森立之旧蔵影写仁和寺本(巻18、上海古籍出版社影印、1981)、小嶋宝素復原本(巻16、台北故宮博物院蔵)を用いる。

(25)底本には柯逢時校刻『経史証類大観本草』(廣川書店影印、東京、1970)と、金・晦明軒翻刻『重修政和経史証類備用本草』(人民衛生出版社影印、北京、1957年初刊)を併用する。

(26)上掲注(1)所引文献。

(27)底本は「総論」を、次の「五穀第一」の冒頭に置く。

(28)底本は「肉」を異体字の「宍」に作る。

(29)大田典礼(巻第30解説、影印安政版所付、日本古医学資料センター、東京、P.222-226、1973)はこれを46品と数える。だが、これは当巻に記載のない「雲丹」を霊{虫+壘(ルイ)}子の和名「宇仁(ウニ)」につられて記入し、 それを加えて計上したことによる誤算。

(30)藤原佐世編『日本国見在書目録』(891-897年頃)の医方家に「神農本草七、陶隠居撰」と記されることによる。

(31)岡西為人:本草概説、創元社、大阪、P.47(1977)。

(32)上掲文献(13)の編成による。

(33)上掲注(30)所引文献に「千金方卅一、孫思{貌+シンニュウ}撰」と記されることによる。

(34)大塚恭男:「千金要方」について、漢方の臨床、18、303(1971)。

(35)南宋刊未経宋改本『新雕孫真人千金方』(静嘉堂文庫蔵)の巻編成による。通行する宋改本『千金方』はこれを巻26に置くが、宋改を受けているゆえにこれを採用しない。

(36)上掲注(30)所引文献に「新修本草廿巻、孔玄均撰」と記されることによる。

(37)『素問』蔵気法時論篇第22は、この「{土+卑}」を「充」に作る。

(38)この記載は現伝『太素』(『東洋医学善本叢書』所収影印仁和寺本、東洋医学研究会、大阪、1981)の巻2調食に見える。

(39)渡辺幸三:孫思{貌+シンニュウ}千金要方食治篇の文献学的研究、日本東洋医学会誌、5(3)、21(1955)。

(40)後に考察しているが、「本草云」と引かれる文は、『新修本草』からのものと推定される。

(41)前掲文献(7)、298;同文献(8)、334

(42)たとえば、五菓部の最初に『本草経集注』『新修本草』が(草)木部上品とする橘・柚を引用したり、両書の三品による配順を無視して同類物を前後に集め、乾棗(上)→生棗(上)→李(下)→杏実(下)→桃実(下)→梅実(中)→栗子(上)→柿(中)→梨子(下)の順に配置する例が見られる。

(43)『日本紀略』延喜18(918)年8月の条に、「右衛門医師深根輔仁、撰掌中要方」とあり、『和名類聚抄』の源順序に「大医博士深江輔仁、奉勅撰集新鈔倭名本草」とあるので、おそらく現伝『本草和名』も『掌中要方』と近い年に勅撰されたものと推測されている。

(44)多紀元簡:刻本草和名序。寛政8(1796)年刊、『本草和名』(『日本古典全集』影印収録)前付(1926)。

(45)『政事要略』によると、文武4(700)年に全国に酥の製造・献上を命じている。したがって、飛鳥・奈良時代より宮廷で酥を用いたことは疑いない。ならば『医心方』や『本草和名』に酪や酥の和名を記さないのは、当時それらを外来語としてそのまま「ラク」、「ソ」と呼んでいたものと考えられる。

(46)黄粱米も条文中に和名を記されないが、巻30巻頭の目次や巻1諸薬和名第10には「キナルキア(支奈留支美・キナルキミ)」と記されている。

(47)『新修本草』薬全850品中、161品に和名が記されない。

(48)劉翰・馬志:開宝重定序。証類本草所収、上掲注(25)所引文献。

(49)影写紅葉山文庫本、森立之旧蔵、台北・故官博物院現蔵。通行の多紀刊本は所改が著しい。

(50)上掲注(24)所引文献。

(51)安政版・内閣文庫本ともに、杏実条に引く「陶(景)注云」文が現伝『新修本草』、『証類本草』では大字(「本経」)文であること。また柿条に引く「陶云」が、現伝『新修本草』『証類本草』中の陶弘景注文その他などに発見されないこと。

(52)巻1・2・3・6・7・8・9・10・11・16の10巻以外は仁和寺本系の伝写本が現存する。また敦煌からは、巻1断簡の李盛鐸旧蔵文書、巻10断簡のペリオ3714文書、巻17・18・19節略断簡のスタイン4534文書などが出土している。

(53)「其本経生出郡県、乃後漢時制」(陶弘景序。敦煌出土『木草経集注』残巻、竜谷大学蔵。京都国立博物館編:医学に関する古美術聚英影印収録、便利堂再版、京都、図版40、1973)と言う。また上掲注(25)所引文献の滑石条・陶隠居注にも、「本経所注郡県、必是後漢時也」と強調する。

(54)『本草和名』は『新修本草』以外にも、『医心方』とかなり共通の文献より別名を引用している。

(55)『本草経集注』以後、「本経」と「別録」の気・味が相違する場合、両者は「味甘・苦、平・温」のように併記されている。しかし巻30はこのような場合、多くはいずれか一方ずつを選択して引用している。これも同様の理由によると考えられる。

(56)たとえば『新修本草』巻17は、「李核人、味甘苦平無毒、主…。実、味苦、除固熱調中」と記されているが、『医心方』巻30第13葉オモテは「李、本草云、味苦平無毒、主固熱調中」と、李の種仁の気味と果実の主治を混記している。また『医心方』巻30第47葉ウラの楡皮条でも、『新修本草』巻12に楡の実の主治として記される「療小児頭瘡{ヤマイダレ+ヒ}」が、楡皮の主治中に混入されている。さらに『医心方』巻30第46葉ウラの牛蒡条に、「本草云、悪実、一名牛蒡、一名鼠黏草」と引く別名は『証類本草』巻9悪実条の大字文にはなく、蘇敬注文の引く『別録』文中に見え、かつ『医心方』は悪実の気味とその根茎の主治を牛蒡条中に一括して記している。巻30第21葉オモテの烏芋条は「本草云、味苦、微寒、無毒、甘。主〜」と記すが、『新修本草』巻17・烏芋条は「味苦甘、微寒、無毒。主〜」と味が一括して記されている、などの例が指摘されうる。

(57)上掲文献(8)に指摘されるように、巻30以外の巻には数例ではあるが朝鮮半島の医方書からの引用が見える。