北里研究所東洋医学総合研究所 医史学研究部・室長
はじめに
補中益気湯は金代の李東垣が創方し、すでに約750年にわたる歴史がある。しかも中国のみならず、日本を含む近隣諾国でも幅広く応用され続けてきた。まさに仲景医方や『和剤局方』の諸方とならぶ、天下の名方といえよう。
本稿ではこの補中益気湯について、創方の趣旨、史的背景、後世の著名な治験・論説などの面から歴史を概観してみたい。また創方者の李東垣その人についても、若干の知見をまじえ簡単に触れておく。
1 李東垣という人
東垣(1180-1251)については明・倪維徳校刊の『東垣試効方』、および明・李濂『医史』に収載される硯堅の「東垣老人伝」(1267)がもっとも 詳しい。その全訳文[1]と摘訳文[2]はすでに報告した。よって本稿ではごく簡要な伝にとどめ、筆者の知見を〔 〕内に補足して以下に紹介する。詳細は 上掲の拙文を参照されたい。
李東垣の諱は杲(コウ)、字を明之(メイシ)といい、東垣はその号である。家は河北の真定や河間で一番の大地主だった。幼い頃から群児と異なり冗談も言わず、長じては忠信に篤かった。接待で妓女に触れられるとその服を燃やし、妓女が無理に酒を飲ませると大吐したという。
内翰の儒者について学を修め、自宅に書院を建てて儒者を接待したり、金銭の援助をした。また飢饉では民に施して救命した。しかし母の死に無力だったため、易水の名医・張元素に大金を払って師事し〔1199-1201〕、その法を会得した。
のち河南の済源で監税官になり〔1202〕、当地で流行した疫病に特効方〔普済消毒飲子〕を創方して衆目の集まる所に掲げた。人々は仙人の所伝として石にきざんだが、東垣が医に精通するのを知らなかった。
のち〔蒙古の侵入で金が北京から開封へ1214年に遷都したことにより〕河南の開封に行き、医を以て公卿間に交遊した。しかし開封も1232年に蒙古兵に 包囲されたので、解除後に北渡して山東の〔聊城や〕東平に〔1238年まで〕寓居し、1244年〔1243年末〕に河北の真定に帰郷した。
ここで〔1247年頃〕羅天益を弟子とし、1251年2月25日に72歳で没した。臨終に際し自著をそろえ、天益に刊行を託したという。
東垣の著作は没後こうして羅天益の尽力で刊行されていった。それらは成立年順に、『内外傷弁惑論』(1247)、『脾胃論』(1249)、『医学発明」 (1249頃)、『蘭室秘蔵』(1251)、また天益が編纂した『東垣試効方』(1266)、引用文のみ残る『傷寒会要』(1238)、『用薬法象』 (1251前)がある。
以上の伝より東垣が補中益気湯を創方するにいたった契機を2点挙げることができる。第1は開封で蒙古軍に包囲され た体験で、衆医が外感病と内傷病を区別できず、日々数千人が病死した様子を強い口調で『内外傷弁惑論』の冒頭に記す。そして同書は内傷治療の筆頭に補中益 気湯を掲げる。
第2は東坦自身、そもそも内傷病になりやすい体質だったらしい点である。彼は同書で飲酒により脾胃や胃腸の内傷が起こる機
序を論じ、わざわざ酒毒専用の葛花解醒湯を創方している。「妓女が無理に酒を飲ませると大吐した」と伝にあるのは、彼が酒毒に弱い体質で、それで葛花解醒
湯や補中益気湯などの内傷治療方剤を開発したことを示唆している。
2 創方の趣旨
本方の立方趣旨と加減法は『内外傷弁惑論』に詳説されている[3]。これを同書の「飲食労倦論」と「四時用薬加減法」から抜粋し、現代語に翻訳してみる。
飲食労健倦論:… 人の基本が胃の気であるというのは、水殻の気で生きているからである。いわゆる清気・栄気・衛気・春升の気はみな胃の気の別称である。…飲食が胃に入ると (…全身を循環して健康を維持する…)。しかし飲食の節度を失うと脾胃に障害を受け、(…諸病を発症する…)。風寒の邪を外に受けた症状とよく似るが、脾 胃の内傷とは(…病理も治法も違うので、弁別しないと誤治となる。…内傷の病には)甘温の剤で脾胃の気を補って陽気を昇らせ、甘寒の薬味で陰火を瀉すと治 る。『内経』に労と損は温めるという。これは脾胃の内傷による大熱には温剤がよいことをいい、これに苦寒の薬で胃を瀉してはならない。それで補中益湯を立 方した。以上のように、李東垣は飲食労倦の内傷→脾胃の虚→心火(陰火すなわち虚火)の内盛を基本病理とし、それより肺の気虚と胃熱、清陽の下陥と清濁気の混在や 血虚が派生したと説く。これに薬物の気味と厚薄を背景とした補瀉・温清・昇降・臓腑親和などの効能説より、黄耆・人参・甘草・白朮・柴胡・升麻・陳皮・当 帰を配した補中益気湯を創方した。さらに上掲の引用では多くを省略したが、当方に対する加減方を30例も列挙する。『脾胃論』でも同類の論を記し、23の 加減方を挙げる[4]。補中益気湯
黄耆 疲労・発熱が重い者は1銭、甘草灸 以上各5分。人参 根茎部を去る。升麻、柴胡、橘皮、当帰身、白朮 以上各3分。以上を細切し、一服分とする。水2杯で1杯に煎じ、滓を去り、朝食後に温服する。重症者には2倍を与え、病の軽量で量を加減する。
立方趣旨
脾 胃の虚というのは飲食労倦で心火が亢ぶり、それが脾胃の虚に乗じ、さらに肺気を犯す。そこで黄耆をもっとも多くし、次に人参・甘草を多用する。というのも 脾胃の虚では肺気がまず絶えるので黄耆を用い、皮毛を益して自汗させない。元気が損傷して呼吸も苦しいので、人参で補う。心火には炙甘草の甘味で火熱を瀉 し、脾胃の元気を補う。もし腹痛があれば炙甘草を多用する。…白朮は苦甘・温で胃熱を除き、腰臍部の血をめぐらせる。升麻・柴胡は下陥した胃の清気を上昇 させ、また黄耆・甘草の効能も引き挙げ、衛気を補って表を実する。升麻・柴胡は苦平で味が薄く、これは陰中の陽なので清気を上昇させるからである。一方、 胸中では清気と濁気が乱れ干渉しているので、陳皮で理気させる。陳皮も陽気の上昇を助ける。…以上のように辛・甘・微温の剤で陽気を生ずれば、(陰火で滅 じた)陰血も増える。人は甘温で血は生じないというが、張仲景は血虚を人参で補っている。…さらに当帰を加えて血を和するのである。…四時用薬加滅法:…時に応じた補中益気湯証の加減は以下のようである。
○煩乱し、腹中や全身が刺痛するのは血の不足なので当帰身を5分から2銭にする。
○精神衰弱には人参5分と五味子20個を加える。
○頭痛には蔓荊子3分、激痛には川{艸+弓}5分を加える。
○夏期の咳嗽には五味子25個、去心麦門冬5分を加える。
○ 冬期の咳嗽には根節つきの麻黄を5分加える。…
○ 心下痞の煩悶には芍藥・黄連各1銭を加える。…
そればかりではない。東垣が脾胃の虚損に主張する人参・黄耆を配合した処方は、『内外傷弁』『脾胃論』『蘭室秘蔵』の3書
で重複を除き計62方もある。うち東垣の創方が何首あるか不明だが、過半数を占めるのは疑いない。いかに彼が人参・黄耆の配合を重視したかが分かろう。ま
た各方に共通する記述より、人参・黄耆の配合に、脾胃を補い、気を益し、陽気を上昇させる効果を想定していたことも理解できる。補中益気湯の方名はまさに
これに因む。ではこの配合にいかなる史的背景があるだろうか。
3 人参・黄耆剤の史的背景
人参・黄耆はともに後漢1-2世紀の『神農本草経』に初出するが、まだ当時はさほど常用されなかったらしい。それは馬王堆出土の『五十二病方』(前3世 紀)や武威出土の漢代医書(1世紀)、あるいは3世紀初の仲景医書に両薬の配剤方が少例で、一緒の配剤は1例もないことで理解されよう。一方、『神農本草 経』は人参の補益を多く記すが、黄耆には体表付近の化膿を治すのを主とし、末尾に「補虚」の一言があるのみ[5]。黄耆の補益は3-5世紀の『名医別録』 でいささか前面に出てくる[6]。
現伝文献で両薬の配剤方は、460年前後の『小品方』に初出する。『外台秘要方』に引用される当帰湯と 黄耆湯で[7]、ともに人参・黄耆・甘草・当帰が補中益気湯と共通する。後方は桂枝湯加人参・黄耆・当帰の構成で、虚労を主治とするなど補中益気湯の方意 に相当近い。同類方は500年の『肘後百一方』にもあり、方名はないが小建中湯加人参・黄耆の薬味で、久しい虚労による諸症状を記す[8]。この主治文は 古雅につき、あるいは葛洪『肘後救卒方』(310年頃)の原文かも知れない。いずれにせよ、『小品方』の5世紀になると補中益気湯の祖型が出現していた。
ただし同時代の類方でも『劉涓子鬼遺方』(499)の黄耆湯や竹葉黄耆湯は、黄耆・人参・甘草などが共通するが、主治は皮膚化膿症である[9]。黄耆を補 剤としてよりは皮膚疾患剤とするこの用法は、『神農本草経』や仲景医方と同様で、比較的古い効能認識といえよう。それゆえか、こうした用法の黄耆剤は以後 あまり多くないように思える。あるいは古代から中世で、黄耆とする植物が違ったのかも知れない。
唐代では『千金方』(655年頃)の黄耆湯に黄耆・人参・白朮の配剤があり、虚労に用いられる[10]。同書の人参湯では人参・黄耆・甘草・当帰の配剤があり、主治は「食を安じて気を下し、胸脇を理し、ならびに客熱を治す」で、補中益気湯にかなり近い[11]。
北宋代になると主治のより近い類方が出てくる。『太平聖恵方』の蘆根飲子は人参・黄耆・陳皮を配剤し、「脾胃の積熱、胸膈の煩壅、嘔{口+歳}して食下ら ざるを治す」といい、脾胃の虚に関連した熱症状を記す[12]。また『和剤局方』の人参黄耆散(1107-10年の初版方)には人参・黄耆・甘草・柴胡が あり、主治の近似のみならず柴胡の配剤も注目される[13]。同書の十全大補湯(1131-62年の第2版方)も人参・黄耆・甘草・白朮・当帰の5味まで 補中益気湯と共通し[14]、気血が一段と虚した病態に現在も広く応用されている。
以上のように、補中益気湯の骨格たる人参・黄耆剤は、伝存文献で5世紀から出現していた。そして時代とともに一層近似した薬味・主治の処方が見いだされた。それらを載せた文献はすべて北宋代に刊行されており、李東垣が創方に参考としていた可能性も推定していい。
一方、東垣は前述の立方趣旨で、清気を上昇させ、他薬を上半身に作用させるために柴胡・升麻を配剤していた。しかし、ここに挙げた類似方にそうした目的と 判断できる柴胡・升麻の配剤はなかった。この薬物の升降や浮沈の説は張元素の『医学啓源』が初出と思われ、升麻・柴胡にも言及する[15]。また同書は元 素に師事した東垣の手を経て、現在に伝わっている[16]。したがって補中益気湯の創方に、元素の説が反映していることも疑いない。
以上を要するに、参耆剤としての本方は800年近い史的背景があり、これに張元素の説を応用して創方されたものといえよう。
4 中国の論説
本方を載せた東垣の書は、没後の元代1276年に羅天益が刊行したらしい[1]。それで朱丹渓(1282-1358)の『格致余論』でも東垣の説に言及す る。しかし彼の書が広く言及したのは、それらを収めた『東垣十書』が明代15世紀初に編刊され、のち中国・朝鮮・日本で復刻が重ねられたことによる [17]。
それゆえ東垣が本方で提唱する人参・黄耆などを配した甘温剤による除熱法は、明代に激しく論争された。端緒は王倫の『明医雑 著』(1502)で[18]、虞傳が『医学正伝』(1515)で反論し[19]、兪弁『続医説』(1522)[20]・陳嘉謨『本草蒙筌』(1565) [21]・{龍+共}廷賢『寿世保元』(1615)[22]・趙献可『医貫』(1617)[23]も続々と議論に加わった。そして張介賓の『景岳全書』 (1624-40)でようやく終止符が打たれたが[24]、今の中国でも甘温除熱にかんする論文は多い。
さて本方の主治について、和刻本となった明代方書で成立年順にみてみよう。
(1)『玉機微義』(1396)
形と神の労役、あるいは飲食に節を失して労倦虚損し、身熱して煩し、脈は洪大にして虚、頭痛あるいは悪寒して渇し、自汗し力なく、気高くして喘するを治す。
按ずるに、これ手足の太陰・少陽経の薬、表裏気血の剤なり[25]。
(2)『医学正伝』(1515)
飲食に節を失し、労役過傷を主治となす。
飲食労倦し、喜怒を節せず、もし熱中を病めば則ちこれを用い、もしいまだ寒中に伝わざれば則ち用うべからず[26]。
(3)『医学入門』(1575)
形と神の…(『玉機微義』に同じ)…瑞するを治す。兼ねて婦人・室女の経候不調と血脱を治す。益気の大法なり[27]。
(4)『医方考』(1584)
労倦して脾を傷り、中気不足して言語に懶く、食を悪み溏泄し、日漸に痩弱する者はこの方がこれを主どる[28]。
(5)『万病回春』(1587)
−『玉機微義』に同じ−[29]
以上のように、明代における本方の応用は、おおむね東垣の記載を出るものではないが、『医学入門』のように月経不順への適用を加える例も出現してきた。
5 日本の論説
東垣医書は1276年の初版から日本に伝来していた可能性も推測していい。しかし今のところその証拠は発見できない。早い記録は室町の学僧・月舟寿桂幻雲 (1460-1533)が、宋版南化本『史記』の扁鵲倉公伝上に書き入れた注に熊氏版『東垣十書』(1508)を引用している[30]。そこに東垣医書の 引用は見えないが、引用すべき文章がなかったにすぎず、当然ながら東垣の書も見ていただろう。
年代の確実な本方への言及は、曲直道三の 『啓迪集』(1574)にある。計14箇所も記述があり[31]、うち内傷門には本方の方論と加減を『医学正伝』『玉機微義』『丹渓心法』『内外傷弁惑 論』から詳細に引用している[32]。また小便不通・虚証・遺精・痞証・しゃっくり・瘡傷・老人病の病証に、本方の応用を明代方書から引用する[33]。 『啓迪集』の本文に道三白身の文章はまずなく、中国書の引用に終始する。しかし原文そのままの引用はまれで、おおむね削除・抜粋や補足・改変による簡潔化 がなされ、一種の日本化がはかられていることが、別の検討で明らかとなった[34]。したがって『啓迪集』における本方の広い応用は、明代医学の成果であ るとともに、道三の見識で取捨選択された結果でもあり、のち江戸期における本方の応用に端緒を拓いたと評していいだろう。
さて江戸期の本方にかんする論説は『日本漢方名医処方解説』の収録書だけでも大変な数にのぼる[35]。そこで同書が収める諸論説より、興味深い口訣等を以下に年代順に紹介してみよう。
(1) 古林見宜(1579-1657)『古林七十方』内傷門[36]
…
東垣配剤のうち随一の方にして、即ち脾胃を補う医の中に王道の妙剤なり、故に先輩、医王湯と名づく。この方の症、滋陰降火湯とまぎるること有り。…ただ眼
精を見て分別すべし。…この方の症は眼中うっかりとして精光なし。降火湯の症は眼中すさまじくきょっきょっとして、その内またものかなしきてい有り。…神
気くたびれ、うっかりとあほうのようなるに佳し。内傷・発熱・自汗・盗汗によし。…痢病くたびれつかれて後重いまだ去らざるに用いて佳し。…とかくに諸病
気虚し、元気くたびれたりと見たら必ず用いてこれ佳し。…下血にても崩漏にても血多く下り、血弱くして気虚、身くらくらとあるにこの方佳し。…
(2)上田山沢『切要方義』(1659序刊)[37]
内傷の諸症、ならびに諸病陽気下陥の者、この方がこれを主る。…先輩これを用いる口訣に六あり。…内傷不足の候すなわちこの方を用い、これ其の一なり。…
内傷に外感を挾み、内傷の重き者は則ちこの方を用い…外感の重き者は先ず外感の薬を用いて後、この方を以て調治す。これ其の二なり。…すでに汗吐下を歴
て、なおいまだ愈えざる者は必ずこの方を用ゆ。これ邪気つきて正気の病む故なり。これ其の三なり。瘧ひさしく愈えざる者、必ずこれを投ず。…これ其の四な
り。手足痿弱、あるいは攣痛、あるいは半身不遂…よく脈症を察してこの方を用ゆ。これ其の五なり。日{日+甫}に発熱し、小便淋瀝・大便結燥し、舌裂け口
乾き自汗・盗汗の者…この方を用いて兼ねて八味丸…を与う。…これ其の六なり。…これを拙用する口訣に八あり。…
(3)名古屋玄医撰・北山友松子評『纂言方考評議』(1679序刊)[38]
…本朝の幸医に薛己の流と自称する者ありて、諸病を療するにすべて益気湯・六味丸を用い、甚きは独参湯・参附湯の類にして他薬をいまだかつて用いず、その言…大いに非なり。…
(4)香月牛山『牛山方考』(1699自序)[39]
この方は内傷不足・清気下陥の症を治するの妙剤、医中の王道なり。東垣の学、一生の工夫、升陽・補脾の説にあり。…諸病の陰陽虚弱、あるいは老人衰弱、あ
るいは大病の後、あるいは産後脱血の類の症、漸々に羸痩不食し、元気日々に耗散するに、昼はこの方を用い、夜は六味丸料を用ゆれば、その効の万挙万全は秘
すべく、あるいは昼は六味丸料、夜は益気湯を用ゆるもまた妙なり。
(5)岡本一抱『方意弁義』(1703序刊)[40]
…
益気湯の症と見さだめてこれを用いるは、すみやかにその効をあらわさずともかかわらず、薬のうけ心さえ宜ならば百貼までも与えて、その効を待つべし。もし
益気湯を用いる症と見定めて、ささわることもなく、うけ意も宜といえども、速効の見えざるに苦しんで迷うときは、却って害を求むるものなり。…
(6)北尾春甫(1659-1741)『当荘庵家方口解』[41]
この益気湯は自汗出やすく、表虚というに効ありとしるべし。表をより固む剤ぞ。…世俗不詳者は脾胃を補うというは、益気に限る様にしるぞ。これは本理を知
らざるものぞ。脾胃虚冷したるに益気湯、益気湯と本方を用いている中に、連々衰るぞ。…いずれの病にても久しく病気下陥したるに、升提せんと思いて用いて
効を得ることままあり。それとも甘味を好む人にはよく応ずるぞ。
(7)津田玄仙『百方口訣集』(1794前)[42]
補中益気湯、雑病八証目的の弁。第一、手足倦怠。第二、言語軽微。第三、眼勢無力。第四、口中に白沫を生ず。第五、食に滋味を失す。第六、口に熱湯を好む。第七、まさに臍に動気あるべし。第八、脈は散・大・無力。
この八証なり。この八の目的は広く万病のうち、補ってよいか、また寒薬を用いさましてよいか、また同じ補薬のうちでも帰脾湯や十全大補湯あるいは六味・八 味などのようなもので、べったりと補うてよいか、またこの方を用いてひとすじに脾胃の下陥の気を升提しながら補ってよいか、いずれにも補の手段ともさまざ ま疑わしく、しっかりと方がきまりつきかねるときがあるものじゃ。その時この目的の八証を以て病人に対し、脈を察し諸症を問いきわむる時は、十に八九の病 証がはっきりと一区別して、方を処しそこないなどいうことはない。…
(8)和田東郭『薫窓方意解』(1813序刊)[43]
これまた小柴胡湯の変方なり。古人の説にも東垣の医王は仲景の小建中湯より変じ来れるものなりといえども、その説は的当せず、大いに考え違いなり。…この
方は軽けれどもきぶからず、むっくりとして又べったりともせず、軽重の中問に位する味わいにて、無量なる具合ある方ゆえ、また無量なる功用あることなり。
されども全体、胃中の水飲、外にはらずして胃の気薄き処のものにあらざれば用いて効なしとしるべし。…
以上、江戸前・中・後期の8書から本方の口訣を抜粋してみた。しかしそれらは真柳が興味を覚えた部分にすぎず、各書の口訣はここに紹介した数十倍はゆうにある。詳細は各文献にて直接あたられたい。
ともあれ曲直瀬道三から後、江戸の三百年間に本方の応用経験は厖大な数に達したに違いない。それらは幸い、こうした医方書あるいは治験書に記録され、現代
に伝えられてきた。またここに紹介は割愛したが、いずれも中国書の充分な理解を基礎としている。論説にせよ口訣にせよ治験にせよ、その情報量は中国の明・
清代をはるかに浚駕するといっても過言ではない。今後、さらに江戸漢方の研究が期待される所以である。
6 結語
補中益気湯の歴史について、東垣の人物と創方の趣旨、史的背景、後世の中国・日本の論説からたどってみた。
この結果、東垣の体験と体質に創方の動機があるらしいこと。5世紀以降に記録がみえる人参・黄耆の補益剤と、張元素の説にルーツがあること。明代から多用され始め、江戸期には厖大な論説の蓄積があることが知られた。
まさしく本方の歴史には名方にふさわしいものがある。これを踏まえ、さらに現代の臨床に広く正確に応用されることを期待したい。
文献と注
1)真柳誠:『内外傷弁惑論』『脾胃論』『蘭室秘蔵』解題、小曽戸洋・真柳誠編:和刻漢籍医書集成・第6輯解説、エンタプライズ、22-36頁、1989
2)真柳誠・小曽戸洋:金代の医薬書(その4)。現代東洋医学11(2):495-501。1990
3)李東垣:内外傷弁惑論、上掲文献1)、43-47頁
4)李東垣:脾胃論、上掲文献1)、95-97頁
5)森立之:重輯神農本草経、大塚敬節・矢数道明編:近世漢方医学書集成53、名著出版、38・65頁、1981
6)尚志釣:輯校名医別録、人民衛生出版社、114頁、1986
7)王Z:外台秘要方、小曽戸洋監:東洋医学善本叢書4、東洋医学研究会、139・333頁、1980
8)楊用道:附広肘後方、人民衛生出版社、85頁、1982
9)劉涓子:劉涓子鬼遺方、人民衛生出版社、45頁、1986
10)孫思{シンニュウ+貌}:備急千金要方、東洋医学善本叢書10、オリエント出版社、558頁、1989
11)上掲文献10)、572頁
12)王懐隠ら:太平聖恵方、東洋医学善本叢書16、オリエント出版杜、213頁、1991
13)陳師文ら:太平恵民和剤局方、小曽戸洋・真柳誠編:和刻漢籍医書集成・第4輯、エンタプライズ、89頁、1988
14)上掲文献13)、96頁
15)張元素:点校医学啓源、170頁、人民衛生出版社、1978
16)真柳誠・小曽戸洋:金代の医薬書(その2)、現代東洋医学10(4):105-112頁、1989
17)真柳誠:『東垣十書』解題、上掲文献1)、2-18頁
18)王綸:明医雑著、小曽戸洋・真柳誠編:和刻漢籍医書集成・第8輯、エンタプライズ、5-6頁、1990
19)虞摶:医学正伝、上掲文献18)、6-7頁
20)兪弁:続医説、上海科学技術出版社(『医説』に後付)、巻1第9丁、1984
21)陳嘉謨:本草蒙筌、人民衛生出版社、24-26頁、1988
22){龍+共}廷賢:寿世保元、小曽戸洋・真柳誠編:和刻漢籍医書集成・第12輯、エンタプライズ、114頁、1991
23)趙献可:医貫、小曽戸洋・真柳誠編:和刻漢籍医書集成・第14輯、エンタプライズ、54・73頁、1991
24)張介賓:景岳全書、上海科学技術出版社、909-910頁、1984
25)劉純:玉機微義、小曽戸洋・真柳誠編:和刻漢籍医書集成・第5輯、エンタプライズ、130-131頁、1989
26)上掲文献19)、45・47頁
27)李{木+延}:医学入門、小曽戸洋・真柳誠編:和刻漢籍医書集成・第9輯、エンタプライズ、324頁、1990
28)呉崑:医方考、小曽戸洋・真柳誠編:和刻漢籍医書集成・第10輯、エンタプライズ、74頁、1990
29){龍+共}廷賢:万病回春、小曽戸洋・真柳誠編:和刻漢籍医書集成・第11輯、エンタプライズ、72頁、1991
30)真柳誠:幻雲が引用した『東垣十書』、日本医史学雑誌41(2):256-257頁、1995
31)矢数道明監、北里東医研医史学研究部・温知会有志編訳:現代語訳啓迪集、思文閣出版、処方索引8頁、1995
32)上掲文献31)、349-352頁
33)上掲文献31)、285・331・335・407・421・423・517・573頁
34)友部和弘・真柳誠:曲直瀬道三の刺絡療法。温知会会報(34):160-167頁、1994
35)篠原孝一:日本漢方名医処方解説・薬方名索引、松本一男監:日本漢方名医書方解説、オリエント出版社、第20冊188-190頁、1994
36)上掲文献35)、第4冊809-820頁
37)上掲文献35)、第4冊94-110頁
38)上掲文献35)、第5冊351-382頁
39)上掲文献35)、第3冊502-511頁
40)上掲文献35)、第3冊157-171頁
41)上掲文献35)、第7冊71-78頁
42)上掲文献35)、第14冊7-114頁
43)上掲文献35)、第6冊41-57頁